第9話 霧散する命


オレは雲に覆われた薄暗い空を見上げた。


夕刻前でありながら、秋澄む霜降というべきか。大気が澄み切ったように周囲の何気ない物音がはっきりと耳に届、もうあと半刻もすれば夕闇が光を呑み込む情景がありありと想像できた。


「‥‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

「——————」

「——————」



先生と伊地知の行われている会話内容が気にならないわけじゃない。

今ここでこうして息を殺して聞き耳を立てていればあるいは‥‥‥。しかしそう思い留まって(いや、どちらかといえば諦めや観念したといった意味合いで)玄関先からひとまず距離を取った。



オレは目の前の短い畦道を抜けて、山の中腹を目指す。

風を切る音だけが心地よく感じられた。

目的の場所に差し掛かる頃にはすでに心の奥底で感じていた鬱屈とした感情は消え去っていた。


弾む息を整えながら、手頃な木の幹に寄りかかる。

雨の匂いを感じ取って、手のひらを空へ向けると、しばらくして小粒の雨が一粒、革グローブに付着して滑り落ちた。地面へと急落下する雨粒。それをもう一度器用に手で包み込むように優しく掬い上げるようにして付着させて、素早い動作で口元へ運んだ。


「‥‥‥水」


さながら乾き切った喉元を潤す雫というわけもなく、むしろ余計に欲求を刺激される事となった。そう都合よく、山頂からの流水や渓流する小川もない。



仕方なく、以前行ったサバイバルの経験を生かして飢えを凌ぐが如く、毒性の持たない茎化の植物を見繕って口にした。疲労している味覚には、煮沸していない植物は青臭さだけを伝えた。



植物達から得られるごく少量の水分を身体に浸透させながら、あわよくば湧水でも見つけられないかと散策と摂取を繰り返す。


「‥‥‥‥‥‥」


丁度そのタイミングで、一羽のウサギが茂みから顔を出した。

成熟期に近い体型のそのウサギは、オレという存在にまったく気が付いていない。土の匂いを嗅ぐような様相で、這うように移動を続けては口元をもぐもぐと動かす。



その仕草に思い当たる節があった。不正咬合にならないよう正常な歯並び予防のため、歯の長さを適切に保つために固形物を用いて研磨している、と本で読んだ覚えがある。



オレは無防備な獲物を前に、隠し持っていたダガーナイフを後腰から抜き取る。

今晩のおかずにしよう、ただそう考えていた。ウサギの後方から忍び寄る。



人間と獣の特質すべき異なる点は、前者は視覚によって70%以上の情報を取得し

ているのに対し、獣は音によって情報の大半を取得しているということだ。つまり音に敏感で、探知能力も距離が近くなればなるほど精密さを増す。


「———!」


物音を立てないように迫るオレに、気づいた獲物が俊敏な動きで危機を脱しようと走り出す。その反応初速は反射に近いものだった。

だが———。


「悪いな。


質量・密度・エネルギーという観点においてその差が何十倍も開いている敵から身を守るというのは、無謀といってもいい。


それこそ高度な知力ないし知能という武器を兼ね備えた知的生命体の存在、原生生物の尺度から語れば『人間』という固有個体が劣勢側であるならば可能性もあるのではなかろうか。そういった意味合いでいえば今現在、狩られる側のウサギには万に一つも生き延びる未来はない。


「そう暴れないでくれ」


暴れる獲物を力で押さえつけて、せめて苦しませないように頸動脈に狙いを定める。命乞いの悲鳴一つさえ発しないその生命。

不意に目と目が重なり合った。



オレは、ダガーナイフを振り上げる。一筋の木枯らしが吹いた。

その時、2つの小さな気配がした。


———振り返る。子兎が2羽、そこにいた。


茂みから顔を出して、じっとコチラを見つめる無機質な4つの瞳。たった今しがた息の根を止めようとした個体のおそらくは子どもだろう。

オレは教えを思い出す。



先生からこのダガーナイフを譲り受けた際に、教わった教訓を。


『生物の命を頂くという行為について同情や憐れみを向けてはならない。対等の存在として敬い、そして己の血肉として取り込み生涯、己の細胞に刻みつける。それが背負うべきせめてもの業だ』




静寂が伝播する音を呑み込み、残酷な食物連鎖という世界———正常な世界を構築させた。


オレは一度瞑目して、次に目を開けた時には持っていたダガーナイフを躊躇なく振り下ろした。鮮血が溢れる。絶命する感触が掌を通じて伝わってくる。


生気のなくなった姿を最期まで見守る事なく、すでに2羽の子兎たちはその場を離れていた。その後、機能停止したウサギの動脈に切り込みを入れて血抜きをし終えてから帰路につく。


霧散した血の匂いは絶命した魂と共に、刻の流れと共に薄れゆくだろう。

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