第29話 帰宅

 太郎とうららと乾は友達に別れを告げ、翌朝の船に乗っていた。港では太郎達の為に両手を振る友達の姿がある。太郎もうららも嬉しそうに、見えなくなるまで手を振っていた。

 車に乗り込むと、うららは寝てしまった。うららが満足そうにチャイルドシートで寝ている姿を見て太郎はにこにこしている。同級生だが、可愛い妹の様に思っていた。

「太郎も寝とけよ」

 運転している乾が声をかけた。

「資料館等は行かなくて良かったのであるか?」

「まあ、行けたら行きたかったけど、うららちゃんが興味示さなかったら最初から行く気は無かったから良いのよ。無理矢理連れて行っても仕方ないでしょ」

「ははぁ……」

 本当はそっちがメインだったのではないかと思っていたのだが、乾が何も言わないのが少し不思議だった。毒ガス貯蔵庫跡にカメラを向けていたので太郎は頭を悩ませていた。

「あんたも楽しかった?」

 乾の質問に太郎は満面の笑みで頷いた。

「とても充実しました」

 乾は太郎が、うららのせいで我慢をしているのでは無いかと何度か思ったのだが、太郎の面倒見の良さに少し心配だった。

「浜路姫がちゃんと義い道を選んでくれた事が何より喜ばしいのである。手前は綺麗だから持って帰ってしまうのではないかと浜路姫を疑ってしまったのである。何とも恥ずかしい限りである」

 乾はあのピアスの事を思い出した。偽物なのだが、あえて二人には言わなかった。だからうららも、本物の宝石と思ったかもしれない。

「修身斉家治国平天下である。大変有り難い」

 乾は目を瞬かせた。

 自分自身の修養を心がけて行いを正しくすれば、一家を斉えて和合させることができ、一家が和合すれば一国を正しく治めることができ、一国が治まれば広い天下も統治できるという、儒学におけるもっとも基本的な実践倫理。

 確か大学に出て来る慣用句だが、小一の太郎が大学を読んでいるとは思い難い。何故、それを引用したのだろうかと乾は頭を悩ませた。

「国民の一人ひとりが自らを修め、家長が家々を斉のえると国が治まる。これこそが理想の天下である」

「はあ……まあ、確かに戦時中に毒ガス作っていた所ではあるけど、別に国民が荒れてたから戦争してた訳では無いと思う……まあ私も当時を生きていないから、本で読んで知識としてしか知らないけど……」

 乾の脳裏にハル・ノートの文字が浮かんだが、小学一年生にはまだ早いかと思った。

「日本に原爆を落としたのはアメリカの愚策である。爺様も常々そう言っているのである。孫子の兵法にも

 百戦百勝は、善の善なるものに非ざるなり。

 とあります」

 成る程、修身が出来ていなかったのはアメリカの方だったと言いたかったらしい。

「……そうだな。本当、人間って阿呆なんだと思う」

 長い歴史があっても未だに何処かで戦争している。戦争の置き土産で未だに苦しんでいる人達も居る。

「まあ、上に立つ者には三つの鏡が必要になるらしい」

 太郎は洗面所の鏡を想像したが、確か蓮の家にお母さんの三面鏡があったと思った。

「三面鏡の事じゃ無いぞ?」

「なんと?!」

 乾が察して言うと、太郎は苦笑いを浮かべた。

「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。

古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。

人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し」

 太郎は聞いた事のない言葉に目を白黒させた。

「銅の鏡で身なりを正す……は分かるのである。

 古は歴史の事であろう。コウタイは進退の事であろうか? 辞め時を見極めると言う事であろうか?

 人を鏡とすれば自分の悪い所を改める事が出来る……

 と言う意味であろうか?」

 太郎は必死に自分の持てる知識を駆使した。

「服が乱れていないかを銅の鏡で確認出来る。

 過去の出来事しか将来を予想する教材がないので、歴史を鏡とする。

 他人や部下の厳しい直言や諫言を受け入れ、人を鏡とする。

 この三つの鏡が上に立つものには必要不可欠であるらしい」

「……成る程、確かに歴史は繰り返すものであるし、周りにおべっかを使うものばかりおっては、自分が間違った方向へ向かっている事に気付けぬのであろうな。

 大変良い言葉である」

 太郎は深く頷いた。

「これで太郎めも総理大臣になれるのである」

「お〜、なれなれ」

 乾は棒読みだったが、太郎は満面の笑みを浮かべていた。

 乾は少しだけ太郎が総理大臣になる未来を想像した。時代が逆行してしまいそうな気もするが、きっと仁術を駆使して国を治めるだろう。誰とでも仲良くなれるから交渉事にも一役買えるかもしれない。ただ、駆け引きは苦手そうだ。まあ、このまま大人になることはないだろうから、将来の事など解りはしないが……

