ガリアⅩⅦ ~縁の響宴④
1.
「これが私の知る二人の話だ」
木製の重厚感あるテーブルを挟み二人は向かい合っていた。重苦しい雰囲気の中、ベラル・レイブラリーは静かに息を吐き出すとエアリィ・エルラドを見つめる。
どれくらい時間が経っただろうか、長い沈黙から少女はゆっくりと頭を下げる。
「話していただき、感謝いたします」
「シェラはあの時と自分を今に重ねてしまっているのかもしれないな」
「たとえそうだとしても、その頃とは違います。違うはずです!」
唇を噛み締め、握り締めた拳を見つめながら少女は言葉を吐き出す。
「そうだな。変わらず苦労しているだろうが、ソールも大きくなったし、クロッセ君も戻って来てくれている。そしてなにより最強のお節介がいるか」
少し意地悪くベラルは笑いかける。
「お節介とは、だれのことですか!」
「さてね。それでどうするのかね?」
「……どうといわれましても、いまのあたしはエジノアの家に殴り込みをかけて、ぶん殴ってやりたいだけです」
「それでお主は気が済むのかのう?」
ベラルは目を細め言った。
「わかっています、師よ。あたしが勝手に怒りをぶつけたいだけなのですからね。それにシェラがそれを喜ぶわけがないことくらい」
五十一区というだけでなぜ差別されるのか。それだけでも腸が煮えくり返るようだ。彼らが何をしたというのだろう? 彼らも必死に生きているだけなのである。
怒りとともにシェラの言葉やベラルの話が頭の中でぐるぐると渦巻いていっているのだろう。考えれば考えるほど思考は空回りしてしまいまとまらなくなっていく。正解を求めようとしても答えはどこにもない。あるのは仮定の話ばかりなのである。
「結果があるだけで、どれが正しかったかなど誰にも判りはしない。二人にとって何が幸せだったのかなどはな」
「それでも……悔いはのこります……」少女はひとり呟く。「だからってシェラがこのままでいいとは思いません……」
「何をするにせよ、お手柔らかにな」
「それはどういう意味ですか?」
「今はお主も悩んでいるかもしれないが、きっと何かしでかすであろうからな」
「しでかすとは聞き捨てなりません!」
「ま、その元気があれば大丈夫だな。お主まで深刻に悩むなかれ、支えてくれるお主まで暗い顔をしていたらシェラも気に病むだろうし、周囲も不安になる。笑顔でいてくれた方が安らぐからな」
「そうなのでしょうか?」
シェラは笑っているように見えたが、無理して笑っているだけで、痛々しく感じてしまう。彼女には心から笑顔でいて欲しい。
「暗く沈んでいたりギスギスしていては始まるものも始まるまい?」
「たしかにそれはそうですが……」
「まあ、私達よりもお主らの方が頼りになるだろうからな」
ベラルはそう言いながら不満げな顔をした少女の頭をなでるのだった。
夜が訪れる。
夕暮れに一瞬だけ砂雲が見せる様々な表情が消え去り空は暗く何も見えない。昼間の焼けるような熱気が過ぎ去り少しずつ過ごしやすくなってきている。
ここ数日マサの工房で寝泊りしていたクロッセはハーナに尻をたたかれるように追い立てられ、マサの家でやっかいになっている。水を借りて身体を拭き髪を洗ったクロッセは久しぶりにスッキリとした気分でこぢんまりとした庭先に出ると、そこにあった椅子に腰を下ろしぼんやりと夜空を見上げる。
五十一区は不便なところだ。
特に水事情は最悪だ。水がふんだんに使えた旧区と違って水浴びすらなかなかできない。だから水便のいい工区や少女の館でシャワーや湯浴みができるとホッとする。
工房から少し離れたところにあるマサの家は工の民の平均的な家よりも少し大きく、ささやかではあったが庭と呼べるものもある。ハーナはがらくた置き場といっているが菜園の脇にマサの作ったテーブルと椅子が置かれている。
「大先生、ボーっとしてどうしたよ?」
「ああ、ちょっと夜空をね。マサさん」
「何にもねぇじゃねぇかよ。この時刻の空はただ真っ暗でよ。ほれ、飲めよ」
マサはクロッセの向かいに座ると蒸留酒の入ったビンを渡し、自分は一本一気に飲み干すのだった。
「やっぱり風呂上がりはこれだなぁ」
口元を拭いさらにもう一本、コルクを抜くのだった。
クロッセも頷きながら一口あおると、次の瞬間にむせた。
「なんでぇ、先生よぉこれっくらいの酒で」
「き、きついですよ。これ」
のどや胃が焼けるような酒だった。
「工の民秘蔵の酒だぜ」
「これって、工業用アルコールじゃないでしょうね?」
「アルコールだったらなんだっていいって、そんなの飲むやつもいるけどな、これは別だぜ。そこらのぬるい酒とは段違いの強さだからな」
瓶の酒を肌に塗るとひんやりとする。医療用のアルコールとしても使えそうな酒なのに、マサは強い酒をケロッとしながら水でも飲むようにビンを空にしていく。
クロッセはチビチビと舐めるように酒を飲むのと対照的だった。ぼんやり見上げる空は相変わらず何も見えないが、酔いだけは回ってくる。
「ねぇ、マサさん。なんでシェラは僕の世話なんて焼いてくれるんでしょうね?」
お隣さん同士になったあの時から、シェラは食事の準備だけでなく部屋の整理整頓までやってくれている。彼女がいなければ本当に自分は砂漠の砂になっていたと何度思ったことだろうか。
「好かれているんじゃねぇのかい。いいことじゃねぇか」
「……そうだとしても、何でなのでしょう?」好かれている意味が判らない。「お金もない。何も一人じゃできないし、格好いいわけでもない」
「まあ人を好きになるなんてのは、人それぞれだしな。そういうこっちゃなくてシェラ嬢ちゃんは先生のことを好きになったんだろうさ」
「はあ……」どこか良い所などあったのだろうか?
「まあなんかいいところがあったんじゃねぇのかい?」赤ら顔ながらも納得いかない表情のクロッセにマサは酔った勢いもあるのだろういつもより饒舌に話しかけてくる。「出会いがしらとかな。まあおれとお嬢なんか、そういう意味じゃあ凄まじい出会いだったよな」
「そ、そうですね」
「だからよぉ、先生には先生の魅力があったってことだろうよ」
「それが判んないんですよね」
「シェラ嬢ちゃんに訊いてみりゃいいだろう」
「そ、そんなこと出来るわけないでしょう!」
「まあ男ならガツンといきゃいいよ。おれみたいにな」
「マサさんみたいにですか?」
「そうよ。おれだってあいつに惚れられて一緒になったんだからよ」
「ハーナさんがですか?」
「おうよ。おれにべた惚れってやつよ」
腕組みし胸を張るマサ、その瞬間、警報の鐘が鳴ったような金属音が響く。頭を押さえテーブルに突っ伏すマサの後ろに金属製の盆を手にしたハーナが立っていた。
「なに恰好つけてんだい。結婚してくれって、泣いてすがりついてきたくせにさ」
ハーナは怒っているのか笑っているのか判らない口調でテーブルの上に煮豆と追加の酒瓶を置いてから、家の中に戻っていくのだった。
「あんた、飲みすぎんじゃないよ!」
「わーってるよ。まったく、あいつは手加減がねぇやな。いつかおれの頭が割れるぞ」
その言葉に乾いた笑いしか出てこないクロッセだった。彼は出来たての煮豆を口にしながら飲み慣れない酒をチビチビと飲む。
「まったくあいつは容赦がねぇ」マサはまだブツブツ言っていた。「まあいいやな。恥かきついでだから、言っちまうけどよ、先生。あいつが言ったことは本当だよ。みっともねぇ泣きっ面見せながらおれはあいつに結婚してくれって、言ったんだよな」
豪放快活なマサを見ているとそれが信じられなかった。
「そ、そうなんですか? マサさんは強いし凄いからみんなが付いてくるんだと思っています」
クロッセの言葉にマサはそんなことはないと言う。
「おれとあいつは幼なじみってやつでな。小さい頃から家も隣同士だったのもあってズーっと一緒だったし、見習工の時の師匠があいつの親父さんだった。おれが一人前だって認められて自分の工房持ってからも何かとあいつは面倒見てくれた。それがその時は当たり前のような生活だったんだよな」
照れくさいのかクロッセとは目を合わせないように彼は話をしていた。
「でもなぁ先生。当たり前だったものが崩れちまうんだ。いとも簡単にあっけなくな。おれは一人前で工房を持っていても、若造で誰も相手になんかしちゃくれねぇ」
吐き捨てるような口調でビンをまた空けてしまう。
「何かあったんですか?」
「あいつんところの親父さんが亡くなってあいつんところの工房はつぶれちまったんだ。間の悪いことに借金を抱えてな。そのために工房も売り払って家を出て行かなくちゃならなくなっちまった。そんなあいつんところを助けようとして、おれは自分の作ったもの売り込むんだが結局は商人に騙されちまって金を作るどころか、おれ自身も借金を抱えちまう羽目になっちまった。情けねぇ話だよ。そん時はおれも首をくくらにゃならねぇかと思ったくらいだ」
「そ、そんな大げさな。それにハーナさんのためにマサさんも頑張ったんでしょう? 情けなくなんてないですよ」
「本気でそう思ったんだよ。情けなくて、情けなくてな。それなのに助けるつもりがあいつに救われたんだよ。自分の明日すらわかんねぇのにあいつはおれを励ますんだぜ。おれの腕ならまたやり直せるってな……」
鼻をすするような音がした。
「おれはよぉ、そんとき、心底あいつがいねぇと駄目なんだって思ったよ。あいつの借金も背負うから、一緒になってくれって本当に泣きながら頼んだよ。本当に情けねぇし恰好悪いプロポーズだったがよ」
「それでもハーナさんはついてきてくれたんでしょう?」
「ついてきてくれたんじゃねぇよ。おれが連れてこられたんだ。先生は自分じゃ何もできねぇっていうが、おれもそうだ。家事なんてのはさっぱりだし金もねぇ。おれが意地はったからな。それでもあいつがいてくれたから、おれはいまでも工房をやっていられたんだよな。こんな意地っ張りで名工だなんておだてられたりすりゃすぐに舞い上がってしまうようなアホな男に、あいつはついてきてくれたんだからよ」
