第7話

(7)



 事実と言うのはこれ程奇妙なのだろうか。

 出戸巡査は夕闇せまる高台で小野寺麻衣子から聞いた話を自分の寮へと戻る車の中で思い出している。ロダンとは先程別れた。

 別れ際に彼が寂しさと満足した表情を自分に向けた時、本当に心の奥底で事実と言うのはこれ程奇妙なのだろうかと思った。

 署を出るとロダンの導きでまず下着が散乱して捨てられている場所を見て、それから彼女が鷹の訓練が終わり、丁度夕暮れ染まる木立の小道を降りて来るところで自然に遭遇するように仕向けた。勿論、仕向けたのは彼、ロダンなのだが。


 ――しかしながら



 ――事実は奇妙だった、しかしながら…思えば事件そのものの根本は至って簡単(シンプル)なのだ… 


 何故、女性である彼女が下着を盗み、そしてこともあろうに森奥の静寂の中にまき散らして捨てたのだろう。

 色とりどりに下着類が棄てられた森の静寂。それはどこかそれはロダンが言ったように『性』の遺棄に近く、その光景は無残で困惑的で、正に魔界のような世界だった。だが、もし見る人が見たらそれを現代アートと言うかもしれない。まさに芸術的精神的バランスを持ったスパイラルの芸術的な病室。

 そしてその病室を統べるのは彼女――小野寺麻衣子。

 彼女は患者なのか、それとも魔界に舞い込んだ患者を治癒すべき医師なのか。

 魔界に迷い込んだ患者を治癒すべきは、悪魔でしか成し得ないのでないだろうか、しかしならば夕暮れ染まる木立に立つこの若い女性は酷く――天使の様に美しいのか。

 出戸巡査は全く持ってロダンの言葉に頷き、気持ちを汲み取みとった。


 彼女が犯罪者だとは

 誰も願いたくない気持ちと言うのを。


 ――ええ、私がこの茜丸を使ってやったことです。


 出戸巡査は彼女を見た。彼女は腕の革巻きの上に乗せた鷹の喉元を指先で撫でると、こちらを見た。

 それに合わせた様に木立の葉が揺れ、夕闇を誘う。

 黒い前髪を綺麗に切りそろえた額の下から覗く二重の黒瞳。睫毛は夕闇を払いのけ、彼の唇はまるで夜を誘う何かのような存在を舐めるように、やがて開いてゆく。

 ロダンも自分もそんな彼女を見ている。細身のシルエットに鷹を携えた酷く美しい人を。

「…それ程、悪いことをしたようには思いませんけど」

 彼女は言う。まるでこの世界を断罪する存在の様に。だが出戸巡査は断罪された世界の中の現実に居る極めて法を遵守する存在だ。

 ひとりの警官として訊かないといけない。例え、非番の時とは言え。

 彼は一歩踏み出す。

「しかしながら、犯罪は犯罪でしょう?」

 彼女の眼差しがその時、巡査を真正面に捉える。出戸巡査は酷く愚かな事を聞いた気がした。何か、とてつもなく愚かな、神に対するような愚問のような、それほど彼女の中で何かがふつふつと鬼気を増して迫って来る。

「…犯罪?」

 彼女が言葉で出戸巡査の意識を断罪する。

「私の行いが?いえいえ、とんでもない。もし、そう言われるのならば、盗まれた彼女達こそ――犯罪者と言えるでしょう。『美』というものを犯した者こそ、犯罪者なのですよ」

 彼女は指で鷹の羽毛を撫でる。

 まるで何者かを愛しく愛撫するその指先。夕陽は闇の中に沈もうとしているが、それでも彼女の頬を照らし、その美貌を一層美しく、妖しく染める。

 美貌の人は『性』を超越する美しさ。


 ――美というものを犯した者こそ、犯罪者なのですよ


 ロダンは彼女の言葉の背後に立った。立ちながら視界に見える彼女を見る。


 ――天草四郎時貞もこのような美しさをもった少年だったのかもしれない。


 それはロダンの心の奥底で渦まく精神の中で起きた化学反応だった。だが、そこに何か閂のような深いつながりを覚えてならない。覚えてならないからこそ、唐突に言葉が閂を開けてそのつながりから出た。

