第13話 掃除
太郎は激怒した。蓮は何故、太郎が急に怒ったのか解らなかった。休み時間に急に立ち上がるなり、教室の隅でお喋りをしていた女子三人に詰め寄ったのである。
「おうおう、随分言ってくれるじゃねぇか!」
蓮は訳が解らなくて太郎の腕を掴んだ。
「えっえ? 何?」
「この背中に咲いた桜吹雪が手前らの悪事をちゃーんとお見通しなんでえ!」
太郎の言葉で、蓮は太郎の背中を見たが、桜吹雪など見当たらない。窓の外も見たが、もう桜は散って青葉が茂っていた。多分、また時代劇か何かの台詞なのだろう。
「だって、絶対そうだもん!」
気の強そうな女の子、真鍋 里奈が声を上げた。「そーよそーよ!」「絶対あの子に決まってる!」と、他の二人も便乗して声を上げる。蓮には何の事だかさっぱり解らなかった。
「あの……どうしたの?」
「里奈ちゃんの財布が無くなったの。絶対、隣の席のうららちゃんが取ったんだよ!」
里奈の隣に居た金山 晴香が話すと、太郎は眉間に皺を寄せた。
「じゃかましいやい!! そうかい、そんなに言うんなら、それを見た奴でも居るってのかい?!」
女子三人は一瞬口籠った。
「けど、絶対うららちゃんだよ!」
溝端 雪が口を尖らせると、太郎は雪を睨んだ。
「やかましい! この……ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫かぶりの、香具師の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴が!」
太郎の言葉に、その場に居た全員がしーんと静まり返った。多分、悪口だとは思うのだが、如何せん意味が解らなくて蓮は首をもたげた。ただ不意に、猫とモモンガと犬の愛らしい顔がひょっこり浮かんで、ハイカラなんて言葉も出て来たし、実は褒め言葉を並べただけで、悪口ではないのかもしれないと不思議な気持ちになった。
「えと……勘違いか何かじゃないかな?」
「絶対そうよ! 前に私が貸した鉛筆も返してって言ったら、借りたっけ? ってはぐらかしたし!」
晴香がそう言うと、蓮は浜路が少し頭の足りない娘であることを知っていたので、悪気があったわけでは無いと思った。
「それとこれとは話しが別である」
おお、いつもの話し方に戻って来たと蓮は少し安心した。どうやら頭に上った血が下がったらしい。
「そもそも、学校に財布なんぞと勉強に関係のないものを持ってくるのが間違っているのである。その上それが無くなったからと言って、他人のせいにするなど言語道断」
「だから! 絶対うららちゃんに決まってるじゃない! それとも何? 私が嘘ついてるって言うの?! 私のパパは議員さんなのよ?」
それ、関係無い……と蓮は思ったが、成る程、親の七光りとはこのことか。としげしげと見た。
「君子は智者を愛し、小人は福人を愛する。
と申しての、器の小さい者ほどお金持ちや権力に群がるのである。蓮殿はあの赤シャツや、野だいこの様になってはいかん」
蓮は太郎が何の話しをしているのか全く解らなかった。それは勿論、相手の女子三人も同じである。ただ、蓮はこの赤シャツという言葉に聞き覚えがあった。いつだったか、母が好きなアイドルが、何かのドラマの主人公をやっていて、そのドラマに赤シャツと呼ばれる男が出ていた気がする。そのDVDを、こないだ母が観ていた。
「それに、無投票で議員になっても偉くは無いのである。議員になって、そちの父は一体何を成したのであるか? 国の為に仁義を尽くしたのであるか? え? 試しに言うてみよ」
里奈はきーと歯軋りして癇癪を起こしていた。蓮は先生を呼んで来ようと教室を出ると、ひょいと廊下の流し台の下に青い小さな丸財布が目に入った。
「ねえ、真鍋さんの財布って、もしかしてあれ?」
蓮が指し示すと、女子三人と太郎は廊下を見やった。流し台の下に、財布が落ちている。里奈は駆け寄って引っ手繰るように取ると、きっと太郎を睨んだ。
「私が悪いんじゃないもん! 絶対うららちゃんが……」
