ガリアⅩⅤ ~縁の響宴②

 1.



 闇よ 

 深淵より来たる暗きものよ

 すべてをおおいつくさん

 忍び寄る孤独に人は苛まれる

 果てなき無限の闇に我らは迷う


 光よ

 名もなき灯火よ

 光あれ

 暗きに温もりと優しさを灯せ

 標を示し我らを導け



 2.



 それは十年前の出来事。

 二人の軌跡が初めて交わるところ。


「井戸の底はどうだった?」

 男達が井戸の底を覗き込みながら声を掛けてくる。

「底の岩は乾ききっていたよ。水が来ていた様子はない」

 梯子を昇って来た男は首を横に振りながら答えた。

「やっぱりか……」

「最悪だ」

「今度はどこで塞がっているんだ?」

 井戸に集まった者達の絶望感が漂う嘆き声を聞きながらミルド・バナザードはひとり考え込んでいた。

 井戸が枯れたのは今回が初めてではない。ただ井戸水のたまり具合が悪くなる頻度は確実に増えている。

 第五十一区の水場は地区のはずれにあるこの井戸しかなく、その水が枯れて一週間になる。

 地区の長老であるミルドは最悪の事態も考え、五家や長老会に地区住民の水の確保と地下水路の修繕を要請していたが、応援はいまだにない。

「どうする?」

「潜り込むしかなかろう」

 ひとりがそういうとそれに同調する者が多く出る。

「それは駄目だ」

 ミルドは声を上げた。

「どうしてだ?」

「危険すぎる。許可できない」

 井戸への地下水路は四つん這いで大人ひとりが通れるくらいの広さしかない。しかも水路は古くろくなメンテナンスもされていないため壁や天井がもろくなってきているのである。

 修繕のためにもぐり込んだ者達の中には死傷者まで出ていたため長老としては首を縦に振るわけにはいなかった。

「ミルドの懸念も判るが、他に方法はあるまい」

「長老会からも何の返事もないんだろう?」

「隣の地区の連中もいい顔をしていないぞ」

 近隣の地区には水を融通してもらえるよう頼んであり、了承も得ているが、ロンダサーク外周部の水事情はどこも似たようなものだった。五十一区のように井戸が枯れるようなことはないにせよ、水の割り当てが決まっている地区が多かったのである。

 ロンダサークの不文律には『水はすべての命 水は等しく皆のもの』とある。そして下町には『何処かの地区が水に窮したら手を差し伸べよ』と相互扶助の精神が今も息づいている。

 それでも五十一区の民たちは自分達が置かれた立場を忘れてはいない。自らの手で何とかしなければいけないのはミルド自身も判っていた。

 井戸の修繕と水の確保は急務だった。選任されてきた五十一区の長老達がしてきたように彼も長老会に嘆願書を陳情している。

 しかし長老会の腰は重く放置され続けてきたといってもいい。

「だが我々の手だけで解決するのは難しい……」

「そうは言うが、長老会からはなしの礫だろう?」

「要請はしている……要請はしているんだ……」

「いまに始まったことじゃないだろう、それは」

「しかし、それしか方法があるまい」

 五十一区はその成り立ちゆえ長老会や五家からの援助は少なかった。

 いまでこそロンダサークの一部となっているが、それはロンダサークが拡充されてきた結果だった。流刑の地として造られ、住民の多くがその子孫であるため彼らは昔から多くの差別を受けてきた。

「この状況を我々の手で打破するしかなかろう」

「長老会をあてにしない方がいい」

 これまで幾度となく水の濁りがひどくなり、水の便が悪くなっても長老会は根本的な解決策を講じてはくれなかった。

 そして、その度に彼らは自らの手で井戸の水を確保して来たのである。

「あのう」

 住人達がミルドを取り囲むように議論し話し合っていた時だった。少し気の抜けたような声が彼らにかけられる。

「ミルド・バナザードさんはいらっしゃいますか?」

 彼らが振り向くとそこには薄汚れた白いマントを羽織った男が立っている。

「……ミルドは、わたしですが?」

「ああよかった。ここだって聞いたのですが、よくよく考えてみれば顔も判らなくて……あの、なにか?」

 青年にはまだ達していないあどけなさも残る顔立ちだった。彼は自分を見る視線に気付き訊ねるのだった。

「あの……ヴィレッジのかたですか?」

 白いマントを指してミルドは訊ねた。

「はい。ヴィレッジから来ました」

「どうしてヴィレッジの方がこんなところに?」しかも一人で……。

「あれ? 聞いていませんか?」

 ミルドや他の人々もその言葉に首を横に振る。

「おかしいなぁ。間違えたかな? ここで井戸が枯れ始めているって聞いたんですけど」

「確かに井戸は枯れていますが……」

 ヴィレッジという言葉に周囲はざわめく。

「やっぱりここでいいんだ」彼はホッと胸をなでおろす。「でも、おかしいなぁ」

「なにがでしょう?」

「五家のベラル師からの依頼でぼくは来たんですが」

「ベラル師が?」

「はい。ああ、すいません。ぼくはクロッセ・アルゾンといいます」

 彼は眼鏡の位置を直すとにこやかに笑い手を差し出した。


「どうしてクロッセは五十一区に来ることになったの?」

 少女はクロッセに訊ねた。

「ヴィレッジに要請があったということで、僕に白羽の矢が立ったというわけ」

「白羽の矢ね。それで本当の理由は?」

「厄介払いされたんだと思うよ」

「人身御供というところかしら。クロッセが自主的に動こうとするなんて考えられなかったもの」

「そうかな?」

「興味がわけばとことん突っ走るけれど、あなたが自分で下町に興味あるものを見つけたというのはとうていありえないわ」

「そこまできっぱり言いますか」

「でも事実でしょう?」

「その通りだけどね」クロッセは苦笑する。「ベラル師から直接、依頼が来たということだったよ」

「ベラル師から直接? 長老会からじゃなかったの?」

「最初は長老会からという話だったけれど、あとでベラル師が個人的にヴィレッジにやって来て五十一区の水路の修繕に手を貸してほしいと言ってきたと教えられたよ」

 そこからベラル師との縁が出来たと言ってもいい。

「結局、五十一区の長老からの要請があったにもかかわらず、長老会はまとまらなかったのね。当然のことなのかしら」

「だろうね。五家の方で、しかもベラル師が動くしかなかった。長老会は五十一区のこととなると反応は鈍い」

「それを見かねて師が動いたというほうが自然よね」

「なぜそんなに五十一区のことを嫌うのかな」

「あたしに訊かないでよ。あたしだって不思議なのだから」

「五十一区が流刑地だったことは僕も知っている。でもそれは過去のことでしかない。あの人達が何かしたわけではないんだよね。それにロンダサークの一地区になったことで扉は開放されている。いまでは流刑者の子孫だけでなく様々な地区からの人の流入もあり昔とは違っているにもかからず、だよね」

「あたしもクロッセも先入観がなかったからこう思えるのかもしれないけれどね。でも、ひとしく同じだという下町の精神からするとおかしいのよね」

「差別がある時点で平等とは言い難い。でも、等しくとはどういうことをいうのだろうね?」

 少し悪戯っぽく笑いながらクロッセは訊く。

「つきつめれば平等というのはありえないわ。クロッセとあたしとでは違いがありすぎるように、男と女、大人と子供、トレーダーとヴィレッジ、五十一区とトレーダー地区や旧区、下町の同じ地区に住んでいたって中央部にいるのと壁近くでは陽のあたる時間がちがう」

「同い年だとしても性格は違うし体格も違うか」

「人は同じじゃない。ひとしく同じにあたえることは無理だし、同じものがあたえられても多い少ない、満足か不満かは人によって違ってくる。あまねく公平という言葉は存在しても、同じものをあたえるだけでは平等とはなりえない。でも同じじゃないから面白い。個性が生まれるのよね。あたしがクロッセと同じだったらいやだし、画一化した人ばかりのオアシスもいやだわ」

「そういうオアシスも面白いかもしれないけれど」

「そうかしら? そんなところに住みたい? あたしはいやだわ」

「違うからこそ様々な衝突も生まれてしまう。すべてを受け入れられるほど出来た人間なんていやしないからね」

「そうね。あたしが思うに」少女は言葉を区切る。「五十一区がこうなのは、下町の人々が自分たちよりも下の存在をもとめた結果なのよ」

「下ねぇ。どういうことかな」

「ヴィレッジが下町をさげすみ自分たちが高貴な存在だと誇示するようなものよ。下町の人たちも自ら優位性を見せつけ格上だと言えるようなものにしてしまったのよ。不平不満をそらすため、自分たちよりも下の存在があるのだっていう見せしめよね」

「エアリィの言っていることは判るが、ずいぶん難しいことを知っているな」

「あら、クロッセとちがってあたしはいろいろなオアシスを見てきているのよ」

「そういえばそうだった」

「いま思いかえせば理不尽ないじめにも近い差別をするオアシスもあったわ。階級が決まっているオアシスもある。それが不満を解消するはけ口であるかのように、排他的に一部の住民を同じオアシスの住民がなぶりものにしていた。形はちがえど下町の人たちが五十一区の人たちにしていることはそれと同じことなのよ」

「なるほどね。五十一区に比べれば自分達の方がまだましなのだというふうに見せるわけだ」

「端的にいえばそうなるわ。そう考えると平等なんてありえなくなってしまう。人はいつだって相手よりも自分が優位に立ちたい。自分の方が優れていると思いたい。逆におとしめられ続けた人たちは自分の欠点にコンプレックスを感じたり、自らを卑下したりする」

「そうだね。でも等しくはなくとも、人は友達にはなれるだろう? エアリィのように」

「どうして、そこであたしが出てくるのよ」

「トレーダーとしてのこれまでのエアリィだったら、親方や工の頭と友達にはなれないだろう?」

 少女は吐息を洩らす。

「あたしはトレーダーが一番だと思いこんでいた。それは下町の人たちが五十一区を見る目とかわらないのよね」

「誰にだって長所があるように欠点もある。全部が好きというのはあり得ないかもしれない。そんな中で折り合いをつけていくんだと思う」

「そのためにも地区という壁をとりはらわないとね」

「力づくでかい?」

「そうね、大型のウォーカーキャリアが何台かあれば可能よね」

 宙港から借りてこようかしらと少女は笑顔で呟いた。

「おいおい」

「冗談よ」少女は満面の笑みで答える。

「本気でやりそうだから怖いな」

「もっとみんなが知るべきだし、五十一区の人たちも外へ出て自分を見せればいいのよ」

「僕らがそうであったように、か。奥が深いな」

「どんなきっかけであれ、そこから始まるのだから。あたしはそういう場をつくってみたいわ」

「面白いことを考えているね。確かにきっかけは必要だよ。それが縁となるんだから、巡り巡って僕のところにベラル師の依頼が舞い込んできたようにね。今考えるとあれは運命だったんだろうな」

