第18話 蛙
乾はうららを家まで送ると、太郎と外へ出た。田んぼには水が入り、そこここに四角い湖のようになっている。準備が終わり、そろそろ田植えが始まる頃だ。
そんな田園風景の中から、県道を走る白いワゴン車が乾の目に止まった。それを横目に乾はふと思い出した様に呟いた。
「そういえば、線路歩いて何処へ行くつもりだったの?」
太郎は急に聞かれて驚き、少し考えてにやりと笑った。
「さて……子供の気まぐれである」
「あんたはまだ子供よ」
「あの世とこの世は地続きであるとお聞きしましてな」
太郎が呟くと、乾は面食らった。けれども太郎はそんな乾の顔を見て笑う。
「本当に地続きであるなら、会いに行けると思ったのである。けれども途中で挫折を味わいましてな。あとは乾殿の知っての通り……」
乾はそれを聞くんじゃなかったと自分を戒めた。思わず太郎の手を引っ手繰る様に握る。太郎は嬉しいような恥ずかしいような照れた顔をしていた。
「乾殿、実は前に浜路姫に傘を貸したのであるが、それで手前が濡れて帰りました所、鈴様が酷く怒りましてな。太郎めは間違った事をしたのであろうか?」
「……はあ……そうね」
乾は鈴が怒った所を想像した。太郎の事を心配して怒ったのは間違いないだろう。太郎も、何も自分の傘を貸さなくとも、先生に予備の傘を借りれば良い所をそうしなかったなのは……多分、色々あったのだろう。
「あんたが悪い」
乾は少し考えてそう言うと、太郎はにやりと笑った。
「やはり、乾殿もそう思われますか」
「言っとくけど、うららちゃんに傘を貸した事を言ってるんじゃないわよ?」
太郎が虚を突かれて目を丸くする。
「鈴ちゃんを相手にしてるあんたが悪い。あんたはあんたが良いと思った行動をとった。その結果、風邪ひこうが熱出そうがあんたの問題。周りにとやかく言われたくらいで自分のしたことをいつまでも引きずってんじゃないわよ」
太郎は何だか心が軽くなるのが解った。
「敬天愛人って言ってね。人を相手にするな。天を相手にせよ。あんたは天に恥じない行動をしたと私は思う。他人の目を気にしてたら何も出来ないじゃない」
「ははぁ……」
何故、乾がこうも親切なのか、浜路姫が初恋だと言ったのか再確認させられた気分だった。相談して良かったと太郎はスキップして喜んだ。
「家まで送るわよ」
「一人で帰れるのである」
太郎に言われ、乾は少し考える素振りをした。稲の苗を荷台に積んだ軽トラとすれ違った。
「太郎は今のトラックを見てどう思う?」
「田植えの時期ですな。
ただし食あれば法在り。また身在れば命有り。なお農業を忘れず。必ず学文を廃することなかれ。
皆、毎年忘れず農業に励んでおって偉いと思うのである」
乾はそれを聞いて目を細めた。太郎は乾が、『今、目の前を走ったトラック(だけ)』を指していたのでは無いと勘付いた。本来ならそんな質問をする必要はない。その前に『家まで送る』と言った。太郎の家と乾の家はここからは反対方向である。それに、太郎にとってこの里は庭のようなものだ。だからそもそもそんなことを言われるのもおかしい。だから多分、もっと二人きりで話しがしたいのだ。ふられた手前、脈無しと思っていた太郎は少し気を良くした。
「ふむ……村田さん家のトラックである。農協から苗を買って来たのであろう」
太郎が遠くへ走って行ったトラックを眺めながら応えると、乾は何度も頷いた。
「あのね、鈴ちゃんの気持ちも解るの。あんたは危なっかしい。頭が良いのに年相応に少し足りない。真面目で実直。それで変な事に巻き込まれに行かないかと心配になる」
「おや、そこまで太郎めを心配してくださるか。何とも……」
気が変わりましたか。もう一度プロポーズをすれば靡いてくれるのではないかと太郎がにやけていると、乾はその様子から太郎がおかしな方向へ思考を巡らせているのだと感付いた。
「老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者はこれを懐けん」
そう言われてはたと太郎は乾の顔を見上げた。
「年上の人からは安心される人に、友達からは信頼される人に、自分より年下の人からは慕われるような人になりなさい」
乾の言葉に、太郎は少し俯いた。鈴が、何も理不尽に怒った訳では無いことは解っている。けれども自分は良いことをしたと思っていたのに、心配させてしまったのだ。
「精進するのである」
太郎が項垂れると、乾は太郎の頭を撫でた。
「あいつもその方が安心する」
乾が呟くと、太郎は顔を上げた。
「私はそう思う」
それを聞いて太郎ははにかんだ様に笑った。
蓮は太郎が帰って来るのを待っていた。家にゴーフルがあった。神戸のお土産らしい。小さい丸い缶である。蓮はその缶を見つけるなり、
「ママ! この缶、もらっても良い?」
と聞いて了承を得た蓮は、その缶に沢山あるものを詰め込み、太郎を待ち構えていた。やっと乾と手を繋いで帰って来た太郎に、蓮は満面の笑みを浮かべた。
「太郎くん! 実は良いものが……」
と言いかけて、太郎の真似をしようと思った。
「お代官様のお好きな山吹色の饅頭でございます」
と、白々しく言って差し出すと、太郎は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐにその缶を受け取った。
