第12話 忘れ物

 浜路はぼーと空を眺めていた。特に何か考えている事はない。視界の右から左へ流れていく雲を見送っていた。

「おや、姫、どうなされた?」

 不意に声を掛けられ、視線をゆっくりと空から下ろした。白い校舎を背景に、男の子が二人、不思議そうにこっちを見ている。校庭を挟んだ垣根の隅っこに蹲った浜路は、自分は何をしていたのかなと考えながらゆっくりと瞬きをした。そして不意に、今日はお弁当の日だというのを忘れていて、お昼に皆がそれぞれ弁当を持ち寄っているのがなんだか悔しくて、自分が情けなくて、教室に居辛くなって出て来たのである。

「お昼は食べたのであるか?」

 首を横に振ってから、しまったと思った。相手はどう思うだろう? 鈍臭い娘だと思わないだろうか? 自分の弁当さえ忘れてしまう阿呆な子だと思われるだろう。

「では、拙者のおむすびを一つ差し上げるのである」

 男の子が、そう言って隣にしゃがみ込むと、タッパーに入っていた二つのおにぎりのうち、一つを取り出して差し出した。

 え、なんで?

「くれるの?」

「うむ。共に食べようではないか」

 男の子がにやりと笑うと、もう一人の男の子も浜路の隣に腰掛けて弁当を開いた。

「じゃあ僕、卵焼きあげるよ」

 お弁当箱の蓋に卵焼きを一つのせて差し出されると、なんだか嬉しくて涙が出て来た。

「ありがとう……」

 浜路は貰ったおむすびを食べると、美味しくてあっという間に食べてしまった。

「お弁当を忘れてしまったのであるか?」

 聞かれて不意に、この子誰だっけ? と思った。多分、向こうから話しかけて来たと言うことは、前に何処かで会ったのだろう。学校でかな? 保育園のお友達かな? と自分の拙い記憶を探る。

 そのぼーとした様子に、男の子二人は不思議そうに顔を見合わせた。

「深山くんもお弁当忘れたからって先生に家に電話してもらってたよ」

 それを聞いて成る程と思った。自分はどうすれば良いのか解らなかったが、そうか先生に言えば良かったのか……

「浜路姫」

 そう言われてやっと、聞き覚えがあると思った。そうそう、私のことを浜路姫と呼ぶ面白い子が居た……が、名前を忘れてしまった。

「ごめんなさい。名前……何だったかな?」

「太郎である」

 浜路姫は頭の中で繰り返すが、この名前に聞き覚えが無い。

「僕は門谷 蓮だよ」

 これまた記憶に無い。浜路は少し困ってしまった。

「えと……浜路 うららです」

 そう言って、二人の様子を伺った。多分、「女なのに浜路〜?」とか「うららってなんかペットみたいな名前だね。キラキラネーム?」と言われるのを想像した。大抵いつもそうだった。嫌な思い出はわりと覚えている。

「うむ、とても良い名前である」

 浜路は意外な言葉にゆっくりと瞬きした。何だか恥ずかしくなって頬が赤くなる。

「そうかな……えと……」

 今、名前を聞いた筈なのに、もう目の前の二人の名前を忘れてしまった。

「太郎である。桃太郎の太郎。こちらは蓮。蓮の花の蓮である」

 浜路の頭の中に昔話に出て来る桃太郎と蓮の花が浮かぶ。

「太郎くんと、蓮くん……」

 其々を交互に見ながら呟くと、太郎は満足そうに頷いた。

「そうである。何か自分が知っているものと関連付けると覚えやすいのである」

 成る程……そうやって皆は覚えるのか……

「すごいね。私……直ぐ忘れちゃうから……お友達の名前とか、お弁当の日の事とか、粘土セットとか……」

 自分で言っていて情けなくて涙が出て来た。皆は普通に出来ているのに、どうしてこんなに自分は駄目な人間なんだろうかと思う。

「浜路姫、これはチャンスでありますぞ」

 太郎に言われ、浜路は不思議そうに顔を上げた。

「忘れるということは天から授かった才能である。嫌なことをいつまでも引きずっていては前に進めまい。けれども忘れてしまって困ったと言うことは、忘れた事を後悔しているのである。これは、忘れた事を忘れてしまっては決して出来ない事である。後悔が出来ると言うことは伸び代があるということでありますぞ!」

 傍で聞いていた蓮も、浜路も何を言っているのかよく解らなかった。

「蓮殿、ここは智恵の見せ所である。どうすれば忘れ物をしないで済むか、教室で作戦会議をするのである!」

 浜路は太郎に腕を引かれ、校庭を駆けていた。この子は不思議な子だと思った。他の友達と違って、何でそこまで出来るのだろうかと少し変な気分だった。



 朝、浜路は布団の中で目を覚まして天井を見上げた。ずるずると体を引き摺る様に部屋を出ると、仕事の為に家を出る既の母と出くわした。

「うらら、朝ご飯用意してるから、遅刻しないで学校行きなさいよ」

 それだけ言って母は家を出て行った。両親が離婚して、母とは二人暮らしだった。寂しかったが、そのうちどうでも良くなってしまった。自分以外の周りに興味がなくなった。だから先生の言う事も解らないし、友達の名前も忘れちゃう。私は空気で、周りも空気。それで良いと思う時もあるし、不意に周りと比べて自分が劣っている事が酷く悲しくて卑屈になった。

 ご飯を食べ終わって玄関へ行くと、ランドセルと粘土セットが置いてあった。お母さんが準備してくれたのかな? とランドセルを背負って靴を履く。

 ーー何か忘れている気がする。

 頭の中がもやもやして家を出た。

 昨日、何をしてたっけ? 何だったかな? 何で思い出せないのかな?