「感謝しているんですね」
「あったりめぇよ」
また豪快にビンを空にする。どう見ても飲み過ぎだった。
「先生はどうなんだよ?」
「僕も……そうですね、シェラがいてくれることが当たり前になっている。いなくなるなんて考えたこともなかった。そしてこんな生活がいつまでも続くんだって気がしていました」
「人はどこかで変わらざるをえないんだよ」
「それが僕にはよく判らないんですよ。どうして無理に変わろうとしなければならないんですか?」
「どうしてもだよ。変わらねぇものなんてねぇんだよ。そうだろう? おれがお嬢に出会ったようによ、先生だってそうだろう?」
「確かに……僕もエアリィに会って変わったことはあります。自分も気付かないうちに。今では五十一区だけでなく商区や工の民に知り合いが増えました」
世界がさら広がり、取り巻く環境は日々変化して行く。
「そういうことだよ」
「でも……」
「まだ何かあんのかよ?」
マサの目はすわっていた。なんか呂律が回っていないようにも見える。
「たとえそうだとしても、僕はシェラにふさわしいでしょうか? その日暮らしのような生活でいつもフラフラしている。面倒ばかりかけて何もしてやれないそんな僕が」
「今はお嬢と店やってんだろう? ちゃんと稼いでるって聞いたぜ」
「あれはエアリィが……共同経営だっていってくれているけれど、頼まれた機械とか造っているだけであとは何もしていません。それにもらったお金は全部サウンドストームのために使ってしまっているし」
「全部かい?」
「エアリィからもらったお金は彼女のために使おうと思って」
「ほお、そういうことだったのか」
ウォーカーキャリアを維持するのには金がいるが、そのための費用がどこからきているのかマサはようやく理解した。
「ウォーカーキャリアを動かすのが僕の夢でした。その夢かなえてくれたエアリィに少しでも返したいなと」
「まあ動かすだけじゃすまなくなったが」工の頭は瓶を開けながら笑った。「好きなことやっていると楽しくて仕方がねぇからな」
「そうでしょう。そうでしょう」
「それでもまあ、シェラ嬢ちゃんのこともちったぁ見てやってもいいんじゃねぇか? ハーナが心配していたぞ」
「いつも迷惑かけてすいません。熱中すると周りがどうしても見えなくなっちゃって……」
「まあ、おれはいいがよ。そういうこっちゃねぇんだよ。今回のことで周りはまたとやかく言うかもしんねぇけどよ。そういうのを決めんのは誰でもねぇ、先生とシェラ嬢ちゃんだろう? 確かに先生は財はねぇは、見た目も野暮ったいがよ」
「そんなことは判っていますよ」
「ならいいじゃねぇか。シェラ嬢ちゃんが先生に惚れ込んでいるとしたら、先生の外見的なものじゃなくハートなんだからよ」
「心ですか?」
「そういうことじゃねぇのかい?」胸をドンと叩きながらマサは豪快に笑った。「喜びも苦しみもいろんなことがあるよ。幸せなんてのは一時でつれぇことの方が多いかもしんねぇけど、おれはあいつと一緒になってよかったと思っているよ。あいつが支えてくれたんだよな。シェラ嬢ちゃんにとって先生がそういう存在なのかもしれねぇ。悩んでたって始まらねぇやな。お嬢じゃねぇが行動しなけりゃ続きはねぇよ」
「いざとなると何もできない……情けないですよね」
「そんなの知らねぇよ。それに格好いいやつなんか見たことがねぇよ」
そう呟いた途端、頭を支えていたはずの右腕の力が抜けマサは顔面をテーブルにぶつける。慌ててクロッセがマサを覗き込むと彼は豪快にいびきをかき始めるのだった。
それに気付いたのだろうか、ハーナが現れ肩を貸しながらマサを引きずるように家の中へと連れていく。その様子をぼんやりとクロッセは見ていた。
自分とシェラもこんな感じになれるのだろうか?
クロッセも飲みすぎたのだろう。焦点の合わない目で座り込んでいた彼をハーナは客室へと連れて行った。
「まったく先生、頑張んなさいよ」
おぼつかない足取りでベッドに倒れ込んだクロッセにハーナは声を掛けるが、すでに寝息を立てていた彼には届いていなかった。
エアリィは日が沈み明かりもまばらな道を急ぎ足で戻った。
「お帰りなさい、エアリィ」
シェラが寝ている寝室を覗き込むと、ベッドから身を起こしシェラが微笑んでくれる。
出された食事もちゃんと食べてくれて、昨日よりも体調は良くなっているとマーサは言っていた。
「どう?」それでも訊ねずにはいられない。
「もう大丈夫よ。マーサさんにも迷惑かけてしまったし、ごめんなさいね」
つとめて明るく振る舞っているようだったが、声はいつもより張りがなくて弱々しく感じてしまう。
「今日は遅かったのね。何かあったの?」
「仕事も全部、今日はお休みにしたわ」
「どうして? もしかして私のために? それにどこに行っていたの?」
「ベラル師のところ」少女は謝る。「ごめんなさい」
「そうか……知られちゃったか」シェラはただ微笑んでいる。「ベラル師に先こされちゃったかな」
「あたしが勝手に聞きに行ったの。本当にごめんなさい」
「でも、その方が良かったかな」
自分から話したとしても、エアリィが全力でエジノアのところへ走って行ってしまうのが怖くて、だいぶぼかした話し方になってしまいっていただろう。客観的に冷静にベラル師に語ってもらった方が良かったのかもしれない。
「……あたしってそんなにお節介?」
「お節介か」シェラは笑う。「そういう言い方もあったわね」
「ひどい。シェラはどういうつもりだったのよ」
「秘密。でもそれがあなたなのよね。私なんかのために」
「そんなこと言わないでよ。シェラはあたしにとっても大切な、大事な友達なのですから!」
「ありがとう」
「ねぇシェラ。シェラはクロッセのことが好きなのでしょう?」
「好きよ」
迷うことなく答えが返ってくる。
「愛しているの?」
「……そうね。この気持ちが愛ならば」胸元に手を当て彼女は頷く。
「どうしてクロッセにいわないの?」
「どうしてかな……、やっぱり怖いのかな。今この時が幸せで、このままずっと続けばいいのに……言葉にすることでそれが壊れてしまうのが」
怖い。シェラはそう呟いた。
「こわい?……それでいえないの? いわないままで終わっていいの?」
「あの人は戻って来てくれた。それだけで十分」
あの人といることでひどく沈んでいた心が救われるようだった。父の生きていたころに戻った感じにも似ていたが、それは違う。明日が楽しいと思えるようになっていたのである。
だからあの人がいない日が続くと心にぽっかりと穴が開いたようで寂しかった。
「どちらかというと、シェラの方がクロッセを支えている気がするけど?」
「そう見えるかもしれないけれど、支えられていたのは私の方、挫けそうになっていた私はあの人がいてくれたから一緒に頑張れた……そんな気がするの」
「いっしょにか」
「そうね。家族じゃなくても、一緒にいるだけで安らげるんだなって」
「ベラル師やエジノアの人ではダメだったの?」
「ノルデアもいい人よ。一緒にいると楽しかったし……ベラル師は私のことを気遣い、手を差し伸べてくれた。私にはその手を握る資格はなかったけれど……」
「でも……それはシェラが、シェラが手を離してしまったからじゃないの? 届くかもしれなかったのに、そのまま手をとり合って、つないでいけたかもしれないのに」
「……」
「あっ、ごめんなさい」
「いいの……あなたの言うとおりよね……。でも、私にも意地があった。誇りも」
「誇りも意地も大切なものだけど、それだけで捨ててしまってよかったものなの?」
「……いいわけがない……」唇を噛み締める。「でも、父の言葉はまるで呪いのように私を束縛する」
「そんなことないよ。あたしは助けられた。教えてもらった。紙飛行機とともに空を飛ぶことを」
「それでも、私はノルデアを苦しめる結果になった。そんなものを持った私はベラル師の弟子になんてなれなかった」
「シェラの力は人を傷つけるためのものじゃない。助けるためにあるのよ。だってシェラは教えたいのでしょう。子供たちに。だったらシェラはあたしがそうだったように子供たちに夢を教えられるよ、絶対に」
「ありがとう、嬉しいわ。エアリィ、ありがとう」
少女の言葉にシェラの目から涙があふれ出してくる。
「だから、あきらめないで、シェラは一人じゃないのだから」
少女は初めて出会った時にシェラがしてくれたように、彼女を抱きしめる。
優しく、ぬくもりを感じ合えるように。
シェラのために何ができるか判らないが、それでも少女はある決意を胸に走り出した。
朝、館を出るとまずはシェラの着替えを取りに五十一区へ向かう。
「ソール!」
シェラの家を覗くとソールがいた。彼がいたことは好都合だったといえる。
ソールの姿を見た途端、急に怒りがこみ上げ大声を上げてしまう。少女の声があまりにも大きかったのでソールがその場で飛び上がったくらいである。
「な、なに、どうしたの?」
ソールが振り返ると少女の拳が目の前にあった。感情のままに身体が動きだし言葉をぶつけていくエアリィであった。
「あんたを見たらなぐりたくなったの」
「えっ? えっ! えぇ~っ!」
訳も判らず目を白黒させる。
「ソールがあいつを連れて来たから、こんなことになるのよ」
「と、トーマ先生のこと?」
「そうよ! おかげで大変なことになっているわ」
「大変って、姉さんは?」
「ソールはなにがしたいのよ! 姉弟なのでしょう。それなのに余計なことをして迷惑かけて」
「余計なことって……ぼくはあんなことになるなんて、知らなかったんだよ!」
プロポーズの件は誰かが話をしたのだろうか。
「クロッセのことは仕方ないかもしれないけれど、シェラにプロポーズだなんて、やっていいことと悪いことがあるわよ」
仁王立ちでソールを睨みつける。
「……ぼくはそんなの聞いていないよ。いつそんなことがあったの?」
