第4話 麻痺
先生の教育はいつも大雑把でもあり緻密でもあった。
彼女曰く、技能は心身に刻みつけるもので、知識は脳に刻みつけるもの‥‥‥、だそうだ。
身体と脳の限界領域、つまりメモリを毎日ミリ単位で引き上げること、その匙加減と見極めが非常に大切らしい。
だから、学びや勉学に関してはとにかく脳に刻み込む作業を繰り返し行い、大量の情報を脳へ送り込むことを是とした。
その際、要点となる部分に関してはそのほんの一部分だけを覚えようとするのではなく、形態として頭の中へ入れることを推奨された。彼女の経験則として、要所のポイントを全体の流れに組み込むことで、忘却した記憶の中から掘り起こす手助けをしてくれるとのご高説だ。
また技能面に関しては、身体と精神が伴っていなければいざという時、本領を発揮することができない。そのための訓練として、身体の節々の筋肉繊維がどれだけ悲鳴を上げようともぶっ倒れるまで身体を鍛える。もうダメだ、と心が折れそうになった時ほど強い意志を持ってやり遂げる。そうすることで一人前の大人になることができる、との教えだった。
* * * * * *
「いいかい、ユウジ。日々の積み重ねの鍛錬は力そのものだ」
「‥‥‥ぐッ‥‥‥!」
保っていた均衡が徐々に崩れ、ユウジの制空圏が侵食され始める。なんとか均衡を保とうともがきながら後退して適切な距離を取ろうと試みる。
「そして知識は強い武器にもなる」
「‥‥‥ッ!」
泥濘んだ地面に左足が取られてバランスが崩れる。
一閃。
恭子の右拳が一瞬の隙をついて下から上へ。ユウジの顎先めがけて飛んできた。
「これで———詰みだ」
辛うじて目線だけで捉えた、顎先の寸止めされた拳。
「‥‥‥参り‥‥‥ました」
ユウジはその拳を見据えながら、白旗をあげて尻餅をつく。
「はっ、はっ、はっ、ふーっ」
脱力して、無酸素運動で疲弊した肺に酸素を送り込む。
深呼吸しながら見上げるといつもと同じ余裕の表情をした彼女の姿があった。
「‥‥‥?」いや、しかしよく観察すると違和感のようなものを感じた。
生まれつき色白の肌をした彼女の顔色が、微かに青白くなっているようなそんな微弱過ぎる変化。
「どうかしたかい?」
視線に気づいた恭子が問いかける。
「いえ、なんでもないです」
ほんの僅かながらも初めて可視化させた疲労の色を伺わせる恭子に、内心戸惑いながらも小さい達成感のような嬉しさが込み上げる。
「もう一本お願いします」
ユウジは声を弾ませて勢いよく立ち上がる。それから構えを取った。
「おや、今日はやる気に満ちているな」
少年の殊勝な態度に感心したのか、恭子が応じて隙のない構えを取る。
彼女は常に実践形式を繰り返しながら、その最中に助言や問いかけをする。それは訓練中や勉学中であっても変わらない。
一方で何かを行う傍ら、もう一方で違う思考展開を要するシチュエーションを意図的に作り出す。そうすることで柔軟な対応能力を身に付けることができるとの教えだった。
「目線を一点に集中させるな。俯瞰した目でわたしの全体像を捉えなさい」
「ハッ‥ハッ‥ハッ‥‥‥」
初めの段階では息つく暇のない攻防に対処するだけで精一杯だった。
「集中力が途切れかけている。今のきみの身体機能では負担を軽減することも念頭に置いたほうがいい」
「グッ———、は‥‥‥い」
次第に言語化された羅列を理解するための脳のリソースが拡張され、返事をすることも可能になった。
「そうじゃない、もっとわたし単体ではなく周囲全体を意識の外から捉えるような感覚で。それと打撃は点ではなく線を意識しろと何度言わせる」
「現在進行形で試行錯誤しています、先生。あと後者についてはよく意味がわかりません。もう少し詳細な説明をお願いします」
