ガリアⅩⅥ ~縁の響宴③
1.
「ちょっと! あなた、どういうつもりなのよ!」エアリィは声を荒げ猛然とトーマの胸倉に掴みかかる。「なにふざけたこと言っているのよ!」
「いや、ぼくはふざけてはいないし、いたって真面目なのだけれど?」
大真面目な表情で彼は少女を見つめている。
「なんでヴィレッジがわざわざ下町まで来てプロポーズをしているのか、訊いているのよ!」
「駄目なのかい?」
「ダメってねぇ……」
トーマのひょうひょうとした物言いに少女は次第に毒気を抜かれていく。
「おかしいと思わないの?」
「だから何がだい?」
「変じゃない。ありえないでしょう。ヴィレッジが下町の人間に言いよるなんて!」
「言い寄っているだなんて、違いますよ。ぼくはシェラさんに嫁いでもらいたいと言っているのですよ」
「聞いたことがないわよ! 旧区と下町の間でそんなことができるの?」
「ぼくの知る限りでは、奉公以外で下町の人間が旧区に住むのは聞いたことがないかな」
あっけらかんと彼は口調で微笑んだ。
「胡散臭い顔で笑うな!」手に力がこもる。「出来もしないことを言わないでくれる!」
「前例がないからといって諦めたくないから、あえてぼくはシェラさんに求婚したわけですよ。ぼくだって時間が欲しかった。ひと目見ただけでシェラさんの虜になってしまったけれど、その気持ちが本物なのか、そしてぼくがシェラさんを幸せにできるのかをね」
「いっときの酔狂じゃないって言いたいのかしら?」頷くトーマを見ながらえてりぃは言葉を続けた。「あなたは、クロッセをヴィレッジへ連れ去るために五十一区に来たわ。その一環じゃないっていう証拠はあるの?」
「プロポーズとクロッセの件はまったく関係ありませんよ。クロッセを引き抜くことは無理だと分かっていますから」ヴィレッジ上層部の顔を立てただけにすぎない。「それに関しては信じてもらうしかありませんが、ぼくはシェラさんの聡明さに惚れ込みました。その気持ちに偽りはありません」
真剣な面持ちでトーマはシェラの昨日の一挙一動の素晴らしさを讃えた。
「外見だけじゃなく、シェラのことをちゃんと見てくれたことはほめてあげるわ」
「ありがとうございます」
「でも、それとこれとは別よ。あなたが旧区でシェラを幸せにできるわけがないじゃない!」
「なぜです?」
「あなたたちはヴィレッジよ! 下町を見下し、何も出来ないくせしてロンダサークは自分たちのものだと思いこんで、下町を苦しめるヴィレッジなのよ!」
「ぼくはシェラさんを幸せにしてみせますよ」
トーマは白い歯を見せ笑った。
「その言葉だけで、信じられますか!」
再びボルテージが上がる。住人達がそれを聞きつけ集まり出す。
「しかし、これは当人同士の問題でもあるでしょう。あなたがどうこう言う問題ではないと思いますが?」
「誰もいわないからあたしが言うのよ。あえて言わせてもらうわ、ヴィレッジは信用できないし、そもそも旧態依然なところでシェラが幸せになれるわけないでしょう」
「痛いところをついてきますね」
「本当のことじゃない! あなたにはなにも変えられないし、できるわけがないでしょうが」
「そうかもしれませんが、それはクラッシャーといわれるあなたの言葉とは思えませんね」
「はあ! クラッシャーってなによ?」
「ああ、すいません。これはヴィレッジ内でのあなたの俗称でしたね」
「聞き捨てならないわね」
「ヴィレッジの上層部からは、秩序の破壊者として、あなたは恐れられ憎まれているのですよ。」
「ヴィレッジが理不尽なことを言ってくるから、あたしは戦っただけじゃない。それにあなたたちの秩序なんて知ったことじゃないわ」
「自分達の優位性が失われようとしているのですからね。あの人達も必死なのでしょう」
「優位性? あるわけがないでしょう。なにもしてこないまま太古からのありもしない力によりかかっている人たちに」
「そうですよね。だからこそ変えたいじゃないですか?」
「あなたひとりになにができるっていうの?」
「あなたは一人で下町に変革をもたらしているのに異なことを申されますね」
「なにを勘違いしているのかわからないけれど、下町が変わっているのだとしたら、あたしひとりの力じゃないわ!」
「ぼくの目から見ても下町は変わりましたよ。その輪の中心にあなたがいるのは確かですよ。いまではクラッシャーと呼ばれるだけじゃなく、ヴィレッジにとってエアリィ・エルラド嬢は恐怖の大王でもあるのですよ」
「知ったことじゃないわ」
「そうですね。ですが、ぼくも変革をもたらしたいのですよ」
「ヴィレッジや旧区であなたがなにをしようと勝手だけれど、あたし達をまきこまないでほしいわ」
「申し訳ありません。ですが、シェラさんへのプロポーズは引く気はありません。ぼくも真剣なのですよ」
「本当に変なやつね」
「ありがとうございます」
「ほめてなんかいないわよ!」
少女はようやく手を離した。
気が付けば少女とトーマを囲み、人の輪ができている。
シェラは戸惑いながらトーマから手渡された赤い花を見つめているだけだった。
「返事は後日うかがいに来ます」
トーマはそう言って五十一区をあとにしていった。
プロポーズされたことに関してシェラは何も口にはしなかった。
赤い花をシェラは大事そうに抱えてはいたが、少し寂しげな表情を見せ、家の中へと戻っていく。
それが少女を不安にさせる。
真っ先に断るとばかり思っていたからだ。
もっとも少女が先にトーマに詰め寄っていったために、機先がそがれてしまったということに彼女は気付いていなかった。
「さすがシェラちゃんだねぇ」
「美人さんだからなぁ」
様子をうかがっていた住人達は口々に言い、頷き合う。
「シェラがあたしから見ても美人なのはわかるわ。結婚していないのが不思議なくらいよ。それにシェラならもっといい縁談だってあってもいいと思うの」
「そういう話もあったんだがな」
「あれは良縁か?」
「どれのこと言ってるか知らんが、あれじゃねぇぞ」
「えっ?」
「エアリィちゃんは知らないか」
「そりゃあそあさ、ずいぶん前の話だからな」
「それってどういう話なの?」
口にしてしまって、大人たちは困ったように顔を見合わせる。どうしたものかという反応だった。
「なにか訊いてはまずいことだったの?」
「シェラちゃん本人のことでもあるし、あまりいい話ではないし、おれらも噂でしか知らねぇからなぁ」
「また五十一区絡みの話なの?」
「そういうことかな」
「誰かくわしく知っている人はいるのかしら?」
「まあ、けっこう大きな話だったけど、詳しいこととなるとやっぱりベラル師かねぇ……」
「双方の事情を聞いていたらしいし」
「わかったわ」
少女は少し考えて、頷く。シェラに聞こえてしまうような場所でする話ではなさそうだと判断したからでもあった。
集まった者達も少女の言葉にホッとした表情をするのだった。しばらくして彼らもまた解散して行く。
「な、なにかあったのか!」
クロッセがシェラの家に駆け込んできたのはそれからしばらくしてのことだった。
「なに、って、なにが?」
彼の剣幕、勢いに少女はシェラと顔を見合わせる。
「それにどうしたのよ、そんなに息をきらして!」
よくよくクロッセを見ると、驚くほど息を切らし、いまにも倒れ込みそうな勢いである。
シェラは慌てて立ち上がると台所の水瓶からお椀に水をすくう。
「い、いい、いや……、その、ね、ぇ……」
力なく彼は笑う。
壁に手をかけ部屋の中を見回し、シェラの姿を見つけると、安心したのかその場にへたり込む。
「大丈夫、クロッセ?」
声も出ないのか、クロッセはシェラから水をもらうとただ頷くだけだった。心臓は飛びださんばかりに激しく早鐘を打ち鳴らしている。
水を口にしてもなかなか飲み込むことができない。
「そんなに慌てて走ってくるなんて、クロッセらしくないわね」
「そ、そうかな……確かに、こんなに……走ったことは……なか、った、かな」
まだ喘いでいたが、それでもなんとか話せるようになってきた。
「どこから走ってきたのよ?」
「こ、工区から……」
「よくまあ、この炎天下を走ってきたわね」
少女は呆れる。
「……そうだね……」
「それでどうしたの?」
「な、なにが?」
「そんなにあわてて、なにかあったの?」
「い、いや、そのね……リズラ婆さんが……」
「あのリズラお婆さん?」
ご近所の世話好きで元気なおばさんだった。
「うん。大変だから急いで戻れって」
とぎれとぎれに出てくる言葉から推測するに、シェラが大変なことになっているから家に戻った方がいいと、リズラ婆さんに言われたのだという。それにしてもリズラ婆さんはどこでクロッセの居場所を知ったのだろうか?
「それで戻ってきたの? 理由とか訊いたの?」
「と、とにかくシェラが大変だから、急げって言われたんで」リズラ婆さんの勢いに押されて慌ててマサの工房を出たらしい。「そ、それでなにがあったの?」
「終わったわ」
「終わったって……?」
「いえ、終わったわけじゃないわね」少女はチラリとシェラを見る。「竜巻はすぎさったけれど、砂嵐は続いているって感じかしら」
「よく判らないよ」
「まあ、あたしの予報では、これからそれが大竜巻になるか、よき風になるかはクロッセしだいだと予測するわけよね」
「ますます判らないよ」
クロッセは困惑するばかりだった。
2.
「そうか、トーマが……」
クロッセは顔に手をあて、天を仰ぐ。
そこに容赦なく日射しが照りつける。手を離せば肌を焼き尽くすようだった。まだ太陽は高く天空にありオアシスを照らし続けている。
少女は工区に戻るというクロッセとともに大通りを歩いていた。五十一区を出てしばらくして少女は何があったのか、クロッセにようやく状況を語り始めた。
「どうしたの、あまり驚いていないわね?」
「ああまあ……なんていうか……トーマならやりそうだと思った。それにシェラの部屋に赤い花があったからね」
「花は珍しいものですものね」
花を愛でることができるのは、ロンダサークでは旧市街区のそれも命の泉があるその周辺だけで、裕福な家でしか育てることはなかった。下町では作物を作ること以外で多くの水を使うゆとりはない。
「花のための水も用意するのだから、気は利いているのだろうけれど、贅沢すぎて逆に引いてしまうわ」
水がなければせっかくの花も数時間で乾燥し干からびてしまうだろう。それでも下町では水は自分たちが生きていくために必要なものだった。旧市街区とは相いれないものだ。
「トーマはそういうやつだからね。彼もまたヴィレッジで、下町の詳しい状況なんか判りはしない」
だがその気配りが利いて、旧区では女性に人気がある。
「女性に交際を申し込む時にトーマが花を使っているのは僕も見ているからね。それにシェラが気になっていたのはあいつの様子からなんとなく判った」
「そうなんだ」
少しさめた目で少女はクロッセを見つめる。
「なんだよ、その目は?」
「わかっていたら言ってくれてもいいじゃない?」
「すまない。でも、こんなに早く行動を起こすとは思わなかったんだ。本当だよ。シェラは、その……きれいだし、誰よりも聡明だ」
「あいつもそう言っていたわ」
「そ、そうか……だから僕はシェラをトーマに引きあわせるのは嫌だったんだ」
「そのわりに、あいつが来た時なにもしなかったじゃない?」
「……僕の部屋があの有様だったし……」
「そうよね。あの時、あの場にすでにシェラはいたのですものね」
「ソールの先生になっていたことは知っていた。それでもあいつが五十一区に来るようなことはないと思っていたのになぁ」
「残念だったわね。あいつはシェラへの気持ちは真剣だといっていたけれど、どうなの?」
「本気だと思う」
「思う? ハッキリしないわね」
「この前も言ったけれど、トーマは女好きで通っているからね。ヴィレッジでも様々な女性に声をかけていたよ。当人は意味があるとか言っていたけれど、それが何なのか僕には判らなかったしね」
「そっちのほうが信用できないわよ!」
「そうかもしれない」クロッセは苦笑する。「トーマはあの容姿だからね。人気はあったし、声をかけた女性達とはうまく付き合っていたから。僕の知るかぎり、問題らしい問題を起こしてはいなかったんだよね」
「問題ってなによ?」
「妬みや嫉妬から家同士の対立とか、女性問題とかで調停者が出たりすることもあったし、昔は決闘っていうのもあったらしい」
「はあ……」
「まあ、だから同性から妬まれていたかな」
「クロッセは?」
「僕はそういうのに興味なかったから、気にしなかったな」
「今はどうなのよ?」
「変わらないなぁと思ったよ」
「そうじゃなくて!」クロッセのことを訊いているのに!
