第14話 修行
雨が降っていた。浜路がぼんやりと重い灰色の雲を見上げている。玄関に傘が無かったので、また家に忘れてしまったのだろう。そのうち止むだろうかと眺めながら、何故また忘れてしまったのかと自暴自棄に陥った。
駄目だなぁ、自分は……どうしてこうもっと、他の子みたいに要領良く生きられないのかと自分で自分が嫌になる。
脳裏にふと誰かの声が響いた。
「返してよ!」
あれはいつの事だっただろうかと首をもたげた。
「私のクレヨン返してよ! さっき貸したじゃない!」「嘘つき!」「バカ!」「もううららちゃんと遊んであげない!」
どうしてこうも、嫌な事は覚えているのだろうかと悔しくなる。どうせなら楽しかった思い出を忘れないでいられれば良いのに……
雨のせいもあってか鬱々していると、不意に窓の外に太郎の姿を見つけた。ぶつぶつと何か呟きながら、雨垂れの下で座禅を組んでいる。
「太郎ちゃん、何してるの?」
この雨の中、傘もささずにびしょ濡れになっている太郎に声をかけた。この子はちょっと頭のおかしな……否、自分が言える立場ではないが、少し変わった子であった。
太郎は飛び上がるように立ち上がると、窓辺に居る浜路に近寄った。
「この太郎ともあろうものが、人様に罵詈雑言を浴びせてしまったので、修行のし直しをしている所である」
「ふ〜ん……ばりぞーごん? ……って何?」
「悪口のことである。ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫かぶりの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴が! と、怒鳴り散らしてしまったのである」
「ん〜……モモンガは可愛いよ?」
一体どのあたりが悪口なのか浜路には解らなかった。バカやアホなら何度も言われた気がするが、モモンガは言われた事が無いと思う。
「太郎ちゃん良い子だから、きっと神様が許してくれるよ」
ただ単に、悪口を言ってしまったことを後悔しているのだと思う。悪口なんて大抵、言った本人は忘れてしまうものなのに、律儀な子だなぁと感心してしまう。自分だったら、誰に何故悪口を言ったかさえ覚えていない。
「そうか。神様が許して下さるか」
太郎がにかっと笑うと、浜路もつられて笑った。
「けれども、この体たらくで家に帰っては鈴様に怒られてしまうのぅ……何方か、太郎の置き傘を使って下さる心優しい姫君はおられぬか……」
浜路は首を傾げ、教室の中を見回したがもう誰もいなかった。
「太郎ちゃんがさして帰ったら?」
「こんなにびしょ濡れなのに傘なんぞさして帰ったら、何をしていたのかと問い詰められてしまうのである。そうなると、人様に罵詈雑言を浴びせた件まで説明せねばならぬ。手前の恥である」
浜路は首をもたげ、ゆっくりと太郎を見つめた。
「太郎ちゃん、風邪ひくよ?」
「心配には及ばぬ。体だけは丈夫に出来ているのである」
浜路はひょいと空を見上げてまた太郎を見つめた。どうやら太郎は傘を貸してくれるらしい。
「……太郎ちゃんは優しいのね」
「滅相もない」
「太郎ちゃん、うららね。太郎ちゃんの傘を借りて帰ったら、きっと返すのを忘れちゃう。太郎ちゃんに借りたこともきっと忘れちゃう。そしたら太郎ちゃん、折角傘を貸してあげたのにって怒って、もううららとお話ししてくれないでしょう? だからね、うららは傘は要らないの。太郎ちゃんが仲良くしてくれるだけで良いの」
太郎が驚いた様な顔をしたが、直ぐに笑顔に戻った。
「何を言う。拙者は修行の身である。浜路姫に傘を布施するチャンスを喜ぶことはあっても、見返りなぞ畏れ多い。忘れてしまっても問題ない。太郎めが、浜路姫の良い所を覚えておる」
「うららの良いところ?」
そんなものは無いと思っていた。トロいし、何でも直ぐ忘れちゃうし、周りに迷惑ばかりかけていると思う。
「うむ。ちゃんと毎日学校へ来ておる。人と会えば挨拶が出来る。笑顔も大変可愛らしい。黒板消しが一等上手である。それから……」
太郎は淀みなく淡々と話していたが、不意に表情が悲しげに曇った。
「……何か貸してほしいと言えば、快く貸してくれる」
浜路は首を傾げた。太郎に何か貸したのだろうかと考えたが、思い出せない。
「どうであろう? この太郎めに、功徳を積む手助けをしてはいただけまいか?」
太郎の申し出に浜路はゆっくりと頷いた。
黄色い傘をさした浜路の後ろ姿を見送ると、太郎は満足そうに笑っていた。蓮がひょっこり靴箱の裏から出て来ると、傘を太郎にさしかけた。
「本当の事、ちゃんと言った方が良いんじゃない? でも、忘れちゃうのかな……」
