第32話 黒飴

「ありがとうね」

 老人の車椅子が溝にはまって困っていた所を引き上げてやると、そう言って老人は飴を一つ差し出した。青年はにこりと笑い、皺の寄ったその手から飴を一つ取る。

「こちらこそありがとうございます」

 青年は老人の車椅子を押した。

「何処へ行くんですか?」

「ひ孫のね、運動会なの」

「ああ、そこの小学校の……」

 青年は会話しながら小学校の門へ周った。もう運動会は始まっている。青年は車椅子を押しながら校舎を眺めた。



 金木犀が満開になり、その香りに背中を押される形で太郎と蓮は走っていた。タッチの差で蓮がコース中程に置かれたカードを捲る。そこに書かれた内容に蓮はさっと頭の血が引いた。その隣で、やっと太郎もカードを捲ると、真っ先に観客を見回した。蓮も、急いで本部席に向かう。拾ったカードを高く掲げると、にこやかに座っていた校長先生が慌てて立ち上がった。その勢いでパイプ椅子が倒れ、校長先生が本部席から出て来る。蓮はよたよたと出て来た校長先生に、自分の不運を嘆いた。

 校長先生と手をつないでゴール

 と書かれている。出て来た校長先生と手を繋ぎ、走ろうとするも、校長先生は蓮が思う様に走れない。その間に

 カードを握った太郎が走って本部席のマイクを取った。

「黒飴!」

 声援で賑わっていたその場が一瞬静まり返った。せめて飴とかキャンディにすれば良いものを、『黒飴』なんてお題にしたのは意地悪だと思う。だから蓮は、自分だけが外れを引いたわけでは無いのだと少し安堵した。

 すると、観客席の一角から意外にも声が上った。

「あるぞ〜!」

 観客席の中から、青年が声を上げた。太郎はそっちへ向かう。青年も人混みから出ると、差し出した太郎の小さな手に黒飴を握らせた。

「頑張れ!」

 青年の声援に太郎はニカッと笑った。

「万難を排して取り組むのである!」

 太郎がそう叫んで走ると、青年は目を丸くした。万難を排して取り組む……聞き馴染みが無いと同時に、小学生がそんな事を言うと思っていなかったものだから、不意をつかれて観客席に笑い声が上った。

 他の子も、サッカーボール三個を引き当てた生徒や、大きな団扇を持ってゴールを目指す子も居る。

 まだ小学生になったばかりの小さな子供達が黄色い声を上げて走る姿に昔の自分を重ね合わせていた。



 玉入れ、綱引き、リレーと続き昼で運動会が終わると、青年は踵を返した。要らぬ寄り道をしてしまった。まあまさか、こんな所にあいつが居るわけ無いと思い、他を当たろうと思っていた。つい、自分の子供の頃を思い出して最後まで見入ってしまった。

