第15話 耳
本が読みたい……
乾はそう考えながらも、自分を奮い立たせていた。いつもなら仕事を終え、真っ直ぐ家に帰って読書……もしくは本屋に立ち寄って欲しい本を物色してから帰宅するのがいつもの流れなのだが、どういうわけか今日は人伝に聞いたアパートの前に来ていた。
話せば長くなるのだが、太郎のせいである。
太郎にお見合いだのとお巡りさんを紹介され、そこで本の話しで盛り上がると、そこから本好きの老人を紹介され、あれよあれよと噂が広がり、どういうわけか小学生の子守をお願いされるという謎な現象が起きていた。
今まで生きていてこんなことは初めてだ。
まあ一時間だけだし、小遣い程度にお金を貰えるし、一度会ってみてどうしても嫌だったら断ってもらって構わない。とも言われているので、取り敢えず来てはみたのだ。
乾が呼び鈴を鳴らすと、ドアが開いて女の子が顔を出した。不思議そうな顔をする女の子に、乾は屈み込んで視線を合わせた。
「こんばんは」
「……こんばんは」
戸惑いながらもちゃんと挨拶が出来るので少しだけ安心した。これが挨拶の一つも出来ないクソガキとなると手に負えない。
「お母さんにお願いされてきたんだけど、浜路 うららちゃんかな?」
女の子は不思議そうな顔をして頷いた。首に小さなメモ帳をぶら下げている。そこに『たろうちゃんのかさ』と書いてあるのが目についた。玄関の傘立てに『木曽根』に二重線が引かれた横に『山田』と書き直された黄色い傘を見て、太郎の顔が浮かんだ。
「太郎に傘を貸して貰ったの?」
何気なく聞いたつもりだったのだが、浜路は何だか神妙そうな顔をしていた。
「お姉さんは太郎ちゃんのこと、知ってるの?」
「知ってるも何も、ここに来たのはそもそもあの子のせいだし……」
浜路は少し首を傾げたが、それを聞いて悪い人では無いのだろうと安心した様だった。
「うららね、学校に傘が無くて、家に忘れたんだと思ったの。太郎ちゃんが、傘を貸してくれて、家に帰ったら、うららの傘が無くて、うらら……自分の傘、何処かに無くしちゃったみたいなの」
それを聞いて乾は少しばかり中空を眺めた。少々音量が小さいが、勉強の出来ない娘だと聞いていたのにちゃんと日本語を喋っていると思った。
要するに、この子は今、自分が傘を失くしてしまったばかりに、太郎に迷惑をかけてしまったと言いたいのだ。
「そう……大丈夫よ。あの子は器がでかいから、さ、取り敢えず宿題を見ても良い?」
乾はそう言って家に上がった。
乾はうららの散らかった部屋を一緒に片付け始めた。クレヨンや色鉛筆、カラーペンが散らばっている。画用紙や折り紙を分け、やっと小綺麗にし終わり、うららのノートを見た。まるで蚯蚓の這った様な大小様々な殴り書きに乾は目を瞬かせた。ギリギリ読めなくも無いが、鏡文字や逆さまになっている文字もある。
「音読してみよっか」
乾が国語の教科書を取り出すと、うららは少ししょんぼりした様な顔をした。
五文字読んだ所で言葉に詰まるのだ。
乾は教科書を取り上げると、うららの手を引いて外へ出た。
「私の言う事を真似してみてくれる?」
乾がそう言って河原に行くと、うららは首を傾げた。河を挟んだ向こうは田畑が並んでいる。その奥に山々が広がっていた。
浜路 うららの母が家に帰ると、うららが既に寝ているのを聞いて驚いていた。母の帰りを待っていた乾は、読んでいた単行本を仕舞うと、軽く頭を下げた。
「どうでしたか?」
恐る恐る乾に問うた。乾は微笑したが、直ぐに気持ちの読めない表情になった。
「この家にはラジカセが無いんですね」
「すみません、マンションなので、音の出るものはうららに与えて無いんです」
「お母さん、読み聞かせをした事は?」
聞かれて俯いた。
「お恥ずかしながら……中々忙しくて……壁が薄くて隣から苦情も来ますし……」
「赤ん坊の頃、あまり泣かなくて手のかからない育てやすい子でしたか?」
母親はこくりと頷いた。
「サイレントベビーですね」
聞き馴染みの無い言葉に母親は困惑の表情を見せた。
「耳が出来て無いんですよ。赤ちゃんの頃から日本語を聞き慣れて無いから他人の言っていることが理解し辛い。半分理解出来ても半分理解出来てないから記憶に残らない。文字と言葉の音が一致しないから文字が読めない」
なんとなく自分が責められている気分になって来た。
「一週間」
乾が人差し指を立てて呟いた。
「今なら一週間で、同学年に追いつきます」
乾の言っている意味が解らなかった。三文字だって連続で文字が読めない、授業についていけていないあの子が、たった一週間で他の子に追い付くとは思えなかった。
「ただ、最初に言いました様に、私は教員免許を持っているわけでも無ければ、塾の講師をした経験もありません。それで良ければ私に任せて頂けないでしょうか?」
それは重々承知だった。ただ、人伝に聞いた話では良く出来たお嬢さんだった。頭も良く、見識の広さは唯ならない。彼女と話しをした老人全員が、よく物を知っている人だと太鼓判を押した。だから、頼んでみようと思ったのだ。
「こちらこそ、うららをお願いします」
母親が深々と頭を下げると、乾は会釈して出て行った。
