第23話
一二月二三日。いよいよ奇跡のピアノのお披露目リサイタルが翌日に迫っていた。
全国的に猛威を振るっていたH5N1ウィルスによるパンデミックは、二週間ほど前から急速に収束に向かい、三日前の週明けに予定通り全国で緊急事態宣言が解除された。貴宏が言っていたとおり、本当にパンデミックは落ち着いたのだ。
小児科病棟はいつにも増して熱気に包まれていた。いよいよ翌日に迫った演奏会に子供たちはみな興奮状態にあり、悲鳴にも似た楽しげなはしゃぎ声が廊下やプレイルームや治療室にひっきりなしに木霊していた。
午後には、健翔がボランティアをするユーカリ学園の子供たちと一緒にチャペルで最後のリハーサルが行われた。
ただ、看護師たちが同時に病棟の持ち場を離れることはできず、病院側からは沙希と佳奈の二人だけがチャペルに張り付いて、椅子の配置を変えたり、楽譜台を動かしたり、ピアノの椅子の高さを調整したりと、忙しく動き回っていた。施設からは何人もの保育士たちが子供たちに付き添ってチャペルにやって来て手を貸してくれた。
保育士たちに混ざって健翔の姿もあった。彼と顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。健翔は挨拶の言葉を口にしたけれど、それ以上は何も言わなかった。代わりに、何か言いたげな気持ちを圧し殺すかのように、いくらかぎこちない笑みを浮かべた。
施設の子供たちの演奏が一通り終了し、小児科の子供たちの演奏に入った。当日は、地元の新聞社やテレビ局に加えて、全国ネットの放送局からも取材が来ることになっていた。そのせいもあってか、子供たちは殊さら緊張気味で、途中でミスを犯して演奏が止まってしまい、大声で泣き出す子供たちが続出した。
子供の泣き虫は感染するのが常だ。演奏者が泣き出すと、途端に会衆席のベンチに座って演奏を聴いていた他の子供たちも泣き出した。そのうえ施設の子供たちの悲鳴や絶叫も加わって、礼拝堂全体が工事現場のような喧騒に包まれた。
二〇組近い演目のリハーサルが終わりに近づき、いよいよ沙希と大樹の番が迫ってきた。チェロとピアノによる『動物の謝肉祭:白鳥』はプログラムの最後に置かれていた。演奏の順番を決める段になったとき、小児科の子供たちは全会一致で、とりを務めるのは大樹だと主張した。その様子を見ていた沙希は、子供たちにとって大樹がどれほど大きな存在になっているかを改めて知らされ、胸が熱くなった。
一つ前の子供の演奏が終わった。久美ちゃんという小学校三年生の少女だった。テレマンの『無伴奏フルートのための一二の幻想曲・第一番』を独奏した久美ちゃんは、途中でいくつもミスを重ね、普段の演奏からは程遠かった。彼女はべそをかき始めた。
その頃までにはユーカリ学園の子供たちはすでに帰ってしまい、演奏が終わった小児科の子供たちもほとんどが病棟に引き上げてしまっていたので、チャペルにはもう数名の子供たちしか残っていなかったのだが、久美ちゃんのべそが感染したのか、ステンドグラスから差し込む午後の陽光に照らされた聖堂に子供たちの啜り泣く声が木霊した。
沙希は俯いたまま立ち尽くしている久美ちゃんに近づくと、床に膝をついてやさしく抱きしめた。
「大丈夫。明日はきっとうまくいくよ。あとで私がこっそり神様にお願いしておいてあげる。神様って、ケンタッキー・フライド・チキンが好きなの知ってた?KFCたくさん差し入れしてお願いしておくから、明日は絶対うまくいくよ」
ジョークが受けたのか、久美ちゃんは思わず笑みを漏らして大きく頷いた。それから、ありがとう、と呟くとフルートを抱えて自分の席へ戻っていった。
すかさず最後の演奏の準備に取りかかる。大樹が座るための椅子を聖所の中央に設置し、楽譜台の上に『Le Cygne』の楽譜を立てた。それからその後方に置かれたピアノの楽譜立てにも同じ楽譜を立て、椅子に腰掛けて高さを調整した。
