第16話 歌
太郎は悩んでいた。流石に、自分の中のネタが尽きて来たのである。浜路姫に「これは何?」「それ、どういう意味?」と聞かれるのがもうそれこそ楽しかったのだが、如何せん、毎日、説法やら時代劇の話やらしていると、割りと自分も記憶が曖昧な所が露見してくる。帰って鈴様の国語辞典を拝借したり、鈴様に質問したりすると、ウザがられてしまい、太郎は岩壁の淵へ立たされた気分だった。
それで不意に頭に思い浮かんだのが、乾だった。あの人なら、良い知恵を授けてくれると思っていたのだが、家を訪ねたら留守だった。仕方なく家路につくと、河原の方から声がして耳を傾けた。子供の声で、いろは歌を歌っている。否、叫んでいると言った方が正解だろう。それがどうも浜路姫の声に似ている気がして河原へ行くと、乾と浜路姫が河原で何かしている所だった。太郎は何をしているのだろうかと見ていると、乾は石を集めて一つ一つ指し示した。それに合わせて
「ひ、ふ、み、よ……」
と浜路姫が読み数えている。成る程、最近浜路姫の会話から出てきていた『お姉さん』とは、乾の事だったのだ。
太郎が少し嬉しそうに近付くと、乾もそれに気付いて手招きした。浜路姫もにっこりと笑い、乾は太郎に声をかけた。
「そろそろ来るんじゃないかと思ってた」
乾の言葉に太郎は首を傾げたが、直ぐに笑みを浮かべた。
「いやぁ~、ふられた身であるのに、そのように太郎の事を、思い続けていて下さっていたとは何とも面映い……」
「毎日うららに話してたら、小一の情報量じゃあネタが尽きるでしょ」
「はあ……」
全てお見通しな事に太郎は落胆と安心を得た。
「別にうららはあんたの話しを一字一句記憶してるわけじゃないんだから、同じ事を百回言っても良いのよ。うららにとってはそっちの方が有り難いのよ」
乾の言葉に、太郎は面食らった。
「聞いている方は飽きるのである。爺様の説法を手前も来る日も来る日も聞いた折にはもう嫌になり、時代劇を観る様になったのである」
「うららはまだ音と日本語の区別が曖昧な所があるから良いのよ。『それ前にも聞いたよ』って言葉がうららから出て来たら一本前進。毎回違う話しの方が頭の中に残らない」
乾の話に太郎はそうなのかと少し心が軽くなった。
「まあ、あんたにとってはそうやってネタ探しで本漁ったりしてる方が勉強になるんだろうけど、あんたのせいで私の本を読む時間減ってるのにあんたが知識広げるのは癪に障る」
嫌味を言われたのだとは理解出来るが、それでも自分を一目置いてくれている事が嬉しかった。
「あんた実語教の本持ってるでしょ?」
「いかにも」
「それを毎日読み聞かせてやったら良いのよ。下手に手を広げる必要は今はない。取り敢えず毎日、実語教読み聞かせて、自分の引き出しもちょこちょこ増やして行けば良いのよ」
乾の言葉に太郎は笑みを浮かべた。
「乾殿も実語教がお好きですか」
「あ? あれが一番理に適ってんのよ。何で千年もあれが子供の教科書として使われてきたかというと、あれを読んどけば大抵の他の本が読める様になってたからよ。いろんな本から抜粋された短いものが漢字で書かれている。
今の教科書見てみなさいよ。平仮名ばっかりじゃない。子供を馬鹿にし過ぎでしょ。日常生活の中で平仮名だけの文章が何処にあんのよ? 道路にだって『止まれ』って書いてあるのに『まれ』しか読めなかったら意味分かんないじゃない」
太郎は何となく読めて理解出来るが、確かに読めない者からすれば苦労するのだろうと想像した。
「あんた、校長先生からの手紙読んだ?」
乾はプリントを一枚出して見せた。毎月学校で配られる広報で、太郎は読まずに鈴の母に渡していた。学校では保護者へのお知らせだと聞いていたので、読んだ事が無かった。
