さようなら、ワシリーサさん
ふと、目を開けたら元通り人気のない通りに二人で立っていた。
「やっと戻って来る事ができた様ですね」
「どうやらね」
相変わらず、しょうもない街灯が民間や集合住宅を照らす。
地面に光が反射して、道路の古びたコンクリートのゴツゴツとした表面を明らかにする。
今まで壮大な冒険に出ていた気分だったのに自覚して仕舞えば全くしょうもない物だった。
僕は正直に口にしてしまう。暫く、僕らは黙ってその場に立ち尽くしていた。
「こういう時間が僕に死にたいと思わせるんだ」
「こういう時間は嫌いですか?」
「さあね。だが、人間として過ごしていれば頻繁に遭遇する時間だろう」
「今までは確かに一人か、飽きるほど付き合った友人、恋人と過ごす沈黙でも、今日は一味違うじゃないですか。
なにせ冷蔵庫の妖精ですよ?妖精なんて存在自分で口にするのは少々無粋ですけれど、なかなかお目にかかれる物ではありませんよ?」
まあね。思えば、今までの彼女の言う通りだったのかもしれない。
いや、やっぱり遠からずこの時間は訪れただろう。
「勝手に不貞腐れないでくださいよ。私を送ってくださるんじゃなかったのですか?」
そうだったよ。
でも、もう嫌になった。もう君を送り届ける事に面白みとか、物珍しさとか感じないんだよ。
なにより、陳腐過ぎる。こんな事知人友人に話したところで一笑いに伏されるだけだろう。
「いいよ。歩こう」
何より、無駄なんだ。僕達はその気になれば一瞬で彼女の目的地に辿り着くことが出来る。
生真面目にこの飯能市の町並みを辿って何処かの民間に行く必要なんてない。
何故か、笑いが零れ落ちた。
僕はこれが大好きなんだよ。
この世界は、時々僕が本来持っていた常識を忘れさせる。思い出したよ。僕はこれが大好きなんだよ。
歩こう。踏み締めるスニーカー越しに伝わるアスファルトの凹凸は気持ちいいじゃないか。
寒々とした暗い空気が肌を刺す感覚が僕が冬を自覚する何よりの象徴だったはずじゃないか。
感じよう。一つも取りこぼさない様に、今の僕の感慨を。
すっかり忘れていた。
僕が何より嫌うのは、映画の中身を二十分足らずで纏めた安易な動画の筈だ。
大体、人が娯楽として本なんて好んで読むかね。一つの物語を終わりまで辿るのに何百回頁を捲らなきゃいけないと思ってる。
そんな労を費やしてまで、辿りたい物語があるのだ。僕らは最早、物語を崇め奉っていると言っていい。とんだ物好きがいたもんだ。
「そう言えば結局、君もブブゾさんとかと同じなのかい?」
「さて、どうでしょうね?
確かに、冷蔵庫の妖精が現実の世界でポツリと出てきたら突飛な事だと思いますが。それぐらい貴方は予想がついたんじゃないですか?」
「いやいや、驚いたよ」
最初に彼女と会った時はやっぱり驚いた。
こんなに綺麗な人がいるんだなと。
いややっぱり辞めよう、これ以上思考を探るのは無粋だ。
「じゃあ、一つ賭けをしないか?君がブブゾさんと違うかどうか。
僕に、託すべき仕事があるだろう?」
彼女は頷いた。
「そうでした。少し、手を握らせてください」
僕は手を差し出した。彼女は僕の手を握る。その手はスベスベしていて爪から手首まで何一つ欠けるところがなかった。美しい手だった。
「貴方の冷蔵庫の縁を辿ったところ、可哀想な冷蔵庫が一つあります。
それはもう、酷い有様です。ずっと半殺しにされています。殺してくれと嘆かんばかりです」
知っている。あの冷蔵庫は半殺しの状態だ。
「それに加えて、今ではなにかおぞましい物が中に入れられてしまっている」
ああ、そりゃ酷い。
「その冷蔵庫は貴方の通っている大学の、文芸部の部室の隅に、何故か設置されている様です。そもそもどうしてそんな酷い場所に置いてあるのか、そこから私はちょっと許せないですけど」
「まあまあ、きっと色々事情があるのだろう。分かった、片付けておくよ」
「お願いします」
僕と彼女は向かい合った。そうして暫く僕は彼女を眺めていた。
全くこんなに図々しい行為が恥ずかしげもなく出来るのも、こんな歪んだ現実のせいだ。やっぱり彼女は美人だった。
「ワシリーサさん。もう道は分かるだろ?ここらで僕はそろそろ帰らなくちゃいけないんだ」
「そうですか。少し寂しくなりますね」
僕もそうだ。これで僕が帰って仕舞えば彼女とはもう二度と会うこともない。
「さようなら。ワシリーサさん」
「木幡さんもお元気で」
僕は、彼女が見えなくなるまでそこに立って彼女を見ていた。
そろそろ、夜が明ける頃かな。
***
寝台から身体を起こして、寒い室内に一つ大きな欠伸を吐く。携帯の表示にはきっかり八時半と出ていた。
カーテンの隙間から差す光は眩しい。散らかった部屋の床に、散らばった本を避けながらキッチンへ向かう。
やかんにお湯を入れ、湯を沸かす。
カップラーメンの蓋を少し開け、マグカップには珈琲の粉。僕の朝が始まった。
***
今日は何もない日だ。
アルバイトも、講義もない。けれど、何もすることもない。本を開くなんて何処だってできる。喫茶店にでも行こうかと思ったがそこまで金の余裕もない、となれば図書館だが、区立の図書館か、大学の図書館かどちらにしようか。
答えは決まっていた。彼女から請け負った仕事を果たさなくてはならない。
僕は大学へと足を向けた。
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