「ねえ、どうか、私を忘れないで」

 年の割に大人びた様子で淡々と告げた生意気な小娘は、笑顔で崖下へ飛び降りていった。



 そいつのことをきちんと認知したのは、俺が十の時だった。当時はまだガキだったから、大人達の話に混じれなくて悔しかったのを覚えている。その悔しさからか、俺はよく夜に大人達が酒を飲みながら話す声を盗み聞きすることが多かった。娯楽の少ないこの村の中で、それは俺の数少ない楽しみの一つでもあった。今思い返しても捻くれたガキだと思う。別に今の俺が捻くれていないわけではないんだが、それはさておき。


 ともかく、その日も、こっそりと大人達の話に耳をそばだてていた。その日の話題は、とある家についてだった。


 その家は、余所者の家、とよく言われている家だった。なんでも、一組の男女が、俺が生まれてくる少し前にこの村にやって来たらしい。男の方は体格が良く力仕事が得意で、けれど力加減がへたくそ。そして女の方はどうにも体が強いほうではないらしく、けれど美人で手先が器用。そんな対照的な二人だった。今思えば、当時は村に人が少なかったから、少しでも労働力が欲しくて迎え入れたんだろう、と想像がつく。

 そうして、その男女は表面上はこの村の一員として過ごすことになった。

 そんな家に、数年前に娘が生まれた。目つきは父親に、それ以外は母親によく似た顔の、あまり表情の変わらないその子供は、両親と同じく表面上はこの村の一員として育っていた。

 それから時間が経って、その娘が五つになる頃、父親の男は病で死んだ。それは、村の一番長生きの婆さんが見ても何の病だか分からなくて、結局父親の男は少しずつ衰弱して死んでいったらしい。葬式の時にちらりと遺体を見たが、あんなに体格が良くて力仕事が得意だったあの人の面影はなかった。


 大人達が話していたのは、その家の今後の扱いについてだった。女は体が弱い、自分で食い扶持を稼ぐこともできないんだから、さっさと追い出してしまったらどうだ、とか。娘の方はどうする、とか。それを聞いた俺は、あああいつら追い出されるのか、なんて他人事みたいに思っていたっけ。

 けれど、その後話の流れが変わったのが分かった。

 だが、あの器量の良い女を手放すのは惜しくないか、と一人が言った。

 旦那が死んだんだ、好きにしてしまってもいいだろう、と一人が言った。

 ならば、娘はどうする、育てて同じように使うか、と一人が言った。

 娘は、ありゃあ目がいかん。あの男そっくりだ、と一人が言った。

 なら、そのうち水神様の生贄にでもするか、と一人が言った。


 その日、俺はよく眠れなかった。そして、それ以降は大人たちの会話を盗み聞くのをやめた。

 代わりに、余所者の家の娘が視界の端にちらつくようになった。そいつは、母親譲りの見た目の良さも相まって、年を重ねるにつれて余計に俺の視界に入り込むようになっていった。



 今年は去年よりも米も野菜も取れない、どうしたもんか、なんて、やっと大人になった同世代の連中と話していたら、そのうちの一人が言った。水神様がお怒りなんだ、と。俺は、それに内心うんざりしながら相槌を打った。

 俺は、神だなんて、馬鹿らしいと思っていた。何かきっかけがあったわけでもないけれど、でも物心ついた頃にはそう思っていたから、つまるところ俺は根っからの捻くれ者なんだろう。けれど、それについて口にすることはしなかった。そんなことをすれば、俺が村八分にされるのは目に見えていたから。けれど自分に噓をついて同意を返すこともできなくて、毎回曖昧な笑みを浮かべて誤魔化していた。


 それを、あいつは見抜いていた。たかが十のガキがだ。村の仕事の関係で二人きりになった瞬間だった。

「ねえ、お兄さん。ほんとは、水神様なんてどうでもいいんでしょう」

 それを聞いた俺は、ただ、周りに人がいないか、今の言葉を聞かれていないかと、そんなことで頭がいっぱいだった。

「なんで、そんなことが言える」

 少しして、絞り出すように小さな声で言ったら、そいつは珍しくほんの少し笑って言った。

「だって、私そのうち殺されるもの」


 こいつは、自分が生贄にされるって、もう気付いているんだとその時分かった。たかが十のガキなのに。


「それに、私は余所者だから。ここで信じてる神様なんて、どうでもいいの」

 なんでもないように続けたそいつは、俺の目を見て言った。

「お兄さんも、私と同じ、冷めた目をしてるから分かった」

「……何言ってんだか、この小娘が」


 俺は、なんでもないようにそう言って突き放したつもりだった。けれどそれ以降、小娘は何かと理由を付けて俺のところに来ては、「お兄さん」と俺を呼ぶようになった。勘弁してくれ、俺まで村の連中に変な目で見られるだろ、と思ったけれど、長年視界の端で捉え続けたそいつが自分から俺のところに来るのは気分が良かった。

 「小娘」「お兄さん」と呼び合うようになったのは、俺が十五、あいつが十の時。今から二年前だった。


 それから二年は、認めたくないが小娘のおかげで楽しかった。小娘は年の割に大人びていて、そして賢かった。同世代の村の連中と話すよりもずっと楽しかった。

 だから、馬鹿な俺は忘れていた。ここ数年、野菜も米も中々取れない状況が続いていることも、小娘が余所者の家の娘だってことも。


 数日前のことだ。いつものように俺のところに来て、器用に繕い物をしながら小娘は言った。


「ねえ、私、今度殺されるの」


 殺される、の意味が分からなくて、俺は少し考えた。それで、初めて小娘と話した時のことを思い出して、勢いよく小娘の方を見た。

 小娘は、いつも通りの、何も楽しくない、と言わんばかりの表情で続けた。

「多分、もうこうしてお兄さんと話せることもないと思うから」

「なんで」

「なんで、って。だって、もうずっと前から決まっていたことだから」

 私はここから逃げる手段なんて無いし。続けたその声には、悲しみも怒りも無くて、ただ淡々と事実を告げるだけだった。


「ねえ、だから、お兄さん」


 そっと囁かれるように言われたその言葉を、俺はきっと、一生忘れられない。



 そうして、今日。小娘は、今までに見たことがないような笑顔で崖下へ飛び降りていった。

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