蓮はついさっきの事を思い出しながら言った。
「浜路姫の気持ちを尊重したいのである」
気持ち……蓮にはよく解らなかった。帰り際、玄関で真鍋さんが傘を忘れたので、浜路に傘を貸してくれと言っていた。浜路はなんの躊躇もなく「いいよ」と言って渡してしまったのだ。
それを見ていた蓮が、そんなのおかしいと抗議したのだが、
「うららちゃんが良いって言ったんだよ!」
と喚いて真鍋は他の女子と一緒に浜路の傘をさして帰ってしまった。クラスの提出物を集めて職員室へ運んでいた太郎にその話しをすると、太郎は血相変えて真鍋を追いかけた。傘もささず、嵐の中を走ったのだ。浜路の為、真鍋の奸佞邪知を打ち破るために走ったのだ。走らなければならぬ。
けれども途中で太郎の足が止まった。
浜路は、相手の悪意になどこれっぽっちも気付かなかったのだろう。傘が無くて困っている人に、善意で貸してやった。そうに違いない。彼女は真面目で優しい良い子である。相手がいつも自分に意地悪をして、自分を貶めるような相手だなどと疑う事も知らない。その心は、自分が一生かけて修行して得なければならない悟りの境地なのではないかと太郎は思った。だから真鍋から浜路の傘を取り上げて、浜路に返した所で、それは浜路の気持ちを踏み躙る行為になりはしないかと思い直すと、おずおずと踵を返したのだ。
窓辺で物思いに耽っている浜路の顔は、他人に傘を貸してしまった後悔をしているという風では無かった。傘を貸してしまった事自体を忘れ、ただぼんやりと空を眺めていた……ーー
「蓮殿、一応言っておくのである。
悪を好む者は禍を招く。譬えば身に影の従うが如し。
と言っての、人に意地悪をする者には必ず天罰が下るのである。仏教では悪因悪果と言っての。悪い行いは必ず悪い結果を招くのである」
太郎の話に蓮は静かに頷いた。
太郎がこっそり勝手口から家に入ろうとすると、風呂上がりの鈴とばったり出くわしてしまった。鈴は太郎の姿を見るなり、さっと顔の血の気が引き、太郎はにんまりと笑顔を作った。
「ただいまでござる」
太郎の言葉が終わる前に鈴は太郎の襟首掴むと、風呂場へ放り込んだ。
「何やってるのよあんたは! 制服こんなに濡らして! うちは貧乏だから乾燥機無いのよ?!」
鈴は怒鳴りながら太郎を裸にすると、湯船へ蹴り落とした。慌てて風呂桶に制服を入れ、石鹸で洗う。
「かたじけない」
「黄色い傘あげたわよね? ボロだけど!」
「いや、これが少々理由がございまして。太鼓橋の所を通りかかりましたら工事をしておりまして。そこに札が立てかけられていたのでございます。『このはしわたるべからず』と有りましたものですから、太郎めは端を渡らず、真ん中を渡りました所、そこに大きな穴が開いておりまして、あ〜れ〜と川に落ちたのでございます」
「どうせお友達に傘を貸しちゃったんでしょ? バカじゃないの?」
鈴がそう言うと、太郎は少し落ち込んだ表情をした。
「鈴様はそう思われますか」
鈴は制服を洗いながら太郎の様子を横目で見た。
「人は、要領良く生きることよりも、義しく生きるべきであると思うのである」
「そんな事を言ってるから損ばかりして、うちは貧乏なのよ!」
太郎は共感してくれるものと思っていたのに、思わぬ鈴の反応に驚き、頭を悩ませた。
「手前は良い事をしたのである」
「いっちゃん! 仏の教えだけではやってけないわよ!」
太郎は悩ましげに首を傾げた。
「太郎めは、地獄へ落ちるのが恐ろしくて傘を人に布施したのでは決して無いのである」
鈴は太郎の性格をよく知っているつもりだった。実直で真面目で馬鹿である。だから地獄の閻魔様が怖くて良いことをしたわけではなく、本当に心の底から相手を哀れに思い、慈悲をかけたのだろうと言うのは想像に難くない。けれどもこのままでは、周りに『都合のいい人』として詐取されているのではないかと心配になった。
「いっちゃん、他人の事よりも、自分の事を大事にしなさい!」
太郎は眉間に皺を寄せたが、直ぐににやりと笑った。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
と言っての……」
何かよく解らない歌が出て鈴はうんざりした。多分、死んでも自分を曲げるつもりは無いと言いたいのだろう。
「もう知らない!」
太郎に制服を投げつけると、鈴は風呂場から出て行った。太郎は鈴の言った事と、浜路の事を考えながら、自分のしたことは正解だったのだろうかと自問自答していた。
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