第24話

 枕元の目覚まし時計が鳴った。まだ外は暗い。カーテンを引き窓の外を覗くと、薄闇の中に広がる銀世界が目に入った。

 高台の病院まで自転車で出勤するのは無理だった。バスを乗り継いでなんとか時間までに聖マリア病院に辿り着いた。

 西病棟のエレベーターをあがり小児科の更衣室に入った。アンパンマンのスクラブに着替えていると、夜勤明けの看護師が部屋の中に飛び込んできた。

「大須賀さん、今朝、大樹君の容態が急変したの。着替えたらすぐに病室に行ってあげて」

 突然の知らせに心臓が止まりそうになった。無我夢中で大樹の個室に向かった。

「大樹君」

 病室の中に駆け込むと枕元に貴宏が腰を下ろして大樹の様子を窺っていた。そばで由美が真っ青な顔をして立ち尽くしていた。

「大丈夫だ」と貴宏は言った。「いまは落ち着いてる。少し様子を見よう」

 沙希は枕元に回り込むと床に膝をつき、両の掌で大樹の浮腫んだ手を握り締めた。

酸素マスクを装着された小さな顔がこれ以上ないほど白く見えた。歯を食いしばっていろいろなものと戦い続けてきた小さな命がそこにあった。窓の外に降り積もった雪の結晶のように、いまにも冷たく凍りつきそうだった。

「大樹君」

 沙希の呼びかけに大樹の指先が微かに動いた。気のせいかもしれなかったが、閉じられたままの目元にやさしげな笑みが浮んだような気がした。


 午後になり、奇跡のピアノのお披露目リサイタルは予定通り開演された。

 地元の新聞社やテレビ局に加え、全国ネットの放送局からも取材班が訪れ、聖堂内はひっきりなしにカメラのフラッシュがたかれた。リサイタル開催に尽力した来賓者代表として円谷美が開演の言葉を述べ、いよいよ演奏会の幕が切って落とされた。

 前日のリハーサル通り、まずユーカリ学園の障害児たちが聖母マリアが見守る聖所の舞台に立ち、練習の成果を存分に発揮して皆それぞれに個性に満ちた演奏を披露した。一つ一つの演奏が終わるたびにチャペルは惜しみない喝采に包まれた。

 沙希は黒のワンピースに着替え、会衆席の先頭の端に腰を下ろして子供たちの演奏を見守った。

 やがて施設の子供たちの演目が滞りなく終わるとプログラムの前半が終了し、二〇分間の休憩に入った。

 沙希は再び小児科病棟に戻って大樹の部屋を訪れた。枕元には由美と貴宏が腰を下ろして大樹を見守っていた。

 貴宏は腕時計を一瞥すると、

「いよいよだな」

と言った。

 沙希は枕元に近づいて静かに呼吸する大樹の横顔をじっと見詰めた。それから深い森の中で道に迷った子供のような声で言った。

「無理だよ。ずっと二人で練習してきたのに、大樹君抜きでいったい何を演奏するっていうの?」

「そうか」と貴宏は力なく呟いた。「すまん」

 あらゆる音素が剥ぎ取られたような沈黙が病室内を覆った。

 それを破ったのは病室のドア口から様子を窺っていた健翔だった。彼はベッドに近づくと小さな声で言った。

「沙希さん、大樹君のために何か弾いてあげてください」

 振り返ると彼は続けた。

「お願いです、沙希さん。大樹君もきっとそれを望んでいるはずです」

 はっとして大樹の顔に視線を戻した。

 健翔の言う通りかもしれなかった。仮に一人きりだとしても自分の演奏をするのだと、あれほど大樹と約束を交わしたのだった。

 大樹の言葉が脳裏に蘇ってきた。

「沙希さんがピアノを弾くのは、沙希さんのためにだよ。僕は、僕のためにチェロを弾くよ。沙希さんは、沙希さんのためにピアノを弾けばいいんだよ」

 もしいま大樹が目を開けたら、彼は再び同じことを口にするにちがいない。きっとそうだ。

 しかし——いったい何を弾けばいいのだろうか。

 大勢の人が見守る演奏会でソロで弾ける曲などほとんどなかった。まともに弾けるのは『別れの曲』くらいだった。ただ、それを弾くのには躊躇いを感じた。それを弾くのはどうしようもなく怖かった。