「一昨日のことよ」少女は簡単にソールにその時の様子を話す。「まあいいわ。そうなるとどこかの連中のよからぬ策じゃなさそうね」
「ね、姉さんはどうしたの?」
「あたしの館で静養してもらっているわ。ただこれからどうなるのかなんてわかりはしないけどね」
「判らないって……姉さんに訊かなくちゃ、館に行けばいいんだよね」
「だれも会わせない!」
ソールが出ていこうとするのを遮る。
「なんでエアリィがそんなこと言うんだよ」
「シェラはあたしがあずかる! ソールはシェラがどんな気持ちでいるかなんてわかりはしない」
「判るよ!」
「姉弟だから?」
「幸せするんだ」
「あたえられた幸せで人が喜ぶと思っているの? 旧市街区に行くことやヴィレッジになるひとが幸せなのかしら? 金や物があることが幸せだなんて思っているわけ?」
「ここにいるよりはずっとましだよ!」
「ソールは五十一区が嫌いなの?」
「生まれ育った街だもの嫌いなわけない。だけど、姉さんは、苦労して、苦労して……」
「旧区に行って差別されないとでも思っているの?」
「そうなったら、ぼくが守るよ!」
「一生、あなたが守るっていうのね。無理ね」少女は鼻を鳴らす。「いつも離れずシェラのそばにいるわけよね。笑わせないでよ。それでソールも傷ついてしまうのに、そうなってシェラが喜ぶとでも思っているの?」
「だけど、クロッセもいてくれたら」
「旧区がどんなところかわかっているでしょう? あそこからクロッセは逃げだして来たのよ。そんなところで今までどおりに暮らしていけると思っているわけ? ヴィレッジに行っていてもバカはバカよね。窮屈な暮らしをさせられてそれが幸せになれる道だって信じているのが」
「だって、ぼくにできることなんてそれしかないじゃないか!」
「それだけ? 笑わせないでよ! もっといっぱいあるでしょうが! 一緒に暮らしてきてシェラがどういう時に笑っているか見ているでしょう? 苦しいなんてシェラはあなたの前で一度でも泣き言言ったり愚痴をこぼしたりしたわけ? どうなのよ?」
「そんなの判っているよ」
「わかってないじゃない! どんなに大変な時だってクロッセやソールと暮らしている今という時間をシェラが大切にしていることくらい気付いてやれないわけ?」
「そんな姉さんにぼくは何もしてやれないじゃないか」
「あなたやクロッセがいることでシェラは頑張れたっていっているわ。あなたたちの父さん母さんが亡くなっても、あなたや皆がいるから生きる喜びがあったって」
「ぼくがいなければこんな苦労しているんじゃないか」
「ひとりじゃないから、つらくたって生きぬくことができたのよ」
「じゃあぼくはどうすればいいんだよ!」
「あなたは自分の道をちゃんと進めばいい。そうすることでシェラが頑張ってきた意味が見つけられるのだから」
「ただの我がままじゃないか、姉さんに迷惑ばかりかけて」
「だからいつ迷惑だって言われたの? クロッセがあんなに迷惑かけてもそれが楽しく仕方がないようなシェラなのにさ」
「ぼくだって姉さんに何かしてあげたいんだ」
「だったら、もっと考えないさ。なにがシェラのためになるのか、してあげればいいのかを」胸倉を掴むとさらに怒りをぶつける。八つ当たりだって分かっていても。「ただし、あなたがつらい思いをしているようなところにシェラは連れて行かせない」
「だったらぼくは……」
「それでもグダグダ言うようだったら、あたしはシェラとクロッセをトレーダーにするわ。あたしのファミリーに迎え入れるわよ。差別なんかない幸せな暮らしになれるわ。それだったらいいでしょう?」
「そんな……」
「幸せにしてあげられるわよ。祝福してあげなさい」
「そんなこと出来るわけないじゃないか」
「あなたがやろうとしていたことは、そういうことよ。本人も意志も気持ちも関係なく思い込みだけで勝手に幸せを押しつけようとしているのよ。あたしはシェラが気持ちの整理をつけるまで誰にも会わせない。当分、館で預かるからね」
そう言うとシェラの着替えを持って家をあとにする。
声を聞きつけて集まった住人達も少女の剣幕に道を開ける始末だった。
2.
噂が広まるのは早い。
それには嫌というほど尾鰭が付いたし、様々な憶測を呼んだ。それとともに埋もれていたはずのゴシップも聞こえ始めた。
どこかで聞きつけたのだろう、少女の店を遠巻きに覗き込む人もいる。馴染みの客でもそれとなくシェラのことを確かめようとしたりしていた。
シェラを本当に心配してくれる客もいたが、大半はよからぬ噂話をしていくのだった。
そのほとんどが差別ともいうべきもので、それが腹立たしかった。
シェラはあの日からベッドの上で編み物を始める。
誰に何を作っているのかは少女にも教えてはくれない。ただ、それ編み上がったらちゃんと気持ちの整理をつけると言っていたので、今はその言葉を信じるしかなかった。
マーサはあまり根を詰めると身体に障りがあるからと、シェラの様子を見守りながら編み物をさせるのだった。
少女は商いが終わると、館には戻らず商工会議所へと向かう。受付でシュトライゼに面会を求めた。
急な申し出にもかかわらず彼はすぐに会ってくれる。
「おやおや、お元気そうでなによりです」
執務室に入ってきた少女を見ると書類から手を離し立ち上がり、来客用のソファーを示しながら握手を求めてきた。そして事務の者を呼ぶとお茶を用意させるのだった。
「その後、ウォーカーキャリアはどうですか?」
「順調です。最初のころに比べると飛行も安定してきていますし、もうすぐ長時間の航行も可能になるでしょう」
「それは楽しみですね。その時はまた記事にさせてくだいね」にこやかに笑いながらシュトライゼは言った。「それで今日はどのようなご用件でしょう?」
「今日はお願いがあってまいりました」
「それは是非やりましょう」
シュトライゼは何も聞かないうちに笑顔のまま即決した。
「あっ、あの……あたし、なにをするかも言っていませんが?」それでいいのか?
「そんなことは聞かずにも判りますよ。きっと楽しいことでしょう?」
「借金とか苦情なのかもしれませんよ? もしかして大変なことをあたしは言い出すのかもしれません」
「たとえどんなことであったとしても、終わってみればきっと面白くもあり、良かったと思えるようなことになっているはずですよ。あの時のようにね」
シュトライゼは片目を瞑って少女に微笑みかける。
「確かにあれはそうでしたけれど……結果論であって、ひとつなにかが違っていれば、もっと別の結末になっていたかもしれませんよ」
「可能性の世界ですね。今はこうなのですからいいではありませんか」
「もしもか……」
「さて、では内容をお聞かせ願いましょうか。わたくしは何をすればよろしいのでしょうね」
「その前に質問してもよろしいですか?」
「かまいませんが、いつもとは逆ですね」
シュトライゼは少し茶化すように言った。
「シュトライゼさんは差別をどう思いますか?」
「差別ですか? どのようなとお訊きしてもよろしいでしょうか? 差別にもいろいろなものがあります。男女によるもの。年齢によるもの。いじめによるもの。それぞれありますからね」
「そうですね。ロンダサークの壁の存在についてです」
「下町を区切る壁のことですね。なるほど、それは難しい問題ですね。わたくしは商工会という組織を運営しています。そのために地区という概念は取り払って商人や職人の方々を見ようとしていますが、それでもまだ平等とは言い難いところはありますね」
今の商工会はシュトライゼが立ち上げた組織といってもいいだろう。それまでも商業組合というものは存在したが、それは大店と呼ばれる大きな店だけの寄り合いでしかなく彼らが幅を利かせ利益を追求するのみだった。それを彼は作り変えた。革命ともいえる行動力で。バラバラだった小さな出店や個人商店をまとめ商いのルールを作り、さらには個々に仕事をしていた工の地区にも声を掛け彼らも巻き込み、ヴィレッジだけではなく五家に対しても仕入れや税などの面で弱かった立場を改善していく。そして市のさらなる活性化と発展を狙ったのが商工会なのである。
シュトライゼ自身も商人の出であったが、新たなる商工会設立のために私財を投げうち、設立後は商人を辞め商工業発展のために尽力していた。
商人や職人同士でのいさかいやもめ事、さらには横領や賄賂、談合といった犯罪を無くすべくシュトライゼが先頭に立ち組織したのである。まだ歴史は浅いが、彼は辣腕を振るい大店も従わざるを得なくなっていた。さらに工区だけではなく港湾地区とも手を結び、商い全般を取り仕切る組織として発展させてきていた。
そのシュトライゼなら、もっと明確な答えを出してくれるかと少女は期待していたが、はぐらかされた気分だった。
「では商人や職人以外の人たちをどう見ているのでしょう?」
「なかなか厳しいところをついてきますね」シュトライゼは苦笑する。「差別はなくすべきというベラル師の考えにわたくしも共感はしています。ですが言葉にすることはできても、それを実行することは難しい」
「シュトライゼさんほどのかたでもですか」
「わたくしはそんなに聖人君子ではありませんよ。ただ、そうですね。見た目や生まれだけを見て先入観を持ってしまうのはやめようとは思っています」
「それが本来の姿だと思います」
「この話、シェラさんの一件が原因ですか?」
「知っているのですか?」
「それはもう、あれだけヴィレッジが派手にやってくれたのですからわたくしの耳にも当然入って来ますよ」
「そう、ですよね」少女はため息をつく。「ですが、差別はもともと思っていたことです。ただ今回のシェラのことでさらに腹にすえかねているのも事実です。人に好き嫌いがあるのはしかたがないと思う。あたしもそうですから。でも、生まれを聞いただけで手のひらを返したり、その人となりを見ないでただうわさや先入観だけで差別するのはゆるせない」