「あたしからすれば、クロッセに頼むっていうのはどうかと思うけれどね。だって、クロッセは水路のことなんか興味もなかっただろうし、知らなかったでしょう?」

「当時も今と変わらず僕の興味はウォーカーキャリアだからね」

「もっともヴィレッジに依頼しても状況がすぐに改善されたとは思えないけれど」

「ヴィレッジの状況もひどい有様だったから。それでも下町の人達だけで解決できる問題でもなかった」

「停滞はヴィレッジだけではないというのが師の意見ですものね。でも、本当に下町の人たちが力をあわせれば問題は解決できたと今は思うわ。そうだったらヴィレッジの顔色をうかがうこともなかったのに」

「いまなら確かに可能だろう。けれども当時は僕もいない。工の民の助力もない。そして何よりも君がいない」

「そういう問題なの?」

「時と場所と人と。ようはタイミングの問題なんだと思う」

「まあそう考えれば、クロッセが地下水路を直せたのはけがの功名みたいなもの?」

「僕だけじゃ直せなかったよ。五十一区の人達の手助けもあったから出来たことだった。当時の僕は下町のことなど知らずに好き勝手やっていたし、ヴィレッジの中で浮いていて、実験室から閉め出され、干されていたからね」

「ほされていたって、なにをやっていたのよ」

「え~と」

「ああ、いわなくてもいいわ。想像できるから」

「そんな僕でも一応、拒否するという選択肢もあったんだ」

「ヴィレッジの人たちならありそうよね。よくそうしなかったわね」

「なにもしないよりはいいかなと思った」

 軽い気持ちだったとクロッセは言った。

「ヴィレッジとしては自ら下町の最果ての地区まで出向きたがる者はいない。でも長老会には恩を売っておきたい。役に立とうが立つまいが、結果がどうなろうとも、派遣したという事実は残るというわけよね」

「そうなるかな。僕自身はそんなこと関係なかった。ただ、行くからには、僕が何のために行くのかは調べたよ」

「偉いわね。それでなにを調べたの?」

「水路のことをだよ。ヴィレッジの図書館に行って当時の地下水路や下町の水路に関する設計資料がないかと漁ってみたんだ」

「ヴィレッジにはそういうのがあるの?」

「もともと技術的なものがすべてヴィレッジに集約されていたからね」

「そういわれてみればそうだったわね」

「いまでは失われしまったものも多いけれど、その名残りともいえるものがヴィレッジには数多く眠っているんだ」

「もったいないわね。まあそれを活かせないのが、いまのヴィレッジだけれど」

「……それで調べ始めたら、水路なんてと思っていたのが、その歴史とか工法とか見ていていろいろなことが判って面白くなって図書館中をあさっていた。それで危うく自分が下町へ行くことを忘れてしまうところだった。おかげで出発が遅れてしまったんだ」

「おたがいの意思疎通がないのは、相変わらずよね」

「いま思うと冷や汗が出るよ。でもあんな状況にもかかわらず五十一区の人達はあたたかく僕を迎え入れてくれた」

「そこからクロッセも出会いがあったわけよね」

「五十一区の人達だから、そういうところはあるだろうけれどね」

「あたしやクロッセをむかえいれてくれたのですものね。他の地区だったらこうはいかなかったかもしれない」

「最初は気がつかなかったけれど、本当は根が深いのに、それを感じさせないくらいあの人たちは陽気に見えた」



 3.



 井戸の脇には小さいながら番小屋がある。刺さるような日射しを避けるように集まっていた人々はそこに避難した。

「これがこの地区への水路です」

 クロッセは一枚の図面を広げ旧区から五十一区まで伸びる水路を指す。

 それは他の地区と異なり、トレーダー地区や工の地区と同様、独立した水路だった。

「うちらの井戸はこんなに長い水路だったのかぁ」

「初めて知ったよ」

 小さな番小屋に移動したミルドら五十一区の住民はクロッセの示す図面を覗き込みながら驚き感心したように話すのだった。

「俺の爺様が行っていたのは本当だったんだな」

「そんな話あったんか?」

「どうりでうちらの地区の井戸だけが枯れたりするんだな」

「ロンダサークの地下水路や水路とは違って、ここは独立した地区だったのでしょう。同じ造りなのは、こことここの二か所だけです」

「トレーダー地区と工の民の地区ですね」

 クロッセが指さすところ見て、ミルドは答えた。

「ああなるほど、どちらも古くに造られた地区ですね。ただ五十一区がこの二つの地区と違うのは岩盤の弱いところを浅く掘って石板で蓋をしただけの作りになっているということです。本来なら他の地区と同様途中に何ヶ所かメンテナンス用の中継点を設ければよかったのでしょうけれど、それすらやっていないかなり大雑把であとのことなど考えていない工事だったんです」

「ここじゃ仕方ないことだな」

 住人達は顔を見合わせ頷き合う。

「流刑地だったからな」

「へぇ、そうだったんですか?」

「聞いちゃいねぇのかい先生?」驚いた顔で問いかけてくる住人がいた。

「そういうのに興味はなかったから」

「変わってるなぁ、先生はよ」

「よく言われます」クロッセは苦笑しながら頭をかく。「過去がどうだったか判りませんが、人が住む場所なんですからもっときちんと作るべきだったんですよ。古い歴史があるなら、もっと容易にできたはずなんですからね」

「今さらそれをいっても始まらねぇだよ」

「そうだ。そうだ。住む人のことなんざ考えちゃいねぇからな」

「地下水路はただ掘っただけで長期にわたって使うことは考えていなかったのでしょうね。古くから使われていたから、岩盤の弱かったところが崩れている可能性が高いと思われます」

「浸食作用ってやつですかい」

「浸食? ああ、浸食ですよね。よく知っていますね」

「ああ、こいつのところは昔、石工だったんですよ」

「祖先は下町の水路を造っていたってことでね。代々石の話は受け継がれているんですよ」

「へぇ、凄いですね」

「なんともねぇですだよ。知識があっても使いどころがねぇですだからね」

 クロッセに言われ男は少し照れくさそうに笑った。

「でだ、先生。わしらはどうしたらいいんだ?」

「結局のところ、話を聞くかぎり、水路が塞がっていることは確かです」

「どこが?」

「それは調査してみなければ判りません」

「そうですか」ミルドはため息を漏らす。

「ぼくも手伝いますよ」

「おおっ、そりゃあ心強いだ」

「具体的にはどうやって、調査を?」

「この地図に従って、地上部分と地下水路の両面から調べてみるしかないでしょうね」

「やはりもぐらないと駄目ですか……」

「中から補強しなければならないでしょうからね。どうしても必要だと思います。ぼくもいっしょに潜りますよ」

「ヴィレッジの先生にそんなことさせられませんよ」

 ミルドは慌てる。しかしクロッセは気にする様子はなかった。

 ここまではヴィレッジの資料から導き出されたもので推測でしかなかったからである。実際に地下水路がどうなっているかは実地で調べてみるしかなかった。

「ぼくも見てみたいんですよ」

 クロッセは興味津々だったが、逆に周囲の方が困惑してしまうほどであった。

「判りました。まずは明日からしましょう」

 外を見るとすでに日は落ち始めていた。

「もうそんな時間か」

「先生はこれからどうするね?」

「これから市街区へ帰るのは……きつそうですね」

 一日歩き通しだったので、足が棒のようだった。旧区へ今から戻る気力も体力もなかった。

「長老会からは何か話はなかったのですか?」

「特になにも?」

 クロッセは首を横に振る。

 しかも、クロッセ自身下町へいったあとのことは何も考えていなかったのである。

「ここには先生を迎えられるような立派な家はありませんが」

「床でも何でも寝られるスペースがあればどこでもかまいませんよ」

「だどもなぁ」

「そうですよ。ヴィレッジの先生を床に寝かせるわけにはいきませんよ」

「ぼくはプロフェッサーでもないし、偉くもないんで気にしないでください」

 自宅の部屋は床が見えないほど物が散乱していたし、研究室ではよく机の上や椅子を並べて寝ていたりした。

「いやいや、それでも先生は先生だよなぁ」

「とはいえなぁ、行くとこもねぇんじゃなぁ」

「おらん家さ来るだか?」

「いやいや、俺ん家だろう」

 初めはぎくしゃくしていた関係も、気が付けば距離は縮んでいた。

 その場に居合わせた全員がクロッセに近寄り彼を取り囲み家へと招こうとするのだった。

「ああいや、その……」

 クロッセ自身人付き合いは得手ではなかった。ヴィレッジでは人との関わり合いは希薄だったから、これほど多くの人に親身されることもなかったので戸惑うばかりだった。

 クロッセの落ち着く先が決まるのにはしばらく時間がかかった。

 旧市街区から出たことがなかったクロッセは五十一区や下町の人々がどのような暮らしをしているのかを身をもって体験して行くことになる。


「初めて下町の家々を見た時、今だから言えるけれど、これが人の住むところかと思った」

 クロッセは下を見て頭をかきながら少女に吐露した。

「うわぁ~」少女はゴミでも見るような目でクロッセを見る。

「頼むよ、エアリィ、そんな目で見ないでくれ。知らなかったんだよ」

 さらに少女に憐れむような目で見られてクロッセは身を縮こまらせる。

「下町をそれまで見たことがないのならしかたのないことかもしれないけれど……、まあ、あたしはいろいろなオアシスを見ていたから、下町を見てもあまり驚かなかったわ。逆に旧区の方があきれるくらい優雅な暮らしをしているように目にうつったわ」

「優雅かどうか判らないけれど、確かに僕の家はたいした家柄ではなかったけど、下町だったら十家族は住めそうなくらいのスペースはあった」

「へえぇ」

「当時のぼくにとって下町の暮らしは何もかもが初体験だったんだ。家だけじゃない、水事情や食事なんか、その暮らしぶり全部が」

「水や食事に関してはあたしも同じかな……食事は慣れれば気にならなくなったけれど、にごった水だけはダメ、飲むのがいまでもこわくなる時があるわ」

「そうだね。ろ過機能とか水路にもっと装備できればいいんだけれど、なかなかね。とりあえず僕は食事や寝るところに関しては、すぐに気にならなくなった。実験室では平気で徹夜していたから床で寝ていたこともしょっちゅうだったし、食うや食わずの生活もね」

「下地はできていたってことね」

 少女は苦笑するしかなかった。

「それに見た目はあんな感じだけれど、味は最高だった」

「そうね。それは認めるわ」少女も頷く。「それでその時の長老だったミルドさんは、シェラのお父さんだったの? じゃあ、クロッセとシェラは十年前に会ったのがはじめてだったわけね」

「そうなるんだけど……」

「なによ、そのはっきりしない反応は?」

「実を言うと、その後にシェラに会った時、彼女があの時の女の子だったなんて気付かなかったんだよ」

 クロッセは苦笑い時ながら頭をかく。

「そんなに変わっていたの?」

「全然面影がなかった……まあ、僕は人の顔を覚えるのが得手ではなかったけれど、それほど彼女の印象は変わっていて、シェラにそのことを言われるまで判らなかったんだよ」

「感動の再会にはほどとおかったわけね」

「住んでいる場所も変わっていたし、髪ものびていて……綺麗になっていた……」

「へえぇ~、そうか、そうか」

 小声で顔を真っ赤にしながら言うクロッセだった。ニヤニヤしながら少女はそんな彼を小突くのだった。

「でもさぁ綺麗になっていたっていうのは判るけれど、そのころのシェラはどういう感じだったの?」

「エアリィと同い年くらいの頃だったかな。君と似ていて元気で快活だった」

「そうなの? 信じられないわ」

「いまのシェラだけ見ているとそう感じるかもしれない。僕の知らない数年の間に様々な体験があったのかもしれない」

「シェラだと『いろいろと』ですませそうだものね」

「まあ、強引なところとかは変わっていないかな」

「あれは地なのね」

 少女の言葉にクロッセは頷く。その笑みは懐かしんでいるかのようでもあった。

「そういうシェラがいてくれたから、僕は下町に馴染めたんだろうね」



 4.



