ワシリーサさんは綺麗な方だよ。冷蔵庫ばりの温度感を除いては。
覚束ないような足取りで、雨上がりの夜、人気のない通りを歩いている。
靴の立てる音が染み込む、街灯がまだ湿っている地面を照らし、遠くに見える信号機の下は、赤、黄、緑が賑やかに点滅を繰り返し、さながらダンスホールの様な風情を醸し出す。
近頃、どうして生きているのか分からなくなった。奮起してよし、読むぞとこの文字に行き当たった読者諸氏には悪いことをした。いきなり暗いお話で悪いが聞いて欲しいのだ。
どうして生きているのか分からなくなったとは言ったが厳密にはどうだろう、人生が先の見えない長い道だとして、元気が予想以上に出なくて、こんな道半ばで歩を進めることを今更躊躇っていると言ったら方が正しい。
分からないなんてスタンスじゃあ先生に伺いを立てる真面目な生徒の様で、どうにも前向きな姿勢を感じてしまうが、僕はあくまでも消極的だ。
だからいつからだろう、「簡単に死ぬ事が出来るのなら、今僕は生きちゃいないだろう」なんて類の使い古された言葉を都度に口にするようになったのは。
これはね、だから僕はある意味死ぬ事に本気になりきれていないのかもしれない。本気にすらなれないんだ。僕が生まれて物心ついた頃には盛りの世の女の子は自殺するようになっていたが少なくとも彼女らは本気だった。
自殺という人生における一大事業を円満に成し遂げたのだ。世間じゃあ知らん馬の骨共に咎められているが僕は彼女らの行為に敬意を表したい。
僕はどうだ。死ねないよ。どれ自殺とはどんなものかとどうしても分からなかったからついこの前、台所から包丁を出して自分に差し向けてみたが感じたのはとてつもない恐怖だった。
心臓の鼓動が速くなり、それは悲鳴を上げているようだった。改めて僕は納得した。僕に死ぬ勇気なんか無いんだなと。
僕は今、大学生をやっているが僕が世間的に大学生と呼ばれる期間は後2年と少ししかない。その間に最も気軽な安楽死というのが発明されて、その後の僕の人生をAIが肩代わりしてくれることをただただ願うばかりだ。このままじゃあ僕の心持ちは処刑日を待つ囚人だよ。
と、そんな事ばかり考えても詮無い事だ。思えば僕はこれまでそれなりの目標を持って、それなりに頑張って生きてきたんだなと思う。だからこそ空虚な今がある。パンドラの筺には最後、希望すら残らなかった訳だ。
不意に段差に足を取られた。僕は躓きかけたが、なんとか体勢を持ち直し、また歩き出した。覚束ないような歩き方で歩くからだ。しかし本来歩く程の気力だって無いのに、僕は頑張って歩いているんだぞ。
大半の人間は生きる事に意味や目標なんて要らない、と口にするだろう。でもそんな奴らに限って一端に人生に目標とか意味を見出せているんだよな。見方を変えれば嫌味にすら取れる悪どい発言だ。
所で僕がどうしてこんな道を歩いているって言うと特に意味はないんだけれど、漠然と腹が空いていたから、ただコンビニに何か買いに行こうと思っただけだ。
コンビニっていうのはなんでも揃っているように見えて実は全然そんな事ない。並んでいるのは健康を害する物ばかりである。パンを砂糖の塊で包んだ物が並ぶ。馬鈴薯すりおろして油で揚げて多彩に加工した物が並んでいる。
一体どうしてここまで袋に空気を詰め込まなきゃならんのだろう。そして何より珈琲の品揃えが相変わらず悪い。
僕が生きる事を嫌がる一方でコンビニはそう言った人間を食い物にあからさまな資本主義を繰り広げるのだった。
歩いていたらそのうち目の前に立っていた、小さな駅前のロータリーの一画、橙色と若葉色の2本線が暗闇に淡く輝く、セブンイレブンだ。
ガラス張りの扉が開き、快活な電子音が響く。入るなり僕は籠をとって菓子パンを適当に三つ、缶珈琲を二つ放り込んだ。選定基準はどれだけ砂糖が入っているか、その一点のみである。
無言のレジがそれらの商品のバーコード読み取り、打ち出した数字は僕の想像を遥かに上回る数値だった。902円。商品が五つで900円といういんちき価格である。この程度の物に900円程の値打ちがあるはずが無い。僕は卒倒した。しかし、金額が打ち出されてしまった段階で今更商品を放棄することもできず仕方がなくこの金額を払った。覚えていろ、もう二度とコンビニなど行かない。
コンビニというのは獲物が来そうな場所で隠れて待ち伏せ、情報を糧に一方的に獲物を捕食してしまう捕食者に似ている。
レジ袋を引っ提げて店を出た。外は相変わらず寒い。
年もようやく明け、僕は正月を終えてもうすぐ学校が始まるからと一人暮らし用のアパートに帰ってきたのだが全く、一人は寂しい。
ここ2年で確実に痩せた。僕はコンビニの食品とは関係なく、不摂生を繰り返してきた。電子レンジでパスタが茹でられるのが悪い。パスタが茹で上がったらそのまま容器にトマトソースをぶちまければいい。
勿論、二年間パスタだけで過ごしてきたわけでは無いが。