 ベッドの向かいのクローゼットには昨晩のまま大樹のチェロ・ケースが立てかけられていた。

 チェロ・パート抜きで『Le Cygne』を弾くしかないのだろうか。それならばいっそ何も弾かずに閉幕するほうがましなのではないか——。

 プログラム後半が始まる時間が迫っていた。沙希は再び大樹の手を握り締めると病室を後にした。


 リサイタル後半が始まり、小児科の子供たちによる演奏が一つずつ披露されていった。

 途中で何度か、施設の子供たちが大きな声を上げた。会衆席の周りを走り回る子供たちもいた。そしてそれに動揺した子が演奏を止めてしまったり、ミスを犯したりして泣き出す場面もあった。それでも演奏の最後には子供たちはみな晴れやかな表情を浮かべ、客席に向かって元気に御辞儀をした。

 八番目の演目が終わり、いよいよ残すところあと二組になった。

沙希はまだ迷っていた。

 チェロ・パートなしで『Le Cygne』を弾くべきなのか。それとも何も弾かず、久美ちゃんの演奏を最後に閉演にすべきなのか。決心がつかない自分に焦りと苛立ちを感じ始めていた。 

 黒いワンピースに身を包んだ久美ちゃんが聖所の中央に立った。

「天国のミーちゃんに届きますように」

 久美ちゃんはそう言ってフルートを構えると、テレマン『無伴奏フルートのための一二の幻想曲・第一番』を奏で始めた。

 第一楽章冒頭の急速な小節が高らかに鳴り響いた。そのあとに続くゆったりとした旋律が、ステンドグラスから差し込む陽光に乗って天高く吸い込まれていく。プレストとラルゴの小節が目まぐるしく入れ替わり、飛び跳ねるようなリズムに合わせて久美ちゃんの小さな身体が左右に揺れている。指の動きも滑らかで、緊張してミスを重ねていた昨日の演奏とはまるで別人のようだ。

 あっという間に第一楽章が終わり、久美ちゃんは一息ついて体勢を整えた。

 会衆席の最前列にはミーちゃんの御両親の姿があった。姿勢を正し、まっすぐに前を向いて久美ちゃんの姿を見詰めている。

 久美ちゃんは第二楽章を奏で始めた。プレストの小刻みな小節が再び軽快なテンポに乗って、力強く先へ先へと進んでいく。数小節ごとに現れる強く地面を蹴り上げるような音が、駆けっこが得意だったミーちゃんの姿と重なり合う。ミーちゃんの御両親の肩が、飛び跳ねるような音色に合わせて小さく揺れている。ステンドグラスの聖母マリアも楽しげなフルートの音に聴き入っている。

 そして最後の第三楽章に入った。柔らかな絨毯の上を飛び回るような軽やかな舞曲が礼拝堂を駆けまわる。明るく希望に満ちたハ長調の陽気なメロディーが繰り返され、リズムに合わせて久美ちゃんの身体が大きく前後に揺れる。施設の子供たちが会衆席の通路に飛び出して、ぴょんぴょんと飛びはねて踊っている。チャペルにいる誰もが陽気で軽快なアレグロのテンポに合わせて肩を揺らしている。幸福な気持ちに満たされる。久美ちゃんが最後の小節を吹き終えると、一瞬の間をおいてチャペルは大きな拍手に包まれた。

 緊張から解き放たれた久美ちゃんの顔に大きな笑みが浮かんだ。素晴らしい演奏だった。拍手はいつまでも鳴りやまない。このまま閉演にするのがいい。そう思いながら振り返って、本当なら大樹が座っているはずの会衆席の最後列へ目をやった。空席のはずのベンチには誰かが座っていた。沙希は視線を前に戻した。

 それからハッとして再び後ろを振り返った。大樹の代わりにベンチに座っているのは礼子だった。鳴りやまぬ拍手のなか、彼女はひときわ力強く久美ちゃんに向かって手を叩いている。いったい何が起こっているのかわからなかった。久美ちゃんが自分の席に戻り、ようやく拍手が退いていく。

 沙希は頭の中が混乱したまま立ち上がった。そして聖所の前に進み出ると、会衆席に向かって深々と御辞儀をした。頭を下げながら、チャペルに集まった大勢の人々に述べる言葉を懸命に探した。だがどこまで行っても適切な言葉は見つからなかった。

