第11話 逢引き
乾家の呼び鈴が鳴ったのは、私が内村鑑三の本を読んでいる時だった。西郷隆盛の部分を読み終わった所だった。私は一冊の本を読むのが遅い。一度読んで良かったものは五回は読み返す。何年かして不意に思い出して読み返す事も多々ある。因みにこの本は、他の本で某先生が紹介していたものを図書館で借り、片っ端から読んでいる。某先生の信者で、ファンである。けれどもそれを理解してくれる男と巡り合うことが残念ながら無かった。結婚の二文字を一度も考えなかったと言えば嘘になるが、この手の本の虫みたいな女に興味を持つのはそれこそ変人くらいだろうと思っていた。
乾は玄関を開けると、制服の胸元に大きく『せきゆおう』と書かれた紙を付け、胸を張って立っている小学生に、呆れと笑いが綯い交ぜになった。
「どうした?」
「石油王になったので、逢引きの申入れに参ったのである」
逢引きがデートである事は知っていたが、小学一年生の口からそんな言葉が出て来たものだから、吹き出しそうになる。けれどもぐっと堪えた。
成る程、そう来たか……小学生相手に嘘ではないかと正論で相手を責めるのは大人気ない。ちゃんと最初にはっきりと断らなかった自分も悪い。可愛い弟の様に適当に付き合うのは……如何せん年齢が離れすぎている。
「今女は画れり」
太郎はそれを聞いて驚いた様に目を丸くした。まあ、小学一年生の彼が、論語なんぞ知らんだろうと思いつつ、少し困らせてやろうと思ったのだ。知らなければ、「そんなことも知らないのか。出直して来い」と言える。
「それは、本当に太郎めに石油王になれと申すのですか?」
太郎の返答に、乾は度肝を抜いた。人生何回目だ? 若しくは何かの組織が開発した薬を飲まされて体が縮んだ大人なのでは無いだろうか? と、思案を巡らす。否、この子は時代劇が大好きなので、その流れで論語の言葉を見聞きしたのかも知れない。これは勿体ない。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
太郎が呟くと、乾は思わず笑ってしまった。
「ちょっと待って、それは黒船に乗り込もうとして失敗した松蔭の……」
と言いかけて大きく息を吐いた。
「解った解った。逢引き行こう」
太郎はそれを聞いてにやりと笑った。
「でも今日はもう遅いから、また日曜日にね」
「いえ、これからお付き合い頂きます」
太郎の言葉に乾は空を見上げた。もうすっかり暗くなり、月が出ている。
「え?」
乾は訝しく思いながらも太郎に言われるまま外へ出た。
駐在所に居たお巡りさんは単行本を閉じて中空を眺めた。今日も平和だ。なのでフランツ・カフカの『変身』を読んでいたのだ。本の苦手な自分でも、これは短いし面白くて読んでしまった。太郎がよく口にしている実語教はとっつきにくいが、ある日目を覚ましたら自分が毒虫になっていたなんて中々面白い発想だ。『断食芸人』これも面白かった。面白い話しを聞くと、どうしようもなく誰かに話したくなって来てしまう。けれども、この田舎で話し相手といえば、老人くらいしかいない……
「頼もう!」
太郎の声に、お巡りさんは壁の時計に目をやった。もう六時だ。早く家に帰りなさいと言わなければと入り口を覗くと、二十四、五歳くらいの若い女の人と一緒に居る。田舎には珍しい若い女の人に襟を正した。
「巡査! 縁談をお持ちしたのである!」
それを聞いて思わず吹き出していた。女の人の方は、太郎とこっちを交互に見て目を丸くしている。
「んん?」
「乾殿、こちら恋の一つも知らぬ懦夫である。けれどもそれは仕方のなき事。国の平和を守る為、日夜仕事に励んでおられる。石油王とまではゆかぬが国家公務員である。本ばかり読んでいないで、偶には新しい人脈の為に行動するのも一つの手である」
「はあ……」
「それにお巡りさんであれば顔が広い。警視と巡り会うチャンスがあるやもしれぬ。そうなればそれこそ玉の輿である」
太郎が乾に耳打ちするが、丸聞こえだった。
「太郎、聞こえているぞ」
「おや、これは失敬」
太郎が悪びれもせずにそう言うと、くるりと踵を返した。
「巡査殿、こちらは大変な品格の持ち主である。太郎は今まで生きていてこんな人格者は他に見たことがない。くれぐれも失礼のないように」
早く帰れと言おうとしたが、太郎はさっと帰って行った。冷やかしに来たのかと思いながら、溜め息を吐いた。
「フランツ・カフカ」
ふと、彼女が呟いた。机に置いた単行本と、それを見ている彼女とを交互に見た。
「ああ、偶々古本屋で見つけまして。読みます?」
「『変身』は高校の頃に読みましたね」
あっ、そう……そこで話しが終わると思っていた。
