うそつきめ

 ぴゅうと吹き付ける北風が冷たかった。小さく身震いして、コートの前を閉める。鞄を持ち直して、足早に駅に向かった。駅だって寒いだろうけど、この風が防げるならそれだけで万々歳だ。

 

 ──今日は、幼少期からの友人の四十九日だった。墓参りをして、彼の実家の仏壇に手を合わせてきた帰りである。

 生きていれば、もうすぐ私の年齢を一つ上回っていたはずの彼は、私と同じ三五歳だった。今日まで何度、「まだ若かったのに」という言葉を聞いただろう。

 

 駅について、改札を抜けてホームへ向かう。すると、ちょうどよく電車が来たところだった。それに乗って、空いている席を探す。見つからなくて、結局扉に寄りかかって立っていることにした。どうせ数駅だし構わないだろう。

 

 死因は、心疾患。突然だったそうだ。その前日まで元気に働いていたのに、次の日出勤してこなかったと思ったら、自宅で倒れていたらしい。恐らく過労が原因だろう、とのことだった。確かに、いつも忙しそうにしていた。

 

 電車の窓の向こう、過ぎ行く景色を眺めながら考える。今、私の鞄の中には、形見として頂いた彼の日記が入っていた。

 彼の実家に向かった際に、おばさん──彼の、母親にあたる人に差し出されたそれ。最初は一体何なのか分からなくて首を傾げてしまった。

 おばさんは、「あなたに持っていて欲しいの」と言って、これを手渡してきた。使い込まれていることが分かる、一年分のそれ。半分以上のページに書き込みがあるそれは、実際の重さ以上にずっしりと重い。

 

 彼が、この日記に何を書いているのか、私はまだ知らない。日常の、その日あったことを細々と綴っているだけかもしれないし、その日思ったこと、感じたことを残しているのかもしれない。

 ……それを、私が見ていいのだろうか。見たとして、私はどう受け止めればいいのだろうか。

 

 ずっしりとおもいそれを開く覚悟が、私にはまだできていない。

 

 電車のアナウンスが耳に入った。慌てて電車内の電光掲示板に視線を移せば、もうすぐ私の降りる駅に着くと分かる。気付けて良かったとほっと胸を撫で下ろして、また荷物を抱え直して、電車を降りた。

 

 

 また冷たい風の吹く中を歩いて、無事自宅へ帰宅。手洗いうがいをして、着替えて、荷物を片付けて。

 

 今、私の目の前には彼の形見の日記があった。

 

 なんとなく正座して、日記を手に取る。紐の付箋が二本ついていて、一本は彼が亡くなる前日に、もう一本は最後のメモ帳に差してあった。それだけ確認してから、一度日記を閉じてその表紙を撫でる。

 

 ……未だ、この中身を見る覚悟は出来ていない。でも、日記を手放すつもりは一切無かった。

 

 日記を撫でながら、彼について考える。

 

 彼は、忙しい職だった。でも、彼のあの職が、彼が幼いころから憧れていたそれだと知っている。その職につけた時の彼の喜びも、そこへ行くための努力も、私はずっと見ていた。

 ……だから、仕事が悪いんだ、なんて。私はとても言えなかった。

 

 彼が生前、どうせ死ぬなら、体の自由が利く若いうちに死にたいよななんて言っていたことを思い出した。それに対して、私はなんと返したんだっけ。私はどうせなら、長生きしたいなあなんて言った気がする。

 

 彼は、ジャンクフードやお酒、煙草が好きだった。体に悪いよ、とは何度も言ったけど、「好きなんだからしょうがないじゃないか」と彼はいつも言ってかわしていたっけ。あんまりしつこく言う資格なんて私には無いと思っていたけれど、嫌われたりうざがられたりしてでも彼を止めていれば、今は変わったのだろうか。

 

 そんなことをつらつらと考えていると、ふと、彼が生きていたとき何を思って、考えて生きていたのかが気になってきた。

 

 それは、きっと好奇心。年甲斐もなくそんな感情を抱くなんて、思っても見なかった。

 