乾はプリントを見ると、読み上げた。
「『子供は宝物』と言われる事があります。宝物といえばキラキラ輝いているイメージがあります。ダイヤモンドの様な純粋な物質を持ってきたとしても、そのままでは光を放っていません。磨いて初めて素材の持つ美しさが出てきます。人も同じです。どれほど素材が素晴らしくても磨かないで光を放つ人はいません。
これ聞いてどう思う?」
乾に聞かれて浜路姫は首を傾げたが、太郎はにやりと笑った。
「実語教にある、
玉磨かざれば光なし、光無きを石瓦とす。人学ばざれば智無し、智無きを愚人とす。
の事である」
「そう。その素地があるだけで保護者宛の手紙が小一にも理解出来るように作られてんのよ。この差はデカいわよ? だから、あんたはうららちゃんに、毎日実語教を読んで教えてれば良いのよ」
太郎はそうなのかと、何だか自分の母親が褒められた様な気分になった。
「手前も、何か一緒に勉強をしたいのである」
「歌でも唄ってなさいよ」
乾にそう言われ、太郎は少し頭を捻った。立ち上がり、拳を握ってマイクに見立てた。
「じ〜んせ〜いら〜く〜ありゃ〜、く〜もあ〜る〜さ〜!!」
乾が吹き出して腹を抱えるが、浜路は太郎が何の歌を唄っているのか解らなかった。
「やめい! 何で小一の歌のチョイスがそれなのよ!」
「老人会のカラオケでは般若心経と共に大喝采である」
「ツッコミどころが満載だが頼むから黙ってろ」
乾がそう言って浜路姫に紙を渡していた。太郎は口をへの字に曲げ、羨ましそうに浜路姫を眺めている。黙れと言われると、益々喋りたくなってしまう。
「か〜さ〜さ〜ぎ〜の〜、わ〜た〜せ〜る〜は〜し〜に〜、お〜く〜し〜も〜の〜、し〜ろ〜き〜を〜み〜れ〜ば〜、よ〜ぞ〜ふ〜け〜に〜け〜る〜」
と浜路姫が唱えると、太郎は何だろうかと首を傾げた。太郎はこれを初めて耳にしたものだから、黙れと言われた手前、聞きたくてうずうずしていた。その様子に乾は少し意外そうだった。
「百人一首よ」
「ははぁ……
それ習い難く忘れ易きは、音声の浮才。また学び易く忘れ難きは、書筆の博芸。
と申しまして、百人一首はからきしですな」
「あら、松蔭の和歌は暗唱するのに意外……」
「あれは座右の銘である」
「まあ、あれは有名だからね。あんたもやってみる? 百人一首」
太郎は少し考え倦ねた。
「何故に百人一首を?」
「古語の勉強になるのよ。あとは一つの歌の長さが短いのと、リズム決まってるから音読に適してるのよ。正直、日本語って古語から勉強しておけば現代語訳が楽なのよ。
因みにさっきの歌、意味解る?」
「かささぎは鳥の事である。かささぎと橋といえば、天の川の事であろう。ただ、霜は秋から冬の頃であったかと思うのである。七夕が七月であれば、霜が同居するのは変な気がするのである。であればこの霜は、七夕の歌にある『金銀砂子』の様な喩えではなかろうか……霜のように多くの星が空に瞬いているのを見て、夜も更けてきたという意味ではなかろうか……」
太郎の説明に乾は何とも感情の掴めない表情をして太郎の頭を軽く叩いた。
「いや、大体合ってるんだけど、冬の歌なんだ」
「ほほぅ……中々難しいですなぁ
置く霜の白きを見ればが季節を表していたのでしたら、鵲の橋=天の川=夏と思い込んでしまったのが間違いだったのであろう」
太郎が頭を掻き毟りながら言うと、まだまだ子供だなぁと言いたげに乾がにやりと笑った。
「天の川は、秋の季語だ」
そう言われ、太郎は眉根を寄せた。
「確かにここいらでも旧暦の八月が七夕である。八月は暦の上では初秋。秋から冬にかけての歌であったのであるな。冬であるのに雪ではなく霜なのもそういう理由であるか。何とも……」