「かたじけない」

 子供の声に青年は振り返った。借り物競走で黒飴を引き当てた子供が、パイプ椅子を一つ抱えてにんまりと笑っている。

「お借りしていたものでございます」

 子供が小さな手を差し出すと、さっき渡した黒飴が握られていた。

「良いよ。やるよ。頑張ったな……じゃなくて、万難を排して取り組んだな、か?」

 青年がそう言うと、子供はにこりと笑った。

「君、名前は?」

「太郎である。お兄さんはあまり見かけぬ顔ですが、運動会にお知り合いが居たのであるか?」

 太郎の言葉に、中々利発な子供だと思った。自分が全くの部外者で、何をしに来たのかと探りを入れに来ている。

「ちょっと人をね。曾良 洋って男なんだけど知らない?」

「おや、洋殿のお友達でありましたか」

 意外にも太郎に即答され、呆気に囚われた。まさかこんなまだ小学一年生と面識があるものかと訝しむ。

「え? 知ってるの?」

「存じております。大変心根の良い真面目な大和男子である」

 そう言われ、自分の記憶の中のその男と、似ても似つかぬ言われように同姓同名の人違いでは無いかと思った。

「事業に失敗して借金返せなくて自己破産するような男だぜ?」

「手前はお金の事はとんとわかりませぬが、人を見る眼は持ち合わせているのである」

 自分よりも人生経験が遥かに未熟な太郎に言われ、何とも不思議な気分だった。

「まあ良いや、曾良は今何処に居るんだ?」

「黒飴のお礼である。案内してしんぜよう」

 そう言われ、軽い気持ちでついて行ったのを後悔した。



 歩いて行くのだから、精々五分、十分程の所だと思っていた。細い道路を行き、橋を渡り、坂を登り、横断歩道を渡り、また坂を登り……そこからはずっと急な上り坂が続いていて、太郎はひょこひょこと休みもせずに歩いていたが、青年は等々道の端に座り込んだ。

「……まだなのか?」

「これこれ、まだまだである」

 元気な太郎を横目に老いを感じていた。否、普通こんな所、歩きで来るものでは無い。他に行き交う人は居ない。左側は一面田んぼが広がっている。道も細い農道で、溝に蓋がされていないから落とし穴みたいになっている。変わって右側は崖みたいになっていて、偶に古い日本家屋が一つ、二つと建っている。崖の下にも同じ様な道があり、そっちの方が家が建っている。建っていると言っても、数える程だ。山が迫っている様な気さえした。

「帰る」

「なんと? もう少しである」

「それさっきも聞いたんだが……」

 青年は大きな溜め息をついた。まるで狐につままれた気分だ。もう学校を出てからかれこれ小一時間くらい歩き続けている。

「諦めたらそこで試合終了である。と、洋殿が教えてくれたのである」

「ああ……世代だからなぁ……今時の小一は知らないだろ……いや、こないだ映画してたから知っててもおかしくないか?」

 何だか見た目は子供ながら、話していると年配を相手にしているような、変な気持ちになる。

「良いんだよ。疲れたんだ」

「では、一休みしましょう」

 太郎はそう言うと、青年の隣に腰掛けた。青年は自販機を探したが、そんなものは見つからない。ここまで道案内してもらったのにこのままただ引き返すのも悪い気がしたのだが、長閑な田舎だった。

「一休みじゃなくて帰るんだっつの」

「有漏路より 無漏路に帰る 一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け」

 青年は意味が解らなくて目を丸くし、首を傾げた。

「人生とは俗世から彼岸へのほんの刹那の『一休み』である。雨も降れ、風も吹け。

 人生山あり谷ありである。上ってしまえば、あとは下るだけである。そうと解っていて途中で諦めてしまうのはなんだか勿体ないのである」

 青年はそれを聞いて少し考えた。

「何だか年寄りみたいな事を言うんだな」

「おや、畏れ多い」

 太郎はにんまりと笑った。

「頭髪が白くなったからとて長老なのではない。ただ年をとっただけならば『虚しく老いぼれた人』である。太郎めは長老の方が良いのである」

 ぐさりと何か鋭利な刃物で胸を突かれた気分だった。この子供は、見抜いているのでは無いかと焦った。わざと遠回りの道を延々歩かされていたのではないか? 楽をすることばかり考え、このまま何者にもなれず、ただ年をとって老いぼれて行く自分が、殴られた気さえした。

「中々恐ろしいことを言うな」

「恐ろしいとは……? 人は生まれたからには八苦はつきものである。生老病死に加えまして愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦……」

 こうなると太郎の説法は止まらない。まるで水を得た魚の如く流暢に喋り続ける太郎を眼の前にして青年は目を丸くするばかりだった。



 「……で、あるからして、この世は八苦の海である。この世を渡る為には四等。つまり四つの心が必要であると実語教に書いてあるのである。四等とは慈、悲、喜、捨の四つの心であり……」