「なるほど。エアリィ嬢はマサ・ハルト氏との個人的な壁を越えただけではなく、今度は下町の全ての人と等しく壁を越えて付き合おうというのですな」
「そのような大それたことではありません。さきほども言いましたとおり、あたしはトレーダーですし好き嫌いもあります。ただシェラや五十一区の人たちが差別されるのを見ていたくないだけです」
「しかし、それを五十一区の人々があなたに頼んだのでしょうか?」
「あたしの勝手な行動にしかすぎません。それは承知しています。ですがなにも知らない人たちが勝手なことをいいまくるのは本当に腹が立つ」
「それで行動を起こそうというわけですか?」
「簡単なことではないことはわかっています。それでもなにもしないよりはずっとましだと思いたい」
「そうですね。ですが今回のことは五家の了解はとっているのですか?」
楽しそうにシュトライゼは訊ねた。
「五家や長老会はこのプランがうまく行ったときに、ちゃんと動いてもらうようにします。まずは商工会のイベントとして盛り上げてもらうためにシュトライゼさんにお願いしたいのです」
「イベントですか。さて具体的にどのようなことをお考えなのでしょうね?」
シュトライゼは身を乗り出し少女の話を食い入るように聞きはじめるのだった。そして最後に膝を打ち楽しそうに頷くと少女と固い握手をする。彼の頭の中ではどのように宣伝し人を集めるのか様々なアイディアが渦巻いていくのだった。
港湾地区は日が高く昇っているにもかかわらず活気に満ちていた。
シルバーウィスパーが砂魚漁を終え寄港しているからである。少女が港湾の市場に顔を出した頃にはほとんどの競りは終わっていたが、まだ荷揚げと競りの熱気が残っている。それはキャラバンが寄港した時のような活気にも似ている。
港湾地区へとやって来た少女は目当ての人物を探すと、彼は砂上船ではなく市場で監督と話し込んでいた。
「よう、嬢ちゃん、久しぶりだな」
市場の監督と談笑していた親方がにやりと笑い少女に応える。
「今回もいい漁のようですね」
「おう、判るか? とはいえ嬢ちゃんが乗ってくれていた方がもっとイクークの荷揚げがあるだろうがよ」
なぜか少女がシルバーウィスパーに乗ると必ず豊漁になり、イクークの砂揚げは記録的に伸びた。いつしかエアリィは港湾地区で豊漁を運んでくる少女として崇められつつあったのである。
「ローゼが根を上げるのをもう一度見てみたいものだぜ」
豊漁が続いているので親方もご機嫌だった。
「ありゃあ、こちとらの記憶にもねぇくらいの荷揚げ高だったからな」
監督も頷く。
「ところでどうした。買い付けに来るには遅すぎるしよ。それとも久しぶりに船に乗りたくなったか?」
「乗りたいのは山々ですが、もう少しサウンドストームの改修が落ち着いてくれないとむずかしいですね」
少女はそう話しながらも、もう少し飛行が安定し距離が飛べるようになったらシルバーウィスパーの漁にウォーカーキャリアを同行させロンダサークとの往復を試みて見ようと思っていたのだった。
「ですが、それがクリアできればまた乗せてください」
「そりゃあ、楽しみだぜ」親方は嬉しそうだった。「しかし、それじゃなんの用だ?」
「ねぇ、親方。親方って力自慢でしたよね?」
「なんでぇ、藪から棒によ」怪訝そうな顔をしながらもまんざらではなさそうだった。「まあ、港湾じゃあ力で負けたことはねぇやな」
力こぶをつくりながら親方は自慢げに頷いた。
「嘘をつくなよ。お前より強いやつがいただろう」
「なんだとぉ、俺は誰にも負けねぇぞ!」
睨みあう親方と監督だった。
「ねぇ、親方はアームレスリングを知っていますか?」
「なんでぇ? そのアームなんとかって?」
少女は身ぶり手ぶりを交え、どのようなものかを二人に説明するのだった。
「何だ、腕相撲のことかよ」
「へぇ、ロンダサークではそういうのですね」
「で、その腕相撲がどうした?」
「工の頭と腕相撲をやってみたいと思いませんか?」
「今からか?」
「ああ、いまではありません」親方の勢いに慌てて否定する。「ですがちゃんとルールを決めたうえで、下町一番の力自慢を決めたいです」
「へえ、下町一の力持ちをねぇ」
「一番は俺に決まっているぜ!」
「でも、マサさんも力では誰にも負けないといつも豪語していますよ」
「あんなジジイ、屁でもねぇさ。俺がナンバーワンに決まっている」
「おいおい、そこまで言っちゃっていいのかよ」
監督が呆れている。
「それにあのジジイとは一回、ケリをつけねぇとおさまんねぇからなぁ」
「まだ、根に持ってんのかよ。お前さんも大人気ねぇな」
「うるせぇ、嬢ちゃんはあれでいいかもしれねぇが、俺はまだまだおさまんねぇんだよ。殴り合いでもよかったんだが、こういう機会でもなきゃあのジジイとやれねぇからな」
すでに親方はやる気満々だった。
「では、親方は参加で大丈夫ですね」
「今すぐにだってやってやらぁ」
腕をブンブン振り回し親方は応えるのだった。
「ねぇ、監督。他にも港湾には力自慢の人がいますよね?」
「まあ、腕っ節の強いやつらばかりここには集まっているからな」
「監督が、これだと思う人にも声をかけてみたいので紹介してもらえますか?」
「そりゃあいいが、こいつと工の頭の勝負じゃねぇのかい?」
「下町にはいろいろな人がいると思います。せっかく一番を決めるのですから、勝ち負け抜きでいろいろな勝負を見てみたいと思いませんか? もちろんあたしとしては親方とマサさんの力勝負が見てみたいのですけれど」
「なるほどねぇ、面白いこと考えるな嬢ちゃんも」
「下町にもすごい人はたくさんいると思うのです。ですからいろいろな一番を見てみたいのです」
「それでこいつには力自慢か」
「はい」
「ふん。誰が来ようが、俺様が一番よ!」息まく親方だった。
「相変わらず慌ただしいわね」
心配そうにハーナは駆けていく少女の背を見つめながらため息をつく。
「まったく今度は何をおっぱじめようってんだかなぁ」
腕組みし呆れたようにマサはハーナの言葉に頷く。
少女は話すだけマサに話し了解を取り付けるとやって来た時と同じ勢いで去っていくのだった。
「何事にも一生懸命だから、微笑ましいし、応援したくなるのよね」
「おめぇは、見ている側だからいいだろうが、さらし者になるのはおれだぞ」
「いいじゃないかおまえさん。こんな年寄りでも相手にしてもらえるんだからさ。期待されているんでしょうから、頑張んなさい」
「まあ、お嬢に頼まれりゃあ、嫌とは言わんが、それにしても力自慢かよ」
「この辺りには腕に自慢の男がたくさんいるからねぇ。あんたも若い者には負けないって常々言っているんだから、いいじゃない」
「あったりめぇよ。誰が来ようが負ける気はしねぇぜ」
力こぶを作ってマサは吠える。
「どうしたんだい先生? なんか気の抜けたような顔をして」
「えっ! そ、そうですか?」
ハーナに声をかけられクロッセは慌てる。
「そういう顔をしてるぜ、先生」
「ああ、いやあ、その……なんか拍子抜けと言いますか……」
「てっきりお嬢は先生のことを探しに来たんだと思ったかい?」
少女が工房に現れた時、マサもハーナもそうだとばかり思っていたが、予想に反して少女はマサに頼み込むだけ頼んで、去っていく。まるでクロッセのことなど眼中にないように。
「そ、そうですね。ホッとしたというか……」
「残念だったのかい、先生?」
「そんなことは……」
ハーナの問い掛けに強く首を横に振る。
「今、エアリィちゃんがやろうとしていることは、もしかするとシェラちゃんのことと関係あるかもしれないけれどね」
「本当かよ、ハーナ?」
「そうかもしれないし、そうでないかも」なんとなくだとハーナは笑う。「先生は、背中を押されるのを期待しているのかもしれないけれど、それじゃあだめだよ。先生がちゃんとシェラちゃんのことを考えて行動しないとね」
ハーナの言葉のクロッセは何も返せず押し黙ってしまう。
どのような顔でシェラに会えばいいのか、五十一区に戻るのが怖くてそのまま工の地区や宙港を行き来する毎日だった。だからなのだろうクロッセは少女が何も言わないまま去ってしまったことにホッとする以上に落胆するのだった。
シュトライゼは快く少女の提案を受け入れ、企画を実行に移すためのプロジェクトチームを商工会に立ち上げてくれる。それは迅速な行動だった。基本的には商工会議所の事務員が中心となったが、少女をはじめ工の地区など技術的な人員も随時加えていく。
少女の持ち込んだ話はこういうものだった。
下町全地区参加による競技の祭典と織物などの工芸品の品評会を開くというものである。
それはとある小さなオアシスで年に一回行われる地区同士の対抗戦にヒントを得たものだとのちに少女は語った。
ただロンダサークは他のオアシスと比べ物にならないほど巨大である。
初めからすべての地区の参加を取りつけるのは難しいだろう。それに長老会がすんなりこの話を通してくれるとは思えなかったし、面倒な議論に時間を費やしたくなかった。
そう考えた少女は、その準備段階としていくつかの競技を実施し、大会を成功させてその有用性を認めさせるため、商工会にその助力を頼むことにしたのだった。そして少女自身下町で知り合った人々に声をかけ参加を募ったのである。
ただそれだけでは足りなかったので、シュトライゼにも紹介してもらい、知り合いの少ない商区や農区の人々からも参加の意思を取りつける。
これでまずは工区、農区、商区、港湾地区から主だった地区の力自慢が集うことになった。
日程の調整にシュトライゼと少女は奔走し、企画を持ち込んだ一週間後には大会の日取りが決定する。
商工会主催として宣伝が大々的に行われ、大会は口コミと合わせて下町の人々の知るところとなる。そして、どのような手を使ったか知らないが、シュトライゼは式典用の大ホールの使用をとりつけて来てくれた。
気が付けば下町はその噂でもちきりになっているのだった。
3.
