第25話 兄弟
門谷 葵は道端の小石を蹴飛ばした。その石が偶々、太郎の足元に転がると、嫌な奴に出会ってしまったと葵は顔を顰めた。
「何だよ」
太郎はそんな葵の態度から、親に怒られたか、蓮と喧嘩でもしたのだろうと察した。太郎はにやりと笑って見せた。
「これはこれは蓮殿の兄上、いかがなされた?」
「は? 別にーー」
葵は太郎が少々苦手だった。けれども、太郎が自分でも及ばない程のキレ者であることは知っていた。悔しくはあるが、だからこそ最近は余計に、年下なんかに負けていられるかと勉強に励んでいる……
「お前はさ、兄弟いないの?」
「ははぁ……」
成る程、兄弟喧嘩の方だと太郎は得心がいった。
「兄弟常に合わず、慈悲を兄弟とす。
と、申しまして、血の繋がりなんぞどうあれ、手前は葵殿の事を気の良い兄と思っているのである」
太郎の意外な言葉に葵は面食らった。
「え、じゃあ……」
葵は少し考えて太郎を見つめた。葵はあまり反りの合わない苦手な子供と思っていたが、兄と思っていると言われると少し気が緩む。
「兄貴だったら、やっぱり弟の為に我慢するのが当たり前だと思う?」
葵の質問に太郎は眉根を寄せた。
「譲れない部分は、譲る必要は無いと思うのである」
太郎の言葉に葵は頷いた。
「ただ、負けるが勝ちという言葉もございます」
葵は首を傾げた。負けたのに、勝ち?
「例えば、かき氷が二つ、ここにあるとします、右の方が若干大きく見える。これをどちらが食べるかと喧嘩になっている間にかき氷は溶けて無くなってしまう。それを思えば、少々大きい方を相手にやってしまった方が二人共かき氷を食べられるのである。これは一見負けに見えるやも知れぬが、下手に我を通そうとして無益な喧嘩をするよりもよっぽど利口である。
この様に、勝ち負けよりも、得か損かで考えてはいかがであろう?」
太郎の話しに成る程……と思いつつも、やはり負けるという響きが悪い。
「車の席の取り合いは?」
「ふふ……何処に座っても同じ所へ着くのであろうに……そうであるな、例えば、遊園地へ行く。こうなった時、どちらがどの席に座るかで喧嘩をしていては遊園地へ行けないし、行けたとしても遊ぶ時間が少なくなってしまうのである。であれば、席なんぞ譲ってやって、早く遊園地へ行って沢山遊ぶ方が得である」
言われてみれば確かに太郎の言う通りである。
「テレビのリモコンの取り合いは?」
「リモコンを取り合っている間に観たい番組が終わってしまってはかなわんのでの、その場合は録画をしておいてもらうか、前もって何時から何時まではこの番組を観る。と約束しておくとよいのでは無かろうか?」
はあ〜……やっぱり、なんかこう、頭の造りが違うというか……完敗した気分だった。
「……賢い」
「お褒めに預かり光栄であります。ただ、賢いと言うのは少々語弊がございます」
太郎の言葉に葵は首を傾げた。
「手前も、爺様と一つしか無い羊羹で喧嘩になった事があるのである。今思えば、大した事では無かったのであるが、その時は本当に頭に血が登ってしまい、爺様と口論になったのである。
その時にどの様に頭を切り替えるか。人の質とはここで問われるのであります。
何も無い所で、ああすれば良い、こうすれば良いと言い並べるだけでは大した人間では無いのである。それよりも、失敗を糧に次どうすべきかと考え、年下の意見にさえも耳を傾けるその姿勢の方がとても出来た人間である。
葵殿はとても立派な兄上であると思うのである」
太郎にそう言われ、さっきまで弟と喧嘩してもやもやしていた事とか、太郎は頭が良いなぁ、羨ましいなぁと卑屈になっていた自分が何処かへ行ってしまった。
「そう……かな?」
「はい。とても出来た兄上である。太郎も見習わねばならぬのである」
二人がそう話していると、ふいと甲虫が飛んで来て二人の眼の前に止まった。二人はお互いの顔を見やると、どちらも同時に甲虫に手を伸ばしたものだから、勢い余って二人はお互いの額を打ち付けた。太郎は思わず叫んだ。
「葵殿、これは自らの質を問われる場面である」
「いや、こんな大きな甲虫、見たことない。こいつは俺が持って帰る」
「何を仰る。今し方、負けるが勝ちという話をした所ではありませぬか!」
「太郎こそ、年上に譲ったら良いじゃないか!」
二人が口論している間に、素知らぬ顔をして甲虫が飛んで行ってしまうと、二人は残念そうにそれを見送り、お互いの顔を見合わせた。
「葵殿も、まだまだですな」
「はあ?! お前に言われたくない! 大体、甲虫なんかで熱くなるなんて、坊主の癖に!」
「はて、何のことやら……」
太郎はそっぽを向いて口笛を吹いた。やっぱりこいつとは反りが合わないと思った。口先では良いことを言っているが、根本的にはまだまだ子供だ。
葵がそう考えて帰ろうとすると、いつから居たのか、直ぐ側の駅に乾が座ってこっちの様子を伺っていた。太郎もそれに気付き、居住まいを正した。
「乾殿、お暑うございますな!」
「知行合一」