 十七時を報せる音楽が鳴り始め、太郎はやっと我に返った。青年は死んだ魚の様な目をしている。やり過ぎてしまったと太郎は後悔した。

「その……帰られますか?」

 青年はやっと我に返り、お経を聞かされて眠っていたのかと勘違いするほど今の状況が飲み込めなかった。

「あ、ああ……」

「因みにどちらからいらっしゃったのであろうか?」

「あ? 岡山だけど……」

 太郎はそれを聞いて何とも哀れな目を向けた。

「それは誠に申し訳ない……」

「別にいい。今日はどっかのホテルに泊まるから」

「残念ながらこの里は観光地では無い為、宿屋はござらん」

 太郎の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

「は? え?」

「この里に泊まるのであれば野宿が常である」

 青年は勿論、野宿の用意などしていない。

「太郎の説法を聞いてくれた礼である。爺様に頼んでみる故、どうぞこちらへ……」

 太郎はそう言うと、やっとまた坂道を登り始めた。青年は狐につままれた気分だったが、辺りも暗くなってきているし、今から来た道を戻るのも気が滅入りそうだった。



 青年は寺に案内され、太郎のお喋りの理由に納得した。多分、寺で育ったので生まれてからずっとお経だの、説法だのを聞かされて育ったのだろう。太郎のお母さんと、祖父母に挨拶をして部屋を借りることになった。その流れで、あいつと顔を合わす事になった。

「よう。久しぶり。こんな所に居たのか」

 洋は青年に気付くと、明らかに狼狽えていた。太郎はそんな洋に不思議そうに話しかけた。

「洋殿、和顔施が消えておる」

 太郎に言われ、洋は歪に口角を上げた。その作り笑顔に気持ち悪いとさえ思ったが、成る程、ここでは必死に猫を被っているのだと青年は思った。寺に世話になって、改心したふりをしているのだ。

 部屋が無いので、洋が寝起きしている納屋で一晩明かすことになった。青年は夜が更けると隣で横になっている洋に話しかけた。

「なあなあ、またいい儲け話があるんだが……」

 青年が話しを切り出すと、洋は布団から起き上がり、青年に向き直って正座した。

「悪いなぁ。今、自己破産してしまって、金は持って無いんだ」

 洋は少しおどおどしながらそう言った。正直意外だった。この男が、自分からの誘いを今まで断った事など無かったからだ。というのも、彼を煽てて事業をしようと持ちかけ、借金を背負わせたのは他でもない自分だった。

「何だよ。つまんねえ男だな」

 洋に言ったつもりだったのに何故か自分の言葉が自分の胸を刺した様な気がした。

「……そうだな」

 怒って逆上するのを期待していたのに、そんな言葉が帰って来て青年は大きな溜め息を吐いた。

「そうだ。この寺の仏像とか盗んでネットオークションで売れば金になるぜ!」

 青年の話しを聞いた洋は何とも悲しそうな顔をした。

「君も、太郎ちゃんに会っただろう?」

 青年の頭に太郎の顔が思い浮かんだ。

「あの子に会ったら、大人として恥ずかしいことは出来ないと思ったんだよ」

「何を今更……」

「そう、今更なんだよ。けど、太郎ちゃんはやり直すきっかけをくれたんだ。まだ小学一年生の子がくれたチャンスを、大人が無下にするのは違うと思うんだ」

 青年は本当に洋が仏門に入ってしまったのかと驚いた。

「それに、ここの仏像とか金目になりそうなものは今の爺さんのお父さん……つまり先代が売ってしまって、大した物は残って無いそうだ」

「うわっ最悪だな……」

「そうでなくても元の寺はもっと山奥にあったのに大昔に焼けてしまったらしいから、本当に大したものは無いんだよ」

 洋の話しに成る程、一度は自分と同じ事を考えて金目のものを探したのだろうと想像した。無かったから、諦める他無かったのだろう。

「じゃあさ、こんな所出て行って、街に出ようぜ」

 青年の提案に洋は少し考える素振りをした。

「もう少し、ここの爺さんや太郎ちゃんの説法を聞いてからそうするよ」

 洋がそう言って布団に横になると、青年はつまらなそうな顔をした。何となく洋の気持ちが分からなくもなかった。もう少し太郎の話しを聞きたい気持ちは自分の中にもあった。

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