第12話 朝食


微睡の中にあって、優しい香りが鼻腔をくすぐる。



いつもとは明らかに違う感触がそこにはあった。

ユウジは目を覚ます。


「‥‥‥‥‥‥ッ!」


目の前に、恭子の無防備な寝顔があった。

いつの間にか布団に潜り込んできた薄着のカーディガン一枚のあられもない姿に、ユウジは一瞬息が詰まりそうになる。


そして、何とか押し留めた声を再び腹の底へと沈めた。

次に硬直する思考を手繰り寄せながら昨日の記憶を呼び起こして、ゆっくりと上半身だけを起き上がらせる。



———今日はもう遅いからまた明日話すことにしよう。



恭子の提案により一度話を中断した経緯をユウジは思い出す。



それからもう一度、起こした上半身をベッドへ沈める。床板が小さく軋み音を鳴らしたが、恭子は熟睡しているようで目を覚さない。


ユウジは一定以上の時間を置いてから、横向きの寝姿勢へと移行させた。

真近で見る、きめ細やかな恭子の白い肌。不可侵の地に誤って足を踏み入れてしまったかのような罪悪感を覚えたが、それ以上に形容し難い好奇心が打ち勝った。こんな機会は2度と訪れることがないかもしれない。


「‥‥‥ん‥‥‥ぅん‥‥‥」


恭子が寝返りを打った。珍しく深い眠りについている様子。

腰まで伸びた細くしなやかな白の髪を、じっとユウジは眺めた。


そっと手を伸ばして、何本かの髪に触れる。心なしか去年よりも、色艶が落ちているように感じた。それは思い過ごしてあって欲しい一方、そう現実は甘くないことを認めている証拠でもあった。


再び、恭子が寝返りを打つ。


「ん‥‥‥? 何だ、起きていたのか?」


と、思っていたのも束の間。

唐突に目を開けた彼女の顔が今度はそこにあった。


「その‥‥‥オレも、ちょうど今‥まさに目が覚めた所です」


感じた罪悪感に対して言い訳をしながら、そう言い繕うユウジ。

恭子は「そうか」とだけ言って身体を起こす。本人はまだ眠むそうな様子で目を擦り、ベッドの上に鎮座するように座る。

シャツ一枚のその格好から映える黒模様の下着が顔を覗かせた。


「朝食の準備に‥‥‥」


ユウジが目を背けて逃げるよう素振りでそう提案しようとした最中、恭子がそれを手で制して待ったをかけた。


「今日は久しぶりにわたしが朝食の準備をするよ」


「えっ‥‥‥⁉︎」


彼女は至って本気のようで、床に落ちている衣服を拾い上げながら、部屋を後にする。その後ろ姿をユウジは静かに見送った。





ダイニングキッチンではエプロンを身に付けた恭子が手際良くフライパンを回しながら、片手で卵を割って投下していた。


「どうだ、わたしもまだまだ捨てたものじゃないだろう?」


物珍しそうに眺めているユウジの存在に気付いた恭子が同意を求める。


「それは味を見てから判断しますよ」


「生意気なやつだ」


キッチンに立っている姿を懐かしく、なぜか遠くに感じながらユウジはテーブルに腰を落ち着ける。この家に一緒に住むようになった初めの頃は、恭子がほとんど料理をしてくれていた。


ただ彼女の作る料理はどれも大味で味付けも濃く、栄養も偏ったものが多かった。ユウジとしては正直、腹を満たす事ことさえできれば何でもよかったためあまり気には留めていなかった。


転機が訪れたのは、山籠りをすると言って彼女がユウジを連れ出して、知らない渓谷を抜けた山中へと赴いた時である。



それは意図的だったのかそれとも偶発的に起こった出来事なのか。山雪崩に巻き込まれて離れ離れになってしまった状況下、ユウジは三日三晩山の中を碌な食事も出来ず彷徨っていた。


そして、ついに力尽きて倒れてしまったユウジを救ってくれたのは山の狩人を名乗る老人だった。その際、老人が振る舞ってくれた山菜粥が、英気と疲労を養う意味でも絶品だったというのがきっかけで、食べ物に対して多大な興味関心を持つようになる。


それ以降、栄養素や調味料、調理法や料理の組み合わせに関する知識を身につけ始めたユウジは、その半年後にはキッチンのイニシアティブを握るほど上達するに至る。




ちなみに恭子はこれ幸いと料理担当をユウジに押し付けようとして一悶着する話はまたいずれ機会があれば話したい。


「お待たせしたね。ん? 上の空で、どうかしたのかい?」


「いえ、少し昔を思い出していただけです」


「そうか」


気に留めた様子もなく、恭子の料理がテーブルに並ぶ。

右からスクランブエッグにベーコンエッグ。彩りを加えるのは、ソーセージと焼きオムレツ、主食はトーストだった。


「先生、これ‥‥‥」


ユウジがタンパク質に偏った料理に顔を引き攣らせる。


「ん? 何かおかしかったか? それよりも頂こう」


当の本人は至っていつも通りといった様子で「いただきます」と言って食事に手をつける。


「いただきます」


毒気を抜かれたユウジも倣って、合唱をして箸を付けた。

昔とちっとも変容のない彼女の料理だったが、シンプルゆえに味の混濁が少ないというのが大きな利点だった。ダイレクトに味覚に伝わってくるようなこの懐かしい味付け。栄養バランスに関してはこの際、目をつぶることにした。


「⁉︎これ‥‥‥」


「おっ、気付いたようだね」


何の変哲もないオムレツを箸で割くと、中から出てきたのは半熟の卵と挽肉のブレンドだった。


「どうだい、わたしもそれなりに成長しているという証だよ」


何も考えていないかのような鉄仮面の下に得意げな表情を忍ばせる恭子。


「たしかに少し驚かされたのは認めます。まあタンパク質のオンパレードには変わりありませんがね」


「まったく可愛げのないやつだな、きみは」



それからは無言で朝食を胃袋に仕舞い込む。

食べ終わった後、使用した食器類の洗い物に関してはユウジが申し出る。

一通り食器を片し終えてから、コーヒーを2つ淹れて恭子の向かいにユウジは座った。2人、向かい合うような形になる。




どこから話しを切り出すべきか。

恭子はカーディガンを羽織って、まだ熱を持つカップの縁部分に親指で軽く触れながら、思案しているように見えた。

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