第四話 昔・日
「魔女の子」として生きる人にしかわからないものがある。そこに僕は立ち入れない。上辺だけの共感は意味がない。見えなくなった背中を眺めていると、後頭部をパシッと叩かれた。
「仕事中に何を黄昏てるの。神無月くん」
「――いってえ、なにすんだ」
紙の束で叩いてきた相手を確認すると、聞きなれた声の予想通り
「ちゃんと仕事してたんだよ。かけがえない人間の……一人の命を救った所だっての」
「また意味不明なこと言って。どうせサボってたんでしょ。あたしにはわかるんだから」
「わかるって。僕が何していたか知らないだろうに」
「わかるわよ。あの人も、たぶん同じだから」
小声でそう言う倉橋は自分の左肩を抱くようにしていた。それは出会った時から変わらない仕草だ。首にある紋章を無意識に触るのは、安心するからだと言っていた。
僕らがまだお互いを恋人と認識していた頃に一度見せてもらったことがある。左肩から鎖骨の上をなぞるようにして首筋に出来た紋章。ピンク色の蚯蚓腫れのような線は、幾重にも枝分かれしていて、まるで体を蝕むように根を張っている。触るとざらざらしていて、奇妙な感覚に陥る。彼女の白い肌を犯すような、決して消えない嫌な紋章だった。
倉橋は伏目がちになってそっと呟いた。
「魔女の子は同じ境遇のせいか、引かれ合うのかもしれないわね」
「そうだけとは限らないだろ」
どういう意味かと、彼女が視線で問うてくる。
「ただの人間の僕が、君と惹かれ合ったんだからな」
「それもそうね」
フッと軽い笑みをこぼすと、また倉橋はすまし顔に戻る。
「それでも、仕事中にスマホを使うのは感心しないわ」
「やっぱりさっきの見てただろお前!」
ふふんとした笑顔。不思議と苛立ちはせず、それはやはり僕の好きな表情の一つだった。見ているうちに照れてしまう僕とは対照的に、倉橋はムッとした表情を作っていた。
「あとお前って言うのはやめてって言ったでしょ。ちゃんと名前で呼んで」
「だから、それは……」
「それは? なに?」
「それは、付き合っていた頃の話だろ。なんで僕だけ倉橋を名前で呼ばないといけないんだ。君は僕の事を苗字で呼ぶじゃないか」
公平さを求めて抗議するが、逆に毅然とした態度を向けられる。
「好きなんだから構わないでしょ。好きな相手には名前で呼んでほしいもの」
このはっきりした物言いは今も変わらない。言葉にするのが苦手な僕とは正反対だ。そんな所に惹かれたんだっけ。付き合っていたのは、高校三年から大学一年の間の話だ。お互い好きなままで別れたのは、どうしてだったか。
それは僕の勝手な言い出しだった。倉橋と――魔女の子と付き合うという意味をちゃんと考えていなかった僕は、周囲からの圧力と透明な暴力から逃げ出した。噂の上に噂が重なって、何重にも膨れ上がった偏見は、呪いとして僕らに降りかかった。
嫌がらせ以上いじめ未満の行為。ものを隠されたり、わざとぶつかられたり。思い出すだけでぞっとする。しかし、倉橋と別れた次の日に、それらはぱたりと止んだ。
僕は別れたことを自分から話していないのに、僕への嫌がらせはぱたりと止まったのだ。それがどうしてなのか当時は不思議に思っていた。だけど冷静に考えてみれば、気づけるはずだった。破局したことを知っている人物は僕以外にもう一人いるのだから。誰が僕を救ってくれたのか、その事に気づくには時間がかかりすぎていた。
安心する生活は違う意味で戻ってこなかった。彼女を捨て去った罪悪感と後悔だけが残った。その重さから逃げた僕は、その現実と未だに向き合えずにいる。
「それで。くら……夜風は、何か僕に用だったのか」
言いよどんで喉が詰まったような声が出た。
「何かあった気もするけど、なんだったかしらね。神無月くんのことしか考えていなかったわ。ただ会いに来ただけだったのかもしれない」
「くっ……相変わらずだな。僕の事をからかいに来ただけなら仕事に戻れよ」
「酷い言い草ね。愛しい元カノがこんなにも会いたがっていたのに」
「シフト被るたびにそれ言ってるじゃん」
「そんなことよりも、何かあたしに言うことはないのかしら」
「えーあー……」