米は炊いた後、それを腐らないうちにビニールにくるんで冷凍しなければいけないから面倒だ。何かを炒めた後、油がこびりついたフライパンを洗うのは面倒だ。大体、食器を洗う事が面倒だ。それらを乾かすために場所を作るのも面倒だ。
結果、頑張っても適当に買ってきた野菜と肉を切り、味の素を入れて雑に作った具沢山のスープみたいな物にパンを浸して食べるという食生活が一番効率的かつ健康なんだと思い至った。
しかし勿論それはやる気がある時の話、元気がなくなればたちまち冷蔵庫に保管してある食品は腐り、手のつけられない状態になる。
そんな事が年に何回も繰り返される。丁度今日、冷蔵庫に溜まった暗黒物質を奮起してゴミに出してきた所だ。今回も大変な作業だった。
僕はそう立ち止まって考え事をしていたのだけれど、今度は家に帰るのが凄く憂鬱になった。
家に帰ればやらなくてはいけない事が沢山ある。風呂に入らなければならない。歯磨きをしなくてはならない。
洗濯物を畳まなければならない。洗面台に溜まった食器を洗わなければならない。散らかり切った部屋の中でアクロバチックな動きをしながらこなさなければいけないこれらの積み上がったタスクに、僕は耐えられない憂鬱を感じた。
そこでどうだろうか。たかだか家からコンビニまでの帰路を態々伸ばすというのは。
そういう事で僕は進路を変えた。コンビニから出た通りを右に、家から反対の方向へ歩いた。
こんなことしたって所詮時間稼ぎにしかならないのに。話を戻すのだけれど、当然死ぬのは痛いし、僕がいなくなったらまあ少しは悲しむ人が居るし、だからこそ踏ん切りがつかないのだが、逆に生きがいとやらを見つけて、いっそのこと生に邁進してみてはどうかと、知人友人に死にたいと相談まがいの戯言をふっかけては幾度となく僕は言われ続けた。
ありましたとも、生きがい。生きがいみたいな物くらい何回も持って捨ててきましたとも。
それでは今はどうなんだと聞かれたら、まあ以前は情熱を持って書いていた小説を思いついたら杜撰に書き殴る程度なんですよ。
僕は文芸部に所属している。大学の受験勉強も、『憧れの作家がこの大学を出ている』なんていう陳腐な理由がかなりのモチベーションになっていた程だから、そりゃもう当然文芸部に入りますよ。
しかし全く、時が経てばこの始末。この腐れ大学には憧れの作家の痕跡すら無い。
最近はそう。小さい頃なんかは日記とかを熱心につけていたけれど、小説投稿サイトなんかがあるし気軽に作品を設定して発表できたりするじゃ無いですか。
しかしまあ、初めは熱心にやっていた小説投稿も時を経るにつれ頻度が落ちていって、今じゃ一年に一回すれば良い方、だなんて始末になってしまった訳です。
これから先、僕は落ちぶれる一方だろう。そして二度と這い上がることはない。一回生だった頃には控えめだった『シュウカツ…シュウカツ…』というひとりでに聞こえてくる呪文も、今となっては頻繁に聞こえ始めた。それはつまり、きっと世界が終末を迎えるのも遠くないって事だ。
そんな話をしていたら、人気のない通りの先に、誰かがいる。人影はどうやら女性のシルエットを映し出す。白い着物に豪奢な刺繍がされている、髪飾りで淡い水色の髪を縛っている。そんな天衣無縫の飾りにも負けず美しい、女性がいた。
まあ、僕にはなんの関係もないだろう。当然の事だ。人気のない通りに女性が一人、突っ立ってたっていいじゃないか。
一つ気になるとすれば、その光景はなんだか凄く綺麗だった。街灯に照らされるのは彼女のみ、影が銀箔の地面にくっきり現れて、孤独と静けさと、黒い背景と相まって僕を引き込む。
僕は歩く、交互に足を出す。彼女は足音に気づいたのか僕の方をゆっくりと向く。
端正な顔立ちをしている、肌の白い美人だった。
「こんにちは!」
凛として響く声、僕なんかとはおよそ縁遠いものが聞こえた気がした。
「あの!こんにちは!」
これは、明らかに僕に話しかけているんじゃないか?そもそもこの場には僕と彼女しか居ないんだし。だから一応、勇気を振り絞って返してみることにした。
「あ、こんにちは」
「あの、ちょ、ちょっとお時間を頂けませんか?」
随分と、ゆっくりとぎこちなく言葉が彼女の口から出てきた。
ああ、やっぱり外国人の方だったのか。こんな時間に知らない人に話しかけるなんて日本で住んでちゃ普通ありえないもんなあ。
大抵、というか須らくこういう誘いには反応しないのだが、今の僕はとりわけ絶望しているので、なんか面白くなんねえかなの精神で彼女の問いかけに反応した。
「まあ、あるにはありますけど」
「まあ、嬉しい!」
「いやまあ、あんまり当てにしないでくださいね?」
「いえいえ、少しだけ道案内をしてくれるだけで良いんです。どうぞ宜しくお願いします」
まあ暇だし?こんな美人と話せるのなら願ったり叶ったりだ。少しだけ、彼女に付き合う事にした。
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