第30話 欠点

「申し上げます。申し上げます。あの人は酷い! 酷い! はい、悪い奴なんです!」

 太郎が喚くと、木曽根 鈴は目を丸くした。太郎がこんなにも怒っている所を見るのが初めてで、よっぽどの事があったのだろうと思った。

「はい、何もかも、すっかり、全部、申し上げます。私は、あの人の居所を知っています。すぐに御案内申します。あの人は、私の友です。兄弟です。私と同じ年です。七歳であります。私は、あの人よりたった四月遅く生れただけなのです。たいした違いが無い筈だ。人と人との間に、そんなに酷い差別は無い筈だ」

 鈴は太郎が、学芸会で太宰治の駈込み訴えでもするのかと思ったが、どうやら端々が違うので文章を引用しているらしい。

「はあ……それで?」

 まあ、小学一年生で駈込み訴えなど学芸会でしないだろう。走れメロスでも高学年だったと思う。精々『友だち屋』の合奏辺りの筈だ。

「私はどれほど意地悪く言われても、どんなに嘲弄されても堪忍に堪忍を重ねたのであります。けれどもああ、もう、いやだ。堪えられるところ迄は、堪えて来たのだ。怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。

 蓮殿と絶交いたしました!」

 急にお隣の友達、門谷 蓮の名前が出て鈴は首を傾げた。いつも仲良く遊んでいた二人が、まさか絶交など、夢にも思わなかった。

「ふ〜ん……」

 まあ、小一からずっと仲の良い友達など鈴にはいなかった。ちょっとしたいざこざや喧嘩はあった。だからそこまで興味も無かった。

「学校で本日、運動会の練習があったのであります」

 参考書に目を落とすと、やっと本題に入るらしかった。要するに、太郎は話を聞いてもらいたいだけなのである。面倒臭いと思うが、同じ学校の友達に愚痴ったのでは蓮の立場が悪くなると思い、母親に言えば母親が心配するだろうと思い、鈴に愚痴る事になったのだろう。

「なんとかけっこで手前はビリだったのである。そして蓮殿は一位、手前は頭を下げて蓮殿にかけっこのコツを教えてもらったのであるが……」

 そこまで話して太郎の言葉が止まった。

「教え方がヘタなのである」

 太郎の言葉に鈴は吹き出す様に笑った。鈴にも、似たような経験があった。

 成績優秀の子に勉強のコツを聞いたら、『そんな事もわからないの?』と嫌味を言われた覚えがある。元々頭の良い、所謂地頭の良い人には馬鹿を理解することは出来ない。だから天才が天才の勉強法を教えた所で頭の悪い人には意味がない。

「『ただ早く走るだけじゃない』『どうしてこんな事も出来ないの?』『太郎くん、わざとやってるでしょ?』と、散々言われたのである。もうっ腹が煮えくり返ったのであります!」

 お隣の蓮は、小学生らしい小学一年生だと鈴は思った。そもそも、太郎が普通に比べて大分頭がおかしいというか、変なのである。今時時代劇にハマる小学生など、それこそ天然記念物だ。

「ほら、あれよ。日本人って、元々走るの苦手じゃない」

「そうなのである。蓮殿の教えて下さった走り方では、腰が捻じれてしまうのである。だから直ぐに脇腹が痛くなり、体がしんどいのである。なので手前がナンバ走りをすると、みんなが笑うのである」

「ああ、そりゃあ私でも笑うわ」

 鈴の言葉に太郎は神妙な顔をした。

「嫌な時代である」

「過去からタイムスリップしてきた侍みたいなこと言わないの。仕方ないでしょ?」

「運動会は休むのである」

「別に休まなくても……」

「運動行進でも、先生に怒られるのである」

 鈴はそれを聞いて、そう言えば自分も小一の頃、やたらと行進が下手な同級生が居た。右手と右足が同時に出るのである。先生も何度も注意しても中々直らず、一人だけ個別でひたすら行進の練習をさせられていた子がいた。最終的にぼろぼろ泣きながら練習した甲斐があってか? 次の年の運動会ではちゃんと行進出来る様になっていた。今はそこまでしないだろうが、それでも、何度も同じ事を注意されていれば嫌にもなるだろう。注意する先生も大変だ。