「ここが私の家です」

「……ここですか……」

 クロッセはミルドが家の入口を指し示す方向を眺めながら呟いた。

 庭もなく隣を隔てる塀もない。入口も狭い通りに面しているだけだった。

 長老が住人の中から選出されるのだとは聞いていたが、それでももう少しマシな家を想像していた。ヴィレッジでは物置小屋の方が立派に見えてしまうような造りだった。

「狭いところで申し訳ないですが」

 口にはしなかったが本当に小さいとクロッセは思った。そしてこの狭い建物と、その並びが人の住むところだと気付かされた。

「帰ったよ」

 ミルドは入り口の布をめくり、中に声をかける。

「遅いわ、父さん!」

 突然の大声にクロッセは入り口の前で立ち止まってしまう。

 家の中を覗き込むとほのかな灯りしかない。なんとかつまずかず歩ける程度のものでしかなかった。

 声の主が奥の台所から姿を現す。小さな女の子で手にした大きな料理用のスプーンをミルドに突き付けている。

「す、すまない」

「日暮れ前にはもどるっていっていたじゃない!」

「ああ、水くみだったね」

「いいわよ。もうわたしがやっておきましたから」

「あ、ありがとう。次を私がやるよ」

「あてにしてないからいいわよ。どうせ今日も井戸のことで頭がいっぱいで忘れていたんでしょう」

「あ、ああ」

 小さな女の子を前にミルドはタジタジだった。

 井戸水を汲みに行くことを話しているらしいが、クロッセにはなぜ水くみひとつで怒っているのか理解できなかった。

「それでうしろにいる人は誰?」

「この方はヴィレッジから来られた方で……」

「ヴィレッジ!」

 それを聞いた女の子は一歩二歩と足を踏み出しクロッセに迫った。

「じゃあ、井戸もすぐに直してくれるわけね! そうでしょう?」

「確かにぼくは井戸の件できましたが……」

「そう簡単にはいかないよ」

「でも父さんはいつも言っているじゃない。ヴィレッジは知識の宝庫だって、失われた技術がいくつも眠っているって教えてくれたでしょう。だったら、かれた井戸もすぐに解決してくれるよね、その技術で」

