第26話 猫と兎

 太郎は今、煩悩と戦っていた。門谷 蓮一家が旅行へ行き、お土産を買って来てくれたのだ。そして蓮の土産話に、行ったことのない楽しそうな場所に思いを馳せていた。けれども、太郎は自分の家が貧乏なのは知っていたし、木曽根家におねだりするのも違うと思っていた。かと言って、まだリハビリしながら元の生活へ復帰しようと頑張っている母にも切り出せなかった。

 まあ別に、今年でなくても、来年とかで良いじゃないかと自分に言い聞かせ、来年の事を言うと鬼が笑うなんて諺もあるし、来年、自分は生きているかなぁなんて考えていたらどうにもこうにも身動きとれなくなってしまった。

「いかんいかん……」

 太郎は必死に欲望を掻き消そうと、道端に落ちていた小枝を拾って、えいっやあっ! と空を裂いたが、中々収まりがつかず、右往左往しながらいつの間にか乾の家の前に来ていた。

 いかん。乾殿があまりにも面倒見の良い方だからと言って、お足もないのに遊園地へ逢引に誘うなぞ、男の恥である。

 そう思い立って踵を返すと、後ろに浜路と乾が、こちらの様子を訝しげに眺めていた。

「何やってるの?」

 乾の言葉に太郎は苦笑いを浮かべ、浜路は不思議そうに太郎を見つめていた。

「まあ良いわ、上がって」

「あ、いえ、乾殿はまだ嫁入り前である。手前はここで……」

「紳士だと言ってやりたいが、庭先でウロチョロされたら迷惑なの」

「いやはや面目無い……」

 太郎が照れ笑いをする間に乾が玄関を開ける。浜路はそんな太郎の様子に首を傾げた。

「太郎ちゃん、入ろう?」

「ははは、お恥ずかしい。李徴の気配がする故、お暇させて頂きます」

「りちょ〜?」

 浜路が首を傾げると、太郎が猫アレルギーだと勘付いた乾は玄関を閉めた。玄関マットに白い猫の毛が絡まっているのに太郎は気付いたのだろう。猫アレルギーだと言ったら格好がつかないと思ってか、虎になった李徴、山月記を引用する所が、太郎の良さだと乾は思っていた。

「うららちゃん、ごめんね、やっぱりいつもの河原に行こうか」

 乾がそう言うと、浜路は不思議に思いながらも乾に着いて行った。太郎も一緒に河原へ着いて行く。

「乾さんのお家にね、猫ちゃんが居るのよ? とっても可愛いの」

「ほほう。浜路姫は猫がお好きなのですな。因みにその猫のお名前は?」

「サトちゃん」

 太郎はそれを聞いて直ぐに乾の顔を見上げた。乾はその様子ににやりと笑みを浮かべる。

「どうした?」

「いえ、流石乾殿であります。タマやミケでなくサトと名をつけるとは……」

「ふ〜ん……やっぱり知ってるんだ?」

 乾がそう言うと、浜路は二人の顔を見比べた。

「サトちゃんの名前?」

「天璋院篤姫が可愛がっていた猫の名がサト姫である」

 太郎の説明に、浜路は首を傾げた。

「てんしょ〜いん?」

「とりあえず今は江戸幕府十三代将軍徳川家定の奥さんくらいで良いわよ」

 乾の説明に浜路はきょとんとした。

「昔の偉い人の奥さん」

「へぇ〜〜!!」

 浜路が目を輝かせると、これで本当に良かったのかと乾は少し不安だった。

「サト姫は大奥という男子禁制の所で大事に育てられた為、十六年も生きた長寿の三毛猫である」

「サトちゃんも三毛猫!」

「そうであったか」

 浜路と太郎が楽しそうに話していると、乾は持っていた手提げ鞄からノートとペンを取り出した。いくつか雑誌も取り出すと、浜路は目を輝かせた。

「太郎ちゃん、うさぎ好き?」

「うさぎ……うむ。因幡の白兎もカチカチ山も貝の火も好きである」

 太郎の話しに浜路は視線を泳がせた。因幡の白兎とカチカチ山は知っているが、『貝の火』は聞いた事が無かった。

「貝の火?」

「宮沢賢治の小説よ。後で図書館で本探してみようか」

 乾がそう言うと、太郎は話し始めた。

「うさぎの子、ホモイが川で溺れていたひばりを助けるのである……」

「おい、話進まないからちょっと黙れ」

 乾に窘められ、太郎は残念そうな顔をした。

「太郎、うさぎ島は知ってる?」

 太郎はそれを聞いて目をぱちくりさせた。

「猫島であれば聞いた事があるのである」

「そう。今度うららちゃんと行くんだけど、太郎も行く?」

 太郎はその言葉に感極まって身震いした。

「えっ、いえ、でも……」

 謙虚を忘れてはいけない。ここは一つ丁寧にお断りするべき……否、乾殿が誘って下さったのを無下に断るなど畏れ多い……けれども……と、あまりの嬉しさにあれやこれやと頭の中が混乱する。