奇跡のピアノは数日前に菅野ピアノ工房からこのチャペルに運ばれてきたばかりだった。数ヵ月前に初めて工房で目にしたときとは見違えて、磨き上げられた美しいフォルムに生まれ変わっている。ドタバタしていたせいもあり、軽く鍵盤を叩いた程度でまだ一度も落ち着いて試弾できていなかった。リハーサルとはいえ、大樹とデュオを演奏する時がついにやって来たのだ。お腹の底から熱い感慨が込み上げてくる。
だがそのときだった。沙希、という叫び声が背後から飛んできた。ざわついていた子供たちの喧騒が一気に途絶え、束の間、聖堂全体がしんと静まりかえった。
振り返ると、会衆席の最後列のベンチで佳奈が手を挙げていた。
「大樹君が…。速く、お願い」
頭の中が真っ白になった。慌てて駆け寄ると、大樹がベンチの背もたれに頭を乗せた体勢で目を閉じたままぐったりとしていた。
「私、誰か呼んでくるから、大樹君をお願い」
佳奈はそう叫んでチャペルを飛び出していった。
リハーサル後半の途中で様子を窺ったときには、彼はキリッとした笑みを口角に湛えながら宙に拳を掲げ、こちらに向かってグータッチをする仕草をしていたのだが——。
とにかく何も考えられなかった。誰かが彼の名を何度も叫ぶのが聞こえ、それが自分の声だと気づくのに何秒もかかった。子供たちが泣き叫ぶ声が、はるか遠くのほうで木霊しているのが聞こえた。彼を抱きしめる両手の震えが止まらず、情けなくて泣きたいのに涙も出なかった。
夕方、申し送りを終えて更衣室で着替えているとスマホが光った。健翔からのメッセージだった。
「お疲れ様です。僕たちが帰ったあと、大変なことになったと聞きました。大樹君、大丈夫ですか?それから沙希さんも、大丈夫ですか?」
沙希はすぐに返事を打った。
「ありがとうございます。大樹君は貧血を起こしたようで、いまのところ命に別状はありません。私も大丈夫です。心配をおかけてして、ごめんなさい」
すると健翔からまた返信が来た。
「よかったです。ホッとしました。お疲れかと思いますが、これから少しだけお会いできませんか?お話したいことがあります。五分か一〇分でも構いません。どうかお願いします」
健翔とは相変わらず付かず離れずの関係が続いていた。H5N1ウィルスの自主隔離が終わったあとも、何かしらの理由をつけては彼からの誘いを断っていた。
今日だって、大樹のことであちこちが破けたずた袋のように疲れ切っているし、明日のリサイタルのために早く帰宅してゆっくりと休養する必要だってある。だから誘いを断るのはいつも以上に簡単だった。それなのにどういうわけか、今日は断る気がしなかった。健翔に会いたいのかどうかは自分でもよくわからなかった。ただ、破けた気持ちを誰かにやさしく癒してほしい、そんな身勝手な気持ちを振り払うことができなかった。
沙希は再び返信を打った。
「わかりました。では少しだけお願いします」
健翔からはすぐに返事が戻って来た。
「よかった。帰りは自転車ですよね?では三〇分後に病院の裏門のところでお待ちしています」
帰宅する前にどうしてももう一度大樹の顔を見ておきたくなって、彼の個室のドアをそっとノックした。返事はなかった。由美が付き添っているかと思ったが、彼女も今日はもう帰宅したのだろうか。音を立てないように静かに部屋の中に入った。
外はもうすっかり日が落ちて、窓の向こうには暗闇が広がっていた。部屋の中は暗く、奥へ入ると枕元のスタンドの灯りが眠っている大樹の顔を照らしているだけだった。ベッド向かいの暗闇の中にチェロのケースが立てかけられている。沙希は枕元の椅子に腰を下ろすと手を伸ばし、窶れて骨張った大樹の頬を包み込むようにそっと掌を当てた。