「確かにヴィレッジにはそんな知識が眠っているけれど、万能ではないんだよシェラ。それにお客さんが驚いているじゃないか」

「ええ~、ダメなの? 本当にあなたヴィレッジなの?」

「こら、シェラ」

「はあい。ごめんなさい」

 むくれていたが、シェラは素直に謝る。

「すいません。この子が娘のシェラです」

「ぼくはクロッセ・アルゾン。ヴィレッジから来ました」

「シェラです。そして」シェラはおぶっていた子を見せる。「弟のソールです」

「まだ生まれて間もない子がいますが、ご容赦ください」

「は、はあ……」

「大丈夫よ、ソールはいい子だから、お客さんの前でもおとなしくしているわ」

「そうだったな」

「それよりも、お客さんだなんて聞いていないわよ」

「急に決まってね。伝える暇がなくてすまない」

「まったくよ。父さんとわたしの分しか作っていないのよ」

「本当にすまない」

「いいわ。なんとかするから」

 シェラは少し考えて台所へとパタパタと小走りに消えていく。

「忙しない子で、すいません。この家は私とあの子らと三人で暮らしています」

「三人? あのぉ奥さんは?」

「妻は、その……産後の肥立ちが悪かったか、あの子の弟を生んで間もなく亡くなりました」

「……す、すいません」

「いまではシェラが母親代わりで家を切り盛りしてくれています」

「だって父さんは家のことなんてかまってくれないじゃない」

 台所から会話を聞いていたのだろうシェラの声がする。

「長老なんだから仕方がないだろう」

「わたしだってソールだって五十一区の住人よ。もっとちゃんと見てほしいわ」

「……気にかけているじゃないか……」

「一番最後にね。長老だってなり手がいなくて回ってきただけだし、三度目なんでしょう」

「人それぞれ役割があるのだから文句を言っちゃいけない。それにそれで生活もできているのだから」

「長老なんて、たいしたお金にならないじゃない」

 シェラはどれだけ自分が苦労しているのかと言いたげだった。

「すいません、口の減らない娘で」

 ミルドは入り口で戸惑っているクロッセを中へと招き入れる。

 クロッセは勧められるまま絨毯に腰を下ろすと、部屋の中をきょろきょろと見回すのだった。

「そんなにうちが珍しい?」

「ああ、下町は初めてなもので……」

「じゃあ、しかたないか。あなたが来るってわかっていたら、もう少しマシなもの用意できたんだけど、いまはこれしかないからがまんしてね」

「シェラ」

「どんな言い回しを使っても父さん、うちじゃたいしたおもてなしなんかできないわよ。期待もたせるような言い方しても仕方ないじゃない」

「それはそうだが……」

「見た目はよくないけれど、味は保証するから」

 鍋をかかえながら台所から部屋へとシェラは入って来ると、ミルドとクロッセの前に皿を並べ、料理を盛り付けていく。

「これはイクークとお米じゃないか」

 ミルドは驚いていた。

 それがこの家では貴重な食料であることに、この時クロッセは気付きようがなかった。

「そうよ。ウイダネのお婆さんがわけてくれたの」

「そうか、それはお礼を言っておかないとな」

「お婆さんも、お礼いっていたよ。父さんに」

 少しその表情は誇らしげに見えた。

「どうしたの? めずらしいの?」

 ジーッとお皿を見つめるクロッセにシェラは訊ねた。

「そ、そうだね」

「イクークの雑炊よ。ヴィレッジじゃ食べたことがないかもしれないけれど」

「イクークは食べたことがあるけれど……」

「娘は料理の腕だけは確かですよ。確かに見た目は良くないかもしれませんが味は保証します」

 ミルドは何かに祈りを捧げた後、食事をはじめる。その様子にシェラは少し顔をしかめるが、抱きかかえていた弟に母乳代わりの重湯を与えるのだった。

 クロッセも恐る恐るスプーンを手にしてひと口、口にする。

「う、うまい!」

「そう、それはよかったわ」

 会って初めてシェラが微笑んだ。

「うん。本当においしいよ」

「そんなに? ヴィレッジはもっといいものを食べていると思ったわ」

「素材だけで言えば、市街区の方がいいものが入って来るだろうけれど、こういう味付けは初めてだし、ぼくは好きだよ」

「ありがとう。それ母さんに教わった味なの。だから、ほめてくれると嬉しいわ」

「母親は器量良しでしてね。この子の自慢なんですよ」

「本当に父さんになんかもったいないくらい」

 シェラは物怖じしない子だった。そしてクロッセにも臆することなく話しかけてくるのだった。

 忘れて久しい家族の団らんがここにはあった。

 彼自身、両親を早くから亡くしており、家は管理してくれている者がいたが、それも住み込みではなかったから、ひとりの方が多かった。

 不思議な気持ちでシェラとミルドの会話を聞きながら食事をした。そしてお茶をもらったあと彼は明日のことをミルドと話をすると、眠りにつくのだった。


「なんか信じられないわね」

 少女は当時のシェラの様子を聞いて目を丸くする。

「ある意味、今のエアリィに負けないくらいバイタリティがあったような気がする」

「それこそ信じられない。でも、そのころのシェラに会ってみたいわ」

「二人とも気が合うかもしれないな」

「それってどういう意味よ?」

「一緒になって、積極的に動き回っているかもしれない」

「それもいいなぁ」

「なんか嬉しそうだな」

「だって、そんな友だちがいたら楽しそうだもの」

「考えてみれば、エアリィの周りは大人が多いもんなあ……って、ソールがいるだろう」

「ソールぅ~、ソールねぇ~」

「なぜそこで変な顔をする。とはいえ、ソールじゃあ体力的には付いていくだけでもやっとのような気がするな」

「気がきくし、優しいし、頭もいいのよね。その辺は姉弟だと思うけど、なんか頼りないし、ハッキリしないところが多いからなあ」

「ソールも報われないなぁ」

「なんかいった?」

「いやなにも」クロッセは苦笑しながらも首を横に振る。「それでいったら、エアリィについていける同年代はロンダサークにはほとんどいないかもしれないな」

「なんか人を化け物みたいに」

「得難い才能ってわけさ」

「なにをひと事みたいにいっているのよ。クロッセだってヴィレッジでは神童とか天才とかいわれていたって聞いたわよ」

「まあ、確かに言われていた。言われていたけれど」

「人、大砂漠を知る?」

「そういうこと。自分が世間知らずだったとよく判ったよ。それで迷惑をかけてしまったとあとで知るんだけどね」

「いまだってそうじゃない」

 少女の鋭い突っ込みにクロッセは苦笑いする。

「当時の僕はそんなこと知りもしなかった。旧区の外がどんなふうになっているかもね」

「クロッセの場合は興味のないものはとことん無視か、見ていなかったのでしょうけれどね」

 それは少女も同じだった。

「お恥ずかしいかぎりさ。だからこそ行ってよかったんだと思う」

「いろいろと知ることができて?」

「世界がひとつじゃないってね」

「そうだね」

「自分の暮らしが唯一無二のものだと思い込んでいた」

「そして自分とはちがう生きかたを否定してしまっていた。自分の考えを押しつけようとしていた」

「知らないってことの方が恐ろしいことだった」

「感覚を共有することはできないけれど、でも、無知なままでいるよりはズッといいわ」

「手厳しいな、エアリィは。でも、ともに暮らすことで人はいろいろなものを共有することができるんだと思いたいよ」

「そうね」


 もの音が聞こえ、クロッセは目を開ける。

 ベッドにはいってどれくらい経つのか判らないが、外はまだ暗く夜明けには程遠いような感じだった。

 時刻を知らせるようなものはこの家にはない。当たり前だと思っていたことが次々と覆されていく気分だった。

 家々や道など地区の作りそのものや、料理などなど……。初めての体験、慣れない環境に興奮冷めやらぬのか、目が冴えわたってしまう。

 耳を澄ますと歌声らしきものが聞こえてくる。

 クロッセはベッドを抜け出すと外へと出た。

 すると入口の脇に腰をおろしていたシェラと目が合う。

「おこしちゃった?」

 椅子代わりの石に腰かけ、弟をあやしているシェラがいる。

「ああ、いや、歌声が聞こえたからちょっと気になってね」

「ソールがぐずりそうだったから……ごめんなさい」

 クロッセには赤子はぐっすり寝ているように見えた。しかし、シェラは泣き声をソールが上げる前に気付いて、外へと出るとおむつを替えたりしていたのである。

「ああ、いや、大丈夫だよ。こちらこそ気を遣わせちゃって、迷惑かけてすまない」

「本当に迷惑よ」

「えっ、ええ~っ?」

「せっかく手に入ったお米、だいじに食べようと思ったのに、なくなっちゃったわ」

「米って……そ、そうなのかい?」

 食事に頓着したことがなかった。ただの燃料補給ぐらいにしか思っていないクロッセには米ぐらいという感覚しかない。

「旧区の人はもっと美味しいもの食べているんでしょう? わたしたちの見たことがないような食材とか料理とか」

「イクークとかパンとかは判るけど、そんなの気にしたことがないし……その」

 女の子にジッと見つめられクロッセは慌てて答えようとするが、何も言葉は出てこない。

「美味しいものばかり食べているんだ。うちにとって、あれはごちそうなの」

「いや、そんなことないし、食事なんて気にしたことがなかったら……だから、君の料理はとても美味しかった」

「ならいいわ」

 シェラはクロッセの慌てぶりが可笑しかったのか微笑んだ。

「い、いいのかい?」

「だって、泉を直しに来てくれたんでしょう?」

「い、いずみ?」

「井戸のことよ。旧区の人たちにとってはロンダサークの中心にあるのが泉でしょうけれど、わたしたちにとってあの古くて小さな井戸が、命の泉なの。どんなににごった水しか出なくても、ズッと昔からわたしたちを支えてくれているの」

「……そうだよね……」

 あの井戸が五十一区の唯一の水源だと彼は初めて知った。

 クロッセがここに来たのは軽い気持ちでしかなかったし、自分のことしか考えていなかったといってもいい。

「ヴィレッジから人が来てくれるなんて初めてだもの。わたしもうれしいし、みんなも喜んでくれていたでしょう?」

「そうだった。みんな……」

「明日からもっと歓迎されるわよ。五十一区の人たちは手加減を知らないから」

「それってどういう?」

「この地区は貧乏なの。なにもないわ」

「そうなのかい? それにそれが歓迎とどう関係が?」

「なにもないから、精一杯の気持ちをあなたに持っていくのよ。心だけがわたし達があなたにしてあげられること。どんなに隔たりがあったとしても人としてのふれ合いがわたしたちにできる唯一のこと。あなたにとってはわずらわしいことかもしれないけれどね」

「よく判らないよ」

「どの地区と比べてもここは貧乏なの。うちだけじゃない。日々の暮らしにも困っている人の方が多いわ」

「そんなふうには見えなかったけれど」

「『人に優しくあれ』『心だけは貧しくなるな』『笑顔は人を幸せにする』」

「それは?」

「五十一区の人たちの合言葉みたいなものよ。どこにいようと、何をしていようともあなたは放っておかれないわ。この地区へ来た人たちはわたしたちにとって、誰もが客人である以上に家族なの」

「だからなのか」昼間の集まった人達の雰囲気を思い返す。「あの料理も?」

「うん」シェラは頷く。「あなたにとってはたいしたものではないかもしれないけれど、みんなは気持ちをこめてあなたの衣食住の世話をしようとするわ。そしてあなたと友達や兄弟、家族になろうとするわ」

「家族って……君もかい?」

 クロッセは戸惑うばかりだった。

「どうなんだろう……」女の子はこれまでとちがって自信なさげだった。「……わたしは父さんもこの地区も嫌い」

「ど、どうして?」

「なにもないから、ほこれるものも、なにも」

「そんなことはないだろう?」

「ヴィレッジや他の地区とちがってここにはなにもない。あなたは知らないの?」

「なにをだい?」

「この地区は流刑地だったのよ」

「だから?」

「だからって……」

「だって、それをいうならヴィレッジは過去の栄光にだけすがって今は何もない。それこそ誇れやしないよ」

 クロッセは今のヴィレッジの現状を包み隠さず話した。

 そして、話をしていくうちに自分は、現状に反抗しつつも実際には何もしていない。他の連中と何も変わらないことに気付かされるのだった。

「それはぼくも同じだな……。何もないから、何かしなければと思ってきた。でも何もしていないんだよね」

「あなたがどんなつもりでここに来たか判らない。でも、ここの人たちは五家や長老会、ヴィレッジが来てくれたことに感謝するわ」

 シェラはそんなクロッセが微笑ましく感じられた。

「感謝なんて……ぼくは……その……」

「別にいいわ」シェラは首を何度も横に振る。「みんな感謝するわ。あなたがいることだけで」

「そんな」

「だから約束して」

「……なにをだい?」

「努力して。途中で投げ出さないで。そうすれば結果がどうなってもみんな納得してくれるから」

「まるでぼくがやってもダメみたいな言い方だね」

「だって、あなた頼りなさそうだもの」

 シェラにきっぱりと言われて、クロッセは怒りたい気持ち、悔しさと後悔と、それらを笑い飛ばしてしまいそうな気持ちとがないまぜになった表情をしていた。

 そして彼がどんな気持ちで五十一区へ来たのか、どんな状況だったのかすべて見透かされているようだった。

「それでもあなたがどこの誰であろうともわたしたちはよき隣人としてあなたとともに歩む。生きるために」

 抱かれていたソールがそれに気付いたのかシェラの腕の中で動く。

「起こしてごめんなさいね」

 シェラは立ち上がると、ゆっくりと腕を揺らしながら歩きはじめる。

「どこへ行くんだい?」

「ソールが泣き出す前に、少し散歩」

「真っ暗なのに危ないよ」

「そう思うなら、ついてきてよ」

 シェラは意外そうな顔をしながらも、笑みを浮かべ誘ってくる。

「判った」クロッセは頷くとシェラのあとをついていく。「ぼくは井戸を直すよ」

「ありがとう。頑張ってね」

 その偽りのない笑顔にクロッセは胸が痛む。

 灯りのない道をゆっくりと二人は歩いていく。ふいに遠くから風の音が聞こえる。

「な、なんだ?」

「砂流雲の流れる音でしょう。聞いたことないの?」

「あれが、砂雲の流れる音なのか……初めて聞いた気がする」

 クロッセは見えもしない夜空を見上げながら首をキョロキョロと動かしている。

「ねえ、ヴィレッジってどんなところなの?」

「どんなところと訊かれてもなぁ……つまらないところだよ」

 クロッセは自分の知るかぎりの旧市街区のことを話して聞かせる。怠惰な民達、使命も忘れ権力に固執するプロフェッサーや生徒の親達のことを。

「そんなところでクロッセは楽しい?」

「面白くはないな……でも、唯一ウォーカーキャリアのことを考えていると楽しいな」

「ウォーカーキャリアって、トレーダーの?」

「そう、砂漠を行くあの機械さ!」

 クロッセはそれがどれだけ素晴らしい技術なのかシェラに熱く語って聞かせるのだった。

「砂漠の果て……」

「そうさ、そのためのウォーカーキャリアが太古から今も動き続けているんだ。ぼくもそれに乗り、それを動かして砂漠の果てを目指したいんだ」

「風の生まれる地へ、ね」

 シェラの優しい言葉と笑顔に彼は勇気づけられたような気がした。

「そのためにもぼくは自分のウォーカーキャリアを造りたいんだ」

 身振り手振りを交え楽しそうに話し続けるクロッセを女の子は目を細め我がことのように嬉しそうに聞いているのだった。


「僕は、その時、五十一区のことをシェラに教えてもらった。十歳かそこらの子供が自分よりも深く世の中を見ていたことに驚かされたけれど、シェラの聡明さにはもっと驚かされた」

「シェラは天才よ。もし五家に弟子入りしていたら、いずれかの五家の名を継いでいたと思うわ」

「彼女は謙遜するだろうけれどね」

「そうね。運命って皮肉だなって思うときがあるわ」

「それでもいまが幸せなんだといわれるとなぁ……」

「人の幸せは他人の尺度では測れないものね」

「どんなに反発していても、シェラの心は五十一区とともにある。流刑者の子孫だと蔑視されても誇りは失われていないし、その知識さえも受け継がれてきている。けっして何もないわけじゃない」

「そうだよね。人としても誇れる地区よ」

「うん。心が豊かだ。不思議な地区だと思うよ」

「普通なら自分の殻に引きこもってしまったりする。排他的な人々がいても、それすらも許し、大切な隣人としてあつかうなんてあたしには無理」

「だからこそ少ない数ではあるけれど理解者は現れる。彼らが離散せずそこで五十一区の歴史を紡ぎ続けてこれたんだろうと思うよ」

「そうね。言葉にしようとすると、どうしても陳腐な言葉にしかならない」

 少女は頭を両手でかきむしる。

「その気持ち判るよ。どんなに暮らしは厳しく貧しくとも、その心までは貧しくならず豊かに生きているんだ」

「よくそんな言葉、真顔でいえるわね」

「おいおい」クロッセは顔を真っ赤にする。「そしてシェラだけじゃなく五十一区の人たちが祖先から受け継いできた知識や技能はもっと活かされるべきだと思う」

「ヴィレッジよりもすごいかもね。ただ五十一区というだけで、それが理解されないのは悲しいことだわ」

「まあ、かなり偏っているし、活かし所が難しいものもあるけれど、それらが本当に失われ消えてしまう前にロンダサークの人々にも知ってもらいたし、残していきたいな」



 5.



