まろやかな、

 今日の空気はまろやかだった。空気に対して「まろやか」なんて表現するのは不適切かもしれないけれど、今の私には他にぴったりな表現が見つからなかった。

 過度に暑すぎるわけでもない。過度に寒すぎるわけでもない。風は心地よくて、太陽が暖かく地面を照らしていた。

 もしかしたら、単に私の選んだ服装が、今日の気候に適していただけかもしれないけど。


 ともかく、今日の空気はまろやかで、過ごしやすくて、だから少し浮かれていた。普段からよく通り過ぎるけど、普段なら怖気づいて入れないような喫茶店に思い切って足を踏み入れる程度には。


 カランカラン、と入店と同時に扉に下げられていたベルが鳴った。少しだけ振り返って音の主を見上げてみる。少しくすんだ銅色の、一般的な形のベルが揺れている。ぼんやりと、クリスマスツリーの飾りを連想した。幼い頃、あの飾りを手に取って、音が鳴らないことにがっかりしたのを覚えている。


「いらっしゃい。一名様ですか?」


 かけられた声に視線を正面に戻せば、恐らく40代ぐらいの男性がカウンター越しにこちらを見ていた。お店のロゴの入ったエプロンをつけている彼に頷いて返せば、「お好きな席にどうぞ」とだけ言って彼は視線を落として手を動かし始めた。どうやらカップを磨いていたらしい。

 カウンターの中でカップを磨く、恐らく店主の中年男性。なんだか小説や漫画の中の風景みたいだ。そう思いながらも、店舗の中へ足を進めた。


 店内は、外から見て分かっていたけれど、そこまで広くは無かった。けれど、インテリアはどれも気後れしない程度におしゃれで、壁には何かのポスターが貼ってある。

 カウンター席が五つと、奥に二人掛けのテーブルが二個と、四人席が一つ。平日のお昼だからか、店内は私の貸切り状態の様だった。

 カウンターに座るのはなんだか勇気が必要だったから、奥の二人掛けのテーブルに座る。反対側の椅子にリュックを下ろしてから、机の上に置かれているメニューを手に取って眺めた。喫茶店らしく、コーヒーのメニューが多い。いろんな銘柄が書いてあるなあ、なんて思いながら眺めていると、ふと店内の音楽が止まった。続けて、スピーカーからは人の声が聞こえてくる。それで、これラジオだったんだ、と今更ながら気づいた。ラジオなんて、最後に聞いたのはいつだっただろうか。小学校だか中学校の授業で作った手回しラジオがうまく動くか確認するために聞いた時が最後かもしれない。

 一瞬ラジオに奪われた意識をのんびりとメニューに戻して、じっくりと眺めてみる。コーヒーは、オリジナルブレンドと、その下に見慣れないカタカナがいくつか並んでいる。ケニアだとかエチオピアだとか、恐らく豆の産地か種類なのだけれど、普段インスタントコーヒーしか飲まない私にはよく分からなかった。それから、オレンジジュースと、紅茶とココアとミルク。コーヒーはこんなに書いてあるのに、紅茶はアイスとホット、ストレートレモンミルクしか書いてないあたり、こだわりが見える。

 ぺら、とメニューを裏返してみる。フードメニュー一覧が合って、カレーと、スパゲッティがナポリタンとミートソースの二種類。あとはトーストがいくつかと、ケーキが少し。端の方にケーキセットのメニューが載っていた。「ケーキ(日替わり)と、オリジナルブレンドのセット」らしい。それで1000円。驚きの低価格。企業努力というやつだろうか。これぐらいならお財布にも痛くない。今月いろいろ我慢してたし。