乾に言われ、太郎は悄気げた様に肩を落とした。葵は乾が何を言ったのか解らなかった。
「何? ちこーごーいつ?」
「知識と行為は一体だということ。 真の知識は実践によって裏づけられていなければならない」
「いやはや、お恥ずかしい……中江藤樹先生の言葉ですな」
「大洲に至徳堂が有るから今度連れて行って貰えよ。平日昼間、高校に見学の電話しなきゃ入れてもらえないから中々難しいだろうけど……」
それを聞いて太郎の目が輝いた。
「ははぁ……お噂は聞いておりますが、確か高校の敷地内に中江藤樹先生が住んでいたお屋敷があったとか……行ってみたいでありますな……」
乾はそれを聞いて、こいつが生まれるのがあと二十年早かったらなぁ……と思ったが、現実に戻って考えを改めた。
まあ、知識はあってよく喋るが、年相応に自分勝手で子供らしい。孔子だって十五で学を志したのだし、乾自身も、太郎くらいの頃から真面目に勉強していた訳では無い。だが、だからと言って甘やかす気はこれっぽっちも無かった。
「天子から庶民に至るまで、人の第一の目的はその身を修めることにある」
乾が空覚えで話すと、太郎は驚いた様な顔をしたが、少し考えた。
「なんと有り難い。手前も聖人たらんとすればなれないはずがないのである」
太郎がにやりと笑うと、乾は軽く頷いた。葵は二人が何を言っているのか解らなかった。
「えと……」
「自分の欲に任せて我儘勝手に生きるのではなく、義く生きる。これが人間の一番の目的だって意味。太郎が言ったのは、生まれや環境に関係なく、立派な人になろうと思えば、誰だってなれないはずはない」
「義く生きる?」
葵は首を傾げた。
「早寝早起きとか?」
「そう。正しい生活習慣もそう。善い事を毎日一つずつ積み重ねていく事。正直に生きる事」
乾の説明に、葵は何かとても当然でありながらも大切な事を教えられた気がした。太郎も、そんな葵を見てにやりと笑みを浮かべる。
乾がそんな二人を見て立ち上がると、葵は乾が小さな単行本を持っている事に気付いた。
「乾さんは、どうして大人なのに勉強するの?」
「父親がクズだったからよ」
乾が即答すると、二人は目を丸くした。
「自分勝手でろくに働きもしない。人に会えば文句ばかり。妻子持ちのくせに借金作って愛人に貢いで……ってしてたから周りからもそっぽ向かれてたのよ。あんな大人には絶対になりたくない。その為には先人の智慧が必要になる。私は誰からも疎まれる情けない人間より、義い生き方の方がずっと格好良いと思う。
貴方達だって、不正を働く悪者よりも、正義のヒーローの方が格好良いって思うでしょう? だから勉強するのよ」
葵はそれを聞いて背筋を伸ばした。極端な話し……とは思うが、正しい事と正しく無い事を見分けるのにもやはり勉強が必要なのだろう。
「……例えば、どういった本から読んだら良いとかあるの?」
「勉強の取っ掛かりなんて何でも良いわよ。まあ、実語教を先に読んでる方が良いけど、兎に角古典が良い。古典は勉強しなさい。ノーベル物理学賞とった湯川秀樹だって論語を勉強してたの。だから古典は文系だけの特権じゃない」
古典……と聞いて冷や汗が吹き出した。何それ? 論語? 聞いたこと無いなぁ……難しそうな本なのかなぁ……
「論語であれば、絵本があるのである。後で持って行って差し上げるのである」
絵本かぁ……絵本なら読んでみようかと思った。
「ドラ○もんの論語か?」
「いえいえ、本当の絵本である。爺様が誕生日の度に中古をかき集めて下さいまして。今年の誕生日は孫子の兵法でした」
「はあ……成る程、それで勝ち負けよりも損か得か、か……まあ、それも良い」
そこまで話して乾は眉を潜めた。
「誕生日?」
「いかにも。八月四日であります」
「吉田松陰と同じか……遅くなったけど、おめでとう」
「かたじけない」
葵も初めて知った事にどうしていいか解らなかった。何か、プレゼントをやらなければならないと思うのだが、何をやれば良いのか思いつかなかった。ふと、こんなことならさっきの甲虫を譲ってやればよかったと思った。
「じゃあ何か本買ってやるよ」
「いえいえ、産褥の母の姿を忘れぬのが何よりの誕生日と徳川光圀も申しております故、心苦しゅうございまずが、ご辞退させていただきたい。それに今は、知識を増やすよりも行動を改めねばならぬと思い至った所である」
何かプレゼントを、と考えていたが、助かった気分だった。乾も、少し惜しい気はしたが、本人がそう言うならまあ良いかと思い直した。
葵は太郎と乾を見ていて、仲の良い姉弟の様だと思った。さっき太郎が言った『慈悲を兄弟とす』とはこの二人の様な関係なのだろうと思った。
それで三人は其々家に帰った。葵は家に帰ったら自分から弟に謝ろうと思った。太郎の様に口や知識だけの人間でいるのはあまり良くないと思ったからだった。乾の『知行合一』を忘れないように何度も頭の中で繰り返していた。
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