「おはよう、シェラ」

「おそいわよ、クロッセ。いつまで寝ているのよ」

「まあまあ、クロッセ君は疲れているのだから」

「疲れているのはみんな同じよ。他の人たちは空が赤紫に染まる前には起きだして仕事を始めているのよ」

「そんなに早くから~無理だよ~」

 もともと好きな時に寝て、目が覚めるまで寝続けるといった生活を繰り返してきた。三日三晩徹夜することもあれば、二日間寝て過ごしてしまったこともあったのである。

「なに寝ぼけているのよ。顔をふいて目を覚ましなさい」

 シェラは台所から水を湿らせたタオルを投げてよこす。

「こらこらお客さんに、なんてことを」

「お客さんじゃないでしょう、父さん。ここに来たらもう家族だって、みんな言っているわよ」

「そりゃあ、そう言っているがな」

「父さんは気にしすぎなのよ」

「まあ、あんまりお気遣いなく」気遣いは不用だった。

 クロッセもシェラとのやりとりには苦笑するしかない。

 顔を拭いて外へ出ると、伸びをする。

「おやおや、先生お目覚めかね」

「先生、おはよう」

「元気かね?」

 クロッセの姿を見ると、隣近所の人達だけでなく通りかかった人すべてがあいさつをしてくる。

 手を合わせ拝んでいく人もいたし、声をかけるだけでなく食料なども持ってきてくれる者もいた。気が付けばクロッセは両手に抱えきれないほどのイクークや野菜を手にしているのである。

 クロッセは慌てて家の中に戻った。

「人気者ね」

「ぼく個人としてじゃないだろう? みんな先生って呼ぶし」

「気付いているならいいじゃない。みんなヴィレッジがめずらしいのよ。こんなところにヴィレッジはこないし、わたしたちもあっちには行けないしね」

「だからってこの扱いは変じゃないか? 見世物みたいだ」

「言ったじゃない。歓迎されるって」

「そ、そりゃあ、聞いたけれど、これほどだとは思わなかったよ。それに少ない食料なんだろう? ぼくはこんなに食べられないよ」

「だけど、遠慮なんてしなくていいわ。みんなの気持ちなんだから」

「そう言われたって……」

「この地区での暮らしで、あなたにひもじい思いや寂しい思いをしてほしくないんですよ」

 ミルドも言う。

「それにね、みんなでこれを料理して修繕にくわわってくれている人たちに振る舞うのよ。あなたのためだけじゃないわ。炎天下で作業してくれているのよ、そのためには体力も必要なのにみんな手弁当すらない状況で手伝ってくれているんだから」

「う、うん」

「あなたからのさしいれだってことにしているわ」

「そ、そんなのいいよ」

「いいじゃない。そのほうがあなたも気にしなくてすむし、みんなで持ちよったもので、みんなで食べるんだから楽しいじゃない?」

「そういうものなのかな」

 シェラのバイタリティには圧倒され続けている。

 そして彼女が言った通り、五十一区の住人はクロッセを歓迎してくれている。先生と呼ばれるのには慣れなかったが、過剰と思えるくらい遠慮なく気兼ねなく接してくれているのだった。

「それにしても、あれだけイクークや野菜をもらったのに戻ってみるとなくなっていたのはそういうことだったんだね」

「気付いていなかったの?」

 シェラは呆れ顔でクロッセを見る。

「まったくもって申し訳ない。昨日のお昼に持ってきてくれる大鍋が、そういう意味があるなんて思いもしなかった」

 地下水路から戻ると地区の集会所では食事の準備が整っていた。

 それがどこから出たものなのか気付かないままクロッセは集まったみんなに囲まれて昼食を共にしていたのだった。

「ああいうのも楽しいでしょう?」

「そうだね」

「じゃあ、今日のお昼も楽しみにしていてね」

 シェラは微笑む。

 そして、クロッセはシェラが用意してくれた朝食をバナザード家の人達とともにする。食事は質素なものだったが、気付かないうち彼はそれに馴染んでしまっていたのである。


「ねぇ、シェラはクロッセと会った時、どう思ったの?」

「そうねぇ」シェラはあごに人さし指をあて少し考える。「噂でしか聞いたことがなかった白いマントを羽織った人が目の前にいたわけだけれど、薄汚れていたから、そうだって最初はヴィレッジだなんて気がつかなかったわね」

 それを聞いたエアリィは声を上げて笑った。

「それはクロッセらしいわね。今も昔も変わらず、あまり格好は気にしてないのね」

「だからすぐに馴染めたのかもしれないわ。クロッセはあの頃からヴィレッジらしくなかったから」

「それがいいところでもあるのだけれど、威厳はないわね」

「それまで聞かされてきたヴィレッジの人々のように権力を振りかざし、力を誇示するわけでもなかった、今まで出会った誰とも違っていて、好きなことを話してくれる時の彼の目は輝いていたの。それが凄く眩しくてうらやましかったわ」

「ウォーカーキャリアのこととなるとみさかいなくなるけれどね」

「純粋な人なのよ。それに私の話に耳を傾けてくれたし、ちゃんと理解してくれた」シェラは楽しそうに笑う。「クロッセはみんなと同じだった」

「だから、すぐに下町になじめたのかな」

「そう努力はしてくれたと思う。いい人だったわ」

「頼りないというか、自分のことにだけ没頭しすぎなのは相変わらずだと思うけど、いちおう、天才っていわれていても、クロッセはただの変わり者でしかないのよね」

「あらあら」シェラは微笑む。「それでも、自分の考えを変えることは難しいことよ。生き方を変えることもね。彼はそのどちらもやり遂げてしまった。凄いことだと思うわ。大人になればなるほど難しいことなのにね」

「でも、それはシェラも同じではなかったの?」

「私はどうだったかしら。でも、あの時、クロッセと出会って彼と過ごしたことで私の中でも何かが変わっていったのだと思うわ」

「お父さんや地区のことが嫌いだったって、本当なの?」

「今考えると、本当に子供だったと思う。何もないなんて思っていた自分が恥ずかしいわ。ただの八つ当たりよね。父ともよくケンカしたわ」

「ケンカって……」

「ああ、口喧嘩よ」さらりとシェラは言う。「反抗期みたいなものかしら、何もかもに反発していたのかもしれない」

「優しいお父さんだって聞いたけれど」

「そう見えたでしょうね。でも、本当に憶病な父だった。持っていた知識も私にだけ教えるだけで、それを活かそうともせず周囲の目に怯えて、気をまわしながら暮らしていただけだった」

「でも、あたしはシェラがいてくれたから、いまがあるわ」

「そうね。父の知識も教えも間違っていたわけではなかった。今はそれが少しだけれど理解できるようになったけれど、あの頃の私は世間知らずで、守られていたことも判らなかっただけだったのよね。クロッセにはずいぶんひどいことも言ったわ」

「そんなことクロッセは気にしていないと思うわよ」

「そうかしら、そうだといいけれど」

「そうよ。だって、シェラに会えて自分が変われたって、彼はいっているわ」

「不思議な縁よね。私も彼と出会ったことで、いろいろな見方が変わったと思う。人や地区やロンダサークのこととか、五十一区には何も無いわけじゃなかった」

「それに、なにもなくたって自分たちが作っていけばいいのよね」

「そうよね。歴史も誇りも過去のものだけではなくて、未来に続いて行くもの。そうあるべきものなのだと知っているのだから」それを彼は教えてくれた。

 だからこそ今の自分があるのだとシェラは語る。

「おたがいにターニングポイントだったのかな?」

「いまは思えばそうかもしれない。でも、本当にいろいろとあったから」

「ききたいな」

「いろいろよ。ささやかなできごとが積み重なってきただけ」

 シェラは微笑むだけで、それ以上は語ろうとはしない。


 井戸の周りには日よけのテントが張られている。

 天幕のように張られた大きな布は地区の女性陣が力を合わせて織ったものだという。テントと小さな小屋が集会所のようになり地区の人々が出入りして行く。

 ここで井戸に関する話し合いが行われ、修繕に関わった人達が休息する場所にもなっていたのである。

 女性達が昼食用の大鍋をふたつほどそこへと運び込む。その中にはシェラもいて、彼女は毎日欠かさず昼食を届けにやって来ていた。

 ミルドが声をかけると作業の手を止めて思い思いに食事をとり始めるのだった。

「今日はなんだい、シェラちゃん?」

「ジャガイモに卵、トウモロコシとシュタの実を使ったグルヤッタよ」

「おお。ごちそうじゃないか」

「グンダさんからシダの香辛料を分けてもらえたの」

 味付けはシェラがしたが、調理場所や材料の提供は五十一区の者達が日替わりでおこなっている。

 グルヤッタの他にもイクークのスープを作り、それを全員に配る。

 シェラは自分のもう一組をトレーに乗せクロッセの元へと行く。

 クロッセはまだ機械と格闘中だった。

「なにやっているの?」

「タンバラさんに頼まれてね。修理していたんだよ」

 いつの間にかクロッセは地区の人が持ってきた古い機械だけじゃなく鍋までも修理している。

「ヴィレッジってこんなこともやっているの?」

「ぼくも初めてだよ。でも頼まれるのは悪くないかな」

「それならいいけれど」

 シェラはクロッセの前にスープを置くと修理中の機械を覗き込む。

 彼女の背にはおぶされたソールがいる。シェラが動くたびに揺れる尻尾のように結った髪、赤子はそれを掴もうとしているのか懸命に手を伸ばす。

 掴もうとすると絶妙のタイミングでシェラは首を動かしているようにも見えた。

「ソールも君も楽しそうだね」

「髪の毛を引っぱられると痛いけれど、こうしておくとソールも喜ぶから」

「ああ、そういうことじゃないんだけれどね。なんかこういう活気が好きだなって」

 シェラはソールを抱きかかえるとクロッセの脇に腰をおろした。

「クロッセが来てくれたこともあるけれど、地区のみんなが手伝ってくれているわ」

 実際に地下水路の修繕を手伝っている人達だけでなく、大人から子供まで様々な形で五十一区の人々は関わっている。

「みんななの?」

 ちょっとそれは驚きだった。

「毎日全員じゃないわよ。仕事に出ている人もいるから。でも、こういった炊き出しや水くみ、資材運びとかやってくれているのよ」

「そうだったのか、よくあることなの?」

「地区の総会以外だとわたしも見るのは初めて」

「そ、それは頑張りがいがあるかな」

「地下水路ってどうなっているの?」

 彼女はクロッセに訊ねた。

 クロッセはシェラから手渡されたグルヤッタを頬張る。

「思った以上に簡単な作りだった。柔らかな岩盤を掘り進み、それを石板で覆っただけの作りさ。そのために水路がどうしてもろくなっている。長期的な使用を考えていなかったか、どちらにせよ住む人のことなんか考えていなかった作りだよ」広げた地図に赤く書き込まれた線をクロッセは指でなぞる。「水の浸食作用も凄いよ。もろい岩盤を削っていく。それにしてもこの地区の人達は頼りになるね。測量も出来るなんて」

「カナルとハズハね。喜んでいたわ。自分たちの知識が活かせるって」

「それに地下水路を進みながら補修もしてくれている」

「クロッセがそうした方がいいっていうからでしょう? それに元石工や石の知識を持った人も多いから」

「正確に石を切る技術は凄いよ。なんでその知識や力を他で活かさないんだろう? もったいない」

「どこで?」

「えっ? どこでって……」

 すぐに答えられなかった。

「いまある石工の仕事は家の修繕くらい。新築はほとんどないわ。測る仕事もない。新しい地区の建設でもあれば別でしょうけれど」

「簡単にはいかないんだね。すまない」

「いいわよ。あなたはやるべきことをやってくれているんだから。そのために活かせる仕事もできてみんな喜んでいるわ」

 シェラもこんなに活き活きとした地区の人達を見るのは初めてだった。

「それならいいけれど」

 喜んでいるシェラを見ていると、なぜかクロッセ自身も気持ちが和らいだ。そして頼られることに喜びを感じ、思い通りに進められることが楽しくて仕方がなかった。

「ロープの進んだ長さを見ると、もうすぐ半分近くになりそうだね」

 まだ水が堰き止められている地点は見つかっていないという。

 クロッセも初めの頃は水路に潜ってみたがすぐに音を上げた。地下水路は人がメンテナンスをするようにはできていなかったのだ。腰を屈めないと進めないし、体力面でも地区の人々に劣るクロッセでは長い時間もぐっているのは難しかったのである。