 途方に暮れたままゆっくりと顔をあげた。謝るつもりでいた。誰に向けた何のための謝罪なのか、自分でもよくわからなかった。それでもただ謝るつもりでいた。

 顔をあげると中央の通路を礼子が歩いてくるのが見えた。左手にチェロと弓を持ってゆっくりと聖所に向かって近づいてくる。それと同時に、会衆席の傍から健翔が姿を現した。片手に椅子を持ち、もう一方の手には白いタクトが見えた。

 健翔は聖所の中央に椅子を据えると、立ち尽くしている沙希の耳元で囁いた。

「沙希さん、大樹君のために弾きましょう」

 そして聖所の手前まで来ると礼子が言った。

「大須賀さん、一緒に弾いてもらえますか?」

 彼女はじっとこちらを見詰めていた。

 襟元が広く開いた黒のワンピースのドレスがよく似合っていた。パールのピアスとネックレスが白い肌に良く映えて、今日もまた気品と華やかさが美しく調和していた。

 それなのに、その眸にはかつて見たことのない不安と懇願の色が浮かんでいた。

「大樹君のために、『Le Cygne』を一緒に弾いてもらえますか?」

 礼子はもう一度言った。いくらか声が震えていた。

 戸惑いと喜びに戦慄きながら、沙希は、

「もちろんです」

 と言った。

 礼子の張り詰めた表情が緩んだ。彼女は笑みを浮かべ、小さく頷いた。


 クリスマスイブの午後の陽光がステンドグラスを通り抜け、光のプリズムとなって聖堂の中に差し込んでいる。赤い衣を身に纏った聖母マリアが、聖所の中央で静かに出番を待っていた奇跡のピアノをやさしげに見守っている。

 沙希は楽譜台に『Le Cygne』の楽譜を立てた。それから椅子の上に静かに腰を下ろした。

 ついにこの時がやってきた。

 昨日のリハーサルでも試弾できず、今朝も大樹のことが心配で弾けずじまいになってしまった奇跡のピアノ。十五年前の予行練習で天翔の指揮に合わせて弾いて以来、もう二度と弾けるとは思っていなかった奇跡のピアノ。そのピアノを、いま自分は、兄の代わりになろうとして自分を失い続け、屍のような半生を送ってきた健翔とともに演奏しようとしている。そして、貴宏を苦しめ、自分を苦しめて来たあの礼子と、いまこうして『Le Cygne』を共演しようとしている。

 本当に奇跡としか思えない。こんな日が来ることになるといったい誰に予想できただろう。本当に信じられない。

 きっと、これは大樹からの贈り物なのだと思う。あの小さな身体から溢れ出す愛を、彼はほんの少しだけ我々にお裾分けしてくれているのだと思う。

 病室まで届いてほしい。ささやかなお返しにすぎないけれど、たくさんのものを与えてくれた彼のもとへ、どうかこの演奏が届きますように。

 礼子は聖所中央に置かれた椅子に腰掛け、体勢を整えてチェロを構えた。すると健翔が二人の前に進み出た。それから会衆席のほうを向いて一礼すると、大きな拍手が沸き起こった。

 健翔は沙希に向かって振り返り、小さく頷いた。チャペルがしんと静まり返る。

 健翔がタクトを構えた。沙希は鍵盤の上に指を乗せた。白いタクトが静かに動き出し、冒頭の小節を弾き始める。

 その瞬間、指先に懐かしい感触が戻ってきた。

 水底の貝殻を拾うようなどっしりとした低音部と、日干しした布団の上を素足で歩くような軽くてすばしっこい中音から高音にかけての感触。甘い綿菓子をくるくると巻き付けたようないくらか籠もった音色もあの頃のままだ。以前あった他人行儀な素っ気ない感じがなくなって、心なしか人懐こい温もりが加わったような気がするが、それはきっと菅野からの——そして彼の息子さんからの——贈り物なのだろう。

 冒頭のたった一小節を弾く間に、本町第二小の体育館の情景が目蓋の裏に蘇ってきた。どこか虚ろで、けれど何かを鋭く見詰めている天翔の眸の中に、舞台に立つクラスの皆が息をのみ吸い込まれそうになるあの感覚も蘇ってきた。懐かしい気持ちと一緒に、喜びと哀しみが絡み合いながら込み上げてくる。

 ゆるやかなアダージョのテンポにのって、一六分音符と八分音符が水面を転がる光の珠のように流れていく。やがて礼子の身体が大きく揺れ、弓を握る白い右手が美しい角度を描きながら第一弦をまっすぐに奏で始める。