この病院に勤め始めたばかりの頃のことが頭の中に蘇ってくる。
大樹が大腿筋切除手術を受ける前の晩、自分は彼を励ますために今日のようにこの病室に立ち寄ったのだった。頑張ってという安易な励ましの言葉に彼が激しく反応したときのことが昨日のことのように目蓋の裏側に浮かぶ。
そして、初めて彼の聡明さに触れたときの驚きが胸に迫ってくる。窓辺に干されていたハンカチのことを尋ねると、本当は自分でデザインしたものだったのに、彼は驚かれるのを怖れてアーティストの父が作ったものだと嘘をついたのだ。
それから彼はチェロのことを話してくれた。チェロが唯一の生き甲斐だと聞いたのもそのときが初めてだった。そして、いずれ腫瘍が腕にも転移して生き甲斐も奪われるに決まっていると、彼はふて腐れた顔をして呟いたのだ。神様なんているわけがない、もしいたら最初からこんな目に遭っているわけがないと、彼はそう言ったのだった。
結局、彼の言った通りになってしまった。
だがそうだとしても、絶望的な思いに打ちひしがれるのは、きっと違う。
彼も自分も、互いと出会ってからずいぶん遠いところまで旅してきたのだと思う。あり得ないような出来事をいくつも経験しながら、ようやく二人とも自分の足で立ち上がれるようになったのだと思う。互いに寄りかかるのではなく、一人で大地の上に立って、まっすぐに前を向けるようになったのだと思う。
この子に出会えて本当によかった。大樹君、明日はお願いします。私は私のピアノを弾くよ。あなたも、あなたのチェロを弾いてください。また明日。おやすみなさい——。
そっと病室を出ると、沙希はエレベーターで一階に降りた。
それから正面玄関を抜けて西病棟の裏手にある自転車置き場のほうへ歩いていった。橙色の街灯に照らされた暗い小道を冷たい風が吹き抜けていった。見上げると空はどんよりと曇り、微かに白いものが舞っているのが見えた。雪だろうか。マフラーをきつく巻き直してコートの襟の中にたくし込んだ。
自転車の鍵を外して小道に引き出すと、裏門に向かって自転車を押していった。すると誰かが背後から呼び止める声がした。
振り帰ると暗闇の中に人影が見えた。健翔かと思い、名を呼ぼうとすると人影のほうが先に声を発した。
「沙希ちゃん」
貴宏の声だった。
「ツンツル?」と問いかけると闇の中から貴宏が姿を現した。
「どうしたの?こんなところまで追いかけて来たの?もしかして大樹君に何かあった?」
「いや、大樹はぐっすり眠ってるよ」
「驚かせないでよ。いったい何?」
「実は、ちょっと話したいことがあるんだ」
「いま?」
「まあ、そうだな。割と急ぎではある」
「もっと早く言ってくれたらよかったのに」
「ドタバタしてたからな。久しぶりにその辺で飯でもどうだ?」
「これから約束があるんだよ」
「そうか」
「明日まで待てる話?」
「できれば今晩、話しておきたいんだ。その約束、ドタキャンできないか?」
貴宏がそこまで強引に自分の用件を優先させようとしたことなど今まで一度もなかった。よほど重要なことなのだろう。
コートの中のスマホを握り締めた。いまから健翔にキャンセルのメッセージを打つなんてできるのだろうか。ポケットからスマホを取り出すと、待ち受け画面を表示させて時間をチェックした。ちょうどいま約束の時間になろうとしていた。
貴宏の訴えかけるような目に圧倒された。今晩は彼の言う通りにしなければならないような気がする。
沙希は片手で自転車のハンドルを握ったまま、もう片方の手でスマホを握り、メッセージアプリを立ち上げて健翔へのメッセージを打ち始めた。すると今度は裏門のほうから声が聞こえた。
「沙希さん」
視線を向けると、自転車置き場から裏門へ通じる小道の途中の街灯の下で健翔が立って手を振っていた。