 当時はよほど急ごしらえで造ったか、短期間の使用しか考えていなかったのだろうと推測された。造られてからかなりの時間が過ぎ去っているはずなのに使用に耐えられたのは当時の技術力が優れていたのか、運がよかったのかとしかいいようがないとクロッセは思う。

 地下水路の中を地区の人々に任せると、彼は水路の始まりである旧区側の方から地上部分を当時の設計図を頼りに調査していた。

「水は五十一区へ流れ込んでいるのは間違いないからきっとどこかで堰き止められているんだろうけれど……」水は確かに地下水路に流れ込んでいる。

「砂の中に消えてなければね」

「それはないと思う」

「どうしてそう思うの?」

「ちょっと無理言って、水路の入り口を見せてもらったけれど、実をいうと流れはほとんどなかったんだ。だから消えたりはしていない。確実に何処かで堰き止められているだけなんだ」

「じゃあ、どこで? 何が原因なの?」

「岩盤が崩れたのか、砂が入り込んだのか、もっと複合的なことが原因であるかもしれないし、堰き止められている場所を見てみないことにはなんともいえないかな」

「それをなんとかすれば水は来るの?」

「たぶんね」

「ハッキリとしないわね」

「そこが解決したとしても、水の濁りや出の悪さまで、直る保証はないんだよ」

 クロッセが潜っただけでも、短い距離の間に壁が崩れている個所を見つけていた。その度に補修しているが、どれだけ修繕しても急場しのぎでしかないことは判っていた。

「じゃあ、どうすればいいの?」

「本当なら新しい水路を作るべきなんだろうけれど……」

「無理よ」

「でも、長老会には話をしているんだろう?」

「いくらしたって長老会は動いてはくれないわ」

「続けているってことは、諦めていない証拠だよ。あれ、変なこと言ったかい? だって諦めたらそこで終わりじゃないか。そうしたら何もしてもらえなくなる。それこそ自力でなんとかしなければならなくなる」

「あなたから、そんな言葉出るなんて意外」

「そうかもしれない」クロッセは頭をかく。「でも、ぼくもここで教えられたんだ。諦めたらそこで終わりなんだって」

「あきらめとかそういうんじゃない。自分たちでやらなければなにも解決しないだけよ」

「それでも、凄いと思うよ。とうに投げだしてしまっても仕方のないことなのに、みんな頑張っている。それにアイディアが凄い」

 どれくらい地下水路を調査したか距離を測る方法や、滑車を使い地下水路をスムーズに移動し交代する手段を考えるなど、ヴィレッジでさえも思いつかない方法やアイディアを地区の人々は提案しクロッセをサポートしてくれている。

 それをもとにクロッセは移動の台車を作ったり距離を計測し地下水路の調査がどこまで進んだかを確認することが出来たのである。ひとりでなら考えあぐねていたことも地区の人々の協力の元、スムーズに進んでいたのである。

「そうね。祖先から受け継いだ知識がこんなところで役に立つなんてとみんな喜んでいたわ」

「シェラはここに何もないっていったけれど、あるじゃないか」

「役にたたない知識が?」

「実際今役に立っているよ。ぼくだけじゃ何も進まなかったことが、ここにいるみんなのアイディアでなんとかなっているんだ。誇っていい」

「あ、ありがとう」

 女の子は顔を真っ赤にしながら慌ててスープを飲むのだった。

「それにしても食事がこんなに楽しくて、美味しいものだなんて思いもしなかったよ」

「そうなの?」

「生きている楽しみが増えたって感じかな。起きた時の朝食は何かな、とか、夕飯は何かなって考えると楽しいな」

「いままでどんな暮らしをしてきたのよ?」

「なんとなく生きていたのかな。つまらない生き方をしていたなって、思う」

「じゃあ、こっちで生きればいいじゃない。楽しいんでしょう?」

「それもありかな」

「ごめん、いま言ったことは忘れて」

「どうして?」

「これが終わったら、わたし達は元の生活に戻るわ。そうしたら、クロッセが楽しいと思うこともおしまい。そしてあなたもヴィレッジに戻るわ……」

 笑っていうがシェラも心なしか元気がないように見えた。語尾に力がない。

「ヴィレッジか……」

 クロッセの目は宙を漂う。

 天才と呼ばれてはいたけれど、ただ学び、一人で考え、好き勝手に本当に手当たり次第に実験を繰り返してきた。いま思えばそれもささやかな反抗のつもりだったのだろう。漠然と時を過ごしていただけにしかすぎなかったのである。

 考え創造することの喜びなんてものはヴィレッジにはなかったし、いまこの時のような充実感も感じることもできなかった。

「……戻っても何かあるのかな」

「でも、あなたはあたし達とちがう。こんなところにいるよりはヴィレッジに戻った方がいいわ」

「……ぼくにできることはないのかな……」

「充分してくれているわ。わたし達のような暮らしをあなたまでする必要はない」

「でも、ぼくらは家族なんだろう?」

「だから、あなたには幸せになってほしいもの」

「……そういうものかな。ぼくは君にも幸せになってほしいけれど?」

「ありがとう」シェラは微笑む。「そういってもらえるだけでもうれしいわ。本当にみんなが幸せに暮らせたらいいのにね」

 それは女の子の心からの願いだった。



 6.



「落盤は起こるべくして起こったものだったわ」シェラはそう回想する。「父は起こるだろうと予測していたしね」

 井戸の復旧作業中に起きた事故のことをシェラは少女に語り始める。

 原因究明のための調査をおこなっていた時、作業中の者が落盤によってケガをしたのだった。

「でも補修しながら進んでいったのでしょう?」

「崩落を防ぐための作業中のことなのよ。石杭を固定するためのくさびを打っていた時だったと聞くわ。幸いケガですんだけれど、それよりも先に調査に進んでいた人は戻ることができなくなってしまったの」

「とじこめられちゃったの?」

「そこまでひどくなかったと聞くけれど、取り残されたゴウリさんはそれでも立ち止まらなかった。ひとりでも先に進むことを選んだわ。そのおかげで、わたしたちは地下水路が塞がり井戸に水が流れてこなかった原因を突き止めることができた」

「執念ね……」

「みんな必死だった。その事故が転機となると判っていたから」

「実際には無事に終わったのでしょう?」

「そうね。でも、作業が中止される危機的状況だったの。わたしはそれを聞いていてもたってもいられなくなった。だって、みんながひとつになっていたものが、崩れ去ろうとしていのだから。五十一区のことだけじゃなくて、クロッセの存在が旧区と下町や長老会を巻き込んだロンダサーク全体の問題に発展するかもしれなかったのだから」

「おおげさね。だってクロッセになにかあったわけじゃないのでしょう?」

「その時はまだ何もなかったけれど、何が起きてもおかしくはなかった。ヴィレッジは些細なことでも見逃さなかったと思うわ」

「言いがかりもいいところじゃない!」

「彼はこれまでの工事について何も報告していなかったというけれど、それも幸いしたわ。食事のことや宿泊のこと、彼の不用意に話してしまったことが問題となって下町は旧区から賠償を求められていたはずだといわれたわ。だから長老会は井戸の復旧のための調査や工事を中止させようとしていたはずだわ」

「ヴィレッジとの関係を悪化させたくないために?」

「その時は実際に地下水路に潜っていたわけではなかったのにね。クロッセをヴィレッジに戻らせようとしていたわ。父も地区の人もその流れには逆らえなかった」

「クロッセはどうだったの?」

「彼はひどく落ち込んでいたわ。彼は頭の中ではそういうことも起こりうると理解していたかもしれないけれど、現実はそんなに生やさしいものではなかった」

「ヴィレッジの連中は水と緑に守られて苦労も知らずぬくぬくと生きているのですものね」

「彼は短い時間の中で、様々な現実を肌で感じることになってしまった」

「いいことじゃない」

「いまだから普通に話せることかもしれないけれど、大変なことだったと思うわ」

「でも逃げなかったのでしょう?」

 少女はニヤリと笑うとシェラは微笑みながら頷いた。


「だ、大丈夫ですか? あんなに血が流れていて」

 クロッセはひとり焦り、取り乱していた。

 細く狭い地下水路での救出作業は難航した。崩れた石の量が多かったのだ。それに救出が優先されたため先行していたゴウリは取り残される形となった。

 そのゴウリは戻ることよりも先へ進むことを選ぶ。伝声管が生きていたのも幸いだった。酸欠になることは無かったのである。

 井戸の底から担ぎあげられたルストの意識はなかった。腕や額、衣服にこびりついた血がクロッセの心をかき乱す。

 それでも傷は浅く、大丈夫だとミルドは教えてくれたのだが……。

 体がひどく重いものに感じた。思考がまとまらず、自分が何に動揺しているのかすら判らなかった。

 彼は壁に寄りかかりズルズルと腰を下ろした。

「なに落ち込んでいるの?」

 顔を上げるとシェラが彼の目の前に立ち、見下ろしている。

「あんなにケガしていた。安全に進めていたはずなのに……」

「アガカ婆ちゃんが見てくれているわ。いまはルストさんの意識も戻っているし、ケガもすぐ治るって」

 シェラの息は荒かったが、なんとか言葉を紡ぎだす。

 地下水路での事故を聞いて急いでやって来てくれたことにもクロッセは気付けないでいた。

「本当に?」

 疑わしそうに女の子の顔を見上げる。

「嘘言っても始まらないわ。気になるならあとで見舞いに行きましょう。あなたこそそんなに青い顔をして大丈夫なの?」

「大丈夫……」クロセッの言葉に力はなかった。無理に笑おうとしているようにも見えた。「そんなにひどい顔かな」

「事故を見るの、初めてなの?」

 問い掛けにクロッセは小さく頷く。

 それを見て、女の子はやれやれと肩をすくめる。しばらく無言のままクロッセを見つめ、それから拳を握りしめると話し始めた。

「あなたがどう思ってやっていたか知らないけれど、みんな覚悟していたわ。事故がいままでなかったことの方が奇跡よ」

「そんなの聞いていないよ!」

「じゃあ。おめでたいわね。失敗したこともなく優しい水と緑に包まれて育った方は」

「失敗しているし、あそこはそんなに優しくもない」

「でも、初めてなんでしょ?」

 シェラはクロッセに顔を近づけ、目を覗き込む。

 その力強い視線に彼はすぐに目をそむけた。

「自分がああなったらって今ごろ気がついたでしょう?」

「そ、そんなことは……」

「いずれにしたって、父さんたちはもう、あなたを危険なところに近づけさせないわ。それ以前に長老会が今回の事故を聞きつけたら、絶対にあなたをわたしたちの地区から引き離すわ。ホッとした?」

「どういう意味だよ」

「別にあなたから、ここにはいたくないって言ったっていいのよ」

「そ、そんなこといえ、言えるわけないだろう……」

「でも、あなたの気持ちに関係なくそうなるってみんないっているわ」

「だから、なぜ?」

「あなたがヴィレッジだからよ」

「どうしてヴィレッジが関係してくるんだ! ぼくはクロッセ・アルゾンだ。あんな連中とは違う」

「なに不思議そうな顔をしているの。そう、あなたはクロッセよ。わたしたちの隣人であり家族であり友達でもある。でもね、他の人々はそうは見てくれない。あなたはあの白い壁の向こう側の人間なの」

