おまけ話 100PV感謝記念

 夏の暑い日の事だった。蓮丸が何時もの様に経を読んでいると、外から子供の泣き声が聞こえ、ゆるゆると立ち上がった。もう長い間外出することは無かった。それでも毎日が楽しかった。それと言うのも、他ならない太郎のお陰である。

 蓮丸が縁側から庭を覗くと、直ぐ側の柿の木に登って泣いている幼子の姿が目入った。誰か人をと思ったが、下駄を引っ掛けてのろのろと木の下へ歩み寄った。ほんの数歩で息が上がっていた。

「いっちゃん、どうした?」

 蓮丸が問うと太郎は引きつけを起こしたように嗚咽した。よく見ると、太郎の頭に何か乗っている。庭に生えている雑草の様だった。庭の草引きをしてくれたのだろう。いや、だからといって、頭に草を乗せて木に登る必要は無いだろう……

「……ああ……」

 草を被った人が木に……やっと気付いて太郎に手を伸ばした。もう体重は十五キロになっている。生まれたばかりの頃は三キロ程しか無かったのに、子供の成長とは早いものだなぁと感心してしまう。

「いっちゃん、お茶にするから降りといで」

 蓮丸がそう言うと、太郎はにたりと笑い、蓮丸に支えられて木からゆっくり降りた。蓮丸は太郎の頭の草や土を払うと優しく手を握った。

「いっちゃん、檀家さんからの奉納の絵馬に落書きしただろう?」

 蓮丸は太郎を連れて歩くと、そう話しかけた。縦一メートル、横二メートル程の大きな板に描かれた立派な白馬だったのだが、太郎が覚えたての平仮名をマジックペンで書いていた。それに激怒した和尚が血眼になって太郎を探していたので、蓮丸も思わず太郎の字の傍に墨で落書きした。和尚がそれを見て口をへの字に曲げ、何とも言えない顔をしたのは、余命幾ばくもない蓮丸の遺す最期の文字かもしれないと思ったからに他ならなかった。

「けれども、絵である。あの馬では乗れぬし、餌をやることも出来ないのである」

「そうだなぁ……」

 蓮丸は嬉しそうに笑った。

「いつか、本物に会いに行っておいで」

「闘牛ならば散歩しておるが、馬はそうそう散歩しておらんのである」

「動物園にいないかなぁ……」

 そう言えば一度だけ、小さい頃に動物園へ連れて行ってもらった事を思い出した。初めて見るキリンの前で、嬉しくて小躍りした。象の鼻の長さに驚き、お昼は動物園の中のレストランでホットケーキを食べたっけ。楽しかったのに、途中で体調を崩して倒れてしまった……あの時、白熊のぬいぐるみを買ってもらったかな? 何処に仕舞ったのか思い出せないけれど……

「動物園ならば、馬がいるのであるか?」

「多分……」

「暴れん坊将軍の様に波打ち際を馬で駆け回る事も可能であろうか?」

 太郎の発言に蓮丸は二の句が継げなかった。

「……そうだといいね」

 やっと、喉の奥から出てきたのはそんな言葉だった。蓮丸は太郎が馬に乗り、BGMを流しながら波打ち際を駆け抜ける想像をした。

「あ、そう言えば高校に馬術部があったと思う」

 何時だったか乾がそんな事を言っていた気がする。自分は小中どちらもまともに行っていないので、高校なんて想像もつかないが、きっと楽しい所なのだろうと思う。

「ばじゅつ?!」

 太郎の目がギラギラと輝いていた。

「忍術の様な物であろうか? 煙玉や手裏剣を使うのであるか? それとも、武術の様に刀で相手をバッサバッサと斬り倒したりするのか?!」

「馬のお世話や乗り方を習うんだと思うよ」

 蓮丸の説明に太郎は首を傾げた。

「馬に乗りながら矢を放ったり?」

「それを高校で習うかはちょっと解らないなぁ」

 太郎は不思議そうな顔をして中空を眺めていた。入道雲が迫って来る様だった。あと二歩程で縁側に着くのに、蓮丸はそこに蹲った。太郎が小さな手で背中を擦ってくれる。

 蓮丸はやっと縁側に腰掛けた。もっと自分の体が丈夫だったなら……と考えた事が何度もあった。まあこればかりはどうにもしようの無い事だった。

「いっちゃん、お昼寝はした?」

 そろそろ二時だった。お昼も終わったし、眠たくなる頃だろう。

「眠りを除いて通夜に誦せよ。と申しての、眠たくても、学文に励むのである」

「良い心掛けだけど……眠たいと頭が回らないし、不機嫌になってしまうから、子供の間は、周りの為にお昼寝をしようか。二十分だけ。その後、何か本を読んであげるよ」

 蓮丸はそう話すと、のろのろと台所へ向かった。冷蔵庫から麦茶を出し、太郎が硝子コップを用意する。戸棚の中からスルメイカを見付けると、蓮丸と太郎は居間に正座してお茶を飲んだ。太郎は嬉しそうにスルメイカをしゃぶっている。

 そんな太郎の姿に、少し意地悪をしたくなった。

「おや、仏の道を歩む者が、命のあったものを食べてしまった」

 太郎はそれを聞いてはたと目を丸くした。

「なんと! スルメイカに命があったのであるか?!」

「スルメイカはスルメになる前、イカだったんだよ。海を泳いでいたのだよ」

「八苦の海を?!」

 スルメイカと、自分の将来が重なった様に思えて蓮丸は少し居心地が悪かった。このイカも、何か悩みを抱えて生きて、人間に囚われ、捌かれ、干されて人に食われているのだろう。自分も煩悩に囚われ、因縁に捌かれ、そして死に逝くのだと思った。

「そうだな……」

「大変有り難い」

 太郎の言葉に蓮丸は目を瞬かせた。

「この世界にイカとして産まれ、人様を生かす為に生を終えるなど、これ程素晴らしいことはない。手前もそうありたいものである。美味しく頂いて、手前も味のある人間になるのである」

 蓮丸の目に薄っすらと涙が浮かんでいた。

「そう……だな」

 きっと、太郎になら為せるだろうと思った。太郎は自分とは違う。健康だし、元気だし、頭も良い。もう少し、この子の成長を見ていたいと思うのは我儘だろうか……。

「それに、今朝はハムエッグだったのである。大変美味しかったのである」

「はは……そう言えばそうだね」

 この子には敵わないと思った。スルメイカを噛みしめていた太郎が、急に舟を漕ぎ始めたので蓮丸は座布団に太郎を寝かせた。タオルケットを体に掛けてやると、静かに寝息を立てている。

 太郎の頭をそっと撫でると、蓮丸は嬉しくて笑った。押し入れの隙間が開いていて、太郎と自分が落書きした絵馬が少しだけこっちを覗いている。太郎の『うまじゃいな』の文字の隣に『そうじゃいな』と書かれた文字は寄り添っているようだった。その文字と同じ様に蓮丸は太郎の横に寝転がった。

 蓮丸は太郎の寝息を聞きながら、太郎の将来が明るいことを切に願っていた。

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