太郎と蓮が寺橋の上で待っていると、黄色い傘を持った浜路が駆けて来た。浜路は満面の笑みを浮かべて太郎の前に止まるが、中々言葉が出て来ない。太郎はそんな浜路から言葉が出てくるのを待っていたが、俯いてしまった浜路に声をかけた。
「思いついた言葉を、そのまま言ったので良いのである」
太郎に言われ、浜路は顔を上げた。
「ありがとう……傘、貸してくれて、返すね」
「うむ。よくできました」
太郎は浜路から傘を受け取ると、頭をそっと撫でた。浜路はなんだか嬉しくて頬が赤くなる。ちゃんと忘れずに太郎に傘を返す事が出来て良かったと思った。
「それは何?」
蓮が浜路の首から下げているメモ帳を指し示した。浜路はそのメモ帳に大きく書かれた『い』の文字を見つめる。
「えっと……お姉さんが、この文字の入っている言葉を集めておいでって言ったの。『いし』とか『いか』とか……」
「ほほう……それは楽しそうである」
太郎は満面の笑みを浮かべた。蓮も頭の中で思いつくものを言ってみる。
「い……『いす』とか『いわ』とか? あとは『いきもの』、『いるか』」
浜路も考えながら不意に太郎に今渡した傘が目についた。
「『きいろ』とか……」
浜路の呟きに蓮は鳩が豆鉄砲食らった様な顔をした。
「すごい! 僕、頭に『い』がつくものって思っちゃったけど、真ん中とか、一番後ろに『い』がついても良いんだね! それに気付けるって、うららちゃん凄いよ!」
蓮が興奮して言うと、うららはそんな風に言われると想定していなかったものだから驚きと、恥ずかしさと、嬉しさでなんだか変な気分だった。
「そんなことないよ……蓮くんは沢山思いつくのすごいね」
浜路はそう言って、太郎を見つめた。
「うむ。二人共大変よく出来ておるのである」
満面の笑みを浮かべる太郎に蓮は少し首を傾げた。
「太郎くんも『い』のつくもの言ってよ」
「いや〜手前も参加して良いのであろうか……
倉の内の財は朽つること有り。身の内の才は朽つること無し。千両の黄金を積むと雖も、一日の学にはしかず。
石の上にも三年。
犬も歩けば棒に当たる。
一朝一夕。
伊藤博文。
斎藤茂吉。
平賀源内……」
蓮はそれを聞いて、成る程、物の名前だけでなくても良いのか……と思ったが、なんだかずるの様な気もした。
「犬も歩けば棒に当たるって何?」
多分、言葉だけ知っているだけだろうと思ったのだが、太郎はにやりと笑った。
「数やるうちには良いことにも悪いこともに行きあたる。という意味である」
蓮はそれを聞いて、聞くんじゃ無かったと思った。そう言われても、自分はそもそもそんな言葉も知らないので、答え合わせのしようが無いのだ。だから、太郎が知ったかぶりをしていたとしても解らない。
「太郎ちゃん凄いねぇ。何処でそんなに覚えたの?」
「勿論、時代劇である」
でしょうなぁ……と思いつつも、やっぱりすごいなと思った。
「平賀源内は発明家である。エレキテルを作り、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチとも呼ばれているのである。レオナルド・ダ・ヴィンチと言えばあの名画、モナ・リザや最後の晩餐が有名である……」
延々と喋る太郎に、蓮は話しを振るべきでは無かったと後悔した。太郎の演説が学校へ着くまで続く事は想像に難くなかった。
真鍋 里奈は黙ってうららの傘を傘置き場に戻した。なんだかんだで気付けば一週間も借りっぱなしにしていた。まあうららの方も案の定貸したことすら忘れている。阿呆な子だと思う。不意に玄関の掲示板に近所の老人からの手紙が張り出されていた。六年生が老人ホームへ社会勉強へ行った時のお礼の手紙らしかった。よく解らなかったが、自分が知っている漢字が目に入って少し笑った。
「田中 いち、に、さん、さんだって、変な名前〜」
「それ、ひふみって読むんだよ」
急にいつの間にか傍に居たうららに言われて驚いた。
「は? 一二三(いちにさん)で、ひふみ? 何それ、そんな読み方するわけ無いじゃない」
うららは微笑しただけでそれ以上何も言わなかった。どうせ知ったかぶりをしたので、言い返す言葉が無いのだろう。丁度担任の新名先生が通りかかったから里奈は先生を捕まえて掲示板を指し示した。
「先生! うららちゃんが、あの一二三って書いてあるのを、ひふみって読むなんて嘘つくんですよ!?」
里奈の言葉に、先生は掲示板を一瞥してから二人を交互に見た。
「浜路さん、凄いわね。正解よ。真鍋さん、一年生ではまだ習わないけれど、一二三と書いて『ひふみ』と読むのよ。人の名前って読み間違えると相手に失礼だから、気を付けましょうね」
先生がそう言って行ってしまうと、里奈は眉根を寄せ、不満そうな顔をした。
「何よ。うららちゃんの癖に!」
それからじわじわとうららがテストの点数を取っていくのを目の当たりにして何だか嫌な気分だった。あの子には自分よりも馬鹿でいてほしい。今まで通り、のろまで何も出来ない阿呆でいてほしい。それなのに、文章題で躓いている自分を追い越された時、とても惨めな気持ちになっていた。
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