「君もそう見ているのか?」

「そんなわけないでしょう!」女の子はクロッセの顔を抱き寄せた。「そんなわけないでしょう。何度でも言うわ。あなたはわたしたちの大切な人よ。それだけは忘れないで。でもヴィレッジには逆らえないわ。だってそうでしょう、命の水を握っているのだから」

「それじゃあ、脅迫じゃないか!」

 クロッセはシェラの手を振りほどくと両腕を掴む。

「なぜロンダサークがひとつじゃないのか考えたことなんかないでしょう。旧区は命の水を一人占めして下町を服従させているのよ。あなたがケガをすればそれがいい口実になるわ」

「ぼくはそれほどヴィレッジで重要視されていないよ」

「だからでしょう」

 女の子は憐れみの目でクロッセを見つめているようにさえ感じられてしまう。

「だれもヴィレッジともめごとを起こしたくない。労働力の無償提供や奉仕を要求し、税としての食糧を増やそうとしたとしても長老会は従うしかないのよ」

「君達が食料を作っているわけじゃないじゃないか」

「わたしたちは真っ先にあなた達に奉仕しなきゃいけないのよ。それしかないし、わたし経ちの地区のせいにされてお終い」

「じゃあ、ぼくはどうしてここにいるんだ!」

「そんなことあなたにしか判るわけないじゃない。砂漠の中の砂粒よ、わたしもあなたも」

「なにも知らなかったのは同意するよ。それでもぼくは井戸を直すくらい簡単だと思っていた」

「あなたが天才だかなんなのか知らない。でもね頭の中で思い描いたみたいにことが運ぶなんてことはありえないのよ」

「そんなことは判っている」

「本当に? だったらなんでこんなところでひとり隠れているのよ!」

「隠れてなんかいないよ!」

「ひとやすみね。いい御身分なことで」

「ぼくは……君のひと言の方が傷つく」

「甘えないでよ。家族だから優しくしてくれるなんて思わないで、家族だからこそいえることもあるわ」

 クロッセは頭をかきむしりながら俯き、呻く。

「……判ったよ」

 クロッセは立ち上がるとミルドらが集まっている小屋へと歩いていった。

 女の子はその後ろ姿を追うことなく、俯き唇をかみしめ、服の裾をきつく握りしめた。


「それでもクロッセは逃げなかったのでしょう?」

 少女はにこやかに笑った。

「いやまあ……、あそこで逃げたら僕は結局、ヴィレッジに口実を与えるだけだと思った」

「その場にとどまっていても同じだと思うけど?」

「そうだとしても中途半端はもっとダメだろう? 二度とこの地に足を踏み入れることができなくなるし、迎え入れてくれた家族に顔向けできない」

「えらい、えらい」背伸びしながら少女はクロッセの頭をなでた。「いまクロッセがここにいることが、なんとかなったって証なのだけどね」

「そういうことになるね」

「結局、地下水路はなにが原因で水が流れてこなかったの?」

「大規模な落盤が原因だった」

「落盤って、地上部分は大丈夫だったの?」

「もっとひどければ大惨事というのもありえたけれど、そこまでは至らなかったんだ。だから見過ごされてしまった」

「どういった状況なのかくわしく説明してよ」

「運がよかったのか悪かったのか、やっぱりその両方かな。落盤は側面が約五メートルにわたって崩れたことによるものだった。それで地下水路をおおっていた岩盤が落ちることはなかったのだけれど、崩落によって小さい穴が地表部分に開いてしまっていた。幸いなことにそこは壁ではなかったし、家が建っていたところでもなかった」

 クロッセは周囲が止めたにもかかわらず、彼らを説得し地下水路に潜り、現場を見た。落盤だけで塞がったものではなかったことが判った。

 岩と岩の間の隙間に砂が入り込み固まってしまい、それが水路を塞いでいた。

 地面にあった穴はすでに塞がっていた。そうでなければここから水漏れがあり、さらに崩落が進んだ可能性もあった。測量から推測される地点はそこより五メートルほど外壁に向かったところだった

「それが運がよかったところなのかな? じゃあ、運が悪かったところは?」

「その地区では誰も穴が開いた理由を知らなかったし、それを長老会に報告していなかったんだ。理由は簡単、そこに地下水路があるということを知らなかったからなんだけれど、そのためにその地区の人々は、穴を砂塵処理に使ってしまったんだよ」

「砂嵐とかで吹きだまった砂をそこに捨ててしまったの? それって不法投棄じゃない!」

「まあ、そうなるかな。でも、彼らは本当に知らなかったんだから、それを責めることはできない」

 砂嵐などによってロンダサークにたまった砂は放置しているとオアシスを飲み込んでいく。そのためにたまった砂は集められ、麻袋に入れて砂漠に戻す。それはひどく労力を要するものだった。

 その地区ではいくら砂を捨てても埋まることのない便利な穴として利用されてしまっていたのである。

 クロッセの推測では砂だけではなく家を修繕する時に使う粘土や硬化剤が混ざっていたのではないかということだった。そのために崩れた粗い岩盤の隙間で砂が水と混ざりあい固まってしまい地下水路を塞いでしまったのではないかと推測する。

「じゃあ、地区の水がにごっているのはそのせいだったの?」

「それも一因だったということかな。その穴を塞いだけれど、結局、水の濁りはなくならなかったのだから」

「まだまだ穴が開いているということ?」

「その後も調査は続けているけれど、見つけられないほど小さな穴があいている可能性もあるんだよね。さらに岩盤が削られてもろい層が水に混じっているということも考えられる。それに補修ができたのも半分くらいでその先がどうなっているのか誰にも判らないんだ。五十一区はこれからも地下水路には悩まされることになるだろうね」

「解決策はないの?」

「一番いいのは新しい水路と井戸を造ることだけれどね。そうすれば今の井戸を止めてメンテナンスをしなおす方法もとれる」

「問題は資金と水源になるわね」

「ロンダサークは外周部になればなるほど水不足は深刻になる。お金がかからない方法としては近くの地区から水路を引くことだけれど……」

「説得しても納得してくれるか、よね?」

「アイディアはあるけれど、僕ひとりでは難しい」

「新しい水路をつくるには長老会の承認も必要よね?」

「資金も技術力もない。それにこれは多く人の理解が必要ときている。一地区の問題だけではなんだよね」

「水がからんでくるんだもの当然よ」

「そうだね。あの時は運がよかったんだと思うよ。十日という短い時間の中で解決することができたんだから。もちろん、最終的には、他の地区の協力もあって短縮することができたんだからね」

 潜り込んで穴を開ける方法はリスクが大きすぎた。

 クロッセは重機によって地下水路をおおっていた岩盤を持ち上げ、崩れた土砂や岩を取り除くことを提言する。

 ミルドはそれを五家に伝え、なんとか了承を取り付けたのである。現場での作業はその地区の人々も助けてくれた。

「でも、もったいない話よね」

「なにがだい?」

「だって、それを機会にその地区とも交流ができたはずなのに。そういう話しだってできたじゃない?」

「そう言われればそうだね。僕は謝罪を受け入れた五十一区の人達の美徳としか見ていなかった」

 賠償を求めるわけでもなく、手を取り合うだけで水に流した二つの地区に感心しただけで終わってしまっているのである。

「いろいろと話をもっていくことができたのにね」

 それでも何かのネタにできるかなと呟いていた少女を見て。クロッセは苦笑するしかなかった。



 7.



 再び井戸を水が満たしたその日の晩、五十一区はお祭り騒ぎだった。

 狭い集会所に大人も子供も全員が集まり、祭事もとり行われた。

 闇の中に松明が灯され、大きな火を中心に人は歌い楽器を奏で、住民達の独特の踊りが繰り広げられ、その輪の中には担ぎ出されたクロッセもいる。

 長老であるミルドが用意された大鍋に井戸の水を入れる。四方から聖霊を模した衣装を纏った巫女達がその鍋にレモンを投じると祈りと感謝の歌が捧げられる。

 喜びに満ちた住人たちの表情を誇らしげな顔でクロッセは見つめていた。

 大鍋から器へと巫女四人が水をすくうと、ミルドと二人の代表、そしてクロッセの前に立った。

「ありがとう」

 祈りの言葉とともに、添えられたその声にクロッセはハッとなり水をくれた巫女の顔見た。

 満面の笑顔で女の子は彼を見つめている。

 薄暗がり中浮かび上がるその神秘的な姿と表情にクロッセは見とれてしまう。

「どうしたの?」

「君だとは思わなかった……」

「そう?」シェラは悪戯っぽく笑った。「それじゃあ、それを飲み干して、そして盃を地面に叩きつけてね」

 それで水の聖霊への儀式が滞りなく終わるという。

 クロッセら四人が杯を割ると歓声が沸き起こり、祝いの儀式は祭りへと移行していった。多くの人々にクロッセは囲まれる。

 多くの人々に抱擁され、感謝の言葉をもらう。

 それが本当に嬉しかったし、きっと気分が高揚していたんだろう。クロッセには忘れられない一日になった。

「はい。お腹空いたでしょう」

 シェラがクエンタの実やイクークの燻製を乗せた皿をもってきてくれた。

「ソールは?」

「父さんが見てくれているわ」

 シェラは照れくさそうに笑った。巫女を務めていたこともあり化粧が施され、髪を下ろしいつもとは違った姿だった。そのせいなのか雰囲気はいつもより大人びて見える。

「シェラちゃんきれいだろう?」

 誰かがクロッセの背中を小突く。

「変かな?」シェラは訊ねてくる。

「ああ、いや……そのね、いつもと違って見えるから」見違えた。

「ズッと先生の世話をしていたからな」

「そうそう、あたし達なんか近づけさせてくれなかったからねぇ」

「料理もうまいし、器量もいい子だ。将来は美人になるぞ。どうだい先生、嫁にしたくなるだろう?」

「えっ? ええっ!」

 クロッセは驚き悲鳴を上げた。

 否定されるかと思ってシェラを見ると、彼女は顔を真っ赤にしながら俯いているだけだった。


「その光景が見えるようだわ」

 少女は声に出して笑った。

「そのあと、帰り道にシェラに言ったんだ」

「ここに住むって?」

「そう。軽い気持だった。楽しかったから、ここで暮らせばもっと面白いことに出会えると思ったんだ」

「それを実現させたわけよね」

「でも、シェラにそのことを話したら怒られたよ」

「どうして?」

「現実は甘くないってね。足を蹴られた」

 誰もがあたたかく迎えてくれるだろうと思っていたのにそれは意外だった。


「だってあなたは苦労を背負ったことなんてないでしょう?」

「苦労はしているよ」

「どんな?」

 ヴィレッジ内での孤立や無理解な者達のことを彼は話すのだったが、それを聞いた女の子は小さな吐息を洩らすと彼を睨みつける。

「あなたはいままでどうやって生きてきたの?」

「どうって?」

「生きていくには必要なものがたくさんあるわ。あなたは家族がいないっていうけれど、一人で生きていけるの?」

「だ、大丈夫だよ。なんとかなるよ」

「あなたは料理ができるのかしら? どこから食べ物を調達しているのか判っているの? 毎日地区の人が食事を持ってきてくれるわけじゃなくなるのよ。料理も家の中のこともしたことないくせに」