「祥花おばさん、楽しみにしてたのになぁ」

 ぽつりと呟くと、太郎の表情が曇った。太郎がすごすごと部屋を出て行くと、鈴は部屋を出て玄関口の電話を取った。



 翌日、太郎が不満気な顔をして学校へ赴くと、何やら校庭にトラックが停まっている。太郎はその見覚えのあるトラックに近付くと、気の良さそうなお爺さんが太郎に声をかけた。確か、商店街で醤油屋をやっている高畠の爺さんだ。店はもう娘婿に譲ったが、老人会の集まりやら、旧寺跡地の発掘やらと手広い事をしている。そんな歳をとってもいつまでも元気なお爺さんは、何処となく太郎の祖父に似ている。話しによると、里の商店街の人は皆遠い親戚になるそうだが、太郎は詳しい事を知らなかった。

「高畠の爺様、おはようございます」

「太郎ちゃん、ええもん持って来たからな」

 言うが早いか、高畠の爺さんは長い竹を二本差し出した。太郎はそれを目にするとにやりと笑う。

「ほほう。これは立派な……」

「だろう?」

 高畠の爺さんもにかっと笑った。そんな二人の元へ騒ぎを聞きつけた太郎の担任が校舎から出て来た。



「困ります」

 新名先生はトラックに山積みされた竹を見て呟いた。急に、なんの前触れもなく、学校にも何の連絡もなく、トラックが校舎に乗り入れられたのだ。まだ殆どの生徒が登校していないから良かったものの、事故でも起きたらどうするのかと困惑する。

「ああ、弟にはちゃんと連絡しておるから」 

 全く意味が解らなかった。そもそもこの人が何処の何方なのかも新名先生は知らないし、その人の弟がどうと言われても話が見えてこなかった。

「先生、この方は高畠醤油店の先代である」

 太郎がそう説明すると、新名先生は目を瞬かせた。確か、県道沿いに『高畠醤油』の大きな看板があるのを何度か見た覚えがある。その醤油店の先代と言われても、だからどうしたのかと頭を悩ませた。

「はあ……えと、高畠さん、その、前もってご連絡と言いますか、ご相談をして頂きたいと言いますか、こちらも色々と手配がありましてその……」

 お引き取りを……と言う前に校長先生がやって来た。

「長兄さん、お早いですな。昨日の今日じゃないですか」

 校長の言葉に新名先生は口籠った。弟って校長先生の事なのか……と二人を見返すと、確かに何処となく似ている。

「はっはっはっ! じゃあこの辺に置いて行くからな、また来る」

 言うが早いか、トラックに飛び乗り、颯爽と帰ってしまった。校庭の隅に大量の竹が積み上げられている。

「あの……校長先生……?」

「新名先生、すみませんね。思い立ったが吉日な人なもので……まあ外では何なので中でお話しを」

 校長先生に促され、新名先生は竹の山からふいと校舎へ視線を向けた。すると竹を二本持った太郎……否、竹馬を乗りこなした太郎の姿が目に入った。新名先生はその時、やっとあの大量の竹が、全部竹馬である事に気付いた。



 蓮は学校の校庭で、ひょこひょこと竹馬を乗りこなす太郎に目を丸くした。他の生徒が、上手く出来なくて代わる代わる支えて貰ったりしている。高学年のお兄さんよりもずっと上手く、早く竹馬に乗れるのは太郎だけだった。

「凄いね」

 蓮が声をかけると、太郎はにんまりと笑った。

「どれ、蓮殿もやってみるのである」

 太郎がさっと飛び降り、竹馬を差し出した。蓮はランドセルを置くと、見様見真似で竹馬に乗ろうとする。

 竹馬を左右に持ち、先ず右足を乗せる。次に左足をと足を浮かすと、バランスを崩しそうで、足が上がらない。不安がりながら左足を上げると、体が右側に傾いて上手く行かない。

