第31話 順番

 真鍋 里奈はうんざりしていた。家でゲームをしていたのに、母親に買い物を頼まれたのだ。家から程近い所にあるスーパーで買い物をしようとしたのだが、日曜の夕方は何処も混んでいる。レジ前の長蛇の列に、何処が一番早く順番が来るだろうかと思案し、ひょいと白い杖をついたお婆さんの姿が目についた。

 あそこなら、順番を飛ばして横入り出来そう。

 レジの店員は皆忙しそうだし、老婆の後ろの人はケータイ画面を見ている。ひょいと何食わぬ顔で子供が一人入った所で誰も気にはしないだろう。

 里奈はレジ横の乾電池を見るふりをしながら何食わぬ顔で老婆の前に滑り込んだ。

 ラッキー! これで早く帰って、またゲームの続きが出来る。

 そう燥いだのも束の間だった。

「節義にもとる!」

 何処からともなくあの声が聞こえて里奈は周りを見回した。お菓子の棚の影から太郎が出て来て里奈の腕を掴んだ。

「順番飛ばしはいけないのである!」

 太郎に腕を引かれ、列から外される。白い杖の老婆は太郎の言葉に状況を察したのか、軽く会釈した。

「おや、太郎ちゃん」

「次がご婦人の番である」

「そうかい。ありがとう」

 老婆はにこりと笑っていた。レジの店員も、老婆が目が見えない事に気付いて前へ誘導する。里奈は自分の商品をレジに通して貰えなくて唖然とし、次第に怒りが込み上げた。

「何なのよ!」

「皆、レジにちゃんと並んでいるのである。それを相手が目が見えないからと言って順番を飛ばしてはいけないのである」

「別に良いじゃない! 子供なんだから皆多目に見てくれるわよ! パパが言ってたもん! 子供は国の宝だって!」

「黙らっしゃい!」

 太郎が怒鳴ると、周りの大人の視線が二人に集まった。里奈は何だか恥ずかしくてその場から逃げ出したくなる。

「子供が国の宝と言われたのは、子供が礼をもって孝を尽くしたからである。今の真鍋殿に礼と孝があって順番を無視し、横入りしたのであるか?」

 礼だの孝だの、里奈には解らなかった。ただもう恥ずかしくて買い物籠をその場に放り出してそのままお店を出た。

「何よあいつ!」

 里奈は憤慨していた。嫌な奴に合ってしまった。何を言っているのか解らない、宇宙人みたいな奴だと思った。結局何も買わずに家まで帰ると、台所で晩御飯の用意をしていた母が「おかえり」と言った。それを聞くと、もう小学一年生にもなったのにお使いの一つも一人で出来なかった事が悔しくて、苛々した。

「里奈、お買い物は?」

「同じクラスの山田くんに邪魔されたから買えなかった」

 里奈の話しに母親が驚いた様な顔をした。

「どうして?」

「知らないっ。あいついつも訳解んないこと言うんだもん」

 里奈はそう言って部屋に籠もった。ゲームの続きをしながら自分が親に言ったことをすっかり忘れていた。



 里奈の母親は仕方なく料理を途中で切り上げて外へ出た。やはりまだ、小学一年生に一人で買い物は無理だったのかもしれない。あの子に嫌な思いをさせてしまった。牛乳は重かったのだろうか? 同じクラスの山田くん……いつも里奈から聞く友達の名前とは違った。もしかしたらその山田くんに学校で意地悪をされているのだろうか? 悶々と考えていると、里奈と同い年くらいの男の子が白い杖をついた老婆の手を引き、楽しそうに話しているのを見た。