咄嗟にメッセージアプリを閉じてスマホをポケットにしまった。それから再び西病棟のほうへ振り返った。
貴宏は跋が悪そうに苦笑した。それから拳を宙に差し出すと、こちらに向かってグータッチする仕草をした。
宙を舞う雪の断片が貴宏の拳の上に降り立っては消えた。街灯の明かりの輪のなかで、どこか寂しげな目をして立ち尽くしている貴宏の姿が妙に小さく見えた。
片手を差し出してグータッチする仕草を返した。
貴宏はもう一度小さく微笑むと、引っ込めた手をコートのポケットに突っ込んで背を向けて小道の暗闇の中に消えていった。
背後から再び健翔の声がした。
「いまのって、佐藤先生ではなかったですか?」
「うん」
「何か用があったのではありませんか?」
「そうみたいだね」
「いいんですか?」
沙希は健翔をまっすぐに見つめた。
「健翔君にも話があるんだよね?」
その言葉に健翔は黙って頷いた。
雪は激しさを増していった。
健翔は持っていた傘を広げると自転車を押す沙希の頭上に差し出した。二人は人影の疎らな県道を駅のほうへ向かって歩いていった。
横断歩道で赤信号につかまると、それまで言葉少なだった健翔が唐突に口を開いた。
「お披露目リサイタルが終わったら、うちの両親に会ってほしいんです」
ちょうど一台のトラックが交差点に飛び込んできて二人の前を通り過ぎていった。轟音に掻き消された健翔の言葉が、舞い落ちる雪の隙間を縫って残像のように漂った。
信号が青に変わり二人は再び歩き出した。
重苦しい沈黙に健翔が苦しんでいるのがわかった。返事を求めて何度もこちらの表情を窺う気配が伝わってきた。どうやら聞こえなかった振りをしてやり過ごすのは無理のようだ。
だが、何と答えたらいいのかわからなかった。
ファータ・デラ・フォレスタで食事をした晩、一夜をともにしたのは事実だった。そのことは全く後悔していなかった。彼のことも好きだった。たまらなく愛おしかった。
しかしそれでも——自分が求めているのは彼ではない。
それはもうハッキリしていた。彼だって、もう気づいているはずだった。それでも構わないと彼は言うのかもしれない。だがもうこれ以上、自分を偽り続けることはできない。
そして彼も、自分を偽るのを終わりにする時なのだ。
彼が本当に求めているのは自分ではなかった。彼が本当に求めているのは、いつも彼のそばにいて彼を支えてきた人なのだ。
すべてを彼に伝えなくてはならない。
ただ、どう伝えたらいいのかわからなかった。もうこれ以上、彼を傷つけたくはなかった。彼は生きているのが不思議なくらい傷ついてきたのだ。彼を傷つけることで自分が傷つくのが怖くてたまらない。
どうしたらいいのだろうか。こんなとき貴宏なら何と言うのだろうか。彼はなぜ行ってしまったのだろうか。
また赤信号につかまった。
人影のない交差点に冷たい風が吹き抜けると、激しさを増した雪が健翔の差し出す傘にあたって音を立てた。ふと背中に温もりを感じた。体の両側から健翔の長い腕が回り込んできてそのまま抱きしめられた。
ダメだと思った。腕を振りほどく勇気はなかった。ツンツルは今頃どこにいるのだろう。ツンツルはなぜ助けに来てくれないのだろう。
彼の唇が自分の唇の上に重ね合わされるのを、まるで他人事のようにずっと遠くから眺めていた。
健翔の匂いが辺りに漂った。この匂い。ピアノ工房で初めて出会ったときと同じこの匂い。思い切り吸い込むたびに、いつも心のどこかで何かが違うと感じていたこの匂い。触れ合えば触れ合うほど、溝は深まっていくだけだった。
両肩に回されていた腕の力が抜けていくのがわかった。健翔が離れていく。空気の抜けた風船のように、健翔が離れていく。
気がつくと涙が頬を伝っていた。なぜ自分は泣いているのだろうか。いったい何のための涙なのだろうか。
「すみません」