「まるで少年みたいですね。小野寺さん。まるで性別が定まらない、そのぉ、なんというか…」

 彼女が僅かな驚きを含んでロダンを見て短く言った。

「そう、私はFtM(FemaletoMale)なので」

 それは巡査の鼓膜に響き、ロダンの脳を激しく刺激した。そこに於いてロダンは解明したのである。

 彼女の持ち得る美を。


 思うべきである。

 

 ――天使は

 悪魔は 

 彼等は人間の様に『性』を持ち得ているのか。

 ならば『性』なきものこそ、

 至上の『美』を持ち得る存在なのか


「初めて長崎S女子大学の女子学生を見たのはセクターの温泉の湯船の中。そこで私が見た彼女達の裸体を見た時の失望と言うのは、恐ろしい。何故彼女達はこれ程醜いのだろう――ミケランジェロの掘ったダビデのなんと均衡のとれた美しさに比べれば天と地の差だと、…いえ、まぁそんなことは未だ大したこと無かった。肉体の優劣はそれ程でのない」

 彼女は含み笑いをする。

「それよりも彼女達が着替え始めた時の衝撃。自分の裸婦を隠すべき下着といったら何という事‼原色に彩られた赤、青、黄色、緑、黒もある。本来美しい若い肢体を包むべきものが、どこか醜い何者かに縛られている。それは自分の自己主張と言うか、そうまるで此処に『性』が存在しているというセックスアピールの信号機としての下着、そうまるで自己内面の証人欲求というか、もう厭らしい程の見得として。

 そうそれはまるでそうなると人間は豚ね。ブヒブヒ鳴いて若い『性』を飽くことなく貪る豚達」

 巡査は困惑しながらも彼女に言う。

「それは個人の好みでしょうし、意識すべきことでも無いでしょう?」

「私はね、隆慶一郎の描いた前田慶次が好きなのよ」

 唐突も無く話の方向を変えられて巡査もロダンも頬を張られたように彼女の話の先に飛ばされた。

「その慶次が――ある湯屋で見栄を張る傾奇者と一緒に入る話が出てくるのよ、そこで傾奇者は色とりどりの褌をつけている。慶次はというと白い褌一つに刀を腰につけてる。それを見て驚いた傾奇者たちは急いでもどっつえ刀を差して風呂に戻り、そこで汗をたらたら流し、やがてのぼせるまでになったらその瞬間慶次が刀を抜くんだけど、それは竹光。おかげで傾奇者たちの刀は台無し。そこで慶次が言うのよ――俺は奴等の褌の色が嫌いなんだ、褌は真っ白じゃなきぁいけない、とね」

「つまりそれは?」

 ロダンが問う。

「――褌はいつでも綺麗にしておけ、つまり、いつ死ぬか分からぬ戦国時代。死ねば死体を弄られる。その時侍の最後は汚れてる褌じゃ、醜い」

「つまり死に装束ということか」

 巡査の言葉に彼女が頷く。

「そうよ。下着ってそうあるべきじゃない?人間は常に『死』と隣り合わせ。今の日本は災害大国、いつ自分が死んでもおかしくない。死は身近にある招かざる友人。だからこそ、あんな下着で見つけられた死体は醜い。死に相応しくない。そう、死を彩る自分の肉体に美しくない。

 だからそれらに私は吐き気がして、思ったのよ。つまり彼女達の前からそれらを消そうとした。そうすれば、彼女達には何が残るか?自制と反省。そうこの茜丸に色彩の訓練を施し、あの学生寮を覚え込ませて。そしてこの森奥に下着を唾棄した」

 あくまで自分の気持ちを正直に伝える彼女が最後に言った。

「…で、どうするつもり?あなた達?捕まえるの?」

 それを聞いた巡査が前かがみになった時、背後からロダンが背を押さえるように言った。

「…小野寺さん、あなたその風呂の中に田中ひよりが居たのを知っていたでしょう?そしてその彼女があなたのもしや想い人――違いますか?」

 その名を聞いた時、彼女は激しく全身を震わせた。確実に闇が揺れたのを巡査は感じた。

 正に驚きの瞬間だったかもしれない。

 しかしながら、彼女の驚きを浮かび上がらせた筈の表情は森の木立に落ち始めた宵闇の所為でロダンには見えなかった。

 見えない代わりにロダンの瞳には自分を振り返り驚く出戸巡査の顔が見えた。


 ――ロダンは何かを知っている。


 そんな正に驚きだった。

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