「他に何かあるの?」
「あなたねぇ、シェラのことなのよ! それでも興味ないし関係ないの?」
「……そ、それは……トーマがプロポーズするのはあいつの勝手だし……」
「子供か!」少女はクロッセに向かってビシッと人さし指を突き付ける。「それともシェラが旧区に行ってしまってもいいというわけ?」
「そ、それは……」
「困るでしょう?」
少女はクロッセを覗き込むように見つめる。
「そ、そうだけど……」
「それともなに? シェラが五十一区を見捨てるわけがないとでも思っているわけ?」
「ヴィレッジに行ってもいいことがあるわけないだろう!」
「じゃあ、クロッセとしてはどうしたいわけよ?」
「どうって……決めるのはシェラなわけだし……」
「それは最終的に決めるのはシェラでしょうけれど、あたしが聞きたいのは、クロッセがシェラをどう思っているかよ!」
少女はクロッセの前に立ち、歩みを止め彼を見上げるのだった。
「えっと……」
「そんなに言いづらいことなの? シェラのこと好きじゃないの? 愛してないの?」
少女の声は意外に大きく道行く人は何事かと二人を見つめる。
「あ、あい……って……」
クロッセは顔を真っ赤にしてどもる。
「あたし、おかしいこと訊いたかしら?」
「え、え~と、その……」
少女と目を合わせることなく、視線をさまよわせるクロッセだった。
「ハッキリしないわね。そんなことでは先に愛想つかされるわよ」
「ど、どうして?」
「あら、ずいぶん自信があるのね。じゃあ、クロッセにとってシェラはなんなのよ? 家族でもないのでしょう?」
「いやだから、僕がトーマのプロポーズに対して何か言える立場じゃないだろう?」
「なにも言えない関係なわけ? そういう付き合いだったわけ? ただの知り合いとか、ちょっとした隣人なんて言うようだったら、あたしがクロッセを殴るわ。気づくまでとことんね」
強く拳を握りしめ少女はクロッセに迫る。その迫力にクロッセの腰が引けたくらいである。
「こ、こわいよ」
「あのさ、召使いとかそういう考えじゃないのでしょう?」
「いくら僕が旧区の出身だからってそれはないよ」
強く彼は首を横に振った。それを見た少女は振り上げた拳を下ろし、小さな吐息をつく。
「あれだけシェラに気にかけてもらっている人もいないわよ」
「それは僕がひとりじゃ暮らしていけないだけで」
「クロッセに生活力がないのは誰だって知っているわ」何を今さらと肩を少女はすくめる。「あそこは五十一区よ。ひとりでも生きていけなければ、すぐに行き倒れてしまうこともあるのよ。それを知っているうえでシェラの気持ちを考えたことがあるの?」
「気持ち? ……そう言われても……」
「そこについている頭はなんのためにあるのよ」
憐れむような目でクロッセを見る。
「そ、それはシェラに頼ってばかりいる僕も悪いけれど」
「そういうことを訊いているわけじゃない!」
「じゃあ、なんだっていうんだよ!」
「それくらい、自分で考えろ!」
逆切れするクロッセに向かって放った少女の言葉は、怒気すら含んだ強いものだった。しかし、次第にそれは優しい声に変っていく。
「なんのためにその頭はあるのよ? ただウォーカーキャリアのことだけいままで考えてきたわけではないでしょう? もっとシェラに言う言葉があるじゃない」
「僕は……」クロッセは再び首を横に振る。「やっぱり判らないよ」
「自分のことなのに? 考えたくないだけじゃないの? 自分が頼りないとか、熱中してしまうと他のことが見えなくなってほったらかしにしてしまうとか、そう言って逃げたくなっているだけなのでしょう? クロッセ、あたしが言うのは簡単よ」
少女はそれでは意味がないと言いたげだった。
「そうなのかい?」
しかしクロッセから帰ってきた言葉には、深いため息をつくしかなかった。
「あんたって救いようがないくらいバカで鈍感なの? シェラはあなたのことが好きよ」
どうしてなのかは判らないことだらけだったが。
「えっ?」
クロッセは自分で自分を指さしながら少女を見つめる。少女が頷くのを見てさらに驚きの声を上げるのだった。
「なにを驚いているのよ」
「そ、そんな……というか、エアリィやソールにだって好きだって言っているじゃないか、そういうことだろう?」
「まだ現実逃避したいわけ? 確かにあたしにも『好き』といってくれる。でもクロッセへの『好き』とは違う」
「同じじゃないか」
「スペルとしてはそうかもしれない。でもそこにふくまれるものは全然違うわ」少女は意味あり気に笑った。「でも、その驚きようからすると、シェラに言ってもらったことがないの?」
「え~と……」
クロッセは考え込む。遥か昔にあったような気もするが、やっぱり記憶がなかった。
「言ってしまうのがこわいのはシェラもいっしょなのかもしれないわね」
「なに大人ぶったこと言ってるんだよ」
「あたしが? ご冗談を」少女は声を上げて笑った。「あたしは子供よ。恋だの愛だの、そういうのはわかりませんよ」
少女は舌を出してクロッセに言い放つ。
「でもね、シェラとクロッセを見ていれば、あたしにだってわかることがあるわ。ふたりは友達とか親しい隣人とかそういう関係じゃないってね」
「じゃあなんなんだよ」
「あたしなんかより強い絆がある」
「そ、そうかな……」
「なに照れているのよ」少女は呆れる。「はたから見ているとわかることもあるわ。クロッセだってそういう人たちを見たことがあるでしょう?」
「どうだったかなぁ」
「まったくあなたって人は! 失って後悔しても後戻りはできないのよ」
「後悔って、お、おどかすなよ」
「あら、ずいぶんクロッセは余裕なのね。シェラがヴィレッジには絶対に行かないと思っているわけかしら? あいつのプロポーズを断ったとしても、ソールはどうかしら。彼がヴィレッジの住人になったとたら、ソールは絶対にシェラも連れて行こうとするわよね。あいつはそれがシェラの幸せだと思いこんでいるからね」
「……」それを聞いてクロッセは何とも言えない表情を見せる。
「気付いたようね。絶対なんてありえないのよ。だから、考えなさい」
「わ、判ったよ」クロッセの顔を覗き込みながら少女は語りかける。「しかし、まいったなぁ~」
「なにがよ?」
「エアリィの方が僕よりもずっとずっと大人だな」
「あたしはひとりでは何もできない子供よ」少女は首を横に何度も振る。「だからね、あたしが大人なのではなくて、クロッセがあたしよりも子供なのよ。五才児にでも気づきそうなことがわからないのですからね」
「そうかもしれない」
クロッセは苦笑するしかなかった。
「でも、あいつは、トーマは本気で僕をヴィレッジに連れ戻したいのかもしれないな」
「それは穏健派の考えなのでしょう?」
「結果的にその尻馬に乗ってきたのかもしれないけれど、仲間が欲しいのは本当だと思う」
「バカをやる?」
「そうじゃない。本気でヴィレッジを変えたいんだろうな」
「でもクロッセはもう関係ないでしょう?」
「確かにそうだけど、仲間は多い方がいい」
クロッセもウォーカーキャリアの再生には多くの人の手が必要だった。ことが大きくなればなるほど協力者は多い方がいいと気付かされた。
「いまさらのような気がするわ」
「今考えてみると、トーマは僕が下町に行くのをよく思っていなかったのかもな」
「なにかされたとか? もしかして下町にくるのが遅れたのが、あいつのせいだったの?」
「あ~ぁ、どうかな。それでも僕が下町へ行く話をしてから、トーマは僕によく声をかけてきて興味をそらそうとしていた気がする」
新しい実験器具を持ってきたり、古い設計図を見せられては、それに熱中してしまったこともあった。
「クロッセのことをよくわかっているわよね」
「わざとやっていたのかもしれないな」
「そういうことには気づくのね」
「エアリィが考えろって言うからだろう」
「あたしが言ったのはそういうことじゃない。気づいたのはそれだけ?」
「あいつが、声をかけていたのは総じて頭の良い子たちだったような気がする」
「……ちがうのになぁ……、それにしてもなぜ女の人ばかりなのよ」
「男連中の中でトーマについていけたのは僕だけだったのかもしれないね」
「それでも、それが改革につながるとは思えないわ」
「難しいだろうね。ヴィレッジは巨大で長く深い歴史に囚われている。簡単に変えられるものじゃない。外側から見ているとなおさらそう思える」
「でも、あいつはやる気よね」
「変えなければならないのは本当だろう。それにトーマから聞いたヴィレッジの状況からすると、あいつはある程度力や地位を得ることはできるだろうけれど……、もしかすると他にも考えていることがあるのかもしれないな」
「それがもしも、あたしやシェラや下町のことだったりしたら、まきこまないでほしいわね。自分でなんとかしなさい。協力するつもりはないわ」
「エアリィらしいね」
「そうかしら? オアシスがひとつになるのなら、それはそれでいいことかもしれないけれど、権力とか自分のことだけを見ているなら、勝手にやってほしいだけよ」
「そうだね。ここにはヴィレッジにはないものがある。何もないところじゃない。可能性も誇りもあるところだからね」
「いいこと言うじゃない」
「昔、そうだった。それをシェラに教えられたんだよなぁ」
遠くを見つめるような目でクロッセは呟いた。
二人のそのやりとりが見えるようだと少女は思った。
「この幸せ者!」
クロッセの後ろに回り込み背中を思いっきり叩いた。それと同時にシェラが寂しそうに背を丸め座り込んでいる姿が思い出される。
シェラは今なにを思っているのだろう?