 故人の日記を、親から渡されたとしても勝手に見ることに関して、罪悪感はもちろんある。

 ただ、彼が居なくなった今、彼の考えていたことを知る手段はこれしかないのだ。

 

 表紙を撫でていた手を止めて、一ページ目を捲る。今年の、一月一日の日付のあるそのページは、こう始まっていた。

 

『今日も仕事だった』

 

 彼が生きていた頃ならクスリと笑えたそれも、今はどんな顔をして読めばいいのか分からない。さらさらと読み進めていくと、最後に今日はめでたい日だから酒を開けたとあってまたどんな顔をすればいいのか分からなくなった。めでたい日だからって、アンタそんなの関係なく毎日飲んでたでしょうよ。

 

 ぱらぱら、ページを捲って行って日記を流し読みする。

 

 仕事について。

 その日の夕飯について。

 飲んだ酒について。

 時々路地裏で猫を見かけた。

 

 中には、そういうどうでもいい、何でもないことが記されてあった。

 

 彼の心の、奥深いところに関するものはどこにもなくて、ほっとする反面、どこか残念に思う自分が居た。

 ぱらぱら、変わり映えしないそれらを捲って行くと、ふと手が止まった。今までのページに比べ、明らかに書いてある文字の量が多い。視線がそこに留まる。

 

 最初の一文はこうだった。

 

『今日は珍しく仕事が休みの日だ』

 

 なるほど、だからここだけ日記が長いらしい。ということは、きっと今までの日記は忙しい時間の間を縫って書いていたのだろ。文字通り死ぬほど忙しかったのなら、日記なんて放り出してしまっても良かっただろうに。彼らしいと言うか、なんというか。

 そんなことを考えながら、その日の日記を読み進めていく。

 

『ここ最近、昔に比べて体にガタが来るようになった』

『今までよりも、無理が出来なくなるようになった』

『若かった頃は、体の自由が効かなくなったらすぐ死にたいだとか、思ってたはずなのに』

『今は、死が怖い』

 

 その一文に、正直驚いた。

 彼に、そんな感情があるなんて、私は知らなかったし、そんな一面を見たことも無かったから。

 

『いつまで、こうして今の仕事が出来ているのだろう』

『あと何回、親と顔を合わせることが出来るだろう』

『煙草と酒を楽しむことができるのは、いつまでだろう』

 

 続く文章も、とても彼らしいとは言えない。……アンタ、こんなこと考えてたの。言ってくれれば、相談ぐらい乗ったのに。

 

 最後の一文、今度は何が書いてあるのだろうと読んだそこには、私の名前があった。

 

『俺は、いつになったら──に想いを伝えられるんだろう』

 

 息を呑む。

 

 待って、嘘でしょ。一度視線を外して、もう一度日記を見る。そこには変わらぬ文章が残っていた。

 

 だって、アンタそんな素振りなんて一度も見せなかったじゃない。学生時代に、恋愛するなら私みたいなやつ以外が良い、なんて言われたこと、私は忘れてないのよ。それを裏付けるように、付き合うのは私と全く逆のタイプの女の子ばかりで、でも夢や仕事にしか夢中になれないアンタはいつだって振られてて、それで。

 

 ぶわりと思考が溢れる。最後に残ったのは。

 

 私の初恋も、アンタだったのに。

 

 そんな、どうしようもない、私の心残りだった。

 

 開いていた日記に、涙が落ちて濡らす。いけない、これは形見なんだから濡らしちゃだめだ。慌てて手元から日記を離して、テッシュを数枚引き抜いて目元にあてる。

 一度溢れたそれらは、どうしてか止まってくれなかった。

 

 どうしてだろう。

 

 アンタが死んでから、涙なんて一回も流してなかったのに。

 

 涙が流れる理由は、涙が枯れたあとでさえ私には分からなかった。

 けど、私の涙をかつて拭ってくれたアイツがもう居ないことだけは、心の芯から理解することが出来た。


――――

文字書きワードパレット(https://www.pixiv.net/artworks/87972644)より、07番『うそつきめ』「死生観」「日記」「北風」

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