倉橋がさっきから僕に見せつけるように、髪を揺らしている。ハーフアップは僕が前に好きだと告げた髪型だった。言うべき言葉はわかっているけど、それを言うのは恥ずかしい。でも言わないと、このキラキラした目で見続けられる……。
「あーその、髪型可愛いよな。似合ってるよ」
うまく目を合わせられず、斜め下を向く。早口になってしまったのが余計に恥ずかしい。そんな僕の反応を見て満足したのか、どこか芝居臭い口調で倉橋は言った。
「ああ、思い出したわ。店長が神無月くんを呼んでくれって言っていたこと」
「重要な話だろそれ、早く言ってくれよ!」
「じゃあまた後でね。神無月くん」
軽く手を振って、美麗な笑みで僕を見送ってくれる。軽く右手で応えて裏に戻る。持ってきてしまったスマホをロッカーにしまっておこうと思った。入ろうとした所で、丁度出て来た店長と鉢合わせる。お互いに驚いて声が出たが、すぐに平静に戻った。
「お、おはよう神無月くん。丁度会えてよかったよ、今探しに行こうかと思っていてね」
「どもです店長。お疲れ様です」
「相変わらず元気いいね、神無月くん……」
「いや、僕は普通ですよ。店長こそ元気がないというか、大丈夫なんですか体調。声なんてガラガラじゃないっすか」
「いやいや、私は別にね。最近うまく眠れないだけだから。昨日も二時間ごとに目が覚めちゃって……。いやあ、おすすめの睡眠薬ないかなあ。あ、いやごめん、大学生は知らないよね。普通は」
目の下にある濃いクマを見れば容易に納得できる。無理して元気を繕っているが、それも空元気にだと一目でわかるものだった。そして後ろにもう一人が立っているのが見えた。
「ところで、そっちの子は?」
「あ、そうそう。それが用事だったんだけど、今日からね、新人の子が入ったんだ。ほら、シフトに名前書いておいたんだけど、見てないかい。まあ色々教えてあげてね……」
「ちょっと! さらっと大事なこと言わんでくださいよ」
店長は疲労のこもった表情で笑った。まだ三十代前半だと聞いていたが、痩せこけていて実年齢より少し老けて見えた。普段は目立たないあご髭が少し伸びている。大量の書類を抱えているものの、力が入っておらず腕の隙間から落ちそうになっていた。
昨夜もまた仕事が立て込んでいたらしい。近々お偉いさんと店の会議があるとかで、今年はうちの店舗が議長を務めるらしく、店長はその資料作りを任されていた。
だがそれでも大好きな本に囲まれるのが幸せなんだという。僕にはその気力の正体がわからなかった。
「じゃあ、こっちのことは任せてください」
大学入学と同時に、僕が本屋のバイトを始めて既に二年以上経つ。いろいろな仕事を任されるようになってきた時期だ。ここらへんで新人の教育をするのもいい経験になるはず。
何より人間関係の構築は小説のネタとして使えるのだ。実際の人物からキャラを造形すればイメージがしやすい。なにより僕が書いていて、リアリティが増すのが利点だ。
案外役に立つもんだ。半分打算的な考えで、僕は店長の頼みを引き受けた。
僕は登場人物の感情表現がうまく描写出来ないらしい。以前ネットに投稿した小説に、そんな感想を貰ったことがあった。
漫画のような魅力的なキャラは頭に浮かぶけど、実際に文章にするとどこか一辺倒で冷めたキャラクターになってしまう。主人公はそれでいいとしても、複数のキャラ分けが出来ないのは問題だ。
他人の感情を読み取るのが苦手なせいかもしれないと思った。感情が顔に出るようなわかりやすい人ならいいけど、誰しもがそうとは限らない。隠そうとする人だっているし。
新人の子もわかりやすいといいんだが。
とりあえずは先輩として、努めて冷静な対応を心がけよう。頼られた時に先輩が何も対応出来ないとなれば、後輩の子が不安に思っちゃうからな。
気合を入れるために、二回頬を叩いた。痛みがいい具合に沁みて心地よく感じた。決してMっ気があるとかではない。決して。
「じゃあ仕事が残っているから。悪いけど後はよろしくね……」
店長が幽鬼のような足取りで奥の作業部屋に入っていく後ろ姿に少し同情を覚えた。そして、残されたまま横に立つ彼女を見る。まるで借りて来た猫のように静かに待っていた。
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