 頭の中がぐるぐるして寺橋の前で太郎が手を振っているのを見た時、やっと思い出した。

「あっ!」

 思わず、自分の胸元に手をやったが、そこにあるはずのものがない。また自分が情けなくなって立ち止まると、太郎が駆け寄って来た。

「おはようでござる」

 太郎に言われたが、心中それどころではない。

「ご……ごめ……」

「まだ授業まで時間があるのである。一緒に取りに戻ろうではないか」

 太郎にそう言われたが、もう悲しくて悔しくて涙が止まらなかった。昨日、あんなに一生懸命考えてくれたのに。

「浜路姫、泣くのは後で良い。ほれ、太郎が良い話しをしてしんぜよう」

 太郎に手を引かれて浜路は涙を拭いながら歩いた。

「お釈迦様の弟子に周梨槃特という勉強の出来ない者がおってな。字も書けなければ、自分の名前も忘れてしまう。だからお釈迦様の有り難いお話を聞いても理解できない。修行の作法も方法も覚えられなかったそうである。自分の才能の無さに絶望して去ろうとするのである」

 なんとなく、自分の事を言われている気分だった。けれども、浜路は平仮名はなんとか書けるし、自分の名前は忘れない。だから太郎が話しているその人よりは、自分はましなのだろうと漠然と思った。

「お釈迦様はそんな周梨槃特にこう言ったのである。

 自らの愚を知るものは、真の知恵者である。

 言葉を変えると、

 自分が知らないことを知っている者が本当の伸び代のある人間である。知らないことを知らないままにしていては人間の成長は止まってしまう。

 浜路姫は、今、成長の時なのである」

 家に着くと、玄関の上がり端に粘土セットが置かれたままだった。浜路は急いで自分の部屋に戻ると、枕元に置かれた紐の付いた小さなメモ帳を取り、首に掛けた。メモ帳には自分の字で、『かえったら、げんかんに、あしたのじゅんび、ねんどせっと』と書かれている。

 それでやっと昨日、自分が準備した事を思い出した。

 玄関に戻ると、太郎が満面の笑みで待っている。浜路は粘土セットの鞄を持つと、家を出た。

「因みに周梨槃特は十大弟子に数えられる程有名である。時間はかかったが、悟りに到ったのである」

 悟り……と言われても良く分からないが、楽しそうに話す太郎が何だか羨ましかった。

「太郎くんは、どうしてうららと仲良くしてくれるの?」

 浜路が聞くと、太郎は少し驚いた様な顔をした。

「友と交わりて争うことなかれ。己より兄には礼敬を尽くし、己より弟には愛顧を致せ。

 と申しての、友達とは仲良くするのは当然である」

 当然……浜路は何だか不思議な気分だった。今まで、こんな自分に仲良くしてくれた人を知らない。否、忘れているだけかも知れない……けれども今この瞬間に自分の隣に居てくれているのは太郎だけだった。だから、この子の事を今日のこの瞬間を忘れたく無いと思った。どうすれば、忘れないで済むだろう……?

「太郎くん……ありがとう」

 浜路がそう言うと、太郎はにやりと笑っていた。



 二人揃って遅刻したのは、少しまずかったかもしれないと太郎は思った。学校へ着くと、もう一時間目の授業が始まっていた。すっかり話し込みながら歩いたのがいけなかったらしい。

「どうして遅刻したの?」

 先生に問い質され、浜路は俯いていた。太郎はそれを横目に先生を見上げた。

「説法をしておったのである。お釈迦様のお弟子に周梨槃特という者がおりまして……」

 先生はそれを聞いて虚を突かれた表情になった。他のクラスメイトは太郎が何を言ったのか解らなかった。浜路も解らなかったが、自分を庇おうとしてくれているのだと思い、太郎の淀みなく喋る言葉を遮った。

「ごめんなさい。私が忘れ物をして、太郎くんが一緒に取りに帰ってくれたの」

 浜路がそう言うと、先生はほっと息を吐いていた。

「良いわ。二人共席につきなさい」

 先生がそう言うと、太郎は深く頭を下げた。

「かたじけない」

 太郎が席につくと、隣の席の深山 颯太がにやにやしながら太郎に声を掛けた。

「なんだよ二人で遅刻とか……付き合ってんの?」

「おや、女子と一緒に歩いていただけで二人の仲を疑うとは、そち、よっぽど浜路姫の事が気になると見える。名前が変だとか言っていじめて気をひこうなど言語道断である」

 太郎はそう言うと、挙手をして立ち上がった。

「先生! 颯太殿がどうしても女子とお付き合いする方法を知りたいと申しております!」

 クラスの中でどっと笑いが起こった。颯太は顔を真っ赤にして驚いている。

「こいつ……」

「好きな子に振り向いて貰いたいと思うのであれば、先ずは自らの襟を正し、誠実であることが基本でありますぞ! 決して自分に振り向いてくれないからと言って卑屈になって相手の成長の妨げをしていては、いつまで立ってもその地獄からは抜けられませんぞ! この世は八苦の海と申しまして、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病にかかる苦しみ、死ぬ苦しみ、好きな人と別れなければならない苦しみ……」

 延々と淀みなく講釈垂れている間、皆太郎の話しを聞いていた。先生も、いつ止めようかと思いながら、タダで説法が聞けるなどそう経験できるものでもない。何より、聞いていて楽しいものだから、一時間目の終わりのチャイムが鳴るまで先生は教室の様子をただ静かに眺めていた。

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