第10話 それは唐突に
ユウジが家に辿り着いた時、ちょうど用事を済ませた伊地知も下山するタイミングだった。伊地知は、目の前にやってくるユウジと携えていた死骸を一瞥する。
一歩立ち止まって伊地知が何か言おうと口を開きかけたが、結局思い止まったようにその無精髭をまとう唇からは何も発せられることはなかった。
ユウジとしても特に親しい間柄でもなく、むしろ嫌悪している部類に入っているので軽い会釈だけをしてその横を素通りする。
伊地知もそれ以上、何かアクションを起こすわけでもなく、そのまま暗い闇が濃くなる山を降りていった。
玄関先に差し掛かるユウジは振り返る。別れ際の伊地知の面持ちと何か言おうと開きかけた態度が少し気になったからだ。
だがすでに伊地知の姿は影も形もなかった。後ろ髪を引かれる思いになりながら、扉を開けて中へと入る。
まず初めに目に入ってきたのは、ぐったりとした様子でソファに横になっている恭子の姿だった。具合悪そうに額を抑えるようにして目を瞑っていた。
「‥‥‥ん、帰ってきたか」
「ずいぶん長い間、お話をされていたようですけど」
テーブルの上に置かれた空になったカップと、まったく手を付けていないカップを片しながらユウジは訊ねる。
「そうかな? つい昔話に花が咲いてしまったのかもしれない」
「その割にお相手の人は、ずいぶんと硬い表情で山を降りていきましたけど」
「何か、話したのかい?」
「いえ、特には‥‥‥。そもそもオレとあの人は世間話するような仲でもないですよ」
どちらかといえば嫌悪している、とは口に出さない。
「なにぶん口下手なやつだ。人見知りしているようなものに近い。意外に言葉を交わすうちに気が合うかもしれないよ」
「面白くもない冗談です。面白くもない冗談です。あの鋭い眼光と悪人づら、それと口の悪さのどこをどう見れば、そうなるように思えますか。オレには皆目見当もつきません」
そういって肩をすくめるユウジ。
「あまりそう悪くいってやるな、アレでもわたしの中はけっこう気のいい部類に入っているからね」
それを聞いてつい棘のある言葉をユウジは使う。
「言うほど先生に親しい間柄や昔馴染みの人間はいないと思っていますが」
「それを言うなら、きみは親しい間柄の人間はわたししかいないことになるよ」
「オレは別に構いません。仮に一人になっても生きていく術は持ち合わせているつもりですから」
「いいかい、ユウジ?」
恭子は一つ溜め息をついて、どこか諭すような口調になる。
「そこがきみの悪い所だ。割り切るのもいいけど、それだと孤独な人生を歩むことになってしまうよ」
「オレはそれでも構いません」
「わたしが許容できない」
「‥‥‥‥‥‥」
語調を強めて、立ち上がる恭子。わずかに発汗しているところから見ても無理をしているのは明白だった。
「決めた。良い機会だから今の内に伝えておくことにするよ」
不穏を感じさせる言動に、訝しむような視線をユウジは送る。
手を伸ばせばすぐの距離に彼女の顔があった。
「わたしに残された時間はそう長くない」
「急に何を‥‥‥」
「つまりは、きみと一緒にいられる時間も限られているということだ」
唐突に突きつけられた残酷な告白に、一歩たじろぐユウジ。
「困惑しても無理ないかもしれないが、よく聞いてほしい」
恭子がユウジの身体を引き寄せて優しく抱きしめる。常日頃から好ましいと感じていた白銀に染まる髪に顔の一部が触れた。
「この身体は毒に侵されている。もう施しようのない毒に、だ。そのせいでここ最近は身体があまりいう事をきいてくれなくてね」
座学中心の生活になっていた主な要因に合点がいった。
「‥‥‥あとどれくらい‥‥‥ですか?」
「それは分からない」
きっぱりと恭子は明言する。
「わたしにとっての最後の日は、5年後かもしれないし、1年後かもしれない。もしかすると明後日かもしれないし明日かもしれない。ただ一応はこれでもわたしの身体だ、そう長くないのは感じ取っている」
「そう、ですか‥‥‥」
動揺を隠そうとするユウジは、ただ素っ気ない返答をするにとどまる。
本当は訊ねたいことはいくつもあったが、どれも喉の奥で引っかかって上手く言葉にできなかった。
「だからね、わたしは考えた。きみをこんな人里離れた場所に置いておくのではなく、より多くの人間関係を築くことができる場所へ送ろうと。実は、その手筈も着々と進めている」
「あの男‥‥‥伊地知の助けを借りて、ですか?」
「悪い話じゃないだろう?」
その問いかけに「はい」も「いいえ」も意思表示できずにいるユウジに、恭子は責め立てることもなく利点を語る。
「むしろわたしという人間だけでなく、もっと他の人間との交流を深めるべきだ。そうすることで必ず、ユウジにとっての将来に大きな転換点をもたらしてくれるはずだ。外の世界を知って、見て、体験して、成長をもたらして前へ進む———」
現実感のない話を心ここに在らずの状態で、ユウジは理解した。
彼女は嘘をつかない。
「まあ知っての通り、わたしはそれなりにしぶとい人間だからね。そう簡単に居なくなりはしないよ」
だから安心するといい、と言外にそう言い含める恭子はこの話に一区切りつけたようにする。背後に回された腕が外されて、恭子が離れていく。
ユウジとしてはそれ以上、軽々しく訊ねるような気分でもない。放心に近い状態でただその場に突っ立っていた。
重々しい場の空気を和ませようとしたのか、恭子が話を振る。
「そういえばさっき手に持っていたのは、仕留めた獲物かい?」
キッチンの方へ視線を送ったユウジが、遅れて小さく頷く。
山腹からここへ戻ってくる途中の湧水で丁寧に下処理を終えた食材は、片された食器と一緒にダイニングキッチンで調理されるのを待っていた。
「それじゃあその命を頂くことにしよう。調理は任せてもいいかい?」
返答はせず、ユウジはただ機械的に頷きを繰り返す。
「冷えてきたし、シチューはどうだろう?」
「‥‥‥わかりました」
やっとの思いで喉の奥から絞り出した拙い返答をして、ユウジはキッチンへと足を向ける。
その背中に向かって、恭子が「ありがとう」と声をかけた。
果たしてその『ありがとう』は何に対して向けられてのものだったのか。
ユウジは余計な考えを頭の隅に追いやって、邪念を取り払うように調理に神経を集中させた。
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