健翔は消え入るような小さな声で囁いた。それから彼の指先が伸びてきて頬を伝う涙を拭ってくれた。
じっと彼の眸を覗き込んだ。けれど目の前が曇っていてよく見えなかった。かじかんだ指先の冷たさが熱く火照った頬に心地よかった。
「沙希さん、すみません」
健翔はもう一度呟いた。
胸が一杯で声が出なかった。ただ夢中で首を振った。
ふと肩から掛けていたポシェットが目に入った。中を開き、サイドポケットの底から十五年間片時も離さずに持ち歩いて来た白いタクトを取り出した。手が震えているのが自分でもわかった。
「震災の二日前、お兄さんから盗んでしまったタクト…」
健翔は差し出したタクトを食い入るように見詰めた。
「次の日に返すつもりだった。でも行方不明になってしまって。買って返そうと思って駅前の楽器店にも行ってみた。でも高くて買えなかった。正直に謝ろうと思って屋上にお兄さんを呼んだんだ。そうしたら地震がやって来たの。屋上のすぐ手前の階段まで行ったんだよ。でもそこでメールが送られてきて。高台の公園にいるからって。そのとき彼はまだ屋上にいたんだ。なぜあのとき最後まで階段を昇らなかったんだろう。一五年間ずっとそのことばかり考えて来たの。私があと何段か昇ってさえいれば、きっと彼は助かったんだ」
健翔は両手を差し出してタクトを受け取った。そしてコルク製のグリップを強く握り締めた。チェーンを巻いた大型ダンプが二人の前を通り過ぎ、路肩に雪の塊が飛び散った。
「私のせいなんだ。彼が津波に流されたのは私のせいなんだ」
震える声を絞りだした。どんな罰でも受け入れる覚悟で初めて彼に会ったときから言えずにいた言葉をようやく絞り出した。
帰って来た健翔の言葉は思いもしないものだった。
「違いますよ、沙希さん」
「……」
「沙希さんがタクトを盗んだわけではありませんよ。兄のほうがわざと楽譜台の上にタクトを残していったんです」
耳を疑った。夢にも思わなかった健翔の言葉に再び頭の中が混乱していく。
「前にも言ったように、あの日、兄は沙希さんに気持ちを伝えるつもりだったのです。だから兄はそのために沙希さんと二人きりになれるチャンスを探していたのですよ。タクトを置いていけばきっと沙希さんが自分に届けようとするはずだと考えて、それで兄はわざとタクトを置いていったのです。兄から直接聞いたことなので、間違いありません」
「そんな…」
「そのことで沙希さんがそんなに苦しんでいたなんて、僕は気づきもしなかった。やっぱり僕は失格ですね。僕には沙希さんを愛する資格さえない」
健翔は握っていた傘を手放した。突然目の前が開け、見渡す限り銀世界が広がった。
いつの間にこんなに積もっていたのだろうか。顔をあげると真っ黒な空から大粒の牡丹雪が止めどなく落ちてきて、熱く火照った頬を打った。
健翔は頭上高くタクトを掲げると目を閉じた。
それからゆっくりとタクトを振って拍子を取り始めた。目を閉じたまま小さく何かのメロディーをハミングした。『別れの曲』だった。
やがて健翔は両手を羽ばたかせ、全身を使ってタクトを振り始めた。
海岸沿いの公園でよく天翔と開いたアカペラの演奏会のことが脳裏を駆け巡った。
兄に追いつこうとして、ついに足下にも及ばなかった健翔の指揮する姿はとても美しかった。そして、とても哀しげだった。
県道の道端でタクトを振り続ける健翔の頭や肩にゆっくりと雪が積もっていった。閉じられたままの健翔の眸から一条の涙が溢れ、静かに頬を伝うのが見えた。『別れの曲』は少しずつ最後の小節に近づいていった。
健翔は静かに指揮を終えた。
そっと健翔に近づくと、沙希は彼の背中を抱きしめた。降り続ける雪のなかで、いつまでも彼のことを抱きしめていた。
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