「な、なにすんだよ」
「あたし、もどるわ」
「館にか?」
「ちがうわ、シェラのところによ」
「なんで?」
「クロッセがそうだから、シェラが心配なの」
「シェラなら大丈夫だろう?」
それが気にしすぎだったのならば、それでいいだろうが、なぜか気になった。それにシェラにだって喜怒哀楽はある。ひとりだと辛い時もあるはずだ。
「まったく気がきかない人よね」そう言いながら少女はクロッセの背中を押す。「さっさともどって仕事してきなさい!」
少女はクロッセと別れると彼に背を向け、走り出した。
「考えろ、考えて、考え抜くのよ。後悔しないように。あたしも考えるからさ」
工区に戻る頃には外壁によってできる影が街を覆い始めていた。
「おお先生、慌てて帰って何があったんだ?」
マサの工房に戻ると、クロッセにマサが声を掛けた。そして手にした工具を置くと工房の者達が彼を囲むように集まってくる。
クロッセに何があったのか誰もが興味津々であった。
「シェラちゃんに何かあったのかい?」
居合わせたハーナも戻ったクロッセに訊ねるのだった。どうやらリズラ婆さんは何も言わずすぐに立ち去ったようである。
少しホッとするクロッセだったが、彼を囲む者達を見ていると、何も説明しないわけにはいかない状況だった。どう説明したらいいのか……さらに困惑することになる。
「えっと……その」クロッセはしどろもどろになりながら、なんとか話そうとするが、なかなかうまく言葉にできないようだった。その様子を見たハーナは立ち話も何だからと、お茶の準備を始め一同を工房の休憩室へと集める。
そして工房の者達が一室に集まり、全員がクロッセに注目するのだった。
彼にとってはさらに針のむしろにいる気分だっただろう。話しながら終始顔を紅潮させ、俯くように話し続けていた。
「そんなことがねぇ」
話し終わって、ハーナが半信半疑の様子で呟いた。
「で、先生、そのヴィレッジの野郎は追い返したんだろうな?」
「い、いや、僕が五十一区に戻った時にはトーマはいなかったので……」
もしかするとエアリィがそうしたかもしれないが、クロッセは慌てて手をバタバタ振る。
「砂でもまけばいいんだよ、そんな野郎にはよ!」
マサは腕を組み鼻息荒く、言い放った。
「まったくこの人はねぇ……」ハーナはマサに呆れる。「それにしても聞いたことがないよ。ヴィレッジが下町に現れることだけでも驚きなのに、求婚だなんて」
「まあ、それだけおれたちを無視できなくなっているんだろうよ」
「特にエアリィと彼女のウォーカーキャリアはそうなのでしょうね」
クロッセはマサに頷く。
「ごり押しではなく話し合いってのも驚きだよ」
「強硬手段を取ったとしても、エアリィはロンダサークの法や秩序の外にいます。いくらヴィレッジでも宙港やトレーダーにまでは強制はできません。それに彼女は彼らがどのような手段をとろうと、その罠をかみ砕き食らい尽すでしょうね」
「まあ、それが見ていてゆかいで楽しいんだがよ。だからって、今度は先生やシェラ嬢ちゃんまで巻き込むのは、とんでもねぇ話だ!」
マサは拳でテーブルを叩くと、その勢いでカップからお茶が飛びだすほどだった。ハーナがそんなマサの後頭部を手にしていた盆で叩く。
「でもシェラちゃんの件は、その人の個人的な申し込みだったんだろう?」
「そう僕は聞きました」
「そうかい。シェラちゃんはどう言っているんだい?」
「判りません。訊けませんでした」
シェラの目が何かを訴えかけているようで、それが怖くてクロッセは訊けなかった。
「そんなのお断りに決まっているだろうが、はなから話しなんて聞く必要もねぇよ」
「少しは落ち着きなよ、あんたも」
「だってよぉ、ヴィレッジがこんなことにまで介入して来てるんだぜ。黙っていられるかよ」
マサの言葉に弟子達も頷くのだった。
「そりゃあ、そうだけどね。シェラちゃんのことはシェラちゃんの問題なんだよ」
「そうですよね」
少しホッとするようにクロッセは呟いた。
「でもね、先生はどうなのさ? シェラちゃんのことどう思っているんだい?」
「そうだぞ」
工の頭も身を乗り出す。
「どうってその……やっぱりこのままじゃいけませんよね」
「当たり前でしょう。シェラちゃんを見ていると判るよ。あの娘は待っているよ。絶対に」
「そ、そうでしょうか?」
「なんだ、ハッキリしねぇなぁ、先生もよう」
「で、でも……」
「あんたも急ぎすぎなんだよ」
「痛てぇなぁ。少しは加減しろよ」後頭部を押さえながらハーナを見る。「判り切ったことはさっさと済ませた方がいいだろうが」
「あんたは、それでもいいかもしれないけれどね。そうもいかないこともあるさ」
「そういうもんかねぇ」
腕組みし首をひねるマサだった。
「あんただってそうだったでしょうが」
ハーナは訳知り顔でマサを見る。その意味に気付いた工の頭は顔を真っ赤に紅潮させるのだった。
「お、おれのことはいいんだよ。おれたちのは!」
「じゃあ、そういうことにしておこうかね」ハーナは微笑むとクロッセに向き直る。「ただね、このままでいいわけはないよね」
ハーナが顔を近づけ、クロッセを覗き込んだ。
「は、はい。エアリィにも言われました」
「そうかい、そうかい。なら、言うことはないかねぇ」
「はあ……」
「なんなら、こっちで段取りつけてやってもいいんだぜ」
「やめときなよ」
「なんでだよ?」
「野暮なことはするんじゃないよ。そういうことならエアリィちゃんがやっていたっておかしくないだろう?」
「うっ、……まあ、そうだなぁ」
ハーナに睨まれてマサは黙るしかなかった。
「まあ、必要なことがあるんだったら、何でも言っとくれ、わたし達も協力するからさ」
「そうだぜ、ヴィレッジがなんか言ってくるようだったら、工の民も黙っちゃいねぇことを覚えておいてくれよ」
「わ、判りました。ありがとうございます」
マサとハーナの勢いにクロッセは苦笑しながらも安堵するのだった。
「あんた、ちょっと」
クロッセと弟子達が工房に戻り、マサもその場に立ち会おうと立ち上がろうとした時、ハーナが彼を呼びとめた。
「先生とシェラちゃんのことだけどね……」
エプロンの裾を握りながらハーナは言う。
「なんだよ、おめぇにしちゃあ歯切れが悪いな」
「わたしもね、シェラちゃんにお見合いの話を持っていったことがあるのさ」
「先生がいるのにかよ?」
「あんな良い娘がひとりだからね。ちょっと気になったしね」
「まあなぁ、あんな良い子はいねぇよなぁ。先生の良い人じゃなかったら、アベルの嫁にでもと思ったのによぉ」
「あんたねぇ、アベルには良い人がもういるって知らないのかい?」
「へっ? そうなのかい」
「これだから男はねぇ」
「ま、まあ、気づかねぇのは悪かったけれどよ。今は先生のことだろう?」
「そ、そうだったねぇ……わたしはヨンナサンとこの息子さんを紹介しようと思ったのさ」
「おおっ、あそこの長男坊か、いいんじゃねぇか、ヨンナサンも区とかあまり気にするやつじゃねぇしな」
「だろう。断られたら断られたで、先生のことがよっぽど好きなんだろうしさ、そん時は二人をたきつけてもいいと思ったんだよ」
「実際のところよ。それやったのか?」
「勧めたけれど、断られたよ」
「そうか、じゃあ、先生で決まりなんだな。あとはやること決まってんだろう?」
「やめたよ」
「なんでだよ。おめぇらしくねぇな」
「まあね、その前に気になる噂を聞いたのさ」
「噂?」
「そう。他の地区の奥方から聞いたんだけれどね」ハーナは小声で耳打ちするようにマサに言う。「昔、シェラちゃんは五家の次期当主から求婚されたことがあるらしいんだよ」
「はあ? 本当かよ! あの五家のか!」
「ば、ばか、声が大きいよ」
口に指をあてマサを制する。彼も慌てて口元を押さえる。
「せ、先生はそのこと知っているのかよ?」
「あの様子じゃあ、知らないのかもねぇ」
「それじゃあ、シェラ嬢ちゃんはもうそっちと婚約も済ませているっていうのかい?」
「どうもそうじゃないらしいんだよね……詳しいことはその人達も知らないらしいし……なにが起きていたんだろうねぇ」
「シェラ嬢ちゃんには訊いたのかよ?」
「訊けるわけないだろう!」
声が大きくなって慌ててハーナも口元を押さえる。
「もし五家がからんでいて、めでてくねぇ話だとしたら、それは誰も話したがらねぇだろうさ」
「やっぱり、地区のことかねぇ……」
工の民は孤高の民と言われ、他の地区と一線を画してきたところがある。そのためか、他の地区ほど五十一区を差別するようなことは少なかった。
「判らねぇが、ありそうなことだよな」
「苦労してきたらしいし、シェラちゃんには幸せになってもらいたいんだけどねぇ」
「まあハーナが言いてぇことは、なんとなく判った」
「そういうことだよ。特にシェラちゃんはソッとしておきなよ」
「そうは言ってもなぁ……、お嬢は知ってんのかな?」
ハーナは首を横に振る。
「判らないわ」
「そうか」
マサは頭をかきながらため息をつく。
「やれやれ、なかなかうまくいかねぇもんだな」
3.