「覚えるよ」

 女の子は真っすぐに見上げる。彼はその目を正視し続けることが出来なかった。

「お金はあるかもしれないけれど、自分でなにもしたことがないのよね。買い出しもしたことがない、市のどこになにがあるかも知らないくせに」

「……その通りでございます」

「わかればよろしい」体は小さいが、家を支えている母親役の女の子にはかなわない。「本気で来るのなら、わたしたちは歓迎するわ。でもねヴィレッジでうまくいかないからという勝手な思い込みだけでこっちに逃げてくるのなら、わたしは許さない。全力であなたを元いたところに追い返してあげる」

「怖いな」

「伊達や酔狂でこんなところに住めるほど下町は甘くないのよ。あなたになにができるのか、考えたことある?」

「修理ぐらいかな」

「そんなもので生きていけるほど、ここは裕福じゃないし、機械も鍋も多くないわ。そんな看板出したってあなたじゃ胡散臭くてすぐに干上がっちゃうわよ」

「シェラにはかなわないな。本当にそうなりそうだ」

「当然よ。何年、生きていると思っているんですか。考えなしな人にはちゃんと教えてあげないとね」

「でも、五十一区で生きていこうとする人もいるんだろう?」

「そうね。でもあなたみたいな無能な人じゃないわ。みんな下町の人たちですもの。あたしがいなければなにもできないようでは、その辺で干からびておしまいね」

「じゃあ、君がいてくるというのは?」

「はっ?」

 いきなりなことにシェラは声を上げ訊き返した。

 クロッセは軽い気持ちで言ったつもりだったが、シェラは目を見張り驚いたように彼を見ていた。

「お手伝いさんていうことかしら? ここでもヴィレッジみたいな暮らしをするつもりだったの?」

「ち、違う。違うよ。すまない」

「い、いいわよ。わたしとあなたじゃ生きている世界が違うんだから。でもね。その覚悟ができたならわたしは歓迎するから」

「判った。ここで生きていける自信がついたならぼくはここに戻って来るよ。それでいいかな?」

「それだったら許すわ」

「ありがとう、シェラ。ぼくはここで忘れていたものを君に思い出させてもらった、そして知らなかったことを教えてもらった。五十一区はぼくにとって忘れない場所になった。だから……」

 クロッセは手を差し出した。

「わたしも楽しかったよ」

「まったく違う環境だったのに不思議と安らげた。短い時間だったけれどヴィレッジにいた時以上に濃密な時間だった。だからぼくはこの時間を大切にするし、忘れないよ」

「ありがとう、クロッセ。そう思ってくれたのは本当に嬉しいわ」

「感謝するのはぼくの方だよ。ひとりでいることの方が気楽だと感じていたし、何事にも縛られない方がいいと思っていた。だけどそうじゃないんだって気付かせてくれたし、ここでの出会いがなければぼくは一生、ヴィレッジでくすぶり続けていただろう」

「わたしも、忘れない」

 五十一区が大切な場所だと気づかせてくれた彼のことを。


 これが別れの前に出来た二人の最後の会話になった。

 二人の軌跡が再び交わることになるのは、これから四年の月日が流れたのちのことであった。

 いまから六年前のことになる。



 8.



「五十一区に戻るまでずいぶん時間がかかったのね?」

 少女はクロッセに訊ねた。

「下町に住みたいという自分の気持ちが本当なのか、自分自身の気持ちを整理して確認するのにはそんなに時間はかからなかったけれど、自分に何ができるのか、それを見つけるのに時間がかかったんだ」

「たどりついたのがジャンクだったわけよね?」

「それがあるってもっと早く気が付けばよかったんだよ。もっとも自分で調べていて結局見つからずベラル師に相談した結果だったというのも情けない話さ」

「でも、四年ものあいだあきらめなかったのはすごいわ。クロッセにしてはね」

「そうかもしれない。時間があったからいろいろとウォーカーキャリアに関するものを集めることができたしね」

 急いでヴィレッジをあとにしていたら、あのフレームにも出会わなかっただろうとクロッセは言う。

「よくヴィレッジを出ることができたわね。しがらみとかなかったの?」

「旧市街区から出ていくのは簡単だよ。僕に身寄りはなかったのも幸いだったかな。名籍とかそういうものを欲しがっていたやつに売りつけてやればよかったのだから」

「あまり楽しそうな話ではなさそうね」

「本当につまらない、どうでもいいことへのこだわりでしかないよ」

「それでもあそこの方が機材もそろっていたし、実験環境もよかったのでしょう?」

「環境はよくないよ。特に雰囲気がね。怠惰で覇気がない。退廃的でその理念すらも放棄して、過去の栄光にしがみついている連中といると、ぼくは何も出来ずにこのままずるずるといってしまうと悟ったんだ」そう気付くとあっさりと決心がついた。「旧区に僕を縛り付けているものもなかった」

 家族もしがらみもない。引き留める者もいなかった。

「屋敷も売り払った」

「じゃあ、旧区にはもう何も残っていないの?」

「そういうこと、退路を断ったっていうのもあるかな」

「それだけはすごいと思うよ」

 自分から踏み出せた。少女にはできないことだ。

「何かをあそこに残してきたら、きっと僕はシェラに怒られ、旧区に送り返されていただろうからね」

「それはあるかもしれない。シェラはそういうところは頑固だから」

「押しが強いところも変わっていないしね」

「そうね。シェラは笑顔で自分の信念を曲げずにやりとげようするしね」エアリィは肩を竦める。「それで下町に仕事はあったの?」

「最初はベラル師をあてにした。仕事を振ってもらい、食いつなごうと思った」

「まあ家を売り払ったというのならお金はあっただろうから、最初はそれでも大丈夫だったのかな」

「お金は下町に来るときにほとんど使い果たしていた。けっこうな額があったはずなのにすぐに消えていったから」

「なにによ?」

 訊けば十年以上は遊んで暮らしていけるような額だった。

「大半はジャンクの権利かな」

 クロッセがジャンクの権利を手に入れられたのはベラル師の口利きもあったがヴェスターの存在も大きかったとあとで聞かされるのだった。

 ジャンクは当たれば大きかったが、はずればかり引けばすぐに破産する。ファミリーの数自体が減りキャラバンの入港が減っているいまでは仕事自体が減っていた。権利は高額だったが、クロッセのような存在は稀有なものになりつつある職業だった。

「権利だけでお金を使い果たしたの?」

「ジャンクの権利は意外に高価だったからね。あとはフレームとかウォーカーキャリアの部品をヴィレッジから入手したりしていたから」

「あとのことは考えていなかったのね」

 クロッセらしかった。

「五十一区に行けばなんとかなると思ったしね」

「よくシェラに怒られなかったものね。でも五十一区に行ったらまっさきにあいさつに行ったのでしょう?」

「そうしたんだけれどね。その場所には他の家族が住んでいたんだ。ミルドさんがすでに亡くなっていたというのもあった」クロッセが五十一区を離れて一年くらいしたあとのことだったという。「はやり病だったと聞いたよ。家もミルドさんが亡くなった後、すぐに引き払われてしまったらしい」

「でも、今はおとなりさん同士になっているじゃない。行き先とか誰かに教えてもらったのでしょう?」

「なんか訊きづらかったし、だいぶ時間がたっていたからもう相手にされないかと思った」

「五十一区の人にそれはないでしょう」

「まあ、そうなんだけどね。それにそこへ行けばシェラやミルドさんに会えるとばかり思っていたんだ」

「まあ、ちゃんと再会できたのだし、いいか」

「ビックリしたよ。お隣さんがシェラだって知ったときはね。それにお隣さんがあの時の女の子だったなんて思いもしなかったんだ」

「どうして? それに、なに照れているのよ」

「……すごくきれいになっていた……」小さな声でクロッセは言った。「あの頃のシェラは快活で、エアリィみたいに元気で明るい女の子だった。髪も短かったし、体の線ももっと細かったから面影はほとんど残っていなかった」

「縁なのかなぁ。ごちそう様」

「そう考えるにはいろいろな要素が重なりすぎているような気がしたけれどね」

 クロッセは苦笑する。

「僕とシェラだけが知らなかっただけかもしれない」


 リヤカーを引きながら、クロッセは炎天下の裏路地を歩いていく。

 見送りは誰もいなかった。彼も振り返ることなくその日旧市街区をあとにする。しかし、出迎えは熱烈だった。

 彼の顔をほとんどの人が覚えていた。

 真っ先に行ったバナザード家の人達と会えなかったのが残念だったが、四年ぶりに会ったにもかかわらずあたたかく迎え入れてくれる住民達の姿が凄く嬉しかった。

「ここか」

 ベラル師に手渡された地図に書かれている家にようやく彼はたどり着いた。

 ここに着くまですれ違う人達に何度も彼は地図を見せ、道を訊ねている。その度に歓迎され、場所を見てなるほどと頷かれたものだった。

 汗をぬぐうと開け放たれた窓から中にこぼれる光に浮かび上がる何もない部屋を覗き見る。

「変なところはないよな。ささやかな新居ってやつだ」クロッセはひとり頷き、壁に手を触れる。「ベラル師が手配してくれたんだし」

 小さな家を二つつなげてくれていて、実験や修理などをおこなえるようにしてくれているはずだった。

 荷物はさほど多くない。ほとんどは宙港のジャンク屋に運び込んでいたため衣服や書物など最低限のものしかなかった。

 書物の入った箱を持ち上げようとした時、隣の入り口の布が払われ中から人が出てくる。

 女性だった。その後ろから小さな子供がついてくる。母親だろうか。髪が長く落ち着いた雰囲気がする。

 その美しさにクロッセは見とれてしまい、その場に立ち尽くす。

 目が合い。クロッセは我に返ると慌ててあいさつする。

「あ、あの、隣に引っ越してきました。……あの?」

 彼女はクロッセを見た途端、手にした水袋を落としてしまう。驚き見開かれた目からはとめどなく涙があふれ頬をつたい流れ落ちていく。

 なにを自分はしたというのだろうか? クロッセもそれ以上言葉を続けられなかった。

 抱きつかれてしまったのだ。

 顔をくしゃくしゃにしながら彼の名を呼び続けたため、彼女が落ち着くまでしばらく時間がかかった。近所の人達はその様子を見てただ微笑んでいるだけだった。

 涙をぬぐい微笑んだ彼女がシェラだと知ったときのクロッセの驚きようはなかった。四年という歳月は女の子を大人の女性へと変えていた。

「お帰りなさい。クロッセ」

 戸惑うクロッセをシェラはあたたかく迎えてくれる。あの時と変わらない温もりがあった。

「ただいま、シェラ」

 シェラの瞳から再び涙があふれ出す。

 二人の周囲からは歓喜の声が上がる。


 シェラとクロッセ。

 二人の物語がここからまた始まる。



 <15話 了>

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