 乾はそんな太郎の顔に目を瞬かせた。

「え? 行きたくないの?」

「いえ、地獄の底まで喜んで着いて行きます」

「死出の旅じゃねぇよ。縁起でもない。じゃあ二人で旅の予定を組んで貰う」

 乾の発言に太郎と浜路は目を丸くした。

「船は一時間〜二時間に一便しか無いから、乗り過ごしたら大変よ。車は私が出すわ。何時にここを出れば何時に港に着いて、何時の船に乗れるか、どんなコースにするか、二人で考えてみなさい」

 乾の提案に太郎と浜路は顔を見合わせた。

「乾殿、太郎めにそれを任せると、歩くのが一番お金の掛からない旅になるのである」

「車は出すって言ってるでしょ? それにそんなお遍路さんみたいな旅じゃないわよ。だからうららちゃんと二人で計画立てろって言ってるのよ」

 乾言葉にすかさず浜路が手を上げた。

「八幡浜まで車で行って、伊予灘ものがたりで松山まで行って、それから……」

「うららちゃん、観光列車は却下させて下さい」

 浜路はがっかりしていたが、太郎はそんな浜路の顔と乾を見比べた。

「やはり、ここは三人で計画を立てるべきではあるまいか?」

 太郎の提案に乾は頷いた。結局、乾が車で港まで運転するので、それを逆算して朝の八時に里を出るという予定になった。

 けれども太郎は少し不安だった。祖父は了承してくれると思うが、母の許可が下りるだろうかと危惧する。乾もそう考えてか、浜路を家に送ると、太郎を軽自動車に乗せて寺まで送ってくれた。

 寺に着くと、台所の椅子に座り、とうもろこしの皮を剥いでいる母の姿があった。太郎は母に躙り寄った。

「母上、折り入ってお願いがございます!」

 太郎が切り出そうとすると、乾が太郎の頭を掴んだ。

「祥花さん、太郎を貸して下さい」

 乾の言葉に太郎の母はにこりと笑った。

「あら、信乃ちゃん、大きくなったわね!」

「御無沙汰しております」

 母のにこやかな声に太郎は面食らった。

「……お二人はお知り合いで?」

「蓮丸が同級生だからな、私も祥花さんにはよく遊んでもらった」

「そんな。遊んでもらっただなんて……学校が長期休暇になると家出して寺に住み込んだりしてただけよね。蓮丸と一緒に木魚と太鼓で演奏会したり、墓の中がどうなっているのか知りたくて墓荒らししてたのが懐かしい。お父さんが怒ったら山に入って中々出て来なくてね、消防団の人と山狩りしたの。木に登って木通食べてる所を発見されてね……」

「祥花さん、頼むからそれは忘れて」

 中々はっちゃけた子供だったのかと太郎は意外だった。

「……それで、はじめちゃんを貸してって言うのは?」

「こいつは頭が良い。だから勉強させてやりたい。うさぎ島に連れて行ってやりたいんだ」

 乾の言葉に祥花は頷いた。

「本で読むのと、実際に行くのとはまた違うわよね。私はまだこんなだから、はじめちゃんの事、宜しくね」

 思っていたよりも呆気なく了承を得られて太郎はほっとしていた。

 乾が帰って行くと、母は太郎に声を掛けた。

「夏休みなのに、何処にも連れて行ってあげられないから、可哀想と思ってたんだけど……信乃ちゃんと楽しんで来てね」

 太郎はそれを聞いて、きっと自分が言い出せずにいた事に気付かれていたのだと思った。

「誠に、手前は親不孝な兵六玉である。

 人として孝無き者は畜生に異ならず。

 足るを知らねばならぬ身であるというのに、友達が羨ましいとか自分も旅行へ行きたいなどと、口に出さずとも態度に出てしまったのであるな……何とも情けない……」

 太郎の言葉に母はにっこりと笑った。

「あっちへ行きたい、こっちへ行きたいと思うのは当然の事だと思うの。魚も鳥も、生まれた場所から全く動かないなんてこと無いでしょう? はじめちゃんには色んな所へ行って欲しいなって私は思うの。それで、無事に帰って来てお土産話を沢山聞かせてくれるのが、一番の親孝行だと思うの」

 母の言葉に太郎は感極まった。

「解りました! 必ずや兎を捕まえて母上に献上致します!」

 母はてっきり、うさぎのぬいぐるみか何かだろうとは思ったが、本当に島兎を捕まえて持って帰ったりはしないだろうかと少し不安になった。

「うさぎさんが可哀想だから、持って帰っちゃ駄目よ」

 母の言葉に、太郎がしょんぼりしていた。本当に、生きた兎を捕まえる気でいたらしい。

「……そうであるな……」

 太郎は母が喜んでくれると思っていたのだが、そう言われて少し困ってしまった。そんな太郎に、母はデジカメをそっと差し出した。

「沢山、写真を撮ってきてね」

 母がにっこりと笑うと、太郎も満面の笑みを浮かべて頷いた。

 

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