 コーヒーは詳しくないが、甘いものは好きだ。このケーキセットにしよう、と決めて机の上を見る。呼び出しベルが無い。自分で呼ぶ感じだろうか、これ。

 少し戸惑ってきょろきょろしていると、恐らく店主と思しき男性の方からこちらに近付いて来てくれていた。よく見ているなあ、と思わず感心する。


「ご注文、お決まりですか?」

「あ、はい。このケーキセットで」

「コーヒー、アイスとホットと選べますが」

「えっと、ホットでお願いします」

「かしこまりました、少々お待ちください」


 短いやり取りのあと、男性が去っていく。よく見ればこのお店には彼一人しか店員らしい人が居ない。ということは、やはり店主なのだろう。一人で切り盛りしているのか、大変だなあ、なんて他人事に思いながら、一度席を立ってリュックからごそごそと本を取り出した。

 さっきまで、図書館に行った帰り道だった。想定外の喫茶店に入る、というイベントが発生したのは、私が浮かれていたから、というのもあるけれど、今日が全休の日だからでもある。一年の頃は必修だらけで毎日学校に行かないといけなかったけれど、学年が上がると時間割の組み方次第では全休を作れるようになった。嬉しい限りである。

 そして、今日の私を浮かれさせている理由のもう一つが、今手の中にある図書館から借りてきた本の一冊である。表紙を飾るのは、最近よくネットニュースやSNSで見かけるイラスト。話題の新作が、今日はどういうわけか普通に本棚においてあったのである。いつもなら予約必須なのに、と思いながらも気づけば手に取って、貸出カウンターに持って行っていた。

 大学生にとって、本というのは身近なようで手の届かない存在だ。なにせ高い。もちろん、普段から講義やら図書館やら、本そのものは身近にあるけれど、話題の本をいちいち自分で買っていたらあっという間にお金が無くなってしまう。そんなお金のない学生にとって、図書館というものは本当に偉大である。

 ほくほくしながら表紙を撫でて、少し凹凸のある装丁を楽しむ。それから裏表紙も同じように楽しんで、まずは著者紹介に目を通した。私も知っている通りのプロフィールと、最近は珍しくもなくなった顔写真ではない著者近影が並んでいる。そうして、もくじをさらりと斜め読みしてから本編へ入った。


「お待たせしました、ケーキセットです」


 はっと意識が浮上したのは、第一章を読み終えようとしている頃だった。店主が机の上にチョコレートケーキとホットコーヒーの入ったカップを並べている。小さく「ありがとうございます」と返せば、彼は同じように小さく会釈してから「ごゆっくりどうぞ」と言って去っていった。

 あっという間に目の前のケーキに意識を奪われる。おいしそう。少し迷って、第一章だけ読み切ってから、付箋を挟んで本を閉じた。そうして、本が汚れないように机の奥においてから、ケーキに手をつけるべくフォークを取る。


 いただきます、と小さく口の中で呟いてから、さくりとフォークを入れて、一口。思わず口角がゆるんだ。おいしい。

 もぐもぐと咀嚼してから、そっとカップを持って、ふうふうと覚ましてから、こちらも一口。あ、思ったよりもおいしい、なんて失礼な感想を抱いた。前にコーヒーにこだわっているお店でコーヒーを頼んだ時には、なんだか思っていたよりすっぱくておいしくなかったのだ。その時のことを思い出してから、改めて一口。うん、やっぱりおいしい。

 コーヒーの入ったカップを机に下してから、ほう、と一つ息を吐く。喫茶店で、ケーキとコーヒーがあって、おもしろい小説もある。なんて贅沢なんだろう、としみじみ思う。


 またケーキを一口。やっぱりおいしい。コーヒーを一口。やっぱりおいしい。


 幸せに浸っている中で、自然と「また来よう」「今度は違う本を持って」なんて思った。そんな自分に少し驚きもしたけど、悪い気はしない。

 きっとこういう時に、「良い店を見つけた」と表現するのだろう。


 またコーヒーを一口。暖かい苦みが広がって、でも嫌ではなかった。角がない、というか。ああそうだ、こういうのを、適切に「まろやか」ときっと言うのだ。



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お題:行動、文学、まろやか

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【短編集】星屑を詰めて 琴事。 @kotokoto5102

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