 一見すると祖母と孫に見える。里奈の母は里奈と、その男の子を重ねたが、想像出来なかった。

 里奈は実の祖父母にもあんな風に会話しない。手を繋ぐのも「汚い」とか「気持ち悪い」と言って嫌がる。あの子と、里奈の何が違うのだろうかと思った。

「歌舞伎で『菅原伝授手習鑑』の『寺子屋の段』を拝見したのである。手前と同い歳の子供が孝を尽くす姿に心打たれたのである。あれこそ我々、子供の鑑である」

「そうかい。そんなに楽しかったのかい。良かったねぇ」

 里奈の母親には子供が何の話しをしているのか解らなかった。『歌舞伎』や『寺子屋』くらいなら分かるが、『菅原伝授手習鑑』は何かの呪文の様に聞こえて、全く意味が解らなかった。会話の流れからして小さい子が親孝行をする話なのだろう。

 二人とすれ違った時、子供の方が里奈の母に気付いてにこりと笑い、会釈をした。

「こんにちは」

 と挨拶され、そうと想定しなかったものだから声が出ず、頭だけ軽く下げてすれ違った。娘の里奈だったら、知らない人に挨拶などしないだろう。歳が近いだけにどうしても自分の子供と他人の子を比べてしまう。比べては駄目だと思いつつも、どうしてもこのままではいけない様に思った。

 個性……といえば聞こえは良いが、同い年の子供が良く出来ているのを目にして言い知れない不安を覚えた。



 乾は大きな溜め息を吐いた。浜路 茜に相談され、一度会うだけなら……と真鍋家に来ていた。無投票で議員になった事は里の人なら誰でも知る所だった。その嫁が、娘の事を心配し、浜路 茜に相談したそうだ。それでこの真鍋 里奈の部屋に行ったのだが、ゴミが散乱し、ランドセルも床に放り投げ、玩具も絵本も出しっぱなしの有り様に乾は深い溜め息を吐いた。

「無理です」

 ベッドに転がり、ゲームをしている里奈を一瞥して乾は言った。

「あの……無理って……」

 里奈の母は狼狽えた様に聞いた。とても面倒見の良い人で、うららの成績も上げてくれたと聞いたものだから期待していたのだが、まさか「無理」などと言われると思っていなかった。

