第20話 和解

「暴力は良くないのである」

 太郎の言葉に乾は何と言い返せば良いだろうかと悩んだ。少し離れた所で事の次第を見守っていた茜と葵が、恐る恐る出て来て状況を聞いてきた。太郎が誘拐され、誘拐犯を乾がのしたのだと聞き、自分のせいで乾がおかしくなった訳では無いのだと茜はほっと胸を撫で下ろしていた。

 乾が駐在所に電話をかけると、茜はポケットからハンカチを出して乾の掌を巻いた。赤く腫れ、傷が出来ていた。

「驚きました。乾さん、貴女空手とかしたこと無いですよね?」

 茜の問いに乾は少し視線をそらせた。

「○野善紀さんと岡○慎一郎さんの本で古武術の勉強しました」

 なんちゅうものを読んでいるんだと茜は思った。否、本読んだくらいで大人の男を投げ飛ばせるか? と訝った。

 太郎は古武術と聞いて目をキラキラさせた。

「なんと! 古武術?!」

「あ〜あんたは必要ないわ。というかあんたの場合は寺で雑巾がけとかしてたから体の使い方が古武術のそれに元々近いのよ」

 乾の説明に葵は何を言っているのかさっぱりだった。未だに気を失っている男を一瞥すると、葵は少し不安だった。

「けど、太郎は何とも無いんだろ? ぼうこうざい……とかにならないの?」

 葵の言葉に太郎は腕を組んだ。

「多分、誘拐されたのがうららだったら、私も乾さんと同じ様にしたと思います……うららが何も無かったと言ったとしても、鋏でイチモツ切り落とすくらいしないと親として怒りが治まらないですね」

 さらっと怖い事言ってる……と思って乾は葵と太郎を見た。葵の方は意味が解らなかったらしいが、太郎の顔が真っ青になっている所を見ると、どうやら理解しているらしい。

「誠に申し訳ない……」

「そうね。誘拐される必要は無かったわね」

「死に場所を探しておるものと思ったのである」

 太郎の話に茜と葵は顔を見合わせた。

「もしそうであれば話しを聞こうと思ったのであるが……

 四等の船に乗らずんば、誰か八苦の海を渡らん。と言っての、

 辛い世の中を渡り歩くには四つの正しい心が必要である。それを忘れて死に逝くのであれば哀れなものである。

 けれども誘拐の線も捨て切れない。もし、誰かが誘拐されたとなったら、手前も生きた心地がしないのである。もし、誰かが犠牲にならなければならないと言うのであれば、手前が犠牲になろうと思ったのである」