「越後屋、そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様程では……」
と、二人の会話を直ぐ側で聞いていた乾は必死に笑いを堪えていた。
「仲が良いな」
乾はそう言って軽く手を振ると、来た道を戻って行く。太郎は手を振ると、蓮に礼を言って自分の家へ入ろうとした。蓮はその場で太郎が蓋を開けるものと思っていたのに、そのまま家へ入ろうとしたので慌てた。
「いっちゃん! 今、何時だと思ってるの!?」
と、鈴の声が聞こえ、太郎が「隣の蓮から饅頭を頂いたのである」と説明している。
これは不味い……
蓮は太郎から缶を取り上げようとしたが時既に遅し、太郎は鈴の眼の前で缶の蓋を開け、中から雨蛙が飛び出すと、その中の一匹が偶々、鈴の額に飛び付き、鈴は断末魔のような悲鳴を上げていた。
「レンお兄ちゃんに言いつけてやる!」
太郎は饅頭と聞いていたのに、缶の中から小さな雨蛙が飛び出した事に驚いた。驚いたが、鈴が悲鳴を上げ、額に貼り付いた蛙を摘むと、土間に投げ付けてそのまま風呂場へ駆けて行ってしまった事の方が驚きだった。否、女子中学生ならば当然の反応だろう。そしてあの捨て台詞……太郎は缶から飛び出した雨蛙を捕まえると缶に戻し、そのまま庭へ放してやった。
「痩せがえる、負けるな太郎、これにあり」
と呟くと、事の次第に驚き、申し訳無さそうな顔をした蓮が隣に屈み込んだ。
「ごめん……まさか鈴さんに見せると思わなくて……」
「ふふ……饅頭で無かった事は少々残念ではあるが、大変面白かったのである。今度、一緒に虫取りに赴こうではないか?」
太郎の提案に蓮は目を輝かせた。
「虫取り……オニヤンマとかいるかな? 明日、日曜日だから朝から一緒に取りに行かない?」
太郎は頷こうとしたが、直ぐに改めた。
「申し訳無い。明日はちと用事がある故、蓮殿はお家で勉強をしていると良いのである」
太郎の言葉に蓮は違和感を覚えた。
「え、一緒に遊べないの?」
「うむ。明日は、くれぐれも一人で外へ出てはならないのである」
蓮は首を傾げた。
「どうして?」
太郎はじっと蓮の目を見つめた。何か言いかけたが辞めた。
「明日は雨である。晴耕雨読と申しての、雨の日は家で勉強するに限るのである」
呟くと、蓮はさっきの鈴の言葉を思い出した。
「レンって、僕と同じ名前の人が居るの?」
太郎は少し考える素振りをした。
「太郎の兄である。享年二十四であった」
蓮は太郎が、変な言い方をすると思った。『去年二十四』と言ったのだと思った。去年二十四なら、今年は二十五だ。それなら、『今年二十五になるお兄ちゃんが居る』で良いはずだ。蓮が首を傾げていると、太郎は軽く微笑んだ。
「去年亡くなったのである」
それを聞いて、聞いてはいけなかったのだと蓮は思った。
「蓮殿も覚えておくと良い。この世は是生滅法と申しましてな、生まれたからには必ず死に至るのである。こればかりはどんな権力の持ち主でも、お金持ちでも、どんなに賢くても避けることは不可能である」
何だかとても恐ろしいことを言われた気分だった。
「どうすれば良いのかな?」
「義しく生きる。これに尽きるのである。どんなに長生きをしても悪い事をして周りから疎まれながら死に逝けば、必ず地獄行きである。短い一生であっても、思い遣りの心を施せば、極楽浄土へ逝けるのである」
蓮は太郎の話しがよく解らなかった。太郎も、そうだろうと察して考え込む。
「あの世の箸は三尺三寸箸と言ってとても長いのである。大体今で言うと一メートルくらいの長さである。そして食事は、真ん中に料理の乗ったテーブルがあり、そこから少し離れた両サイドに橋が架かっておる。その橋の上から、一メートルの箸で食べ物を食べなければならない。けれども、箸先で料理を摘めても、箸が長くて自分の口には届かないのである。
ここで必要になるのが、思い遣りの心である。空腹を我慢して、先ず、反対側の橋に立っている人の口に長い箸で料理を食べさせてやるのである。そうしたら、向こうに立っている人も同じ様に料理を箸で摘んで食べさせてくれるのである。
この思い遣りがあるか無いかだけで、地獄行きと極楽行きが決まるのである」
蓮は太郎の話しを想像した。自分の身長が百十センチ。自分の身長と大差ない長さの箸を持たされたら、料理を箸で取れたとしても自分の口には届かないだろう。箸を短く持てば……料理に届かない。摘んでから箸を持ち替えて……その間に食べ物を落としてしまいそうだ。こうなっては確かに、誰かに食べさせてもらう方法を考えなければならない。そして、誰かにそんな行動を取ってもらおうと思ったなら、先ずは自分から食べさせてやるべきだろう。
「これを、実語教では
己が身を達せんと欲せば、先ず他人の身を達せしめよ。
と教えているのである」
太郎はそう言うと、蓮にここで待つ様に言って一度家に入り、直ぐ戻って来た。手には本が握られている。
「これをお貸しするのである」
蓮は本と太郎の顔を交互に見た。漫画や絵本では無さそうだ。太郎が満面の笑みで家に入って行ったので、蓮は本を持ったまま自分の家へ入った。
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