 太郎はその様子を不思議そうに見ていた。

「何をしておる。乗るだけではないか」

 太郎はそう言って、不意に昨日、蓮に言われた事を思い出した。蓮の竹馬を支えてやり、

「先ず右足を乗せてから転ぶ前に左足を乗せるのである」

 と教えるが、上手く行かない。中々出来ない蓮に太郎も苛々して来たが、

『ならぬ堪忍、するが堪忍』

 と先人の言葉が思い浮かんだものだからじっと耐えた。蓮は何度か失敗して呟いた。

「もういいや」

 蓮が諦めてランドセルを背負うと、太郎は眉根を寄せた。

「おやおや、こんな簡単な事も出来ないのであるか」

 太郎の言葉に蓮はむっとした。

「難しいんだよ」

「おや? この様に、竹馬に乗るだけである」

 太郎が眼の前でやって見せると、蓮は何か太郎がズルをしているのではないかと訝ったが、太郎の周りを一周しても意味が解らなかった。何故、あんな不安定なものの上に乗っていられるのか全く理解出来なかった。

「太郎くんは、慣れてるから出来るんだよ」

「いかにも。かけっこと同じである」

 太郎に言われ、昨日、自分が太郎に浴びせた言葉を思い出した。きっと、今の自分の様に嫌な思いをしただろう。蓮はそれに気付いて何だか情けなくて申し訳ない気持ちになった。

「太郎くん、昨日はごめんね」

「うむ。因みに竹馬は、行進やかけっこの様に右足を前に出して左手を前に出す動きではどうしても前に進まないのである。どうしてもナンバ歩きになるのである」

 太郎の説明に、成る程と蓮は思った。かけっこの動きでは、絶対に竹馬には乗れないのだ。逆に、竹馬の動きではかけっこは出来ないのだ。

「太郎くん、休み時間にもう一度竹馬の乗り方を教えてくれない?」

 太郎はにんまりと笑った。

「うむ。では、かけっこのやり方もお教え頂きたいのである」

 蓮はそれを聞いて大きく頷いた。学校の予鈴が鳴り始めると、二人は並んで校舎へ入って行った。



 鈴は太郎から高畠の爺さんから竹馬が学校に届けられたのだと聞いて驚いていた。寺の祖父に電話で太郎の愚痴を話したのだが、そこから高畠さんへ祖父が連絡を入れたのだろう。それこそ二人は竹馬の友だと言う話は聞いた事があったのだが、まさか昨日の今日で、そんな事になるとは思っていなかった。

 鈴はつくづく、太郎は不思議な子供だと思った。鈴は何か悩みがあっても友達と愚痴を零して終わりである。けれども太郎は直ぐ横の関係ではなく縦の関係に相談する節がある。乾さんもそうだが、もしかしたら太郎は、鈴に愚痴れば祖父に話が行き、そこから老人会の高畠さんへ話が行き、こんな形で友達との仲が直ると計算していたのではないかと鈴は思った。

 思ったが、小一にそこまで頭が回るわけが無いと否定した。ただ、これは見習わなければならない、鈴の欠点だと思った。太郎は縦の関係も横の関係も上手く扱える。それに比べて鈴は学校という狭い空間の中の、精々同級生、とりわけ仲の良い子としか話が出来ない。これは社会に出れば殆ど年上しかいないというのに、致命的な事だった。

 私も、勉強だけじゃなくてもっと頑張らなきゃな……

 医者になるにしても、看護師になるにしても、何になるにしても人との関わりは避けて通れないだろう。それを鈴に考えさせる為に、太郎は鈴に相談したのかもしれない……滅多に愚痴を零さない太郎の相談だったから祖父に連絡したのだが、自分も、困った時には縦の関係に相談しようと思った。

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