「よくここが借りられましたね? 大変だったのでは?」
すり鉢状のコロセウムを思わせるホールのステージから少女は全体を見渡しながらシュトライゼに言うのだった。
これならば大勢の人が来ても大丈夫だ。
「苦労しましたが、なんとか」シュトライゼは笑みを浮かべる。「いろいろとコネは使わせていただきましたが」
始まりの地である第一地区にある式典用ホールを手配してくれたのである。軽い口調で言うが、それは簡単ではなかったはずだ。モニュメントホールはガリア杉と並び下町の象徴である。五家が管理し、主催する式典以外で使われることはなかった。それでもシュトライゼは三日もかからず五家と長老会を説き伏せたのである。頼もしくもあり、その手腕には舌を巻くしかなかった。
「それでも、あなたがやろうとしていることに比べればたいしたことはありませんよ」
「あたしはなにもしていませんよ?」
大会の手配と運営はほとんどシュトライゼと商工会がやってくれている。それを見ているから少女は自分がきっかけを作ったにしかすぎないと思っていた。
「あなたが考えなかったら誰がこのようなことを企画したでしょう。そしてプレ段階とはいえ、これだけ話題性のある対戦を組むことはあなたにしかできないことですよ」
「あたしは希望を伝えただけです。実行しているのはシュトライゼさんですよ」
「そうだとしても、あなただからこそ、参加者もわたくしも賛同しているのですよ。それを忘れないでください」
シュトライゼの言葉に少女は少し目をみはり、顔を赤らめる。
「お、おだてないでください」
「いえいえ、わたくしの本心です」
「……それにしてもすごいですね」少女はあからさまに話題を変える。「これだけ広いとは」
少女はマサと勝負をおこなった時のように商区の広場に会場を設置するのだとばかり思っていたので驚きだった。
「あれはお金もかかりますし手配も大変ですからね。それに一回しか使えないのでは効率も悪いですから、今回はここを使わせてもらえるように交渉したのですよ。あなたの構想からすれば、ここのモニュメントホール全部を使っての運営も考えなければなりませんからね。これはそのための予行演習も兼ねています」
「おそれいります。それにしても予行演習か……」
少女はステージから楽屋裏にはいると、舞台装置の制御機材に埋もれているクロッセに声をかける。
「どう、そこの機材は使えそうなの?」
「長いこと使っていなかったから、かなり痛みもあるし錆ついている部分もあるけれど使えそうだよ」
上半身をコンソール下の機械にもぐりこませながらクロッセは応える。
「大型のライトとか、映写機も使えますか?」
「実際に動かしてみないと判らないところもありますが、いけると思いますよ。シュトライゼさん」
「それはよかった。電力の供給も明日には何とかなりそうですから、その時にテストしてみましょう」
「それにしても急に呼び出されて連れてこられたのが、ここだとは思わなかったよ」
急にやってきたかと思ったら、行き先も告げられず無理矢理連れてこられたのである。
メンテナンスハッチから這い出してきたクロッセはぼやくが、顔はホコリまみれでも楽しそうな表情だった。
「なによ。シェラのところだと思ったの?」
「えっ? ああ、いや、その……」
「期待はずれでごめんなさいね」少し意地悪く笑う少女だった。「でもね、これはあなたにしかできない仕事だから」
「それは判る。それにだいたいの話は聞いたけれど……またとんでもないことを始めようとしているんだな」
「そうかしら?」
「これは単純なことではあるのですよね。言われてみればそういう考えもあったのだと思い知らされる」
「不思議ですよね」クロッセはシュトライゼの言葉に同意する。「なぜいままで誰も思いつかなかったのだろうと思うし、行動しようとしなかったんだろうと」
「本物の壁を崩せないなら、もうひとつの壁をくずせばいいのよ」
少女はきっぱりといった。
「また過激なことを」
「もうひとつの壁か。それもまたあなたらしい。本当に面白い方だ」
「面白いですかね? 引っぱりまわされる方は大変だと思うんですが?」
「クロッセがそれをいう?」
「ああ、いや……その、ごめん」
二人の視線がクロッセには痛かった。
「別にあやまらなくてもいいわよ。自覚しているならね」
「周囲を巻き込み騒動を起こすのは、クロッセ先生の専売特許ではないということですな」
「あたしはクロッセと同類ですか?」
「似て非なるものというべきなのかもしれませんね」シュトライゼはしたり顔で笑った。「知れば知るほどに人というものは面白いものですね。奥が深い」
「人を知るには人とまじわっていくしかないのよ。だから多くの人が参加してもらえるようなものを考えるのよ」
そのための少女が企画したイベントである。
「大丈夫ですよ」
これまでの宣伝からシュトライゼは手応えを感じていたのである。少女と工の頭の時以上に人は集まってくれると計算していた。
「成功させようじゃありませんか」
シュトライゼが呼びかけ集めたイベントのスタッフがホールへと現れ始める。スタッフの初顔合わせであり運営会議の始まりであった。
「それは理想でしかない」
ベラル・レイブラリーは不意に拳を握り締め声を上げていた。
シュトライゼが長老会に持ち込んできた企画が、実はエアリィの試みであると知った彼は思うところがあったのだろう。
「どうしたのですか、急に?」
テーブルの食器を片づけていたドロテアは少し呆れたように夫を見る。
「あのようことで人と人同士がまとまるわけではない」
「ベラル・レイブラリーらしくないお言葉ですね」
「私は冷静に物事を判断し言っているだけだ」
「話を聞く限りいいことではありませんか、それが少しでもいい方向に変わるきっかけになればなおさらです」
「そんな簡単なことではないのだよ」
「何を拗ねていらっしゃるのですか? あなた様らしくありませんよ」呆れたドロテアは目を細めベラルを見つめる。「またエアリィですか?」
「そ、そんなわけかある訳がない」
核心を突いた突っ込みにベラルは気色ばんだ表情を浮かべる。何時も冷静沈着であるレイブラリーには珍しい。
「エアリィが最初に話を持ちかけたのがシュトライゼ・グリエ氏であったのが、ベラル・レイブラリーには面白くなかったのでしょう? あの子の一番の理解者であり良き相談相手であるとあなたは自負してきたのですからね」
「私なら」
「グリエ氏さんよりもうまく事を運べたと?」
「……そのつもりだが」
「あの子にはあの子なりの考えがあったのでしょう。うかがった話から思うに、あの子は長老会の力を望まなかったのではないでしょうか? もっと民意に沿った底辺からイベントを作り、盛り上げていこうとしたのではないでしょうか」
「私では駄目だというか」
「ベラル・レイブラリーでもそれは成し遂げられるでしょう。ですがエアリィはそうではないあり方を望んだ」
「シュトライゼ君から話が来て驚いたものだ。真っ先に私のところに話が来るべきではないかとな」
「本当にあなたはあの子こととなると、大人気なくなりますね。まるで子供のように一喜一憂しています」羨ましいほどに。
「そうだろうか?」
「私から見ても判り易いほどにそう見えますよ」
「そうか。判っているのだよ」握り締めた拳を下ろしベラルは言う。「私ら五家や長老会から言われるままに推し進めるのではなく、民が自らの手で作り上げた方が良いということくらいわな」
「そうすることで一体感が生まれる」
「エアリィがそこまで考えての行動なのか、私には判らぬよ。ただ今回の行動はシェラのことがあってのことなのだろう」
「ご自身が常々、仰られていることではありませんか。それを理想と一蹴されますか?」
「簡単なことではないと言っているのだよ」
「そうですね。それでもあの子は行動で示そうとしている。ロンダサークの民ではないのに、親しきもののために」
「うらやましきことよ」
「それが本音ですか?」
「ああ、そうだ。悪いかね?」
「本当にあなたはあの子が大好きなのですね」うらやましいくらいに、ドロテアはそう呟いた。「意地を張って何もしないで終わらせるおつもりですか?」
「そんなわけがあるか。最高の手札を用意して待っているわ。私の方がシュトライゼ君よりも役に立つことを見せつけてやらんとな」
ベラルはニヤニヤしながら言うのだった。
孫を甘やかす祖父のようである。妻は声を殺し肩を震わせながら部屋をあとにするのだった。
「よくここに来たわね」
少女は腕組みしソールを睨みつける。
トレーダー地区の閉じられた門の入り口で立ちはだかるように少女は立っていた。
「……姉さんのことだから」
ソールは少女の迫力に気圧されながらも何とか答える。
「会わせるつもりはないって言ったらどうするつもりだったのよ?」
「会わせてもらうまで何度でも来るよ」
「ふ~ん」少女もソールも視線をはずさない。「いいわ。自分の考えくらいいえるようになったのでしょうね?」
「う、うん」
「くだらないことだったら、こんどこそ許さないわよ」
「ぼくら姉弟のことだ」
「そうだとしても、あたしはシェラの友達よ。見て見ぬふりはできないわ」
「だからって……」
「まあ、やりすぎたかもしれないけれど」少女はそれでも悪びれていない。「おたがいに自分を見つめる時間は欲しかったでしょう?」
「必要以上に考えさせられたよ」
苦笑いするソールを見て、少女は門を開け彼をトレーダー地区に引き入れる。それでもすぐには館に向かわなかった。立ち止まるとソールを見据える。
「あなたはヴィレッジにいるわ。このままヴィレッジに居続けるつもりなのかしら? それとも下町にもどって来るの?」
「どうだろう……今までは……漠然としか考えていなかった。ただ……」
「他ならぬ、ソール自身のことなのにね」
「……トーマ先生のところで勉強は続けたい」
「よっぽどあいつがいいのね」
「ヴィレッジで出会った人の中では一番面白い人だよ」
「面白いねぇ……良い人じゃないのね」
「い、良い人だよ。まあ変わっているけれど」
「結局のところ壁の向こう側はあいつぐらいだったわけよね? あなたは隣の家がきれいで素晴らしく感じるように白い壁の向こう側にあこがれた。幸せそうに見える家や暮らしがうらやましかった。だけどその幸せそう見える方に行ってみるとどうだったのよ?」
「……」
「黙っているなら、あたしが言ってやろうか? なにもいいことはなかった。そして次第にあなたはどちらにも居場所がなくなっていってしまったのよね」
「……そうだよ……なにもいいことはなかった」
「ようやく本音を言ったわね」少女は吐息をついた。「本当に頑固よね」
「君に言われたくないよ」
「あたしは一回見ただけだったけれど、あなたはひどい仕打ちを受け、差別を受けていた」
「よく生きてこられたと思う。君と姉さんには感謝しないと」
「あたしはあいつらが気にいらなかっただけ、ソールを助けたつもりはなかったわ。感謝するならシェラに、でしょう!」
「そうだね。姉さんには感謝してもし足りない。ベラル先生のところで学べたのもヴィレッジに通えるのも姉さんのおかげなのだから……姉さんは自分の幸せよりも他の人のことばかり考えて……」