「人は条件次第で周りの見方が変わってしまう。というとても良い話しです。社会的な関係が切られ、お金を稼いでこない人間が、殆虫同然に扱われるという寓意的な話だったと思います」
彼女の話しを聞いた時、度肝を抜いた。
「そうそう。自分ももし、急に事故で働けなくなったら……なんて考えてしまいました。きっと親子であっても、お袋から毛嫌いされるんだろうな。とか、それでも親だから義理で面倒見てくれるんだろうなぁとか色々と考えてしまいました」
「義理は本来、否定的な言葉ではありません。正しい道理という意味です。親として子の為に義を通すのは当然です」
ほほう……確かに大変賢い人だ。太郎が一目置くのも分かる気がする。なんだかもっと彼女の事を知りたくなってしまった。
翌日、蓮が学校へ行くと、太郎は机に突っ伏していた。いつも元気な太郎が、どうしたのだろうかと蓮は歩み寄った。
「ねえ、どうしたの?」
「三行半……否、ふられたのである」
蓮はそれを聞いて、あの乾というお姉さんとのお付き合いが上手く行かなかったのだと理解した。そりゃそうだろう。『せきゆおう』と紙に書いて胸に貼っただけである。けれども、そこまで落ち込むのかと少し可哀想に思った。
「僕に、何か出来ることがあるかな?」
太郎はそれを聞くと、すっと頭を上げて居住まいを正した。
「他人の愁いを見ては、即ち自ら共に患うべし。他人の喜びを聞いては、即ち自ら共に悦ぶべし」
蓮は首を傾げた。
「人が悲しんでいるのを見たら、一緒に悲しんであげましょう。人が喜んでいるのを聞いたら、一緒に喜んであげましょう。
という意味である。どうであろう? 蓮殿、何か嬉しい事はあったかな?」
「嬉しい事……ポ○モンの新作アニメが始まった事かな?」
「おお……それは良かった」
明らかに興味がなくて棒読みである。
「否、今のは手前が悪かった。申し訳ない。嬉しい事と言うのは、自分が頑張って来た事が実を結んだとか……そうであるな。テストで百点を取ったとか、親や先生に褒められた事とかを指すのである」
蓮はそれを聞いて首を傾げた。まだテストなど始まっていないし、親や先生に褒められること……となると……
「今朝は、ちゃんと一人で起きられて、お母さんに褒められたよ」
「ほう。それは大変よろしい」
「……いつも中々起きないからお母さんに怒られるんだけど、今日は怒られなかったんだ。こんなので良いの?」
「こんなのとは恐れ多い。大変立派な事である。世の中には昼夜問わず布団に包まり、ゲームに明け暮れる無業者(ニート)と呼ばれる妖怪が潜んでいるそうな。それに比べるのもおこがましいが、天と地程の差がある。
三学の友に交わらずんば何ぞ七覚の林に遊ばん
と言っての、この三学の内の戒学である。心身の悪い行いを抑制する。惰眠を貪ることなく朝、ちゃんと起きて自らの支度を整え、学校へ遅刻せずに行くということは大変尊く褒められた事である。決してこんなのなどと言ってはならぬ」
半分くらい何を言っているのか解らなかったが、淀みなく話す姿に何だか元気が戻って来ているようだった。それに、彼に褒められたのだと理解して少し恥ずかしかった。
「太郎くんは何か嬉しいことあった?」
「うむ。道端にゴミが落ちておったので拾ってゴミ箱へ捨てたのである」
ええっそれだけ?!……と言いかけたのを飲み込んだ。否、自分は道端にゴミが落ちていても、汚いからとか面倒くさいからとか理由を付けて見て見ぬふりをする。それに比べれば確かに凄いことだ。
「すごいねぇ」
蓮がそう呟くと、太郎はにやりと笑った。どうやら本調子が戻って来たらしい。
「で、なんでふられたの?」
「成る程、治りかけた傷口に塩を塗るか。今女は画れりと断られたのである」
蓮は首を傾げた。
「今、何時? ……何?」
「自分で自分の限界を設定して、やる前から挫けてしまっているではないかとお叱りを受けたのである」
蓮はそれを聞いて、首を傾げ過ぎて転びそうになった。
「わかんない」
「素直でよろしい。自分が知らないと言うことを知ることは大切な事である。けれどもそこからもう一つ。知らないことを知ろうと努力出来るのが義しい生き方である」
太郎はそう話すと、教室の隅に置かれた本棚から国語辞典を取り出して頁を捲っていたが、どうやら見つからなかったらしい。
「休み時間に図書室へ行くのである」
「はあ……うん……」
今更、声をかけるべきではなく、あのまま落ち込んだままにしておくべきだっただろうかと心底後悔した。
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