「むっ、そうか。打撃のポイントを一点に絞るのではなく、目線のフェイントも活用してもっと広範囲の———」
目まぐるしい攻防戦を行いながら、理解できない点については質問をする余裕まで生まれた。それから言われた指示に従って、今まさに行われている組み手の中でそれを実践する。
そうやって月日が流れるにつれて、着実に出来る事・やれる事の幅、ユウジの中の限界値が引き上げられていった。
「組み手で、先生から一本取るにはどうすればいいですか?」
座学中、ふと疑問に思った事柄を口にする。すると珍しく目を丸くした恭子が分かりにくい『喜び』という感情を滲ませながら答えた。
「それはなかなか難解な質問だ。今のきみが、わたしより優っているのは身長くらいなものだからね」
「たぶん生活面、とくに料理勝負なら絶対に先生には負ける気はしませんけど」
少年の思わぬ反撃をさらりと躱して話を先へと進める恭子。
「まあそれは置いといて。真面目な話、ユウジがわたしから一本取りたいと思うに至った経緯をはじめに訊ねてもいいかな?」
「別に改まって言うほどの事でもないですよ。ただ単純に先生に負けっぱなしは男の沽券に関わるというだけの話で‥‥‥まあ最終的には女性を守るのは男の役割というわけだから、そのまあ、何ていうか‥‥‥」
口ごもりながら、その先の言葉を上手く形にできないユウジに対して、急かす事なく待ち続ける恭子。
「‥‥‥オレも一人の男として、先生に守られてばかりはいられないから、さ」
そう言って照れくさそうに頭を掻く。
恭子は嬉しそうに目を細めた。そして独り言のように何かを呟く。
「‥‥‥え? 今なんて言いました?」
「いや、何でもない。それよりも、わたしから一本取るためのコツをひとつ伝授しよう」
それを聞いて少年の目の色が変わる。
「そんなものが⁉︎」
食い付き気味で前のめりになる。
「なに、そんなに難しい話じゃない。思考展開速度を反射の域にすればいいだけだ。手数を最小限に留めつつ、その思考速度が反射の域に達すれば相手の次の行動も微細な動きひとつで容易く予測出来る。つまり必ず先手を取れるわけだ」
「‥‥‥‥‥‥」
「前にも言ったが、先手必勝は勝負事における絶対の勝ち筋でもあり定石だ。それは試合であっても賭け事であっても恋愛であっても変わりはしない。相手の思考を読み切り行動を予測、先回りして戦略を実行し絡め取る。話が長くなってしまったがつまりは、これがわたしから一本取るためのコツだ」
「はあ‥‥‥」
「ん? なぜそこで溜息をつく。これほどの出血大サービスだぞ」
彼女は至って真面目に教えを乞う生徒に対して答えを述べているつもりなのだろう。いや、だからこそタチが悪い。ユウジは頭を抱えたくなった。
今までも薄々そうかもしれないと思いつつ実際には目を背けてきたが、やはり先生は偏見的な考えを持つ人物なのかもしれない。
ユウジは真っ直ぐに目の前の彼女を見据えた。
「ちなみに先生は、今おっしゃった机上の空論を実際に試行している‥‥‥?」
「当たり前だよ。しかし思考速度が反射の域には到達はしていない。だから思考速度が反射の域に達する事ができたなら、わたしに一本取れると明言している」
ユウジは天を仰いだ。
先生の教育はいつも大雑把でもあり緻密でもあった———。
だがそれは極端にいってしまえば、常人には理解できない範疇と括弧書きされる部類のものであった。いやその可能性があったと今をもって改めて認識させられたということだ。
また、これまでを含め、彼女の言動すべてをありのまま受け入れてしまいそうになる己自身の『慣れ』という概念がほんの少しだけ恐ろしくもあり、同時に嬉しくもあった。
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