汗をぬぐい、息を整えると少女は足を忍ばせシェラの家に近づく。そして、ソッと中を覗き見るのだった。
日はまだ高かったが、窓もカーテンで締め切られ中はひどく薄暗かった。
シェラは絨毯の上にただ座り込んでいるようだった。
彼女の視線の先にあるのは、あの花かと思ったが、どうやらそうではないらしい。視線をさまよわせたかと思うと手にしたものを見つめ吐息をついていた。そうかと思えばそれを強く握りしめ何かに祈るような仕草を見せる。
たった数日のことなのに凄くやつれ疲れ果てているように見えてしまう。
「シェラ」
少女はしばらくその様子を見つめたあと、入口の布をめくり中に向かって努めて明るく声をかけるのだった。
「エアリィ、どうしたの? 忘れ物?」
シェラは無理に笑おうとしていで、少女にはそれが痛々しく感じられる。
「……えっと……、そうかもしれない」
「何かあったかしら?」
シェラは手にしたものをポケットにしまうと立ち上がり、周囲を見回した。
「ねぇ、シェラ。今日、館に来ない?」
「えっ? どうしたの、急に?」
「今日はそうしたい気分なの」
シェラに近づきながら少女は笑いかける。
「ありがとう。でも……」
シェラは目を伏せる。
「こんなシェラを見たら、是が非でも連れていくわよ」
そういうと少女はシェラの手を取り強く握りしめる。
彼女の手は夜の石のように冷たかった。薄暗がりで気付かなかったが、顔色も悪く、白い肌が更に白く見えた。
「……でも……」なおも俯き渋るようなシェラを少女は無理やり引っ張っていこうとする。「……判ったわ、判ったから。ソールに書置きして行かなくちゃ」
「あいつは戻るかどうかもわからないのでしょう?」
こんな時まで他人の心配をするのはシェラらしいと思った。
「そ、そうだけど……」
「いいわよ。そいうのならお向かいのミルレさんに頼んでいけば」
少女はシェラの手を握りしめながら、外へと連れ出すと向かいの家に大声で声をかけるのだった。
シェラは少しだけ微笑むと、少女に手を取られ歩きだす。ただ、その一歩一歩が重く辛いものに感じられた。
「疲れがたまっていたのでしょうね」
マーサは静かにドアを閉めると部屋の外で待っていた少女に告げる。
「あたしが悪いのかな、無理に連れてきたから……」
「そんなことはありませんよ、お嬢様。シェラ様もきっとここに着いて安心できたのでしょう。そのようなお顔でした」
「そうなのかな」そうだといいけれど。
「どうしてなのかは判りませんが、シェラ様は長いこと気を張っていらしたのでしょう。何かの拍子に緊張の糸が切れてしまったのかもしれませんね」
「緊張? ……シェラが?」
扉の向こうで眠っているシェラに目を向ける。
「それよりわたくしは倒れた時にそばに誰もいないほうが怖いですよ」
トレーダー地区へと向かうあいだもシェラは無言だったので、少女はその手を離すのが怖くて、そのまま手を握りしめ歩き続けたくらいだ。
顔色は本当によくなかった。館に着いても汗がなかなか引かず、その様子を見たマーサを慌てさせた。
口にした果実を戻してしまったシェラをマーサは急いでベッドに寝かしつけるのだった。
「シェラ、大丈夫かな?」
「大丈夫です」マーサはつとめて明るく言う。「少し熱があるようですが、滋養に良いものを食べればすぐに元気になりますよ」
「そ、そうだよね」
「わたくしは精の付くものを作ってまいります。お嬢様はシェラ様の側についていてやって下さい」
「わかった」
マーサに励まされ少女は気を取り直す。静かに扉を開け部屋の中に入ると、ベッドの脇の椅子に腰かける。
ベッドの中のシェラの寝息だけが聞こえてくる。
「エアリィ」
しばらくしてゆっくりとシェラが目を開ける。
「シェラ、起きていたの?」
「ええ」
頷くその声は弱々しく聞こえた。
シェラは起き上がろうとするが、力が入らないのか、体が思うように動かない様子だった。
慌てて少女は彼女を寝かしつける。
「無理はしないで」
「私は大丈夫なのに……」
シェラの目から涙があふれてくる。
「いくらでも休んでいいから」
そうしないとシェラがどこかに行ってしまいそうだった。
「そんなわけには……」
まるで子供のようにシェラはベッドの中でもがこうとする。しかし、それは少女に押さえられてしまうほど弱い抵抗でしかなかった。
「シェラは働きすぎよ。少しは休まないと、本当に体を壊してしまうわ」
シェラは本当によく働いていた。少女の店だけでなく農区に出稼ぎに行ったりしているし、家にいる時でも織物は休まなかった。そして家事をこなしクロッセやソールの世話も焼いている。
少女から見ても超人的といってもいい。
「……でも……」
「家のこととか心配しなくてもいいから」
少女の言葉にシェラの抵抗が止んだ。
「おねがい、エアリィ。クロッセとソールにはこのこと、私がこうなってしまったことは黙っていて欲しいの」シェラは懇願してくる。「お願いエアリィ、二人に心配をかけたくないの。明日になれば元気になるから」
「戻って仕事に行くつもりなの? どうしてそこまで無理しなくちゃいけないの?」
「わたしがしっかりしていれば大丈夫なのよ」
「なにが大丈夫なの? いったいなにが?」
「みんな大丈夫なのよ」
「シェラ。しっかりしてよ。どうしたの、シェラらしくない!」
「私らしくない?」
シェラの左手がのび強く少女の二の腕を掴む。見つめる眼からはさらに涙があふれ出してくるのだった。
「私って何? 私は何なの?」
何かを振り払うようにシェラは少女にすがりつく。
「……シェラ……」
「私がちゃんとしていれば、みんな大丈夫なの。そうしなければいけないのよ。私が……」
「シェラ、落ち着いて」
「……みんないなくなっちゃう……みんな私の前からいなくなっちゃう……」
「あたしはここにいるよ。ええ、ここにいるわ」
「嘘よ!」強い否定。「あなたはいなくなる。前からそう言っているじゃない!」
いつか許されればキャラバンに戻る。それは常々少女が言っていることであった。
そしてそれが少女の生きる希望でもある。
「それでも、ロンダサークにいるかぎり、あたしはシェラのそばにいる」
それは嘘偽りのない言葉。
「やっぱりいなくなってしまう……」
何かがきっかけとなったのだろう、嫌々をするようにシェラは少女にすがりついた。ぬくもりを求めるかのように強く。
「母さんも父さんもいなくなってしまった……。あなたもソールもクロッセもみんないなくなる。私は独りぼっちになる……」
「シェラはひとりじゃないでしょう。あたしだけじゃない五十一区の人たちもいる」
「本当にそうかしら?」
目にいっぱいの涙をためながら彼女は少女に言葉を投げつけた。
「えっ?」
「父さんが亡くなって、私は独りぼっちになった。誰も頼る人はいない。ひとりで頑張れるって思っていたのに……あんなに臆病な父さんにも私は守られていたんだって思い知らされた」
シェラの言葉がどんどん冷めた夜風のように冷たく凍てついたものになっていくような気がした。
「でも、シェラは……それでもひとりでも頑張ったのでしょう?」
「私は何も出来なかった。何もかも失ってしまった。残されたのは忌まわしい記憶と最下層だという生い立ちだけ……。優しい温もりが一時はあっても、続くことはなかった。夜の闇に取り残されてしまう。結局は独りなのだと思い知らされる」
それは心の闇を吐き出しているかのようでもあった。以前昔話をしてくれた時とは全く違う姿だといってもいい。
「私が子供で何も出来ないと思われていたからでしかなかった。一歩でも区の外に出れば私を相手にしてくれる人はいない」
聡明すぎたためにシェラは気付いていた。家族でもない自分やソールを養ってくれるほど余裕がある家庭は五十一区にはなかったのである。小さな子供を相手にしてくれるような仕事はほとんどなく、例えあったとしてもわずかなものであったのだ。
「でもシェラはソールがいたから頑張れたって言っていたじゃない?」
「そのソールも大きくなって私の手から離れていく日も近いわ。そして、クロッセもエアリィもみんな私の前から消えていく……私の大切な人達はみんな」
「どうしてクロッセも? あいつはズッと下町にいるって言っているわ」
「五十一区にいる必要はないわ。工区の人たちや長老会にも頼られている。もっといい暮らしや環境にいけるはずだもの。それにヴィレッジに戻ることだって出来るのだから」
「あいつは戻らないよ。きっと」
「人は判らないものよ」シェラは首を横に振る。「生まれは変えられないわ。そしてあなたも砂漠へ帰っていく……誰もいなくなる。誰もいなくなってしまうのよ。私はひとり。私が生きている意味はなくなる」
「……そんなことはない……」
「私が愛した人はみないなくなる。私の前から消え去っていくのよ。私は愛してはいけないの。あの時思い知らされたはずなのに」
「あのときって?」
「もうあんな思いをするのは嫌、嫌なのに……」
どんなに少女が声をかけようとシェラには届かない。言葉は空しく響くだけだった。
「どうして愛さずにはいられないの?」
力なく疲れ切ったようにシェラは最後に呟いた。
少女はシェラに掛ける言葉をみつけることが出来なかった。そのかわりシェラが落ち着くまでしっかりと彼女を抱きしめる。
少女の小さな腕の中で泣き続けたシェラ。ようやく落ち着いた彼女は静かに眠りにおちていく。ゆっくりと少女はシェラの体をベッドに寝かしつけた。
「シェラ……あなたになにがあったの?」
不意にシェラの手が何かを求めさまよう。
その手をとり少女が優しく握りしめるとシェラの表情は和らいだように見えた。
「……ひとりぼっちはいやだよね。あたしはここにいる。ここにいるよ。そしてみんなもいっしょだよ」
翌日、陽が昇るのと同時に館を飛び出した。店は臨時休業にする。フィリスには店に張り紙をはらせに行かせていた。
少女はシェラのことをマーサに頼むとレイブラリー邸へと向かった。
知ることで何ができるのかは判らない。ハルトや工の民のことを訊くこととは意味が違うと思ったが、それでも少女は懸命に走った。
あんなシェラは見ていられなかった。
「師よ。教えていただきたいことがあります」
早朝にもかかわらずベラル・レイブラリーはすぐに会ってくれた。ベラルが現れると少女は立ち上がりあいさつもそこそこに彼に訊ねるのだった。
「なんだね? 弟子入りする気になってくれたかね」
「そうではありません。その件は何度もお断りしているではありませんか」
「それは残念」
これまでも何度もして来たやり取りに、機先をそがれる形になった。
「まったく師は、あきらめが悪い」
「わたしは諦める気はないよ」彼は笑う。「して、どうしたね。深刻な顔をして」
「顔に……でていましたか?」
「ああ、今までにないほど深刻な表情であったよ」
「そうですか……」
少女は言い淀む。
冷静に考えてみると、本当に訊ねていいことなのか判らなくなってきた。
俯き、少女は足元を見る。
「シェラの……、シェラのことです」
意を決し、顔を上げるとベラルの目を見つめ訊ねた。
「シェラ? シェラ・バナザード嬢のことかな?」
「はい。師の知っていることを教えていただきたいのです」
「先日、ヴィレッジの青年が下町の娘に求婚したという話は、私の耳にも入っているが、それに関係があるのかな?」
ベラルは顔を曇らせる。わざとなのだろうか、彼の物言いはぼやかしたものだった。
「それもありますが」
「他に何があるのかね。私が知ることはそう多くないぞ」
「その少しをお聞かせ願えればと思います」
「何を聞きたいというのだね?」
「シェラの、過去です」
「過去とな? 私が知ることは少ないといったはずだが」
シェラとの接点は少ない、そう言いたげでもあった。
「師はロンダサークの歴史を諳んじると聞きます。ですから師にお訊ねします。あたしはふれられたくない人の過去をあばこうとしているのかもしれません。でも、あたしはあんなシェラを見ていられません。あたしはシェラが好きです。いまのシェラがいればそれでいいとは言えなくなりました。だからあえてお訊ねします。シェラの過去になにがあったかを」
気がつくと声が震えていた。
「そうか」
