第21話 対面

 和尚は太郎の様子が、想像していたものよりもずっと大人しい事に首を傾げた。飛び上がって喜ぶものと期待していたのに、駅へ行く道中でも、鈍行に揺られている間も、バスに乗り換えても、日の暮れていく空をぼうっと見やっている。

「太郎、どうした? 嬉しくはないのか?」

 太郎は和尚に聞かれ、はたと気付いた様に祖父を見上げた。

「今日はキャラバンにも乗せて貰い、その上鈍行とバスと、三つも乗り物に乗れて手前は嬉しゅうございます」

 違う。そうじゃない。

 と、突っ込みを入れたかったが、どうやら気が動転しているらしい。それもそうだろう。和尚は太郎の頭を撫でた。

「緊張しておるのか」

 太郎は和尚の顔を見上げると、少し悩ましげな顔をした。

「ふむ……手前は天に恥じない由緒正しき男子として立派に育ったと自負しているのである」

「ほうほう……」

 和尚は太郎の話しに何度も頷いた。自分でそう言ってしまう所は流石この子であると思う。

「ただ、周りから見られた時にどうであろう? やはり、蓮殿の様に人当たりの良い子の方が、親としては良くは無いだろうか? 浜路姫の様に心の掃除の行き届いたお子の方が良いのであろうか? もしくは……」

 太郎の話しに、和尚は飽きれた様な溜め息を吐いた。

「ふふ……阿呆な事を考えておるの」

 和尚はそう言って太郎の手を引いた。

「心配せんでも、儂の娘じゃ。太郎が太郎であることを残念に思ったりなんぞせんわい」

 和尚はそう言って道すがら昔話をした。



 祥花は和尚にとっては初めての娘だった。これがどういうわけか大人しい、中々喋らない子供で、太郎とは正反対の娘じゃった。ただ、性分の良い子で、困っている人が居れば手を差し伸べるし、ゴミ箱がいっぱいになっていれば進んで捨てに行く。靴の底が剥がれれば自分で直すし、兄達のお下がりの服も嫌な顔一つしないで手直しして着る様な娘だった。八つ離れた蓮丸の面倒も良く見てくれる。存在感が薄く、欲の無い子だったが、同時に向上心も無い子だった。

 それで、学校は苦手だったようだ。小学校のテストは万年最下位。中学になってもそれは変わらなかった。これがどういうわけか、高校へ入ってから急に成績が上がった時には、天変地異でも起きたのかと思う程だった。

「祥花、一体どうした?」

 ある日和尚が問い質すと、娘は小首を傾げたが、直ぐにっこりと笑顔を作った。

「良い本に出会ったよ」

 勉強が出来ないあの子が、本屋で児童書コーナーへ向かったのは、絵本をほとんど読んだ覚えが無かったからだと言う。桃太郎もかぐや姫も……それを聞いて、そう言えば上の子や、体の弱い蓮丸にかまけてこの子にほとんど目をかけていなかったと思った。

 子供向けの論語の本の隣に、その本が並んでいたらしい。『実語教』それを和尚が知ったのはその時が初めてだった。

『妙法蓮華経』や『自我偈』、『観音経』、『般若心経』、『法華経』、『歎異抄』、『阿弥陀経』……色々な経典は苦労して読破した覚えがあるのに、この『実語教』には覚えが無かった。

「そうか。面白い本に出会ったか」

 まあ、どんな本であっても、この子が前向きに勉強に励む様になったのだからこれも縁なのだろう。この世の中の、沢山ある本の中からそれを引き当てたのは本当に奇跡だったと思う。

 否、解っていた。高校へ行くのに、寮生活を初めたのだ。それで、蓮丸の看病をしていた時間を、本屋へ行ったり、勉強する時間に充てただけだろう。彼女の学ぶ機会を、気付かぬうちに家族が取り上げてしまっていたのだ。心の優しい、面倒見の良い子……それでいて勉強の出来ない娘……それに気付いた時、何だか自分が情けなかった。もっと、あの子を気にかけてやるべきだった。

 それでも、良い本に出会えたからだと、蓮丸や家族のせいでは無かったのだと庇う所が本当に健気な子だった。



「大丈夫、心配するな。何とかなる」

 和尚がそう言うと、太郎は少し眉間に皺を寄せた。

「……そうであった」

 太郎は眼の前の病室の扉に手をかけた。扉を開けると、点滴に繋がれた女性が、ベッドに横たわったまま、顔だけこちらを向けた。傍らに座っている老婆は、太郎の祖母である。

 和尚に背中を押され、太郎は女性の傍へ近寄った。女の人は微笑し、太郎へ手を伸ばす。太郎もにやりと笑みを作って女性の手を握った。いつも、握り返す事の無かった大きな手が、力強く太郎の手を握った。