「あの、お金なら払いますから……」

「そう、それが無理って言ってるんです」

 里奈の母は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。

「お金さえ払えば周りは何でも言うことを聞いてくれる、子供は物さえ与えておけば大人しくなるって思っているんでしょう?」

 乾が何を言わんとしているのか、里奈の母には解らなかった。

「そういうものでしょう? 買い物だって、お金を払えば買えます」

「親がそういう考え方だから子供もこうなんですよ。親が親なら子も子です」

 あからさまに馬鹿にされたと里奈の母は思った。

「何なんですかあなた。失礼じゃないですか? うちの夫は……」

「議員だって言いたいんでしょう? そうやって親が権力を笠に着るから子供が駄目になるんですよ」

 乾の言葉にゲームをしていた里奈は驚いてやっと乾を見た。さっきまで母親が紹介しても挨拶一つしなかったのに、馬鹿にされたと思うとついそちらに目が行った。

「何よ! 私の何が駄目だって言うのよ!」

「そうよ! いくらなんでもあんまりだわ! 出て行って!」

 里奈と母親が捲し立てるが、乾は平静を保ったまま呟いた。

「真鍋さん、里奈ちゃんはご両親の言うことをききます?」

「それは……」

 我の強い子で、面倒臭がりだが、お菓子や玩具を買ってやるといえば大抵の言うことは聞いてくれる。夜、ゲームに夢中になり、寝るように言っても中々寝ないけれども……

「お菓子ばかり食べてご飯は食べない?」

「うちの子はパンが好きなんです」

「どうせ菓子パンでしょう?」

 乾の指摘にぐうの音も出なかった。

「宿題は?」

 乾の言葉に里奈が反論した。

「あんなつまんなくて簡単なもの、やらなくても良いってパパが言ってたもん!」

「その簡単な事すら出来ない子供がまともな大人になるとでも思うの?」

 乾の言葉に里奈は持っていたゲーム機をベッドに放り投げた。

「まともって何よ?!」

「里奈ちゃん、こないだスーパーのレジで順番飛ばししたんですってね?」

 乾の言葉に里奈の勢いが急に萎んだ。

「あれは……山田くんが邪魔したから……」

 母の顔色を伺い、しどろもどろに嘘を言う。

「あなたが順番を守らなかったから、太郎に注意されたんでしょう?」

 里奈は、太郎が自分の悪い噂を言い触らしているのだと思った。それが本当だったとしても名誉毀損で訴えれると聞いた事があった。だから絶対に太郎を許せないと思った。

「うちの子が、そんな事するわけ無いでしょう? そもそも、順番なんて、子供なんだから並ぶ場所を間違えただけよね?」

 里奈の母が問うと、里奈は頬を膨らませ、眉根を寄せたまま頷いた。

「話しになりません」

 乾がそう言うと、里奈の母親は乾を睨んだ。

「何よ……人を散々馬鹿にして!」

「馬鹿にしているのはそっちでしょう? 私に子供の躾について相談する前にすることはいくらでもあるでしょう? まだご両親はご顕在ですよね? 同じ里に居ながら別居して寄り付きもしないそうじゃない。親が自分の親を敬わないのに、子に親を敬えってのがそもそも無理な話しなのよ。先ずは自分の襟を正す所から出直しなさい。もし、私の言っている意味が解らないなら、それこそ小学生からやり直すべきよ」

 乾がそう言って出て行くと、里奈の母親は荒々しく玄関の鍵をかけた。



 乾は鍵がかかる音がして「そういう所だよ」と言いたくなったが、気にせずに行くことにした。あの手の親は子供を自分を引き立てる為の装飾品くらいにしか思っていない。好き勝手にさせることを愛だと思っている。『子供だから』を免罪符にしている所が信じられない。

「乾殿!」

 ふと、太郎に呼び止められて振り返った。太郎はにやりと笑うと、自分の頬を両手で押した。乾はその変な顔を見て、こいつはこいつで頭がおかしいと悩んだ。

「乾殿、和顔施が消えているのである」

 太郎の言葉に乾は無理矢理自分の口角を上げた。どうやら眉間に縦皺が寄っていたらしい。太郎の隣には祥花さんが居て、相変わらずこの人はいつもにこにこしている。

「どうしたの?」

「いえ、別に……」

 と言いかけて太郎に目が行った。同い年の子供でありながらここまで差が付くと……と思ったが、どちらも他人の子なのでまあ良いかとどうでも良くなった。比べた所で仕様がない。

「そうそう、乾殿、『子は国の宝』というのは一体誰が言った言葉であろう?」

 太郎の言葉に乾は首を傾げた。

「は? 民主党の千葉○子のブーメランがなんだって?」

 乾の言葉に祥花が吹き出した。

「流石にはじめちゃんはそれ知らないわよ」

「山上憶良が万葉集に

 銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも

 なんて歌を詠んでるけど、国の宝ねぇ……誰が言い出したかって言われると何とも……子供じゃなくて百姓を宝だって言った人なら居たわね」

 太郎は不思議そうに首を傾げた。士農工商で武士が偉かった時代は知っているのだが、百姓が宝だと言われた時代があったのかと少し頭を悩ませた。

 まあ、実語教にも

 尚、農業を忘れず学文を廃することなかれ

 とあるから農業が大事にされたというのは解るが、百姓が宝とまで言われるとは……

「其れ天の君を立つるは、是百姓(おほみたから)の為なり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古の聖王は、一人も飢ゑ寒ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」

 乾が空覚えで暗唱すると、祥花は頷いた。

「古事記ね」

 太郎は二人の顔を交互に見た。

「仁徳天皇が国見の際、村から炊事の煙が上がっていないのを見て、国の民がご飯の支度も出来ないほど貧して居ると知り、三年の間、課税と労役を取りやめにしたのよ。天皇は服や履物は破れて使えなくなるまで新調しなかったの。宮殿の垣根が崩れても、屋根が雨漏りしても修理しなかったの。

 そして三年経って再び国を見下ろすと、民家から煙が上がっていたの。それを見た天皇は自分は豊かになったと喜んだそうよ。でも皇后は、宮殿が壊れているのに何故豊かになったと言えるのか解らなかったの。それで天皇は皇后に今の話しをしたのね」