頭をフル回転させなければ解けない問題を出された気分で、何とも楽しい。
「滋味深い」
「小一からそれを聞くとは思わなかった」
「浜路姫が羨ましいのである」
浜路姫がぼんやりとしているのを見て太郎が声をかけると、浜路姫は首を傾げた。
「この縁を引き当てる事が出来たのは日頃の行いの良さであろう。手前は乾殿に以前からお会いしておったのに、今までこんな楽しいものがあることを教えて頂けなかった。それは手前の不徳の致すところである。相手の良い所を引き出す。それが浜路姫の良さである」
何となく褒められたのだと理解して浜路姫は照れたように頬を赤らめた。
「太郎ちゃんとお姉さんは、前からお知り合いなの?」
「うむ、初恋である」
太郎がそう言うと、乾と浜路姫は一瞬固まった。
「おい、それは……」
乾は浜路姫が太郎に気があると解っていたので、それを言うのは無神経……否、子供らしいと言うべきか……と困惑したが、浜路姫は目を輝かせた。
「解る! うららもお姉さんが初恋!」
浜路姫がそう言い出すと、乾は思わず突っ伏した。
「そうであろう? このように出来た女子は中々稀に見るのである」
「そうなの! 学校の先生とかお母さんとか友達とは違って、なんて言うのかな……心が近いって言うか、皆向かい合わせで距離があるのに、直ぐ隣にいてくれるみたいな……きっとこれが初恋!」
それは初恋とは言わない……と乾が言おうとすると、浜路姫はスカートのポケットからポケットティッシュを取り出した。
「これね、お姉さんが作ってくれたの。うららがハンカチとティッシュを忘れちゃうって言ったら、タオルでポケットティッシュ入れ作ってくれたの。これね、後ろにハンカチを入れるポケットも付いてるの。五つもよ。うらら嬉しかった」
「いや、そんなの誰でも……」
「誰もしてくれなかったもん!」
乾の言葉を浜路姫が遮ると、乾は嘆息した。
「それは、お母さんが忙しいからで……」
「お姉さんだって忙しいでしょ? それなのに、うららの為に時間を使ってくれた事が嬉しいの! 太郎ちゃんも、私の為にメモ帳に紐付けて、首にかけて、いつでも見れるようにしたらいいって、考えて作ってくれたの。私も、他の友達もみんな思いつかなかったのに、すごいよね!」
太郎はそれを聞いて鼻が高かったが、乾は知恵の回らないなんとも哀れな娘に思えた。
周りに恵まれ無かった為に、自分一人ではどうする事も出来ずに藻掻いていたのだろう。だから、少しこちらが知恵を授けてやればものすごい事をしてもらったと感動するのだ。ある意味、天性の感覚ではある。これが、周りになんでもしてもらって当たり前。などという考えの子供であれば、手のつけようが無いのだが、良い意味で素直な馬鹿なのだと乾は思った。
「有り難いのである」
太郎の言葉に直ぐ、仏の言葉だと乾は理解した。
「阿僧祇の星の中からこの地球という星の、日本と言う国に、同じ時代に、同じ時を過ごす事が出来ると言うのはそれこそ奇跡である。そしてその奇跡の中で、誰かに知恵を授けたり、布施をするのはとても尊い事である。そしてその他人から与えられた知恵を大事に使い、また次へ活かせるのは大変な才能である。
手前がこうすればどうであろう? と知恵を授けた所で、それに耳を傾けない者では、手前の知恵の本領は発揮されないのである。であるから、浜路姫は観音様の化身のようである」
太郎の話に乾は自分の考えを改める事にした。この二人はとても賢い子供達なのだと思った。
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