ベラルは深い吐息をつく。
「五十一区の人たちも師なら知っていると話してくれました」
「やはり、あのことか……そうだな。彼らの間に立ったのは他ならぬ私だったからな。相変わらず大変なところをおぬしは訊ねてくるな」
「すいません」
「しかし、この話を聞いてどうするつもりだ? マサや工の民とのことはおぬし自身にではないが生い立ちに関係のあることではあったが、今回の件はどうだ?」
「あたしはその場にいました。そして今もシェラとともにいます。それだけではダメでしょうか?」
「しかし、これはシェラ自身の問題であるぞ」
「確かにあたしができることはないかもしれない。でも、後悔したくない」
「後悔か」それが少女の行動原理であることは理解してきたが。「しかしそうだろうか? 聞いてしまうことで、知ることで後悔することもあるぞ」
「あたしは子供です。人の愛とか、そういうものはまだまだわかりません。でもわからなくてもあたしにできることはきっとあると思いたい。あたしはいままでシェラに頼ってばかりだったし、迷惑をかけてきた。だからこそ、いまシェラの力にならなくてどうするのか。ただ見ているだけではいられなかいのです。あたしはシェラが大好きで、大切な人なのだから」
「大切な人か」
「だからこそ、あたしは目をそむけない」
忘れてしまった気持ち、何処かへ置き去りにしてしまった心、年を重ねるたびに人はどこかで人と人との間に壁を作ってしまう。離れたくないはずなのに距離を取ってしまう。
少女の瞳はまっすぐで、それ故に微笑ましく眩しいものに感じられる。
「あの時、誰もあの子の力にはなってあげられなかった。この私でもな。あの子は自分自身の力で這い上がっていった。今回もそうであってくれと願っている」
「いまはあたしがいると思いたい。それがたとえあたしの自惚れであったとしても、あたしが力を貸してあげて、シェラを支えてあげたい」
「もう一度訊ねるぞ。暴かれることをシェラは嫌がるかもしれん。そして今までとは同じように付き合っていけなくなるかもしれん。おぬしでも何もできない心の傷であったとしても、訊くか?」
師の眼光は鋭かった。
「覚悟しています。それでシェラに嫌われようと……、たとえ離れていったとしてもあたしは追いかけます。もう一度友達になってもらえるように」
「やはりおぬしは頑固だな」
ベラルは目を細め少女を見つめる。その瞳は打って変わって優しいものだった。
「きらわれるかもしれないと思うと、あたしはこわいです。でも、シェラを見ていたらそれでもたとえいままでの関係が壊れてしまっても、あたしは立ちどまってしまってはいけないと思いました。これがあたしのわがままだったとしても聞かせてください。シェラのことを」
「判った」
ベラルは静かに頷く。少女を座らせるとドロテアを呼び、お茶を用意させた。
少女はすぐにでもベラルの話を聞きたかったが、我慢するしかなかった。
香がたかれ、お茶を煎れ終わるとドロテアが退室して行く。ゆっくりとした動作でカップを手にしたベラルはすぐに飲むではなくただ静かに揺れる琥珀色の水面を見つめていた。
「あれは八年前のことだ」
物語をベラル・レイブラリーは紡ぎ始める。
「八年前? シェラが十二才のころですね」
「それまで五十一区の長老であったミルド・バナザードが亡くなられて一年ほど経ったころだと聞く」ベラルはいったん言葉を切った。「その頃、シェラ・バナザードはエジノア家の一子に見初められた」
「みそめられたって! それにエジノアって! 五家のですか?」
少女は驚きの声を上げる。
「そう、あのエジノアだよ」
ベラルは厳かに頷く。
「見初められたっていうのは……十二才で、ですか?」
「早い遅いはあまり関係ない」婚姻関係を結ぶ家も少なからずある。「エジノアの次期当主であるノルデアは、頭脳明晰で人柄も良くエジノア家の将来を嘱望されるほどの人物であったよ」
「すごい話ですね。ベラル師がそれほどおほめになるのですから、よほどの人であったのでしょう」
「そうだ。良縁もあったが、当人はその気もないらしくそれまでは結婚ということには見向きもしなかったのだがな」
エジノアの一人息子は当時十六才であった。次期当主としての勉学の帰り路に農区へと出稼ぎに出ていたシェラと出会ったのだという。
「我らにとっては降って沸いたような話だったよ」
ベラルは遠くを仰ぎ見るような目でただゆっくりと波紋を広げるカップを見つめていた。
4.
ベラル・レイブラリーとの出会いが始まりとなって少女はロンダサークの成り立ちやオアシスの暮らしを体験し知ることになる。それは未知なる文化との接触であった。
「いまでも理解できない!」
エアリィならそう言うはずである。
砂漠で育った少女には、オアシスのことすべてがまったく違った世界にしか見えなかったのである。少女はベラルから様々なこと聞くと同時に、疑問に思ったことを率直にぶつけるのだった。
五家のこともそうだった。
五家はロンダサーク下町を統べる長老会のトップに位置する家々である。
「長老会と五家が下町の運営機関としてあるのはわかりました」
「さすがは私の弟子なだけあるね」
ベラルは少女の理解力に目を細めたものだった。
「弟子ではないといったはずです」少女は呆れながら釘をさす。「師の家であるレイブラリー家が歴史を司るのはいままでの話からなんとなく理解できましたが、ほかの家はなんのためにあるのでしょう?」
「五家は、ブラドーラ、ドメッティー、ジェドクリア、エジノア、レイブラリーの五つの家系からなることは覚えてくれたかね?」
「はい。それぞれが下町創生にかかわる指導的立場にあった方々の血筋にあたるというのは」
「うむ。ロンダサークに新たな外壁が建てられ、下町が誕生した時、それぞれの立場を代表し下町の秩序を守るために話しあったのが起源となっている」
「なぜ代表者は一人ではなかったのでしょう? それではまとまらないこともあったのでは?」
「そうだな。基本は五つの代表者の意見がまとまらなければ、採決されることはなかったらしいからな」合議制というのはそういうものだ。
「それは指導力に問題があるのでは? 強いリーダーがいてみなを導くほうがまとまるはずです」
「トレーダーはそうであったな」
「キャラバンは小さなファミリーの集合ですが、頭目のもとひとつにまとまります。そして頭目は多くの判断を瞬時にこなさなければならないのです」
「話し合っている時間はないか。そうしなければ砂漠では生き残れないのであるからな。しかし下町ではそうはならなかった。一人に権力を集中させるのは危険だと判断したからだろう」
「それがあたしには理解できません。指導者はみなを導くためにいるのでしょう? それなのに話し合いでまとまらなければなにもできないのでは意味がありません」
「確かに強いリーターというものもあるべき姿のひとつではある」
「そうではないのですか?」
「ヴィレッジを見れば判るであろう。あれがよい例えだ」
「傲慢で自分の権力にだけしがみつき、なにもできなくなるというのでしょうか?」
「良きリーダーに巡り合えればいいのだろうが、時としてそのような輩を生み出してしまうのも歴史の必然であった」
「それでは砂漠に消えてしまうではありませんか!」
「そうだな。しかしロンダサークはこの方法で生き延びてきた」
「われらトレーダーは強きリーダーになれるよう後人の指導をおこたりません」
「それは未来がかかっているからであろう」
「オアシスも同じではないのですか?」
「同じだよ。だがオアシスには多くの人がいて多くの考え方がある。誰もが納得できるものを示し導かねばならん」
「だれもが納得できる? それは可能なのでしょうか?」
「出来ると思いたい」
「それでは答えになっていません」
「人が目指すところは同じなのだからな」
「それはどういうものでしょう?」
「幸せだよ」
「しあわせ? あたしにはわかりません」
漠然としすぎていた。言葉では判っていても少女にはまだ理解できない。
「私も何が幸せなのか理解できない。人の欲求というものは果てしない。ひとつの目的が達成できたとしたらさらなる欲求が生まれてしまう」
「それでは堂々巡りではありませんか?」
「そう、今の私と君のようにね」
少女のトレーダーとしての生き方考え方が、下町をまとめていく上でのもどかしさや欠陥を浮き彫りにさせる。
砂の下に隠していたものを暴かれていくような気分だった。
「なぜベラル師はみずから導こうとしないのですか?」
他の四つの家を少女は知らないが、ベラルにはそれがあると直感し、率直に彼に訊ねるのだった。
「ベラル師ならそれができるはずです」
「私がかね?」
「はい。なにかおかしなことを言いましたでしょうか?」
驚くベラルのその表情を見て、不思議そうに少女は訊き返した。
「……それは難しい選択だな……私をそう見てくれるのは非常に嬉しいがね。それにだ、いまは五家のことを話していたはずだ。話が脱線してしまったようだから元に戻すとしよう」
ベラルは苦笑しながら、無理矢理話を元に戻そうとするのだった。
「わかりました」
少女は少し不満げであったが頷く。
「オアシスからの難民が増えて、五家の役割は変わっていった。我々は新しき民を迎え入れ、このロンダサークで暮らしていけるように導くことが務めでもある」
「なぜそのような必要があったのでしょう?」
「先にも言った通り、それぞれの文化や歴史に違いがありすぎたりしたのでな。ロンダサークの実情も知ってもらい、それに合わせてもらわなければならなかった」
「実情ですか」
「そう。資材や水は無限ではなかったからな。下町の民はみなで協力し合わなければならなかった」
「それで長老会という組織が出来あがっていったのですね。しかしなぜ長老と呼ぶのでしょう? それほど年の方もあまり見かけませんが?」
「昔の名残であろう。地区を統べるものは総じてある程度年齢のいったものが多かったと聞く。今では請われれば誰でも長老に選ばれるがな」
「なんとなくそれはわかりました。オアシスでは、老いた人たちが物知りであり、よく指導しているのをあたしも見ています」
「なるほど、興味深いね」
「五家はすべて同じような仕事をしているのですか?」
「最初の頃はそうであった。しかし下町が広がるにつれて、それぞれが役割を持つようになっていったよ。それが今も受け継がれているといってもいい」
レイブラリーは歴史と祭事を司る。ロンダサーク下町の歴史を諳んじ、時には調停者としても役割を果たす。無論、ベラル・レイブラリーに代表されるように歌や楽器にも秀でている。五家の中でも頂点に立ち、下町の民の信任も厚い。
また他の四家がその血筋を重要視するのに対し、レイブラリーはレイブラリーによって見出されたものがそれを受け継ぐのであった。
「下町の歴史がベラルの頭の中に入っているのですか?」
「弟子だった頃に叩きこまれたよ」
苦笑いするベラルだったが、長いレイブラリーの歴史の中でも五指に入る才能の持ち主であり、最年少でレイブラリーを継いだのが彼であった。
「レイブラリー家が選ばれたものだというのはわかりました。しかし他の四つの家はそうではないのですね」少女は自分の知る範疇で理解しようとする。「レイブラリーがキャラバンをひきいるリーダーだとすれば、他は小さな家族を引きついだ家長といったところか? 格がちがうのですね」
「いやいや、五家は同格であるのだよ」
「そこがよくわかりません」
「昔は誰がリーダーシップを取るのか争ったこともあった。しかし、そのような状況が続けば下町の機能がマヒしてしまうとある時気付いた。そしてすべての家は同格であるとし、役割を分担するようになったのだよ」
ブラドーラは各地区の土地と人の数を把握する。各地区からの情報を元に台帳をつけ管理するのが仕事だ。またそれらを自らの足で見て回るのも彼らの務めである。
水路や農区を管理するのはドメッティー家の責務だ。生産量をチェックし流通を確保する。また港湾地区もドメッティーの持ち場だといえる。ただシルバー・ウィスパー号だけは独立した権限を持ちドメッティーといえど親方に命令することはできなかった。