 ソ・ファ・シ、ミ・レ・ソ、ラ・シ・ドという『Le Cygne』のメロディーがチャペルの隅々にまで響き渡る。続く二小節でメロディーの後半をなすミ、ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・シの音が続き、付点二分音符のシの音に長いビブラートがかけられる。咽び泣くようなチェロの音が聖堂に木霊する。

 再び主題が繰り返され、ソ・ファ・シ、ミ・レ・ソの後に続くA#とC#の半音階が胸に迫ってくる。礼子を見ると、目を閉じたまま微かに眉間に皺を寄せている。彼女は高くまっすぐに弓を引き上げてオクターブ上のレの音を奏でた。そして中指を垂直に伸ばしてビブラートをかけ、それに合わせて大きく肩を震わせた。

 何度聞いても胸に迫る『Le Cygne』のメロディー。これ以上ないくらい簡素でシンプルな音階から、なぜこんなに美しい旋律が生じるのか不思議でならない。愛する人を置き去りにして、自分だけ、たった一人で年老いていくようなメロディー。ともに過ごした懐かしい日々が、時を経れば経るほど鮮やかに目蓋の裏に刻まれていくようなメロディー。聴くたびに古びた記憶に新たな息が吹き込まれ、聴くたびにまだ見ぬ未来がもう懐かしくなっていく。そんなメロディー。

 気がつくと、沙希は礼子の演奏に夢中で聴き入っていた。彼女が奏でるチェロの音には、ヤノフスキーとも大樹とも違う、彼女だけの美しい響きがあった。気高く、品位に溢れ、どこまでも透明で、そして哀しげだった。彼女が内に秘めてきた苦悩や絶望が、奇跡のようなアンサンブルの中でついに隠しきれずに表れてしまったかのような、そんな重厚な輝きがその音にはあった。

 曲は中盤に差し掛かり、一六分音符を弾き続ける沙希の指先に微かに力が籠もった。F♭の付点二分音符からF#の付点二分音符へのスラーに合わせて、大きな波が押し寄せ、やがて退いていく。

 それに合わせて、健翔の上半身が大きく前後に揺れ動いた。昨日の晩、『別れの曲』を口ずさみながら降りしきる雪のなかタクトを振っていた哀しみの色は、もうどこにも感じられない。

 真っ暗な長いトンネルを抜け出した彼の前には、真っ白で何もない空間がどこまでも広がっているようだ。彼はそんな晴れ晴れとした表情を浮かべて、無心でタクトを振っている。礼子と自分の間に分け入って、絡み合った結び目を解き、千切れた糸の先を我慢強く結びなおそうとする少年のように、二人に向かって囁き続けている。

 健翔のそんな気持ちが通じたのか、礼子はこちらに視線を向けた。そして、中盤の最後の全音符をひときわ大きく身体を揺らして奏でた。ビブラートに全身を震わせながら、彼女は大きな笑みを浮かべてこちらを見ている。その笑顔がどうしようもなく嬉しくて、一六分音符を連打する指先に力が籠もる。そして気がつくと、沙希の顔にも笑みが溢れ出す。込み上げる喜びが指先から鍵盤に伝わっていく。

 無数の光の珠がキラキラと水面を打っては消えていく。目を細めてこちらを見ている健翔と礼子に招かれるまま、二人の輪の中に引き込まれ、まるで大樹が描いた三角形のように三人は結ばれていく。かつて在りし今無きものや、今在りてやがて消えゆくもの、そして目に見えぬさまざまなものが、ステンドグラスの向こうに広がる蒼い空の彼方に向かって一つに混じり合い、結ばれていく。

 『Le Cygne』は最後の四小節に辿り着く。礼子が最後のメロディーをゆっくりと奏であげる。それに合わせて、躊躇い俯いていた白鳥がついに空を見上げ、傷ついた翼を広げて力の限り羽ばたく姿が目の前に浮かぶ。

 水面に漣が立ち、白鳥は空高く舞い上がる。深い森の遙か向こうから差し込む陽光に向かって、天高く飛んでいく。傷ついた白鳥が旅立っていく。

 沙希は最後の一六分音符を静かに弾き終えた。リサイタルが幕を閉じた。

 いつまでも鳴り止まぬ拍手の音に、沙希は幸福な気持ちで耳を澄ませた。

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