第8話 訪問者

丸二日、恭子は眠っていた。


「身体の方はもう大丈夫ですか?」


調理したうどんを運びながら、ユウジが問いかける。



「ああ。心配をかけてすまなかったね」


「調子が悪いようなら、オレに気を遣わないでください」



そう言って、うどんの載ったお盆を恭子の膝の上に置く。



「美味しそうだ。きみの分は?」


「先に頂いているので気にしないでください」


「じゃあ、遠慮なく頂くことにするよ」



恭子は似つかわしい上品な仕草でうどんを啜る。それから味わうようにゆっくりと口の中に含んでから飲み込んだ。


「何をそうやってジッと眺めている? わたしの食事する姿がそんなにも面白いのかい?」


「いや、そういうわけじゃ‥‥‥。残っている洗い物を片してきます」


そう言葉を濁しながら、立ち上がる。そういえばこうやって彼女の食べる様をじっくりと観察するのは初めてかもしれない、とユウジは独りごちた。




一日の半刻ほど過ぎた辺り。玄関先から訪問者の気配がした。

ユウジは読んでいた考古学書の手を止めて、ソファの上でまだ休んでいた恭子に目配せを送った。


恭子は何をするでもなく、固まったまま動かない。いつものように自然体だった。ユウジはより一層、警戒心を高くする。

ノックや応答もなく玄関扉が内向きに開けられた。その瞬間、風に運ばれて微かにタバコの匂いが鼻先を掠めた。


「‥‥‥邪魔するぜ」


現れたのは黒いトレンチコートに身を包む壮年とした風貌の男だった。髪はボサボサのまま無精髭が特徴的。ダンディズムを思わせる印象を与える。


「やあ、伊地知。わざわざ申し訳ないね」


恭子が親しみの込められた引用を使って、その男を迎え入れる。

伊地知は無愛想な態度で、恭子へと視線を送った。


「毎度毎度、コキ使ってくれてありがとよ」


不貞腐れたように吐き捨てる。


「旧知の仲じゃないか。邪険にしない方がお互いのためでもあるだろう? それに伊地知、きみはわたしに借りがあったはずだ、違うかい?」


「‥‥‥‥‥‥」


妙な言い回しをされて押し黙る伊地知。

その苛立ちの矛先はユウジへと向けられた。


「このガキ、まだ手元に置いているのか。あまりいい趣味とは言えないぞ、恭子。おい、ガキ。念のため忠告しておくぞ、こんな怖い女のところからさっさと逃げ出した方が身のためだ」


伊地知との対面はこれがユウジにとって初めてというわけではない。

定期的な来訪客として顔見知りではあった。


「余計なお節介、痛み入ります。少なくともあんたよりは先生の役に立てるから重宝される自信はあるから、心配しなくても結構です」


だが旧知の間柄というだけで、ユウジには理解できない信頼関係のようなものを構築しているという点に関しては、イケ好かなさを心の奥底に感じさせていた。


「チッ、可愛くないガキだ。当てこすりの皮肉がなお誰かに似て癇に障りやがる」


伊地知がガシガシと頭を掻いて恭子へと向き直る。


「こんな居心地の悪いところは、さっさと用件を済ませて退散するに限る。頼まれていた例の件、情報を持ってきた」


「‥‥‥ッ! 何か分かったのか?」



一瞬、感情を覗かせた恭子が訊ねる。


「例の件?」恭子と伊地知。二人の間でしか共有されていない内容を含めて、ユウジは眉を顰めた。


「ああ、少しだけだが。それよりも‥‥‥」


伊地知が目線をユウジへと移した事で、恭子もその意味するところを理解する。


「あ、ああ‥‥‥そう、だな。ユウジ、ここからは大人の会話だ。少し外していなさい」


「‥‥‥はい」


拒否権はない。

部屋の端に掛けてあったジャンパーを手に取って、それを羽織るユウジに恭子がいった。


「小一時間ほどで済む。真っ暗になる前には戻っておいで」




ユウジは頷いて、玄関の扉に手をかけた。

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