ジェドクリア家は商区や交易を管理している。宙港の管制塔との交渉は彼らが当たっていた。また各地区のもめ事や争いはジェドクリアの元に届けられる。長老では解決できなかったことを裁定するのだった。ジェドクリアは過去の事例から仲介するが、それでもまとまらず不服申し立てがあれば、最終的にレイブラリーの判断となる。
そしてエジノアの家は旧区との交渉にあたっていた。その年の水量や税の交渉は彼らの役目だといってもいい。そのため旧区とのつながりも深く、ヴィレッジの貴族との間に婚姻関係を結んだ時もあり、高貴な血筋であるとことがエジノアの誇りでもあった。
「ファミリーを守るというのはわかります。ですが、その血筋に生まれたからといって人の上に立てるかはべつです」
「そうだな。しかしドメッティーもジェドクリアもブラドーラも血を絶やさぬよう家を守ってきた。それが大切なことであるかのように」
長い系譜の中でやむなく養子縁組といった手段が採られたこともあったが、それでもエジノアを含む四つの家は家名を守り続けてきたのである。
長い歴史と家名の持つ意味を少女は知らないわけではなかった。少女の名も誇りと歴史の重みがある。地根っ子とは比べものにならないくらい。
「いろいろと役割はあるのですね。エジノアの名は聞いたことがあるような気がします」
ヴェスターと旧区へ行った時、その名を聞き、遠巻きにではあったがその姿を少女は見ていた。あまりいい印象ではなかったと少女は付け加えるのだった。
その後、少女はドメッティー、ジェドクリア、ブラドーラの三家と知り合うことになるが、エジノアとはすれ違いのままになった。現当主はあからさまに下町とのかかわりを拒絶しているようにさえ見えた。
シェラ・バナザードは彼と出会った。
「その出会いが偶然だったのか、必然であったのか、それは判りません。ですがわたしは彼と出会ってしまった」
シェラは小さな声で言う。
なぜ自分が声をかけられたのか最初は判らなかった。
声の主がひと目で立派な家柄の人であることが身なりからもうかがい知れる。清潔な白い布であしらわれた衣装は眩しく輝いているようにさえ幼いシェラには見えた。まるで白い壁の向こうに住むヴィレッジのようだった。
もしかするとクロッセ・アルゾンと同じようなにおいをその時に感じていたのかもしれない。
彼は自分よりも少し年上なだけのはずだったが、その立ち振る舞い、話し方などからすぐに住む世界が違いすぎるのが判る。
その日は農区での作業が終わり、日当を受け取った帰り路でのことだった。
広い農園の除草がシェラの得た仕事である。収穫前のトウモロコシをハツキムシから守るためのもので、雑草の葉の裏側についた虫も一緒に除去する。それは炎天下でおこなわれる作業で、雑草は手で抜き虫除けの薬をぬっていないと虫が人にも群がり大変なことになる。同じく駆り出されていた農区の子らにまじってのきつい仕事だった。
それでもシェラにとっては五日ぶりに得た仕事である。
年端もいかぬ子供が得ることのできる仕事は少ない。農区か港湾地区での雑務が主なもので、いずれも手間賃程度のお金で使われる仕事だった。商区や工区、織区で徒弟などになることができれば安定した衣食住を確保することも出来るのであるが、それは狭き門である。親もコネもない、ましてや五十一区の生まれというだけでふるい落とされてしまうのである。
「これでソールに栄養のあるものを食べさせてあげられるわ」
シェラは手にした小銭の入った袋を嬉しそうに握りしめる。ささやかな収入ではあったが、やり繰りさえちゃんと考えてやればこれで一週間は暮らせる。
夕時の市で買えそうなものをあれこれ考える。
自然と小走りになり気付かぬうちにハミングしていた。長い髪がそれに合わせるように揺れる。背も伸び、少女だった姿は少しずつに大人びて見えるようになってきている。
「ごきげんよう」
空は砂雲を太陽が朱に染め上げている。高い塀に囲まれた下町が徐々に薄暗くなっていく。気が付くと人通りの少ない路地で声をかけられていた。
それは夕闇に吹く柔らかな優しげな風のような声だった。どことなく他の人達とは違うアクセントのように聞こえた。
最初、シェラは自分が声を掛けられたとは思わなかった。しかし周囲を見回すと自分の他には誰もいない。
「高貴なお方、わたしになに用でしょう?」
恐る恐るシェラは訊ねた。
「驚かせたのなら申し訳ありません。ぼくはノルデア、少しあなたとお話がしたいのです」
「わたしと……ですか?」
シェラはどうしたらよいか判らず、自然と後ずさりする。
「あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「わたしは、シェラ。シェラ・バナザードと申します」
何故か頭を下げ挨拶しながら答えてしまう。
「シェラさんですか。良い名ですね。さきほど歌っていた詩は『テーラルとドライト』の一節ではありませんでしたか?」
「さきほど? 今、わたし、歌っていましたか?」
「ああ、違います。農園で他の子供たちの前で、ですよ」
シェラは一緒に仕事をしている子らに慕われていた。彼女が面倒見よく明るく優しい人だと気付くのだろう。何度も同じところで雇われていると見知った子も出来、自然とよく話をするようになる。そんな子らにシェラは休憩している時に話を聞かせたり詩を歌ったりしていたのだった。
「聞いていたのですか?」
「はい。たまたま通りかかったおりに。お見かけした時から気になっていまして、今日も近くで聞かせていただいていました。あれほどの朗読は我が師であるベラル以外では聞いたことがありません。まことに素晴らしい」
「あ、ありがとうございます」
「あなたはいずれかの家のお弟子さんでしょうか?」
「わたしが五家の? そんなわたしなどがめっそうもない」
「本当ですか? では誰から教わっているのですか?」
「……父からです」
「お父上からですか。きっと名のあるお方なのでしょうね」
下町創生にかかわる物語を知っている者はそう多くない。長い歴史のある家柄か、語り部の家系にしか伝わっていなかった。そして百を超える物語が存在し、『創世記』をすべて語ることができるのはレイブラリーしかいないだろうと言われている。
「そんなことはありません。確かに父は長老ではありましたが……」
「長老ですか、なるほど。では語り部の家系であられるのですね」
「わ、わたしの家はそんなたいそうなものではありません」
何かに脅えるように暮らしていた父親の姿が思い出される。博識ではあったが、それで表だったことをすることはなかった。自分の娘に知識を伝え聞かせる時も注意深く教え、それをひけらかすことがないよう強く釘を刺すくらいだった。
「あのように『創世記』を歌い上げることができる方が、たいしたことがないなどとご謙遜を。きっと素晴らしい父君なのでしょうね。是非ともあなたの父君にもお会いしてお話をお聞きしたいものです」
「父は……一年ほど前に亡くなっています……」
「そうでしたか……それは残念です」
彼は心底すまなそうに謝りお悔みの言葉を口にする。
「ありがとうございます。わたしが父に習ったものは本当にたいしたものではありません」
博識であった父の知識のほんの一部でしかなかったかもしれない。
「ですがぼくはあなたの歌とその声に魅了されました。実に素晴らしい」
「そう言われたのは初めてです」
「それはまた信じられない」
「確かに聞いてくれた子らは慕ってはくれますが、それだけです」
「もったいない話です。あなたには才能があります。その歌声が何よりの証拠。あなたはいずれかの家に師事すればよいと思うのです」
「わ、わたしにはそのような才はありません。それにわたしは五十一区の生まれです。誰も相手してくれるはずがありません」
「五十一区?」
彼はいぶかしげな顔をする。
「そうです。それにわたしにはそのような余裕はとてもありません」
「ああ五十一区か」
彼は納得したように頷いた。それで終わりだと思った。しかし、彼から出た言葉はシェラにとって意外なものだった。
「理由はなんとなく判りました。しかし五十一区であろうとも、あなたは師事すべきです。その才能を埋もれさせるのはもったいない」
「お言葉は嬉しく思います。ですが、わたしには弟がいます。親はなくわたしが弟を養っていかなければなりません。ですから、わたしにはそのような時間もゆとりもありません」
シェラはすまなそうに頭を下げる。
「顔を上げてください。ぼくはあなたとお近づきになりたかったのです。無理強いするつもりはありません」
「わたしと、知り合う? なぜ?」
「先程も申しあげましたが、本当です。あなたの歌声に魅了されたのです。ぼくはあなたと友達になりたい」
逃げたいという気持ちと無下にはできない思いが交錯する。
「わたしは……、このようなわたしでもいいのですか?」
「明日もあなたはあの農園でお仕事を?」
「それが、わたしの仕事ですから」
「また物語を紡いでくれると嬉しいです。そして、この時間、ほんのささやかな時でかまいません。ぼくにあなたの声を聞かせてください」
彼は空を見上げ、時間を気にした後、シェラに別れを告げる。シェラは彼にお辞儀をして別れると小走りにその場をあとにした。
彼との会話は緊張したが、嫌ではなかった。そして褒められたことが嬉しく、少しだけ心がウキウキしていたのだった。
寂しかった心隙間を埋めてくれるそれが何なのか判らないまま。
「独りぼっちだった」
今思えばそんなことはなかったはずなのに、あの頃のシェラはそう思い込んでいた。五十一区の外はまったく違っていた。読み書きができる子らは稀な存在で、教育を受けた子ですら彼女のレベルには程遠い。慕ってくれる子もいたが、農区の子らとは話が合わなかった。ノルデアとの出会いは冷たく凍えるような闇夜に現れた光であり温もりであった。彼の知識と優しい言葉にひかれそこへと逃げ込んでしまったのかもしれない。
ノルデア・エジノアは不思議な人だった。
一見すると朴訥な容姿ではあったが、生まれは隠しようがなかった。どんなに衣服や髪形を変えようとシェラは大通りの人混みの中ででも彼を見つける自信があった。
優しく純朴な人である。若く希望に満ちていた。レイブラリー家に師事しているだけあって知識も豊富でシェラが五十一区の出であると知っても差別するようなことはなかった。
シェラの話を聞き五十一区のことを自ら調べ、その成り立ちから今を彼なりに考え、シェラに示したことさえあった。
「わたしは、人と話すことに飢えていたのかもしれない」自嘲気味にシェラは笑い呟いた。「父の教えすら忘れ、わたしは彼との会話を楽しんだ。わたしの中にある知識をおもむくままに披露してしまった」
それは楽しいひと時でもあった。
同年代でシェラほどの知識を持った子はほとんどいなかった。
生きることに精一杯だったシェラには親しい友達は地区にもいなくなってしまっていた。ミルドが生きていた頃には地区の子らと遊ぶ時間が少なからずあったが、そのゆとりすらシェラにはなくなっていたのである。
農区への出稼ぎでも一緒に働く子らはシェラより年下で、その中に手習いに行っている子はいない。シェラはそんな子らにおとぎ話を話して聞かせたりしていたのである。ささやかな楽しみであった。
そんなシェラの姿がたまたまノルデアの目にとまったのだという。
彼はその言葉通り、翌日もシェラの様子を伺っていたようだ。シェラ自身は彼の姿を農園で見つけることは出来なかったが、帰り路、また人気の少ない通りで声を掛けられたのである。
自分の立場を考えたのだろう、彼は市で見かけるような服装で現れた。
そして、その後もシェラとノルデアは夕暮れ時に路地裏の小さな広場や市の裏通りで短い時間ではあったが、出会い会話を重ねるのだった。
それは、はたから見れば小さな恋人達が寄り添っているようにも見えたことだろう。
「その詩は『風至る地平』ですね」
シェラは広場で空を見上げ小さな声で歌っていたノルデアに声を掛ける。
「ああ、今日習ったばかりなのだけど君は知っているのだね。ぼくはこの空にはぴったりな歌だと思ったんだ」
地平に沈む太陽は燃えるように砂雲を染め上げていた。