「それがシェラなのよね。そのおかげであたしも救われたのかもしれない」
「姉さんは幸せになるべきなんだ……」
「そう思うけれど、シェラにとっての幸せは、どこにあるのでしょうね? あなたが夢見た白い壁の向こう側ではないことは確かだけれど」
「旧区の人々は自堕落で何もしようとしない。ただ権力や財を求めようとしているだけだった」
「それで人は幸せになれるわけ?」
「そんなあいつらでも、ぼくらにはできない暮らしをしている」
「そうね、反吐が出るくらい」少女はつばを吐く。「金や物はあるにこしたことはないわよね。でもそれがあることだけで幸せだと言えるのかしら」
「あいつらは充分に幸せだと思っているようだよ」
「あいつらはね。それしか考えていないもの。でも下町はどうなのかしら。暮らしぶりは比べようがないけれど、みんな不幸なのかしら?」
「判らない」
「ソールはどういうときが幸せだと思った?」
「それは姉さんが笑ってくれた時、喜んでくれた時だよ!」
「だったら答えは出ているわよね? ソールが強くならなければね。そしてシェラを解き放たないと、シェラが自分の道を歩いていけるように」
「できるかな?」
「甘えん坊は卒業しなさいよ」
少女は少年の背中を強く叩く。そして彼の手をとり歩きだすのだった。
「ありがとう、エアリィ。私の我がままに付き合ってくれて」
穏やかな口調でシェラは言うのだった。
彼女はベッドの上で身を起こし、また編み物を始めている。
「どうってことないわ。あたしはあいつを連れてきただけだから」
「それでも、あの子とお話ししてくれたのでしょう?」
「否定はしない。でも、それはシェラのためでもソールのためでもない。あたしがあいつに言いたいことがあっただけだから」
「ソールはエアリィに怒られたって言っていたわ」
シェラは思い出し笑いをする。
「ああ、そうね。無茶苦茶、腹がたっていたから、ソールはそう感じたのかもしれないわね」
「ちょっと会わなかっただけなのに、あの子、少し大人びたような気がしたわ」
「そうかしら? あたしから見れば全然よ」
「そうね。あなたと比べると、そう見えてしまうかも」
「じゃあ、赤ちゃんなみになっちゃうわよ。あたしは子供のままだから」
「そんなことないわ。スピードの差はあるかもしれないけれど誰でも大人への階段を上って行っているのですから」
「大人か、クロッセのように登りそこねて転げ落ちているのもいるけれどね」
「そうかも」シェラはいつもにもまして嬉しそうにも見えた。「久しぶりにソールとお話ししたような気がするわ」
「毎日顔を合わせていたのに?」
「不思議よね。いつも顔を合わせているから判っているつもりになっていたのかもしれない。一番身近なのにこんなにも知らないこと判らないことがあるなんて」
「それでもシェラとソールは姉弟よ。あたしには兄弟いないから、うらやましいくらいよ」
「そうだったの? そういえばエアリィの家族のことは聞いたことがなかったわね」
「家族だけれど家族じゃない。みんなを見ているとそう思えてくるわ」
母は亡くなったと幼い頃に聞かされているが誰もその詳細は教えくれない。父親はファミリーのリーダーで小さな頃からかまってもらったことがなかった。エアリィは祖父に育てられ、その祖父も亡くなった後はいとこの家族に預けられたのだった。
「いとこは年上だったけれど親しくしてくれた。それくらいかな。いまではヴェスターやマーサさんの方が家族みたいに思えるくらいよ」
「ここがあなたの家なのかもしれないわね」
「家か……」
口にしてみても不思議な感覚だった。
トレーダーにとって家はウォーカーキャリアであり、キャラバンすべてが家族といってもいい。
「家族でもいままでソールと向き合って話をしたことはなかった。今日が初めてだったかもしれない」
「冗談でしょう?」
「本当よ。家族だからっていつも本心を見せているわけじゃない。むしろ心配させまいと自分を隠してしまう。相手の本音を聞こうとしているわけでもないのに……判っているつもりになっていたのかもしれないわね」
「そういうものなのかな」
「わたしがおかしいのかな?」
「親しき人にも全部をさらけ出しているわけじゃないのはわかるわ。でも仮面をかぶってかくしてばかりだと疲れるだけよ」
「家族ってなんだろうね?」
シェラは呟く。
「血のつながり?」
「そうね。その絆は強い」
「でも血のつながりがなくてもキャラバンはひとつ。家族のようなもの」
「大きな家族よね。ひとつになることでどんな困難も乗り越えていく」
「それなのにオアシスは! 自分のカラにこもりすぎよ! 家族がいるところは安らげる場所じゃなかったの?」相手を見下したり差別したり、そういうものばかり包み隠さない。
「すべての人たちがそういうわけじゃないわ」
「たとえそうだとしても、あたしはそういうやつらを認めない!」
少女は拳を握りしめるのだった。
「エアリィらしいわね」シェラは苦笑する。「本当のことを言うとね、わたしは弟を憎んだ時もあったわ」
「ど、どうして?」
突然の告白に少女は驚く。
「母さんが死んだのは弟が生まれたせいだと思い込んでしまっていた。弟が生まれる時、わたしは誰にも相手をしてもらえず独りぼっちになったような気がしていた」
父は農区へと出稼ぎに出ていて家を留守にしがちだった。生まれ来る子のために懸命に仕事を探し稼いでいたのだ。母親も体調がよくない状態が続きシェラを見てやれずにいた。そのため親しかった者の家に預けられ家族とは離れて暮らすことになってしまう。
「そして弟が生まれてすぐに母さんは亡くなった……」
シェラが駆け付けた時には亡くなった後だったという。
「それでもシェラはソールを守ろうとしたのでしょう?」
「その笑顔、その手を握りしめると憎しみや孤独なんてどこかへ行ってしまった……」
シェラはその感触を思い出すように呟く。
「それがシェラとソールの絆。でもそれがソールにとってシェラを縛りつけていると思いこんでしまう」
「それが私たちを縛っているなんで思わなかった。あの子の笑顔が見れるだけで私は嬉しかったし、幸せだったのに」
「ソールはその気持ちに気付かず、シェラの幸せを考え、それを願った」
シェラとソールは、そのことでお互いの気持ちをぶつけ合い、その想いを心行くまで話し合ったと言っていた。
「ようやく心の奥底に眠っていたものが吐きだせたような気がするわ」
「ソールも同じことを言っていた」
その後、部屋に戻った少女が見たものは仲睦まじく笑い合う二人の姿だった。それは少女がうらやむほどである。
「もっと早く気付けばよかったのにね」
シェラは微笑む。
「そうね。でも、ちゃんと言えたのなら、それでいいじゃない」
少女はシェラのその笑顔が見ることができて満足だった。
「エアリィは今、幸せ?」
「どうだろう。砂漠があたしの一部だとしたら、そこから引き離されたあたしは不幸。オアシスで地根っ子と暮らす自分はガリア一の不幸者」少女はシェラの問い掛けに答える。「いまが幸せなのかは、いまのあたしにはわからない。もっとあとになって振りかえってみないと、このときがどういうものだったのか知ることはないと思う」
「エアリィの方がわたしよりも大人みたいね」
年は幾つなの? そう言いたげな表情でもあった。
「そんなことない。あたしはなにも知らない子供よ。だって不幸だと思っていた自分よりももっと最低の不幸者がいたと思い知らされたもの。大嫌いだった地根っ子のはずなのに嫌いなままにはならなかった。いい人、素晴らしく素敵な人が下町にもいることに気付かされた。勝手に壁を作っていたのはあたしだった。トレーダーの暮らしにしがみついていたなにも知ろうとしない大バカだった」
「でもね、そのことに気が付かない人の方が多いわ」
そして私のように小さな幸せにしがみついてしまう。シェラは自嘲気味に付け加えようとしてその言葉を飲み込んだ。
「立ちどまるよりもいまは先に進みたい。知らずにいることが不幸にならないように。そうすれば、いまよりももっといいことがあるかもしれない」
その逆もあるかもしれないが、憶病になって後悔することの方が怖い。人は今を大切にするあまり不安に押しつぶされ先に進めなくなってしまうものだが、少女は先に進むもうとする。悔いが無いように何度も傷つき倒れようと、今は振り向かず足掻き立ち上がって前進するのだ。
その言葉を聞きながらシェラは眩しいものでも見るように少女を見つめる。
「縁って不思議よね」
「そうね」少女はその言葉に頷く。「ロンダサークに来なかったらクロッセとは会わなかった。ヴェスターに連れだされなかったら、ベラル師やソール、シェラに出会えなかった。クロッセの紹介がなかったら親方やシルバーウィスパーの皆と知り合えなかった。サウンドストームがなかったらマサさんのところや工の地区に行くことはなかったし、商区で商いをしてシュトライゼさんや他の地区の人たちと交わることはなかった」
「つながっているのね」
「不幸だと思っていたのに、いまの暮らしをあたしは楽しんでいる。嫌なことも不便なこともいっぱいあるのに、どうしてだろうね?」
「それは大切なものが変わって来ているということかしら?」
「あたしさ、本当はファミリーの中で浮いていたの」立派なトレーダーになるため、ファミリーを束ねるリーダーの娘として、依怙地になっていた。「ファミリーの同い年に友達はいなかったのに下町にいっぱい友達や知り合いができた。中でも一番はシェラに出会えたこと」
「ベラル師は?」
「師は師としてよ。友達とは違うわ」本当は砂漠に帰らなければいけないのに、絆が増えていく。断ち切りようがないつながりが出会いとともに。「だから、幸せかと訊かれたら、不幸じゃないとはいえるけれど……やっぱりわからないわ」
「でも、初めて会ったころのエアリィとは比べようがないくらい良い笑顔で笑ってくれるわ」
「シェラがそう言ってくれるのなら、きっとそうなのね」
「ええ、あなたは下町の住人ですもの」
「そうだったね。あの日の夜、五十一区の長老にあたしはそう言われたのよね。新しい家族だって」
「あの時のエアリィは戸惑いっぱなしだったわよね」
「だってそうじゃない。見ず知らずのしかもトレーダーを家族よばわりするのですもの」
「嫌だった?」
「いまはその意味がわかるから、うれしい」
「素敵な笑顔よね」シェラは少女の笑顔に釣られるように微笑んだ。「あなたは何かをしているときが本当に輝いて見えるわ。うらやましいくらい」
「どういたしまして」
「あなたは立ちどまらず進んでいくのね。今度は何をしているのかしら?」
「たいしたことではないわ。でもシェラがもう少し元気になったら手伝ってもらう予定だけれどね」
「私にできることがあるのかしら」
「あるわよ。五十一区の人にも参加してもらうのだから」少女は首を振る。「そうじゃないわね。下町の皆に参加してもらうのだからね」
「楽しそうね」
「もちろんよ! だから、シェラにも絶対に参加してもらいますからね」
少女は有無を言わせぬ勢いでシェラに微笑みかけるのだった。
4.