「まだ言うかこの痴れ者め!」
蓮はそっと太郎の肩を叩いた。
「まあまあ、見つかったんだから良いんじゃない?」
多分、盛大に他人のせいにしていたものだから、里奈は引っ込みがつかなくなっているのだろうと思う。
「良くはない! 浜路姫の名誉を傷付けられたのである! この責任は重い! 市中引き回しに処すべきである!」
蓮は頭の中で、シチューに煮込まれる女子三人を想像した。太郎はなんて恐ろしい罰を与えようとしているんだと身震いする。きっと熱くて火傷をしてしまうし、何より折角のシチューが台無しである。
「食べ物を粗末にしたら駄目だよ?」
「晩飯の話なんぞしておらん」
成る程、であれば、重いシチュー鍋を三人で運べという刑なのだと蓮は思った。それならばまあ煮込まれるよりはずっとましだろう。けれども女子に重いものを持たせるのは、相手が悪いとはいえ、どうだろう……
蓮は自分の席でぼーとしている浜路に声をかけると、浜路を女子三人の前に連れて来た。里奈がきっと睨んだので、元々、浜路の事を良く思っていないのだろう。
「真鍋さん、浜路さんに謝って。太郎もそれで良いでしょう?」
「はあ? 何で里奈ちゃんが謝らなきゃならないの?!」「意味解んない!」
晴香と雪が喚くと、太郎が二人を睨んだ。
「別にうららちゃんに迷惑かけたわけじゃないじゃない!」
里奈もそんな事を言い出したものだから太郎の顔が閻魔の様になっていた。
「こんのっ」
「ねえねえ太郎ちゃん」
急に浜路が太郎の手を握った。
「何だっけ、あれ。また忘れちゃった。お掃除の話し。メモとるからもっかい教えてくれる?」
蓮は浜路が、事の次第を理解していないのだと思った。
「うららちゃん、真鍋さんがね。財布を無くして、うららちゃんが取ったって言ってたんだよ。なのに、財布は廊下の流し台の下に落ちてたんだ。だから、真鍋さんに謝ってもらおう」
「え、そうなの?」
浜路がゆっくりと女子三人を其々見つめた。
「真鍋さんって誰?」
浜路がそう言うと、里奈は顔を真っ赤にしていた。
「ちょっと! 席隣じゃない! 議員の娘の私の顔が解らないって言うの?!」
「ん……ごめん……なさい」
「何なのこの子! 頭おかしいんじゃないの?! 保育園から一緒なのに覚えてないとか意味解んない! バカにしてんの?! ふざけてるの?! きー腹立つ!!」
里奈がかな切り声を上げると、成る程、それで苛々しているのだと蓮は思った。
「えと……それで、何だっけ? 何してたのかな?」
浜路が蓮と太郎の顔を交互に見るが、蓮も流石にもう説明するのが面倒臭くなっていた。
「うららちゃん! 私の鉛筆返してよ!」
晴香が声を上げると、浜路は首を傾げた。
「どんな鉛筆?」
「ハートとリボンの絵がついたピンクの鉛筆! こないだ貸したのに返してくれなかったじゃない!」
蓮はそれを聞いて、見覚えがあると思った。教室の隅の落とし物ボックスを覗くと、同じ鉛筆が一本入っている。蓮がそれを晴香に差し出すと、晴香はバツの悪そうな顔をして受け取った。
「見つかってよかったね」
浜路の言葉に女子三人は其々に視線を交わした。
「チリをはらい、あかを……なんだったかな? 太郎ちゃん、うららのメモ帳に書いてくれる? うらら、平仮名逆さまになっちゃうから……お願いしてもいいかな?」
うららが首から下げたメモ帳には、鏡文字や、崩れた文字が大小様々に書かれていた。
太郎はそれを見やると、三人の女子を見据えた。
「周梨槃特の掃除の話は、悪い心を掃除する話しである。浜路姫はその点、掃除の行き届いたとても出来た娘である。親が偉いからとか、勉強が出来るからとか、記憶力が良いだけで、間違っても他人に頭を下げて謝れない。他人を貶めるような悪口しか言えない。其のような心の掃除の行き届いていない者の方が愚かである」
太郎はそう言うと、浜路と蓮の手を取って三人から離れた。里奈達は何も言わず、ただただお互いの顔を見合うばかりであった。
「……それで、一時間目の授業が中断されたのかね?」