「そうですね、風も砂も風の生まれし場所へと帰っていくようですね」
砂流雲を指し示しシェラも答える。
「あの地平の彼方はどうなっているのだろうね。誰も見たことのない砂漠が広がっているのだろうか?」
「見てみたいのですか?」
「可能ならばね。今日は仕事はあったのかな?」
シェラに会うときの彼の口調はだいぶ砕けたものになっていた。
「ありませんでした」
「そうか、残念だったね」
収穫期の終わった農園も多く、種植えの時期まで仕事は少なかった。商工会の連絡板の求人もシェラを雇ってくれるような仕事はない。
「仕方がないです。わたしは子供で……」
「五十一区だから?」
「そうです」
俯くシェラの手をそっとノルデアは取る。
「ぼくが紹介しようか?」
何度目の台詞だろうか、その度にシェラは首を横に振るのだった。
「しかし、君の暮らしはいっこうに楽にならない。今日で三日も仕事が見つかっていない状況だ。もう少しぼくを頼ってほしい」
「ありがとう、ノルデア。ですが、あなたに迷惑はかけられない」
「そのようなことは気にしないでほしい。ぼくは君が苦しんでいる方が辛い。ぼくができることで君を助けたい」
それは何度も繰り返してきたやり取りだった。
「あなたは五家のいずれかの家の方なのですよね?」
名前以外素性を明かさなかったノルデアにシェラは訊ねる。
「どうして?」
「初めてお会いした時、ヴィレッジのような雰囲気もありましたが、服装を見ても下町に馴染んでいらっしゃることからそれは除外できました。ベラル師に師事していることからも衣服からも五家かそれに近い家柄だと推測できます」
「農区の地主かもしれないよ」
「それはありません。あなたの口調やアクセントがそれを物語っています」
「シェラは凄いな」
「レイブラリーではありませんね? そうであればドメッティーかエジノア」
「そう」小さく吐息を漏らす。「ぼくはエジノアです」
「そうですか」
シェラは判っていたはずの答えを改めて聞かされ目の前が真っ暗になる思いだった。あまりにも住む世界が違いすぎる。エジノアは五家の中でも旧区寄りと言われ、その血が今も流れていると噂されていたのである。
「わたしの生まれを聞いても、気にしないといってくれことが嬉しかった。そしてこうしてお話しすることが本当に楽しいのです」
「ぼくもです。シェラのように博識な方は今まで出会ったことがなかった。どんなことでも言葉を返してくれるのは師以外ではないことでした。だからこそぼくも君と出会えて嬉しいし、ぼくと対等に話ができる君がいてくれてつまらなかった日常が楽しいものだと感じられるようになった。ぼくは君を失いたくない。だからこそ君の助けになりたいんだ」
「でも、あなたのような考えの人は少ない。わたしがいることでいずれあなたにも家にも迷惑がかかるわ」
「そんなことはない。そんなことは」
シェラの手にノルデアは手を重ねる。
「わたしもあなたを失いたくない。だってわたしもこの時を失うのが怖いですだから」
「どうして君はそんなに否定的なんだい? ぼくには君を守れる力があるのに」
「無理です。わたしは最果ての地区の生まれで、ノルデアは旧区へも行ける人なのだから」
「ぼくはベラル師の考えに共感している。壁による差別なんておかしいよ。君のような素晴らしい人だって五十一区にはいるのに、生まれだけで否定するなんて」
「ありがとう。その言葉だけで嬉しいわ」
「そんなふうにあきらめないでほしい。そして自分を卑下しないでほしい。君はもっと誇っていい。それにぼくは一時的な援助だけで終わらせたくない」
「どういうこと?」
「君の言葉でぼくの決意は固まった。君がぼくとの別れが怖いというのなら、ぼくと一緒にいればいい」
その言葉に手を離そうとしたシェラの手をさらに強く握りしめる。
それが考え抜いた決意の証であるかのように。
「そ、それは……」
「君の弟とともにぼくの元に来ればいい。そうすればぼくは一生君を守れる」
ノルデアはシェラの目を見つめる。
「ぼくと結婚してほしい」
どこかで世界が砕けるような音がした。
喜びとともに生まれ来る言い知れぬ不安。閃光とともに何かが崩れ去っていくような感覚だった。
ノルデア・エジノアはひと目見て彼女にくぎ付けになった。
「たとえそれが偶然であったとしても、それは喜びでした。理想の人に出会えたといってもいいでしょう」
ノルデアは遠い目をしながら語った。
それはレイブラリー邸からの帰りのことであった。
元々、体力がある方ではなかった彼は本の虫であったという。彼の両親は一人息子をヴィレッジに通わせようと考えていたが、より高い知識欲から彼はベラルの教えを請うことを願った。一人息子の身を案じた両親は彼に付き人をつけたがっていたが、ノルデアのたっての願いで一人での行き帰りを認めてしまっていた。
息苦しい家へと帰るのが嫌でたまらなかった。真っ直ぐにエジノアの家に戻るのではなく農区や命の泉へと回り道をしてゆっくりと日暮れに帰るのが彼の日課になっていたのである。
そこでノルデアは特定の花や植物を観察して日記をつけていたのであった。
その日は懇意の間柄であったベルデアの農園を訪れていた。
一週間ぶりであった。観察していた木へとたどり着くと木陰で彼はノートとペンを取り出すと写生を始める。
初めは観察に集中していたためハツキムシさえも気にならなかった。
風に乗り優しく透き通る歌声が耳に届いてくる。
それは幼い声であったが、しっかりとした歌だった。
聞き覚えのある旋律に耳を澄ますと、それは『テーラルとドライト』の一節であった。難しい歌を誰が歌っているのか不思議に思った。
読み書きができる子は少ない。ましてや物語を歌えるような女子をノルデアは知らなかった。
不思議に思い彼はその場を覗き見る。
声の主は思った通り、女の子だった。彼女よりも幼い子らに囲まれ、楽しそうに語りかけていた。
その笑顔にノルデアは引きこまれる。
ひと目惚れだといってもいい。
その歌声は休憩時間の終わりとともに中断される。
残念に思いながらその場をあとにするが、帰宅してもそれが忘れられず、翌日も農園へと足を運んでしまう。
募る思いは消えることなく大きく膨らんでいくのだった。
「いてもたってもいられず、ぼくはシェラに声を掛けていました」
シェラの笑顔は夜の闇を照らす一筋の光のように輝いていた。
過保護な両親。エジノアに生まれたがゆえに、彼の交友関係は限定された。同い年に友達と呼べるものはなく、親しくなろうとしても両親が相応しくないとそれに割って入ってくる。
シェラには勇気を振り絞って声を掛けた。
家に知れることを恐れエジノアの名は伏せた。しかし彼女はすでに素性を察していたのかもしれない。よそよそしい受け答えからもそれがうかがい知れる。
それでもシェラは会ってくれた。そしてつらいことなのだろうが、自らの生まれのことも正直に話してくれた。
五十一区のことはベラル師から話を聞いていた。彼の教えもあり生まれや生い立ちは気にならなかった。それよりも無知であることの方が怖かった。逃げずに話をしてくれたシェラのことを先入観だけで見てしまうことが。
シェラの素晴らしさはその知識だけでない。差別を受けながらも誰よりも人を気遣う心根があり、さらに彼女の心優しい笑顔に引き込まれていく。側にいて安らげたのである。
それゆえに両親には話すことなく密かにシェラと会う日々が続いた。
シェラとともに過ごせた三ヶ月は素晴らしい日々であった。だからこそシェラが時折り見せる影のようなものが気になった。
小さな長屋で弟と二人で身を寄せ合って暮らしている。身寄りはなく、生活を支えるのは幼いシェラだった。どんなに才覚があっても雇い入れてくれるところはない。いや彼女の才能にさえ気づいてくれないのである。
不条理この上ない。
それに対し自分がいかに恵まれているのかを思い知らされる。
幾度も自分のできる範囲で援助を申し入れたが、彼女は決してお金を受け取ろうとはしなかった。
何がそうさせているのかが彼には判らなかった。
彼女が受け取ってくれたのは、ベラル師からもらった果実や家から持ってきたささやかな菓子だった。それをすぐに口にするのではなく大事そうに抱え家に帰る。きっと弟に分け与えるのであろう。もしかすると彼女が口にすることはないのかもしれない。それでもシェラは嬉しそうに笑いかけ礼を言ってくれるのだった。
シェラがいつか消えてしまうのではないか、彼女が懸命に仕事をこなしていく姿を見て怖くなってしまう。失わないようにするにはどうしたらいいのか、彼は考え抜いた。いくつもの夜を経て辿り着いた。
その答えが、彼女をエジノアに迎え入れることだった。
シェラには自分をも超え、師であるベラルに匹敵する才があると感じている。何故かは明かしてくれないがまだ見せてはくれない知識があるように見えた。彼女を迎え入れることができればエジノアはレイブラリーと並び称され尊敬されるようになるに違いない。
そうなれば生きることに追われることもなくなるはずだった。
喜んでくれると思った。
しかし、シェラの彼を見つめる目は悲しげであった。
それでも彼は強い決意を胸に両親に彼女のことを話す。
「ぼくは結婚したい大切な人を見つけました」
「しかし、エジノアは猛反対した」
ベラルは悲しい声で少女に告げた。
「でもシェラを見れば、会って話をすれば反対などするとは思えません」
「ああそうであったかもしれないな。シェラは良い子であるからな」
「人を見る目がありません」
少女は本気で腹を立てている。
「そうだな」私を含め誰もが。「だがそうはならなかった。当時、エジノアは彼に話してはいなかったが、ヴィレッジの良き家系の家の娘と結婚させるつもりでいたのだよ。彼女と会おうとすらしなかった。彼は私の家に習い事に来る以外外出を許されなくなってしまった」
「それで終わりですか?」
「いや、彼はまだ諦めていなかった。わたしへの仲介を頼んできたのだよ」
ノルデアには監視がついた。
エジノアのためにならない行動を取らせないようにするためだった。そのことに気付いた彼はシェラに迷惑がかからないよう、彼女に会うことを控えざるを得なかった。
監視の目が緩むレイブラリー邸で彼はベラルに懇願した。
「彼は両親に反対されたくらいで、それに従うつもりはなかったのだろう。徹底的に抗うつもりでいた。私は彼の意志の強さを見せつけられたよ」
「しかし、それでも願いはかなわなかったのですね」
「それまで続いた歴史を覆すことは難しい。エジノアは名門であり、血を尊ぶ者たちだった。今の当主はそれをもっと強固なものにしようとしたのだろう。ヴィレッジと手を取り彼らに仲間入りしようと考えていたのだよ」
下町の五家であろうとするよりも、エジノアは旧区にヴィレッジとして生きることを選んだのである。
「エジノアは下町の民である誇りを捨てるというのですか? 五家であるという名誉さえも」
「そうであろうな」
今の当主は長老会への参画も積極的ではない。さらに言えばヴィレッジのいいなりで交渉することなくヴィレッジの提案をそのまま長老会に持ち込み、押し通そうとするのだった。
「エジノアには人としての誇りはないのですか?」
「私も問うたことがあるがな。当主には旧区の優雅な暮らしぶりしか目に入っておらなかったよ」
先の少女とマサの勝負でも審査役で現れたのは当主ではなく代理を立ててきたくらいであったという。
「あたしは話をしていませんが、その人がノルデアだったというのですか?」
「次期当主であるから、代理としては正当と見るべきかな」ベラルは苦笑する。「あの頃の目と変わっていなかった。安心したよ」
ベラルは熱心にシェラの素晴らしさを話し、彼女を救おうとするノルデアの願いに心打たれた。
生まれによる差別をすることなく、同じ人として彼女を愛そうとした彼に。
その瞳は砂漠のように熱く、力強いものだった。
かつての自分がそうであったのかもしれない真っ直ぐに物事を見つめ突き進もうとしている。懐かしくもありうらやましくもあった。
屈折した考え方、斜に構えたように世間を見てしまうようになった目。いつからそうなってしまったのであろうか?