 乾がバックミラーで後ろを確認すると、太郎も眠っていた。チャイルドシートに座ったまま寝ている姿は普通の小学一年生だった。



 浜路 茜はそわそわしていた。久しぶりに一人きりの休日だったので、家のあらゆる所を掃除しながら、頭に浮かぶのは一人娘、うららの事である。

 まだ、小学一年生なのに旅行なんて大丈夫かしら? 迷子になったりとか、船から落ちて海で溺れたりとか、事故に巻き込まれてやしないかと、嫌なことばかり浮かんだ。

 今日の夕方には帰って来るはずだ。乾さんも私の性格を理解してくれていて、定期的にスマホに写真を送ってくれた。楽しそうなうららの写真に行かせて良かったと思うと同時に、こんな小さな子を親から離して良かったのかと自問自答する。

 乾さんは良い人だ。だからもしもの事など無いと思うが……無いとは思うが、心配し過ぎて食事が喉を通らなかった。何か食べなければ体に悪いと思い、カップラーメンを作ったが、一口食べても不思議と味がしない。

 やっぱり行かせるんじゃなかった。仕事の関係でどうしても二日休みを取れなかったから乾さんに任せたが、無理をしてでも連休を取れば良かった。折角の初めての夏休みに何処へも連れて行ってあげられないのは可哀想だなんて考えなければ良かった。

 このままうららが帰って来なかったらどうしよう……

 泣きそうになりながらいつの間にか夕方になっていた。

「ただいま〜!」

 ふと、一瞬幻聴かと思った。慌てて玄関へ向かう。そこにはコルクボードを持ったうららが、満面の笑みで立っていた。

「ママ〜! 見て見て! これ作ったの〜!」

 うららに抱き着かれ、その感触でやっと現実だと思い、その場に座り込んだ。

「お……おかえり……」

 涙が溢れ、うららをしっかりと抱き締めた。乾は軽く挨拶をして帰って行った。茜はお礼をちゃんと言えたか覚えていなかった。ただ無事にうららが旅行を終えて帰って来た事がこの上なく嬉しかった。

「ママ、見てみて、うさぎさん沢山居たんだよ! それからね、お友達が出来たの。ハンゴースイハンのやり方を教えてくれた銀次お兄ちゃんと、花子お姉ちゃんでしょ、それからね……」

 嬉しそうに話すうららに、茜はやはり行かせて良かったと思った。忘れっぽいうららの為に、コルクボードにはいくつもの写真が貼られている。お友達の名前も書かれた写真を一つ一つ指し示しながら説明するうららの目はキラキラと輝いていた。



 太郎は乾に寺まで送って貰うと、深々と頭を下げた。

「大変貴重な体験をさせていただき、誠に誠にありがとうございます」

「あ〜、いい、いい。私も楽しかったし。そもそもうららちゃんが行きたいなんて言わなきゃ私は一生行く事無い所だったからうららちゃんのお陰よね。ネズミ遊園地とかウニバだと入場料とかホテル代とかだけで私も無理って思うけど、本当有り難い。孝行な娘よ」

 ガソリン代や高速代、乗船代にキャンプのお金だけで済んで良かったと乾は思っていた。お土産を強請られる覚悟はあったのだが、二人共それは言わなかったので本当に良い子達だと思った。

「そう言っていただけると有り難い。ただ、一つ気掛かりなのは乾殿がお金を無理なさってはいないかと……」

「ああ、心配すんな。実は祥花さんと茜さんからお金預かってたから、そこまで私の懐は傷んで無いわよ。そんなこと気にするなら、この旅行での経験をこれからの人生に活かしなさい。それでチャラにしてあげる」

 乾はそう言うと、車を出した。太郎は車が見えなくなるまで手を振ると、乾とうららと三人で作ったコルクボードを持って寺の中へ入って行った。

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