ディレッタント、冷蔵庫を語る。
たひにたひ
憎たらしい男(プロローグ)
し…」
呆けて窓越しに遠くの景色を眺めていたら、ふとした拍子に言葉が溢れかかる。それを必死で抑えた。他愛もないことなんだけれど、そのまま口に出してしまうよりは留めておいて悪いことはないだろう。
「おいおい、また出かかってるよ。いい加減にしてくれよ。この俺の前だっていうのに」
と、目前の男は僕に嫌味を吐き出す。これもいらない。彼とは特に気の置けない中ではないが、それでも嫌味を言われることに不愉快を感じないこともない。
最近、勿論冬は凍える物だがそれでも一段と寒さが増していた。冬というのは、人が身体を温め合うにはいい季節だと思うのだが、あいにく僕にそんな相手はいない。最近、めっきり人と会わなくなった。喋りもしない。それで目前の彼とも久しぶりに言葉を交わすのだが、数ヶ月前、まだ暖かかった頃から僕の口癖は変わっちゃいないのだった。
そもそも、人がそう簡単に変われるわけがないんだ。
「どうもね、幾ら休みが多くたっていかんせんやる事がなくて困っているんだよ。ホラ、俺達が暇な時することなんて映画を見るかとか、読書か漫画だろ?
何処か旅行で行ったら気分転換にでもなったりするんだろうが、どうも外に出る欲がない」
「お前に僕の何がわかる。僕はアルバイトだってあるし、多少シフトを増やしてもらうつもりだよ。お前がそんなに暗い表情をしてるのだって運動みたいに頭を空にして作業をする時間が欠けているせいだろ」
彼はもう大学生だっていうのに、アルバイトすらしていない。まあ、人それぞれ好きにすればいいと思うけれど、こうやって普段から彼の暗い表情を眺める身になってみればそう文句の一つも言ってやりたくなる。
しかし何故か、そう言う僕だって彼と同じく沈んだ心持ちである。
「碌でもない口癖を言う奴にそんな説教されるとはな」
「所で、今何時だろう?」
なんの脈絡もなく、彼が僕に対して聞いてきた。
時間なんか、携帯電話を見ればすぐに分かるだろうに。彼は何もしようとしないから僕は携帯電話を取り出して時間を確認しようとするが、彼はそんな僕を睨むのだった。
「時間を聞いたのはお前じゃないか。どうして睨む」
彼は睨んでいたかと思うと、今度は座っていた椅子にもたれ掛かり、顔を上向きにして口を開く。
「空模様から、時間を予測して教えてくれないか?」
「無理だ。僕には気象に関する専門知識などない。因みにいま何処が北かなんてことも分からないから午後か午前かも分からない」
「ああ、そうか。じゃあいつでもいいや」
「どう言う事だよ」
「詰まる所、目を瞑れば日が暮れると言う事じゃないのか?
あのね、君にこれからいい事を教えてやるよ」
急に意味不明な事を言い出して、お前から聞きたいことなんて一つもないよ。
しかし、こいつの口は暴走したようにそのまま僕の返答を聞かずに滑り出した。それは今から思えば諫言や箴言の類というより、宣告というか、予言に近かったように感じる。
「君はね、今の時間すら把握できないならもう時間なんて知る必要ないんだ。
君は、これからある男に出会うだろう。
その男は君にある一つの真実を示唆する。だが、君は今の時間を把握できないのと同じく、その真実を汲み取れずに終わるだろう。それで、君がそのままその真実に気がつかないでいればそのうち君は…」
「僕は、僕はどうなる?」
「どうもしない」
何か大事な事を言い出すのかと思ったが、特にそんなこともなく、彼は訳の分からないままその宣告を辞めたのだった。
「やっぱり駄目だ、思いつかなかったね。何か、俺の言う事が君の身に悲劇を齎らす呪いの言葉にならないかなあと思ってさ。でも駄目だ。ちょっと考えただけじゃ思いつかなかった。次会う時には考えてくるから」
「そんな言葉要らないよ」
そんな戯言をポツポツと言い放ち、彼は席を立った。そうだ、ここは喫茶店の一室。窓から覗く景色は、駅のロータリーで、その向こうには住宅街やら、出店が乱雑に並び立っている。空模様は雲四青六といったところか。
「ともかくだ、俺はこれから用事があるから帰るとするよ」
全く、忙しい癖に遠く僕の近所までよくきた物だ。そうして向かい側の男、葉多長見は僕の前から去った。
その後、彼が席を立ったからといって僕が帰る必要もなく、僕はしばらくこの喫茶店の少しだけ騒がしくも落ち着いた不思議な雰囲気を味わいたいと思い、居残る事にした。
傍に置いていた文庫本を手に取り、また途中から再開する。
***
喫茶店の扉を押すと、寒い風がどっと飛び出してきて、やっぱり、まだ帰らないでおこうかと考えたが、そんな事をしたってまた僕は暫くすれば同じ行動に出るだろう事を思い、思い切って喫茶店を出た。
空はすっかり暗くなっていて、特に星がひしめき合うこともなく、月が僕とその駅のロータリーにいる少ない人々を眺めるばかりである。
そんな感慨に耽り、突っ立っていると、何やらスーツ姿の男が僕の方へ近づいてくる。僕の知り合いにスーツを普段着用するような奴はいないから、全くの赤の他人だ。
けれどやっぱり男は僕に用があるらしく、漸く僕の前まで来ると、話しかけてきた。
──君はこれからある男に出会うだろう。という葉多の言葉が思い出される。