 乾は茜に手当してもらったばかりの手で軽く太郎の頭を叩いた。

「まあ、警察は事件を未然に防ぐってのは難しいから、うららちゃんや蓮くんが怖い目に遭うくらいならって考えなんでしょうけど……」

 この螺の緩んだ馬鹿にどう言えば打撃を与えられるのか乾は考えた。

「あんたのせいで私が犯罪者になっちゃったわねぇ。前科持ちかぁ。豚箱かぁ〜」

 太郎はそれを聞いて狼狽えていた。必死に知恵を絞っているようだった。

「その事であるが、一つ策がございます」

 太郎の提案に三人は顔を見合わせた。



「ほふとうひ(本当に)ほうしわへまへんでひた(申し訳ありませんでした)」

 顔が腫れ上がり、目も開かなくなって青痣だらけの男の顔に、和尚は怒りよりも「何だその顔は」と笑いそうになっていた。

 乾に発見され、驚いて逃げようとした所、躓いて転び、岩に顔を打ち付けた。

 と太郎が言ったが、乾の両手にハンカチが巻かれている所から想像するに、乾にタコ殴りにされたのだろう。

 誘拐犯を見つけたと聞いた時にはそれこそ和尚も怒り狂っていたのだが、乾が犯人を殴っておいてくれたお陰で今は穏やかな水面の様にしんと落ち着いていた。

「いい年した大人が何やってんのよ! 馬鹿なの?!」

 乾が声を上げると、犯人の話しを聞いていたお巡りさんは乾に視線を向けた。

「乾さん! 貴女もね、一人で太郎くんを助けに行くなんて無謀な事を……犯人が複数犯だったらどうするんですか!?」

「複数犯ならもちっとちゃんと下調べしてんのよ! こんな思い付きみたいな雑な事、複数犯でするわけ無いでしょ! 頭沸いてんの?!」

 乾の言葉に男はぐうの音も出なかった。

「相手が拳銃でも持ってたらどうするんですか!」

「引き金引かせる前に叩き潰せばいいのよ!」

「なんて無謀な……」

 お巡りさんと乾が口論していると、太郎が駐在所の奥からお茶を淹れて出て来た。全員に湯呑を手渡した。

「まあまあ、落ち着いて……」

 太郎がそう言うと、大人達は其々の顔を見合わせた。

「この通り、太郎は無事である。この者も反省しておる故、堪忍してやってはくれまいか……」

 太郎の言葉にお巡りさんは眉根を寄せた。

「あのね、子供を誘拐する様な危険人物を……」

「おや、貴殿は手前の知り合いである。車でドライブをしていたのである」

 成る程、誘拐自体を無かった事にしてしまおうと言うのだ。

「けど、身代金の要求までして……」

「駐在所に直接身代金を請求する誘拐犯なぞこの世の何処におるのであろう? それに、太郎は千両役者では無い。一億三千万なんて身代金、冗談に決まっておろう」

 太郎が可笑しそうに言うと、お巡りさんは呆気に囚われていた。自分が一番怖い思いをしただろうに……お巡りさんはちらりと和尚の顔を見たが、和尚は微笑して頭を下げた。

「本当に、うちの太郎がご迷惑をおかけしました」

 和尚にそう言われ、お巡りさんは深い溜め息を吐いた。男を見ると、深く項垂れている。お巡りさんも、男は乾に殴られたのだろうと容易に想像出来た。

「もう次は無いですからね?」

 きっと、誘拐したのが太郎でなかったら、もっと大事になっていただろうと想像した。

「うむ。これにて一件落着」

 太郎が水戸黄門のそれを真似てかっかと笑うと、和尚が太郎の頭を鷲掴みにした。

「じゃ、話しは済んだから帰るわね」

 乾が立ち上がると、不意に男が乾の手を掴んだ。

「まっでぐだざい」

 大分、舌が回るようになって来た様だ。殴られた事を蒸し返されるのかと訝っていると、男は跪いた。

「けっごんしてください」

 一気にその場の空気がしんとなった。

「は?」

 乾は一瞬、男が何を言ったのか理解出来なかった。気が触れてしまうほど殴っただろうかと自分の記憶を探る。精々五回くらいしか拳を奮っていない。そもそも華奢な細腕の自分が本気で、素手で殴ったくらいで気が触れたりはしないだろう。殴られた相手に結婚の申入れなど、正気の沙汰ではない。

「若い女性に殴られて興奮しました。どうかもっと殴って下さい」

 乾はそれを聞いて背筋が凍った。瞬時に握られた手を引っ込める。変な性癖を目覚めさせてしまったのだと、自分の行動を後悔する。

「成る程、人を殴ってはいけないと言うのは、こういう事であったか……」

 太郎が感心していると、それは違うと思いつつ、「お前は絶対にするなよ」と和尚は言い聞かせた。

「やっぱり殴ってるんじゃないですか」

「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」

 太郎が呟くと、乾と和尚は軽く頷いた。お巡りさんと男は意味が解らず、困惑する。

「縁さえ来れば、人はどんな事もしてしまう。という言葉ですな。太郎が誘拐されなければ乾さんも男を殴ったりはしなかったし、男も、自らの悪い行いに身動きが取れなくなり、思い余って人の道を外れることはなかったであろう。本来ならばこの国の法に則るべきじゃが、太郎もこう言っておることじゃし、許してやっては頂けないじゃろうか?

 乾さんが殴っていなかったら、儂は道端に生えている夾竹桃が綺麗に咲いとるなぁと手にとって葉を男の口に押し込んでおる所じゃ。和尚としてあるまじき行為である。事が済めば切腹していたであろう。それを未然に防ぐ為に乾さんが殴って下さったのは本当に有り難いことじゃて」

 男はそれを聞いて呟いた。

「キョウチクトウ?」

「根から葉まで毒があるのよ。燃やした灰や煙でも死ぬ事がある。ドラマに出てくる青酸カリより毒性が強いのよ」

 乾の説明に男は顔を真っ青にした。

「なんて物知りな方なんだ。どうか養って下さい」

 男が再び変なプロポーズをすると、お巡りさんが前に出た。

「ダメです! 乾さんは僕のガールフレンドですから!」

 お巡りさんの言葉に、またその場の雰囲気が怪しくなった。

「はああああ???!」

 太郎と乾が同時に声を上げていた。

「いつ?! いつそんな事になったのよ?! 私知らないわよ?!」

 本当に記憶に無かった。何度か本の話しはしたが、どうもしっくり来ないので、眼中に無かった。

「乾殿! 等々、玉の輿は断念されたのですか?! 石油王とは収入が天と地程ございますぞ!」

 太郎が喚くと、話がややこしくなるから黙れ! と一喝しそうになった。和尚の手前押し黙ると、それを察した和尚が太郎を掴んだ。

「太郎、儂らはお暇しよう」

 和尚は太郎の首根っこを掴むと、ズルズルと引き摺った。

「乾殿! 石油王でなくとも良いのであれば、この太郎めと祝言を……」

 太郎は喚いていたが、和尚は気にせず外へ出た。モテるのに、本人が男にあまり興味がないのが少し勿体ないなぁと和尚は溜め息を吐いたが、田舎の巡査と、小学生と、借金まみれのおっさんに言い寄られて少し不憫にも思った。

 この田舎を出れば引く手あまたなのではと思うのだが、過疎の進むこの里では本当に有り難い存在だった。

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