大会が近付くにつれてスタッフも増えていく。
初めは宣伝を担当してくれた商工会の事務員達から始まり、会場設営や運営のスタッフが様々な地区から集まって来る。面白半分に顔を出したり、無理矢理手伝わされた者もその熱気にいつの間にかのめり込んでいくと、自分の知り合いや友人を誘ってその輪を広げていったのである。
ほとんどは仕事の手が開いた時の手伝いで、手弁当だったがシュトライゼが運営費として予算をまわしてくれようになる。そのおかげでクロッセのような技師を工の地区から雇うことができた。
シュトライゼが全体を取り仕切り、クロッセとマサが設営スタッフをまとめる。他にプログラム作りや進行などの雑務を、各方面との折衝などで多忙なシュトライゼにかわり、彼の右腕とも呼ばれるフタヒラが束ねてくれていた。彼が中心になって工の地区、農区、そして港湾地区の代表も加わり出場者への連絡なども行ってくれている。
長老会の支援を受けないことに参加スタッフの中には戸惑いと不安はあったが、あえてシュトライゼは有志だけで人を募り大会運営組織を作り上げていく。
これがのちの下町全地区参加によるロンダサーク競技会の母体組織となる。
少女はあくまでもオブザーバーのつもりだった。しかし参加スタッフの誰もがシュトライゼと並ぶ大会のまとめ役だと信じて疑わない。役職や肩書こそなかったが、少女はすべてのスタッフ会議に顔を出して意見を言っていたからだ。
無論、シュトライゼがそう仕向けたというのもあったが、少女の才能と行動力は誰もが認めるところとなっていた。地区ごとにバラバラだったアームレスリングのルールを統一し、演出など重要な案件の決定や方向付けを少女が行っていたと言ってもいいからである。
「これが初代のロンダサーク一のアームレスリング王を決める大会になります」
「しかし、下町全体が参加したわけではないのでそれはおかしいのでは?」
少女の発言にフタヒラは訊ねる。
「その意見はごもっともです。ですから、当初からエントリーされた参加者以外にも出場者を募集していますし、会場での飛び入り参加も認める方向です。いまでも自薦他薦による力自慢の募集はしているので、自分こそが力自慢と思う人は集まっているはずです」
「当日の参加も認めるということですか? それではその日まで決めたトーナメント戦や対戦カードが無意味になってしまうと思いますが?」
対戦を決めてきたスタッフがその言葉に同意する。
「すべての下町の民に門は開放します。ただエントリー以外の人は予選に回ってもらうことにします。それに勝ち残っていただいたうえで本選に参加してもらう流れにします。そのためのカードは空けてあるはずですよね?」
「確かにそうですが、そうなると本選途中に参加を申し込んでくる人もいると思われますが、それも受け入れるのでしょうか?」
「飛び入りでも歓迎します。そのための手は打っています」
少女はそのプランを説明すると、フタヒラは納得したように頷く。
「それならばお任せしましょう」
「大切なのは、下町の多くの人が興味を持ち、会場へ足を運びこの大会を見ていってくれることです」
そして、それが次へのステップになると少女は考えている。
その構想をシュトライゼから聞いているスタッフもフタヒラをはじめ何人かいたが、ほとんどが半信半疑であったという。それは下町すべてをまとめ上げるのは誰もが困難だと思っていたからだ。
「今回は港湾や農区など仕事をしている場所同士の対抗という形になっています」
個人トーナメントだけでなく五人ひと組の団体戦も少女は用意していた。そのため強いものを集めようと仕事の合間に情報を集め合い、他の地区の状況を偵察したりして対抗意識が盛り上がって来ていた。
特に人の出入りの激しい農区は、港湾や工区に対抗する者を集めようと下町を巡りスカウトにあけくれているという話もあったくらいである。
おかげでエントリーされている者だけでも兵ぞろいの人選になり、少女は満足していた。
「ただそれだけでは見ている人も応援しづらいと思うので、出場者の簡単なプロフィールも紹介することにします。出身地区がわかることでこれらの仕事とは縁遠い人にも誰を応援するか決めやすくなるのではと思うのです」
少女はすでに様々なところから情報を集め、すべての地区から大会参加者を見つけ出すということをやってのけていたのである。
「失礼」フタヒラが再び確認するために質問する。「参加者の中には、ある地区の住人もいることが確認されています。それを知って対戦者も観衆もどう思うでしょう? 快く思わない人も出てくるのでは?」
彼の指摘は口にしないだけで誰もが思っていたことであるかもしれない。
「別にオブラートに包まなくてもいいですよ。あたしから見れば、その質問の方が愚問です」
少女は微笑みながらも、きっぱりと言い切った。
同席した者にはフタヒラと少女の間に静かな火花が散っているようにさえ見える。
「あえて言わせてもらえば、みなさんは自分の生まれに誇りがあるはずですよね? そうでないとしても仕事に、生き方のどこかに誇りや意地はありますよね? 生き様とか自信とか今までの人生に意味があるはずなのですから。そしてそれは応援する人たちにも同じことが言えるのでは? あたしは生まれ育った地区への誇りを失わないでほしいのと同時に、他の地区の人たちにも対戦しぶつかり合うことでそれを感じてほしい。これはそのための機会であるのですから」少女はスタッフを見回す。「そうであれば工区や農区、港湾といったカテゴリーだけでなく地区の代表としての誇りも持って戦い頂点を目指せるはずですし、見ている人の応援にも力が入るのでは? そして同じ時をすごすことで得られる一体感があるはずです」
自分がサウンドストームをよみがえらせた時のように。
少女はそう信じて疑わなかった。現にスタッフにもさまざまな地区の出身者がいたが、ともにひとつのことに向かって協力し合うことで理解と一体感が生まれてきているのである。
「それで参加者は納得しているのでしょうか?」
「了解はとっています。それで問題はないはずです。そしてみなさんもはじめての試みとして大会運営にたずさわれることに誇りを持っていただきたいと思います」
「ありがとうございます」
フタヒラは少女に礼を言う。
能面のような顔つきで表情も変えずフタヒラは黙々と自分の役割をこなしていく。
些細な疑問でもぶつけるのが彼の役割といってもいい。フタヒラは、少女の意図している考えを言葉として引き出すために組織運営に加わっている。そのために商工会の仕事が多忙であるにもかかわらずシュトライゼが無理を言ってでも参加させたのであった。
「それにハプニングはつきものです。想定以外のことがもっと起こるはずです。それを乗りこえて大会を成功させるのがあたしたちの仕事でもあるのですから、がんばりましょう!」
「おおっ、パサドじゃないか! お帰り」
「漁から戻ったのか?」
パサドが五十一区の門をくぐるとすぐに地区の者達に次々、声をかけられる。それはいつもの光景でもあった。
少し照れくさそうに彼はあいさつを返す。大きな体格に似合わず物腰の柔らかい男だった。
「うん。今回の漁は早く終わったから」
「そうか。やっぱり大会に合わせたんだろうな」
「シルバーウィスパーの親方も優勝候補の一人だからな」
「パサドも出るんだろう?」
彼が立ち止まると人が少しずつ集まって来る。
すでに地区中の住人がパサドの出場を知っていたし、その話で盛り上がっていたのだった。
「あ、ああ……」
「出来る限り応援に行くからな」
「えっ?」
細い目が見開かれる。
「なんだよ。どうして驚く」
「だ、だって……俺だけだったらいいけれど、みんな変な目で見られるかもしれねぇぞ」
「なんでそう思うんだよ。俺たちゃ応援するだけだぞ」
「だ、だけど、俺の生まれとか知れたら……」
「だったらなおさらだろう」
誰かがそう言うと、みなが頷く。
「かまいやしねぇよ。俺たちゃ家族だろう? 家族が頑張ってんのに俺らが何もしねぇわけにはいかねぇだろうが。それに俺らが応援しなけりゃ誰がパサドの応援をするんだよ」
集まった者達はその言葉に同意する。
「負けんじゃねぇぞ。俺ら五十一区のお前が代表なんだからよ。俺たちゃ応援しかできねぇが、俺らの代表として心意気を見せてくれよ」
彼らは応援のために作った旗を見せてくれた。
パサドの家には地区の住民達が応援の品々を届けており、それを知ったパサドは空を仰ぎ見る。そうでもしていないとあふれ出しそうになっている涙がこぼれてしまうからだった。
そんな彼を集まって来る者達は温かく励ます。
港湾地区は強い差別は他と比べるとなかったが、それでも漁師仲間とは交われない孤独な瞬間を何度も感じ取ってきた。漁で家を離れていることが多いパサドは、身近にずっと前からあった人の温もりを思い出す。
少女に参加を誘われ、大会にエントリーが決まっても彼は乗り気ではなく、すぐに負けてもいとと思っていたくらいだった。
けれど、地区の温かい声や声援を聞いて、負けられないという気持ちが強くなって来る。
誇りのために、自分のためだけではなく頑張れる。
パサドは決意を新たに大会に臨もうとする。
それは五十一区に限った事ではなかった。大会が近付くにつれて他の地区でも、地区ごとに応援に熱が入り盛り上がりを見せ始めるのであった。
シェラは夕暮れせまる下町を歩く。
数日、ほんのわずかな時間だったはずなのに、懐かしい気がした。
強い日の日射しは壁に遮られ路地は薄暗く感じられる。
市を巡る人の数も徐々に減り始め、家路を急ぐころ合いだ。
マーサの許しが出たシェラは自分の家に戻る前にトーマと会うことにする。ソールを通して伝言は伝わっているはずだった。