しかし、只の偶然だろう。こんな事日常茶飯事だ。恐らくこの男は押し売りか、何処かの宗教の布教をすべく僕に話しかけたのだろう。
「こんにちは」
男は僕に挨拶をしたが僕は無視して歩き出した。無視が一番。
「無視するなんて酷いですね、私はそんな怪しい人間じゃあないんです。ただ、貴方話しかけたくて」
「それじゃああんたは一体誰なんです?なんのために僕に話しかけてきた?」
僕が歩く速度を早めると男も歩く速度を早め、僕についてくる。口を動かすこともやめない。
「いやいや、名乗るほどのものじゃあありませんよ。それに話しかける事に目的なんて必要なんですか?貴方は友人知人に他愛もなく話しかけたりしないのですか?」
「名乗るほどのものじゃないって、それはこんな場面で暫し嫌味にとられる事をあんたは知ってるか?」
「そんな、滅相もございません、私なんて本当に大した事ないんですから。
そうそう!私の事は気軽に『こいつ』とでも呼んでくれたらいいんですよ」
どうも、振り切れそうにもないし、僕は少し話してから適当に切り上げて帰る事にした。
「それで、さっさと要件を話してくれないか」
「ですから、要件なんてないんですよ。ただ貴方に話かけただけ。ちょっと話せればいいんです」
「そんな傍迷惑な話がありますか」
「そうだなあ、貴方、何かやってます?趣味とか」
「特に何も」
大手を振って話せるような趣味は持ち合わせちゃいないよ。
「嘘をついて。人ってのはね、何かしらやってないと生きていけない物なんですよ。ほら、どんなにしょうもない事でもいいから、話してごらんなさい」
たしかに、僕が話し始めなきゃ話が始まらない。話が始まらなければ終わらせることもまずできないだろう。だから仕方がなく、恥ずかしながら僕のやっている事をこいつに話した。
「趣味って程じゃないが、今、小説を書いてる」
「ほら、あった。と言うと何です?やっぱり家には結構本を積まれておられるとか」
「それ程じゃありませんよ。とくに人に話すのか恥ずかしくなるくらいには」
男はやっと僕が心を開いてくれた事に興奮して話を続ける。
「小説を書くですか、ですけれど生憎私はそこらへん、詳しくなくてですね、読書もそれなり・・・そうだ、貴方さっきまで喫茶店におられましたよね。どうです、私もあの喫茶店お気に入りなんですよ、特にスタンダードのコーヒー、あれの豆は主にエチオピアから持ってきていましてね、あれ私大好きなんですよ、エチオピアの豆が」
結局、男は僕が折角話した趣味の話については保留し、コーヒーの話を始めた。だったら、僕がこんなむず痒い思いしなくてよかったしゃないか。
「コーヒー貴方はよく飲みます?」
「ええまあそれなりに」
「ああそうでしたね、読書にコーヒーは欠かせない、みたいな部分がありますからね。貴方は読者家だから、ディレッタントだからコーヒーとはもう無類の友だって感じでそんな関係を私が今更掘り返すのももはや恥ずかしいくらいですかね」
「ディレッタント?ディレッタントってなんです?」
男が忙しなく喋り立てる中、知らない言葉が飛び出した。その言葉の響きが僕にはどうも気に障った。カタカナだからだろうか。僕は、コンセンサスもアタッチメントもニッポンも嫌いだから。
「ほほう、読書家の貴方が、知らない言葉がございましたが。すいません、どうも烏滸がましい事をしてしまって」
「いいから、そのディレッタントってのはどう言う意味の言葉なんですか」
「そんな事、話していたら話題が逸れてしまいますよ」
何を言ってるこいつは。そんなもの、元々ぶれぶれだったではないか。
「いやいや、貴方は今、私がなんの話をしているか、わかってらっしゃるのか?」
「ディレッタントの意味について、ですよ」
「いやいや違いますよ。話の話題がずれている。ズレって物が小説に於いてどういった舞台装置としての役割を働くか、小説を少し嗜んでいる貴方ならお分かりでしょう?」
「あんたが何言ってんのか僕には分からないよ」
「いやあ、それはいけないですね。それじゃあズレた話題はどうなります?そもそも、貴方は何処から話題がずれているかしっかりご存知ですか?
その顔の曇りようじゃどうも全部分かんないみたいですね。ますます良くないですね。そんなんだから負けちゃうんですよ。『先生』に、それどころか葉多くんにも」
「はあ!どうしてお前があいつの事を知ってる!」
なんだ?じゃあここまでがあの忌々しい僕の同輩が仕組んだ事だったのか?あいつめ、次にあったらどうにかしてこれと同じような仕打ちをしてやる。
男はもう、僕の事を無視して話を続ける。
「とはいえ、私は貴方を応援していますから、葉多君には悪いですが私は貴方の方を応援してやりたい。
じゃあ可哀想だから答え合わせといきましょう。
そうですね、話題がズレると言う事は、それはつまり物語の書き出しと言う事ですよ。
さて!これで私の気も晴れました。付き合ってくれて有難うございます。
では、さようなら!」
男はそう言うと、さっさと何処かへ消えてしまった。僕だって何が起こったか分からない。
ただ確かなのは、先の葉多の戯言が変な説得力を持ってしまったことだけ。
取り敢えず、日も暮れているから僕は帰って飯の支度をしようと思った。
***
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