「遅かったじゃないかい? 直ぐ太郎を連れて来るって言っていながら……」

「すまん、色々あっての……」

 まさか太郎が誘拐されていました。などとはここで言えない。感動的な親子の出逢いに不穏な事は言うまい……。

「母上、聞いて下さい。手前は本日、人攫いと車に乗り合わせまして、檀家の乾と云う手前が認めた見目麗しい大和撫子にお助け頂き、町奉行の世話になっていたのである」

 太郎が早口に話すと、一瞬病室の空気がしんと静まり返った。和尚が思わず太郎の頭をぽんと叩くと、女性はふふっと笑った。

「そう。それは大冒険だったね」

 太郎の事をよく知らない母は、夢か何かの話しをしたのだと思ったらしい。太郎の話しを聞いた祖母は、和尚を睨み、

「人攫い……?」

 と聞いたが、和尚は明後日の方向を向いていた。

「はじめちゃんは、お喋りな男の子ね」

「そう。まるで口から産まれたかのようじゃ」

 和尚が話すと、女の人は笑っていた。けれども何か聞きたそうに和尚と傍らの母を見た。

「正嗣さんは?」

 その名前に和尚は眉根を寄せ、老婆は視線を泳がせた。

「出家したのである」

 太郎の言葉に場の空気が凍りついた。



 精々一晩寝て目覚めた気分だった。母から、あの日から七年も眠り続けていたのだと聞かされた時、実感が無かった。自分の中では新生児のはずのはじめが、もう小学一年生になったのだと聞かされ、驚きと、安心と、どんな子に育っているのだろうかという不安、親として何もしてやれなかった罪悪感が波のように押し寄せた。

 長眠し過ぎた……

 祥花はそう思った。そんなつもりは無かったのだが、もう少し、せめて半年前に目覚めていれば、入学式に間に合ったのではないかとか、あと三年も早く目覚めていれば、子供だって記憶が曖昧だろうから、親子関係を修復出来たのでは無いだろうかと悶々とする。まあそこは、夫の正嗣さんがフォローしてくれていると思っていた。あの人には苦労をかけてしまった。生まれたばかりの乳呑み子を一人で育てるのは容易では無いだろう。そう想像し、面会に来た息子が明るい子に育っている事に感謝していた。

「出家したのである」

 満面の笑みを浮かべる息子の言葉に、笑顔を崩しはしなかったが、両親の顔を交互に見た。母が慌てて太郎を連れ、病室を出て行くと、父から正嗣さんの事を聞かされた。

「あの子が産まれて直ぐ、うちの寺に子供を置いて出て行ったきり、一度も戻ってはおらん」

 割りと冷静だった。男の人って結局そうなのね。とか、私への愛がそんなものだったのね。と切り替えた。新婚の頃はあんなにデートしたのに、いざ嫁が意識を失ったら子供諸共捨てて出て行く様な酷い男だったのだ。そんな男に絆された自分も悪い。見る目が無かったのだ。釈迦だって嫁と子供を置いて出家したのだから、まあそんな事もあるのだろう。人間は二千五百年以上本質が変わっていないのだ。

「はじめちゃんに悪い事をしてしまったわね」

 もっと、ちゃんとした父親だったら……否、子供に親は選べない。それにそれを言うなら、自分がもっとちゃんとした母親だったなら……あの子に寂しい思いをさせなかっただろう。そう思うと何とも情けなかった。

「あの子はそんな風に思っとらんよ」

 父の言葉にゆっくりと瞬きした。暫くして太郎が売店でアイスを買ってもらったのだと大はしゃぎして病室へ戻って来た。

「母上! 見て下さい! 氷菓子です! ガリガリ君と書いてあります! 我利我利とは! 何と恐ろしい名でしょう? 自らの利益の事しか考えられず、痩せ細ってしまうという商品名をつけた製造主は、自らの利益しか考えていないのでしょうか? けれどもそれにしては値段が安過ぎます! まるで仏の心で作った様な値段です。それなのに我利我利とは! どういう事でありましょう?!」

「それは氷をかじった時にガリガリって音がするから、ガリガリ君って名前になったのよ」

「なんと! 我利我利亡者の我利我利君では無いのですか?! はぁ~母上は物知りでございますね!」

 まあ、寺で育ったのならば我利我利亡者の方が身近であっただろう。けれども小学一年生が、アイスのガリガリ君と我利我利亡者を同じと考えるだなんて、中々発想の豊かな子だと思った。けれどもそれは、親のいない寂しさの賜物ではないかと思った。

「はじめちゃん、寂しい思いをさせてごめんね」

 そう呟くと、太郎は不思議そうな顔をした。

「何を仰る。父上も母上も、この手前の中にいつも一緒に居たのである。父上と母上が居なければこの世に手前は産まれていないのである。手前は孝を尽くせなかった事を恥じる事はあっても、恨むことなんぞおこがましい。両親が居ないからと臍を曲げて道を外れてしまう程、手前は愚かな人間ではない。幸い、母上のご両親は徳の高い方々でした。蓮丸殿もとても人間のよく出来たお方でした。

 人学ばざれば智無し、智無きを愚人とす。

 これは母上が手前に下さった実語教に書いてありました。この様な素晴らしい環境に置いて頂けたのも偏に母上の徳あっての事でしょう。世の中には食うに困る様な土地に産まれてしまう子供も、親が居ても満足に勉強させてもらえない者も居るのである。ですから決して手前は、寂しい思いなどしていないのである。手前の住処は何処へ行っても極楽である」

 太郎の話しににっこりと笑っていた。まるで泥の中に咲く蓮の様な子だと思った。祥花はそんな太郎に本当に心の底から救われていた。

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