職員室に佐藤先生の声が響いた。佐藤先生は三年生と体育を担当している。その佐藤先生が偶々、今朝の騒ぎを耳にして話しを聞きに来たのだ。太郎の担任の先生は少し考えてから口を開いた。
「これが中々楽しい話しだったんですよ。佐藤先生も一度、山田くんの説法をお聞きになっては如何でしょう?」
「授業中にすることではないね」
チクリと嫌味を言われたが、先生はそれ以上何も言わなかった。その様子が少々気に触ったらしい。
「大体、今時説法なんて古臭い。そんなことより、計画通りに授業を進めるのが先生の本来の役目でしょう」
これにも、反論しなかった。佐藤先生が苛々していると、校長先生が職員室へ入って来てこちらを見た。
「新名先生、一年生が一生懸命掃除をしとりますな。何かあったのですか?」
それを聞いて佐藤は時計を確認した。今は丁度、掃除の時間だ。もうそろそろ終わりのチャイムが鳴る。
「今日の一時間目に、山田くんが周梨槃特の説法をしてくれたんです。それでみんな、面白がっているのでしょう」
佐藤には、この周梨槃特の意味が解らなかった。けれども校長はその話しを知っていたらしい。掃除が終わるチャイムが鳴り終わると、校長は口を開いた。
「成る程、それでみんな、『塵を払い、垢を除かん』と、口々に言っていたのだね」
「最近流行りのゲームにチリという名の登場人物が出るらしくて、それもあって、面白がっているみたいです」
「子供は、何でも紐付けするのが得意だね」
校長が深く頷きながら言うと、佐藤は口をへの字に曲げた。
「勉強の方が大事でしょう」
「正にその通りである」
急に何処かから太郎の声がして先生達は周りを見回した。急に机の影からひょっこりと太郎が顔を出すと、校長も佐藤も驚いている。
「誠に今朝は申し訳ございませんでした。遅刻してしまったばかりか、先生の大切な授業の時間を潰してしまい、否、止めて頂けるものと思っておりましたものの、お止め頂きませんでしたので、あれよあれよと祖父直伝の説法を……
かるが故に書を読んで倦むことなかれ。学問に怠る時なかれ。眠りを除いて通夜に誦せよ。飢えを忍んで終日習え。
とあります様に、休み時間ならまだしも、授業を中断させるなんぞ言語道断。しかしこれには事情がございます」
太郎の話しを聞きながら
長い……
と佐藤は呆れていた。
「いくら学問に励んでも『道』を体得出来なければ、それは学問とは言えないのである」
太郎の言葉に佐藤は首を傾げたが、校長は頷いた。
「吉田松陰の言葉か。徳を養わずに学問に打ち込むだけでは不足であると孔子も言っていたそうな」
「左様。掃除や手伝いは人の心を理解する大事な作法である。それを無闇矢鱈に人に言われたからと嫌嫌やるのと、理由を知って作業に挑むのとは訳が違うのである。後者の方が伸びが良いのは明白である。であるのに、掃除の時間だからとか、決まった事だからと言ってやらせるのは違うと常日頃思っておったのである。決して、先生の授業の妨げをするつもりは露ほども無かったのである」
連連と淀みなく話す姿に、一年生ではなく、何処かの坊さんの話しを聞いている様な錯覚に陥った。校長はにこにこしながら
「そうかい。大丈夫。誰も怒っておらんよ。さ、教室へ戻りなさい」
そう言うと、太郎は深々と頭を下げて出て行った。それを見送ると、校長は佐藤先生と新名先生を交互に見た。
「賢い子だね」
「お寺で育ったそうです」
「ああ、成る程。新名先生、今日の一時間目は道徳の授業でしたね」
そう言われ、「いえ、算数でした」と喉まで出かかったのを押し留めた。
「……はい」
佐藤はそれを聞いて新名先生を訝しく見た。
「まあ、そういうことだから、佐藤先生、あまり新任の先生に厳しく当たらないでやってください」
校長がそう言うと、佐藤先生は不服そうな顔をしていたが、それ以上嫌味を言って来なかった。
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