ノルデアの言葉をすぐに信用してよいのかベラルにも判らなかった。恋は人を盲目にする。もしかするとその子はただエジノアに取り入ろうとしているだけなのかもしれない。そのような考えが頭の中をよぎってしまう。
ベラルは迷った。最善の策を思いついてはいたが、実行に移すべきなのかを。
それが悲劇をさらに加速させたのだろう。彼は悔いた。
「シェラ・バナザードには申し訳ないことをした」
「なにがあったのですか?」
「シェラの素性がエジノアに知れてしまったのだ」
エジノアはシェラのことを調べ、二人を会わせないよう手を打ってきた。彼らの行動の方が早かった。エジノアの使用人がシェラの家に現れ、手切れ金としか言いようがないはした金を置いていったのである。
「どうして師はそれを知ったのですか?」
「翌日、シェラは当時の五十一区の長老とともに私の館へとやって来たからだよ」
「なぜシェラは師のところへ」
「ノルデアが私のことを話していたのだろうと最初は思ったよ。しかしそうではなかった。エジノアに直接会いに行っても門前払いされるだけだったから、私の元へやって来たのだという」
バナザードの名はベラルも知っていた。
つごう三期にわたって五十一区の長老を務めてきたからであるが、どんな人物であったがほとんど記憶に残っていなかった。印象に薄い人物であった。
だがベラルの前に立つシェラは強い決意を胸に彼を見つめている。
「あなたがシェラ・バナザードさんですか? お会いしたいと思っていました」
「レイブラリーにはお初にお目にかかります。急な来訪にもかかわらずお会いしていただき感謝の言葉もございません」
長老があいさつするよりも先にシェラは見事としか言いようがない作法で答える。
「堅苦しいあいさつはしないでほしい。何があったのだね?」
よく見れば、シェラの頬は腫れた跡がある。目も赤かった。
シェラは懐から袋を取りだし、テーブルの上に置く。その音からお金が入っているようだった。
「これは?」
「昨日、朝早くエジノアの使者と名乗る人がわたしの家に現れました」
隣に座っていた長老が驚きの表情で彼女を見た。
事情をよく知らなかったのだろう。
シェラは唇をかみしめている。テーブルの下に隠れた両手はきつく握りしめられているようだった。
朝早く朝の支度をしていたシェラの家に押し入るような形であられた数人の男達は罵詈雑言を吐き、大きな物音がしたかと思うと彼らは区の外へと足早に消えていった。
何が起きたのか詳しくシェラは語ろうとしなかった。
しかしその表情からも暴力を受けたことは明白だった。物音を聞いた近所の者達に呼ばれ長老がやって来たが、彼にも何が起きたか話さず、ただレイブラリーと会って顛末を話したいというだけだった。
「もしもの時はベラル・レイブラリー師を頼るよう彼はわたしに言いました」
「そうか……エジノアが……。君は何をしたい?」
「彼を助けてあげてください」
シェラの言葉に顔を上げたベラルは驚きの表情を見せる。
「彼は純粋で優しい。わたしは彼が生まれを気にしないでくれたことが嬉しかった。わたしのことを知れば彼は苦しむでしょう。その心を失くさないよう師が助けてあげてほしいのです」
「君自身は?」
「わたしはエジノアにはなれません」
シェラは首を横に振る。
「このお金はエジノアに師からお返しください。わたしは受け取れません。生活が苦しいことは彼も知っていますが、わたしにも誇りがあります。彼にはお金で身を引いたなどと思ってほしくありませんから」
「それでいいのかね?」
「……はい……」
かすれたような返事だった。
涙を必死にこらえているようにも見えた。
ベラルは自分自身を恥じた。
差別をなくそうとしていながら、ノルデアの言葉を信じ切れなかったことを。
「シェラさんは『テーラルとドライト』の一節を諳んじられるそうだね?」
「……誰に聞かれたのか判りませんがなにかの間違いでは?」
「ノルデアはそう言っていたが?」
「……わたしは五十一区のものです。そのような教えを受けることもできません」
「シェラは聡明な子でありますが、地区の子が手習いを受けるような場所もありませんし、子らでもそのようなゆとりはありません」
長老が口をはさむ。
「そうか」
なぜ目の前の少女がそう答えるのか、その心中を察することは出来なかった。だがシェラ・バナザードが聡明であり、その受け答えからも利発な子であることを悟った。
このような子が埋もれてしまうことが残念でならないと思った。
「シェラさん」
「なんでしょうか?」
「私の家の養子にならないかね?」
その言葉にシェラの隣に座っていた長老が椅子から転げ落ちそうになるくらい驚きの声を上げた。
「レイブラリーのですか?」
「そうすれば釣り合いもとれると思うが?」
ベラルはまだノルデアの件を諦めきれなかった。いや、自分を恥じ償いたいと思ったのかもしれない。
「血を尊ぶのであれば、それは無理だと思われます。エジノアが欲しているのは名ではなく高貴な血筋であるのでしょうから」
「そこまで理解しているのか」
「ベラル師のお気持ちはありがたいのですが、わたしはさきほども申しあげましたとおり、五十一区の生まれであります。わたしごとき知なきものではレイブラリーの名に傷が付きます」
「断るというのかね」
長老が思いなおすようシェラに言い出す始末であった。
「エジノアのことを抜きにしても私は君を知って、是非に弟子にしたいと思うのだよ」
「理解しかねます。わたしには師が思われるような才は持ち合わせてはいません」
「どうしても嫌かね?」
「本来であれば喜ぶべきなのでしょうが、わたしには師の弟子になり、ついていけるような自信はありません」
「それはやってみなければ判らないと思うが?」
なおもいうベラルの言葉にシェラは首を横に振るばかりだった。
「そうか」深い吐息をベラルはつく。「残念だな」
「申し訳ありません」シェラは心底申し訳ない気持ちで謝った。「ですが、お願いを申しあげてもよろしいでしょうか?」
「なんだね?」
「わたしには二歳になる弟がいます。弟のソールが勉学を習えるような年になったら、ベラル師の元に通わせてもよろしいでしょうか?」
「君の弟をかね?」
「そんな恐れ多いことを!」
「ああ、かまわないよ」慌てる長老を制する。「それは楽しみだね。約束しよう」
「ありがとうございます」
「本当にこのお金はいいのかね? 判った。私が責任を持ってエジノアに返そう」
「いろいろとわがままを申しあげ申し訳ありません」
「そんなことはない。君を弟子にできないのは残念ではあったが、今回の件はこれ以上害のないようエジノアと話し合おう」
ベラルの言葉にシェラは静かに礼をいうのだった。
ただにきつく握りしめられた手が開かれることは最後までなかった。
「シェラは強いですね。自分のことよりも相手のことばかり考えている」
「彼女もいろいろと悩んだことだろうがな」
「そうですね……」
どんなに明るく笑っていても、今のシェラを見ているとそう思える。
「その後エジノアはどうなったのでしょう?」
「ノルデアもなにか秘めたる思いがあるようにも感じるが、いまはただ本の虫になっておるな」
まだ今の当主が健在なだけに、彼は表立ったことをすることを控えているようにも感じられた。
ベラル・レイブラリーはシェラ・バナザードとの約束を守り、ノルデアに彼女の決意を伝える。
泣き崩れ落ち込んだノルデアはその後、エジノアの家から出ることは少なくなった。レイブラリーへ習い事に通うこともなくなったのである。それでもベラルは時間を見つけ彼をはげまし話し相手となった。自分自身の体調が悪くなっても彼を気にかけたのである。
それから五年後、エジノアはヴィレッジの貴族と縁組し一人息子をその家の子女と結婚させるのだった。
それはシェラも知るところだったという。
5.
シェラは声をノルデアにかけられる。
その声を忘れることはなかった。
それはマサとエアリィの勝負が終わり、ベラルやマサ、シュトライゼらが少女を巡り論戦を繰り広げている頃のことだった。
「久しぶりだね、シェラ。元気そうで何よりだ」
観衆の目は少女達にくぎ付けになっていたが周囲を気にしながらではあるが、それでも彼は笑顔であった。
昔に比べると色が白く線が細くなっているような気がしたが、心身ともに元気そうに見える。
「あなたこそ……」
「話したいことがいっぱいあるはずなのに、言葉にならない」
「わたしもです。その……ご結婚おめでとうございます。いまさらですが」
「ありがとう。それなりにやっているよ。家ではね」
幸せかというと即答はできなかったが、それなりの家庭を築いていると思いたかった。
「ならよかったです」
気に病んでいたことが少しだけ晴れたようだった。
ただ見つめ合う二人、しばしの沈黙の後に口を開いたのはエジノアだった。
「君はまだ、けっ……いや、これはいい。僕は若輩だった。まだ当主でもない。考えが甘かったと思う。君には本当に迷惑をかけた。すまない」
ノルデア・エジノアは頭を下げた。
「そんなことはありません。わたしこそ何も知らない子供でした……」
「君は変わらず優しいね」
「変わりないのはあなたもです」
「あの時は悲しい結末だったけれど、それでもこのような出会いだけではなく、また君と並び詩を歌える日が来るよう僕は頑張るよ」
静かに手を差し出しシェラはその手を取る。そして彼女の答えを待たずにノルデアは会場へと戻っていくのだった。
人目を忍ぶようにではあるが彼はやって来てくれたのがシェラには驚きであり、また嬉しくもあった。
少しだけ心が軽くなったような気がする。
そして、それがまた何かが変わっていくような予兆でもあったのかもしれない。
〈第十六話了 第十七話へ続く〉
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