 太郎はその話しを聞いて頭を悩ませた。何だか解るような解らないような、解りかけているような靄々した気持ちになる。

「天の神様が君主を立てるのは民の為で、民が根本だと言うことね。民の貧しさは君主の貧しさであり、民の豊かさは君主の豊かさなの。未だかつて民が豊かで君主が貧しいなんてことはあり得ない。だから、天皇は国民や百姓の事を大御宝と呼んだのよ」

「因みに豊かになった民は課税を申し入れたのに天皇は断ってる。更に三年後にようやく宮殿の新築をするという段になり、民は皆助け合って資材を運び、立派な宮殿が出来たらそうだ」

 太郎は喉まで何か出かかっていたものがやっと顔を出した。

「推譲でありましょうか」

 乾は頷いた。

「ははぁ……

 なんの手立ても残されていない時、飢えた民を救う方法は、治者が自らの罪を天に謝り、進んで断食して死ぬべき

 と、二宮尊徳が言っていたのであるが、このことであろう……」

 太郎の言葉に、祥花は太郎の頭を優しく撫でた。乾はさっきの真鍋 里奈を思い出し、思わず口から本音が漏れる。

「畜生、こいつの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい」

 乾が呟くと、祥花はにこりと笑った。

「信乃ちゃん、この間うちの子、ガラスコップに田んぼの泥水とオタマジャクシを入れていたの。私、てっきりタピオカミルクティーだと思って飲んじゃいそうになったのよ」

「は?」

 乾はそれを聞いて太郎を見やった。太郎は苦笑いを浮かべている。

「ちょっとした出来心と申しますか……」

「あとね、墨でお腹に落書きして裸踊りをしたり、お父さんが隠してた羊羹を勝手に食べたり、チョコベビーの入れ物の中にダンゴムシを入れて台所に置いてたものだから、お父さんがうっかり食べて……」

「祥花さん、もう良いです」

 思わず祥花の言葉を遮った。

「子供って、皆凸凹してて、大人の思うようにはならないものよね。他人の短所に目が行って、長所が拾えないのは悲しい事よね」

 祥花の言葉に、確かに自分は今日初めて会っただけだし、商店街のおばちゃんの噂話でスーパーでの出来事を耳にしただけで、先入観があったのかもしれないと思った。もっとよく観察すれば、彼女の良い所が見つけられたかもしれない。

「でも、信乃ちゃんまだ若いし、お釈迦様だってこう仰っているわよ。『善友が全て』てね」

 乾はそれを聞いて、さっきまで省みていた自分が少し阿呆らしくなった。

「あはは。そうですよね。『悪友を避けて、善友と関われ』でしたね。あ〜流石です」

 乾が笑うと、祥花も太郎もにんまりと笑った。

「そうそう。信乃ちゃんはそうやって笑ってる方が可愛いわ。大丈夫。困った事があったらいつでも私やはじめちゃんに言ってね」

 祥花の言葉に乾は深々と頭を下げた。

「その時はよろしくお願いします」

 祥花と太郎はお互いに笑って頭を下げた。

「こちらこそ」

 三人はそうやってまた歩き始めた。リハビリがてら太郎は祥花と散歩らしい。乾は太郎が嬉しそうな姿に、やはりまだまだ子供だなと思った。

「そうであった! 乾殿にも一つさしあげましょう。秋の風物詩である」

 太郎がそう言って、ビニール袋を出すと、咄嗟に二十世紀梨を連想した。というのも、乾の好物だし、秋は梨が美味しい。新高梨でも良い……などと考えていたが、太郎がナイロン袋の口を開き、中身を見て乾は言葉を失った。

「……成る程……」

 勝手に期待した自分が悪いが、ナイロン袋の中でガサゴソと動き回る大量の鈴虫に乾は仰け反りそうになるのを堪えた。一匹二匹ならまだしも、軽く二十匹は入っている。乾は丁重にお断りし、帰りに道の駅で梨を買って帰る事にした。

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