第六話 紋・章

 名前を聞くのは何も変じゃないはずだ。知りたいという欲求が自分の体を突き動かす。正直そこまで深く考えていなかったが、不思議なことに彼女の方はこれ以上ないくらいに動揺を見せた。右へ左へと目が泳ぎ、先程までくっついていた指先は離れたり組み合わさったりを繰り返している。何をそんなに気にしているんだ?


「名前は……その、ちょっとぉ」


 沈黙の末にようやく拒否の意が絞り出された。なぜか名前を教えられない。名前の黙秘が今の社会で何を指すのか。僕はその意味を理解していた。


「あーもしかして、アレ関連の苗字だったり……?」

「ごめんなさいごめんなさい! 気持ち悪いですよね。やっぱり私、このバイト――」


 隠していた秘密がばれたと思ったのか、彼女は怒涛の勢いで謝罪を繰り返す。地に付す勢いで頭が下げられる。やってしまった……。

 少しの罪悪感と激しい嫌悪感。自分よりも年下の女の子にここまでさせてしまう社会が憎らしい。僕らと同じように生きているだけで、どうしてここまで差が生まれるんだ。生まれ持った魔女の血のせいで、人の悪意にさらされるなんておかしい。謝ることに慣れた人間なんていちゃダメだろ。

 たとえ自分の先祖が大罪を犯していても、その子孫までもが悪人とは限らないはずだ。公的記録に「魔女」として登録された家名は全て迫害されているとしても。

 魔女に関係するもの全てが忌み嫌われるこの社会で、彼女がどれだけ苦労してきたのか、この一瞬で察しがついた。目いっぱいに涙を浮かべて、ただただ頭を下げる彼女。自分の名前を口にすることがどれだけの悪なのか、その身で体現していた。

 だからこそ言わなければならない。


「なんだそんなことか」


 あっけらかんと。気にした素振りを見せずにそう言った。魔女関連の名前であることを無視したわけでなく、無表情の中に嫌悪を隠したわけでもなく、ただそう言った。


「世の中は魔女がどうとか魔女の子がどうとか言ってる連中もいるけど、僕は気にしない人間タイプだから」

「……っ」


 気にしないのではなくどうでもいい、が正解だけど。

 そんな本心を胸の内にとどめつつ、僕は彼女に笑いかけた。精一杯の笑顔を向ける。彼女はそんな僕をじっと眺めたかと思うと、赤みがかった瞳からぽろっと涙をこぼす。一粒、また一粒。次第にぼろぼろとこぼれ始めていき、やがて止まらないほどの量になっていく。鼻水も嗚咽も止まらない。押さえた手のひらから一滴、また一滴と透明な雫が零れ落ちていく。

 僕はその様子を黙って見ることしか出来ない。理解が出来ない。単なる一般人である僕が魔女の子の苦労などわかるはずもない。そうやって決めつけて、自分を彼女から遠ざけていた。

 そうやって僕の頭の中に残ったのは、彼女の名前を知りたいという好奇心だけだ。別に偽名でも使えば済んだはずなのに、あえてぼかした理由はどうしてなのか。

 魔女の子としての心の内がわからない分、何かを埋めようと思った。この女の子のことを知りたい。理解してみたい。だから名前を聞き出したいと思ってしまった。


「ねぇ。どうしても名前教えてくれないの?」

「……言いたくないです。どうしてもっていうなら、もう魔女って呼んでくれた方がいいです」

「いやそれはさ。ちょっと呼べない、かな。流石に本末転倒というか」

「……ですよね」


 自ら魔女を語るなど自殺行為だ。いつ誰がどこで聞いているかわからない。だからこそ言葉には、常に気を付けていないといけない。

 自分の嫌いな奴を犯人に仕立て上げ、「あいつが魔女の子だ」という密告で騒ぎ立てることだって出来てしまう。誰かに悪意をぶつけることが出来るということは、逆に自分が誰かの悪意に傷つけられる可能性があるってことだ。

 そうした疑心暗鬼の環境で生きていれば、特に思春期の魔女の子たちは周囲の悪意を反映して魔女に成りやすくなる。この歪んだ日本では、いい魔女など生まれるはずもなかった。辟易した僕は小さく嘆息した。


「じゃあ店長にでも聞いておくよ」


 いじわるがしたいわけではない。これはバイトのためでもある。呼び方の困る後輩は正直面倒だし。僕はそんな正当な理由を探した。


「先輩っ、それはダメです……!」


 僕は店長がいる店の裏の方へ体を向けようとした。その刹那、彼女はあり得ない反射速度で僕の腕をつかんで引っ張った。思いっきりバランスを崩し、狭い空間で二人の身体がぶつかる。その勢い余ってか、積み重ねてあった在庫商品の棚に突っ込んだ。彼女が僕を押し倒す形になってしまった。


「……いって」


 幸いなことに崩れたダンボールは軽く柔らかい素材が詰まっていたおかげで、大した怪我はなかった。軽く打っただけ済んだし、なんにせよ僕が下で良かった。

 起き上がろうとして、そこにあったものをつかむ。それは柔らかくてすべすべとした何かで、細く引き締まっていて、そしてなによりひんやりと冷たさを感じた。そして嫌な感覚が伝わってくる。


「ん、シン先輩」

「あっ、ごめん……!」


 嬌声に驚いて即座に左手を離したが、既に手遅れだった。じりじりと焼けるような鈍い痛みに、ゆっくりと手のひらを見る。紋章のようなものが青く薄く浮かんでいた。きらきらと発光していて、思わず見入ってしまう。これってまさか……。

 魔女の子の紋章に触ってしまったのか――。

 以前、倉橋の紋章に触れたことがあったが、その時はバチッと弾かれたような衝撃があった。その痛みを思い出して、一瞬だけ不快な感情に襲われたが、すぐにその嫌悪感は今の状況への不信感に飲み込まれていった。


「私こそごめんなさいっ! だ、大丈夫でしたか?」

「ああ、うん」


 彼女の目が赤く光っている。その特徴がなんだったか、授業で教わったはずだ。だがどうにもうまく思い出せない。知識は確かにあるはずなのに、それを仕舞った引き出しが見つからない。


「シン先輩、今きいていますか」

「え、聞いてるけど」


 会話しているのに変なことを聞くもんだ。自身の左手を背中に隠すようにして立ち上がる。なんでもない風を装って、自身の体に着いた埃を払った。

 そして忘れずに右手を彼女に差し出して立ち上がらせてあげた。その手は素直に掴んでくれた。


「まあいいか。……今日は初日だし、とりあえずだいたいの流れと仕事を教えるよ」

「はい、よろしくお願いしますね。シン先輩!」

「じゃあまずは制服に着替えようか。そっちの棚の袋に入っているから。ロッカーは一番左の所に荷物だけ入れて。僕は外にいるから準備できたら……」


 僕が言い終わる前に、彼女がブラウスのボタンに手をかけたのを見て、慌てて出た。おいおい、無防備すぎるだろ。

 なぜか疲労がどっと押し寄せて来て、倒れないよう背中をドアに預けた。隠していた手をぎゅっと握りしめる。その痛みは硬い小石を握った時みたいに、くっきりと跡が残って消えないままだった。

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