ゆっくりと歩く。人の営みを感じながら普段なら見過ごしてしまいそうなことも、感じ取れるような気がする。
彼女がやって来たのは第一地区のメモリアルホール近くにある広場だった。
「待ちましたか?」
「いえいえ、全然です」
シェラに気付くとトーマは顔をほころばせながら近寄り彼女の手をとった。
「わたしの方がお呼びしましたのに、遅れてしまい申し訳ありません」
「とんでもない、ボクの方が早く来ただけで、あなたは時間に正確に来ていますよ。それにあなたに呼ばれるのなら、ボクはどこへでも参上いたします。たとえそれが風のたどり着く場所であっても」
下町に来るくらいなんでもないとトーマは言う。
「わたしのためにですか? 私のわがままで下町までお呼び立てしまいましたのに……」
「どうです、この格好、似合いますか?」
着ていた服をシェラに見せる。
「はい。素敵です」
それはシェラが少女の館で編み、トーマに贈った服だった。
「サイズもボクにピッタリです。それに着心地もいい。織物も得意だとはうかがっていましたが、旧市街区に出入りしている織物工房にも負けず劣らずの出来でありますよ」
「喜んでいただいて光栄です。ですが、一流の織師とは比べものになりません」
「いやいや、あなたの才能はとどまるところを知らない。エジノアの言った通りだ」
「ノルデアを知っているのですか?」
「ええ、彼とは友達です。それに彼のところに嫁いだマルグレットはボクの遠縁の親戚にあたります」
「そうだったのですか」
「実を言いますと、彼からあなたの話を聞かされていまして、いつかお会いしたいと思っていたのですよ。その美しさもさることながら、才能は想像以上でした」
「会ったのはあの一度きりですし、それにほんの少ししかお話しをしていませんが?」
「ボクは人を見る目はあると思っています。ひと目お会いした時からあなたの魅力を感じ取っていましたよ」
「あなたは不思議なお方ですね」
「まあ普通ではないと思っていますが、あなたの才能をこのようなところで埋もれさせてしまうのはもったいない。あなたは自分の才能を誇るべきだし、それを活かすべきでしょう」
「旧区で、ですか?」
「ボクとしてはそう願いたいのですが、ロンダサークのどこででもあなたなら活躍できると思いますよ」
「ありがとうございます」
「それにあなたが望むなら、ヴィレッジに戻ることも可能でしょう」
「戻る? それはどういうことでしょう?」
「この服に編みこまれた紋様をみてボクは確信しました。シェラさんの家はヴィレッジに連なる家系の出だということが」
「確かにその紋様は、うちに伝わるものですが……」
「やはりそうでしたか。五十一区は流刑の地。ヴィレッジ内で政争に敗れた者もそこに送り込まれたものと聞きます。我が系譜にはかなり昔に途切れはしていますがバナザードの名もあるのです。もしあなたさえその気があれば、バナザードの家を復活させることは出来ます。望めばその地位も得られるはずです」
「わたしがヴィレッジですか?」
「そう名のることも出来ます。家も地位も手にすることが出来るのです。一生かかっても下町では得ることのできないものが手に入るのですよ」
「私の記憶はどこからきているのだろうと思っていましたが、やはりそれはヴィレッジにあったものだったのですね」
「すでに失われている記憶もそこに含まれているかもしれません。ヴィレッジはあなたの記憶を欲しているだろうし、それがあなたの力となるでしょう」
「そこで私は何を得るのでしょうね?」
「素晴らしい生活ですよ」
「そうでしょうか? 私には夢があります」
「それもヴィレッジなら可能ですよ」
「ありがとうございます。教えていただいたことには感謝いたします。ですが、私は戻ることができるとしても、それを望むものではありません」
「それはボクへの返答も含まれているのでしょうか?」
「最初に話すべきでした。申し訳ありません」シェラは深々と頭を下げる。「あなたのお気持ちはとても嬉しかったです。こんな私でも好きになってくれる人がいるのですから」
「エジノアもそうだったように、あなたを愛さない人はいないでしょう」
「私は愛することはできても、愛されるのは怖い。人を傷付け不幸にしてしまうのではと思ってしまう」
「エジノアは不幸ではありませんよ。それにボクもね」トーマは微笑む。「この服をいただけたことで少しは期待したのですがね」
「それは私のけじめです」
「けじめですか?」
「私は下町の五十一区に生まれ、育ってきました。どんなに苦しく辛いことがあろうともそこが私の家なのです。たとえ私の血筋がヴィレッジにつながっていようと、そこには居場所はないのです」
「そんなことはない。ボクが作ってみせますよ。それにソール君のことはどうするおつもりですか?」
「私の居場所は私自身で切り開きたいのです」シェラは強い意志でその言葉を口にした。「ソールのことは、ソールが家や名を求めるのであれば、それを私は止めることはしません。それがあの子の道なのですから」
「決意は固いのですね」
「私が幼かったころに出会ったある人に、私が嫌いだったはずの家や生まれに意味と誇りがあることを教えられました。そして今も前を向いて生きることを教えてくれる子がいます。あの子やその人のためにも私も今の自分に目をそむけず生きていこうと決めました」
「もったいないですね」
「そうでしょうか? 辛いことや後悔することもあるでしょうが、今の私はそれが幸せだと思っています」
「今、考えて、得られるものを手にしてください」
「私には先程も言いましたが、やりたいことがあります。今は得られなくともそのために前を向いていきたい。それが私の誇りになるはずなのですから」
「そうですか」
残念だとトーマは何度も呟く。
「はい。あなたの好意は嬉しかった。花をいただいたことも感謝いたします。そのためのお返しであり、けじめだったのです」
「大切にしますよ。あなたの気持ちがこもったこの服は」
「一度でも袖を通していただけたのですから、嬉しいです」
「あなたはやはり……」
「?」
「いや、何でもありません。その答えを訊くのは悔しいかもしれませんから」
シェラは首を横に振る。
「私の気持ちは、あの頃から変わらない」
「そうですか。うらやましいですね。ボクにとっては残念な結果になりましたが、あなたさえよろしければ、これからも友達としてお会いしてお話しすることをお許しください」
「こちらこそ私のことが嫌いにならないのであれば」
「あなたを嫌うことなど出来ませんよ。それにソール君との付き合いはまだまだ続きそうです。ボクはこれからも下町に顔を出すことにするつもりです」
「エアリィやクロッセですか?」
「ええ、ヴィレッジにいるよりも面白いことが出来そうだし、起こりそうですからね」
「そうですね。それは正しい判断だと思います」
「まあ、お二方には煙たがれるでしょうがね」
「エアリィはいい子ですから、大丈夫ですよ」
「その言葉を信じることにしましょう」
トーマは手を差し出す。シェラは微笑みながらその手をとるのだった。
軽く握りしめ合った手を離すとトーマは小さく頷く。
「またお会いしましょう」
二人はそういうと静かに別れるのだった。
シェラはトーマの背中が見えなくなるまで見送ると広場のベンチに腰を下ろす。
空は朱に染まり、いつの間にか紫色に変化しようとしている。
心が痛い。
まだ日が落ちていないはずなのに身体は小刻みに震えている。彼女は震える身体を抱きしめようとするがそれでも止まらない。
決めていたはずなのに、彼にその言葉を投げつけると、切なく辛かった。
誰も傷つけず愛し、愛されることは難しい。それでも人は求めてやまない。自分自身の幸せを。
頬を伝うものが涙だと気付くのにシェラはしばらく時間がかかった。
5.
「じゃあ、始めましょうか」
少女はステージに集まったスタッフに笑いかける。
「おいおい、そんな簡単でいいのか? その辺に遊びに行くんじゃねぇぞ」
マサは少女の何気ない言葉に拍子抜けした気分だった。
開場を前にして緊張した面持ちの者達もいるのに、少女の言葉はあまりにもあっさりとしていた。
「だってあたしたちも楽しむのですよ。そんなに気を張ってどうするのです?」
「そりゃあそうだがよ」
「マサさんは楽しんでくれていますか?」
「おう! おれが頂点に立つんだからよ」
「皆は? あたしは楽しいですよ。それにこれからもっとわくわくドキドキするようなことが起きるのですから、皆で楽しく行きましょう」
「了解した」シュトライゼは頷く。
「とはいえ、これからでっかいことを始めようっていうんだ。いっちょう気合入れてから行きたいもんだよな」
親方の言葉に誰もが同意する。
「それではエアリィ嬢に仕切ってもらいましょうか」
少女が口を開くよりも早く、シュトライゼが機先を制し、少女に話を振るのだった。
「あたし? あたしでいいの?」
「お嬢が始めたことだからな」
クロッセをはじめとした全員が期待のまなざしで少女を見つめ、言葉を待つ。
少女はほんの少し考え、頷くと歌い出す。
風と砂と水よ
進むは遥か砂雲と砂漠の交わる彼方
力と知恵と心を合わせ
我らひとつとなりて
ここに供にある
即興でトレーダーの詩とオアシスの詩を合わせて少女は歌う。
最後に大きく掛け声をあげ、パン! と手を合わせる。
それを合図に全員が手を合わせた。
会場に彼らの声がこだまする。
開始の花火が打ち上がり、ロンダサーク初の試みであるアームレスリング大会が始まる。
〈第十七話完 第十八話へ続く〉
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