第8話 虎

 蓮は道に佇んでいた。両側は青葉茂る苗が行儀よく整列している。蓮の視線の先に茶色い影があった。

「おや、いかがいたした?」

 不意に太郎に話しかけられ、蓮は太郎を一瞥したが、直ぐに視線を戻した。五十メートル程先で、右往左往しているそれが、早く何処かへ行ってくれないかと蓮は心の底から祈った。太郎はその様子を見て、何やら考えている様だった。

「蓮殿、あれは虎の李徴に比べれば子犬の様なものである」

 太郎の言葉に蓮は何を言い出したのかと目を見張った。

「子犬だよ。どう見ても」

「そう。佐々木さんの所のトイプードル、名をプーちゃんと言うとても人懐っこい犬である。決して猟犬ではない。であるから、案ずるな」

 蓮は太郎が、自分を安心させようと思ってそう話してくれたのだと思った。

「違うんだよ。僕、大阪に居た頃、犬に噛まれた事があって、それからトラウマなんだよ」

「おや、お犬様相手に虎だの、馬などと、中々面白い事を言う」

 太郎が吹き出すように笑いながら言うと、蓮は眉根を寄せた。

「苦手なの!」

 蓮が叫ぶ様に言うと、太郎は少し不思議そうな顔をした。

「では、蓮殿はライオンやワニはお好きですか?」

「ええ〜どっちも怖いよ」

「それは、以前噛まれた事があるから怖いのですか?」

 太郎の質問に蓮は目を丸くした。

「そんなこと無いよ。そもそもライオンもワニもその辺にいないじゃないか」

「はは〜そうですか。では……クワガタはお好きですか?」

 太郎の言葉に瞳を輝かせた。

「大好き!」

「ほう、それは一体何故?」

「だってかっこいいじゃん!」

「指をあごで挟まれたことは?」

「そりゃああるけど……」

 蓮はそこまで言って太郎の言いたいことを理解した。

「でも、怖いものは怖いんだよ」

「けれども、蓮殿に噛み付いたのは、そこに居るトイプードルではないでしょう?」

 蓮はゆっくりと頷いた。いつの間にか蓮の直ぐ後ろまでやって来ていたトイプードルが甲高い声で吠えると、蓮は飛び上がって驚き、太郎の後ろへ隠れた。太郎はしゃがみ込み、トイプードルの頭を撫でると、犬は嬉しそうに尻尾を振った。

「ほれ、蓮殿も撫でてみるが良い。噛み付いたりはせん」

 蓮はそう言われ、恐る恐る人差し指の先で犬の頭を触った。それでも犬が大人しくしているのを見て掌で頭を撫でると、蓮は太郎の隣にしゃがみ込んだ。

「可愛い」

「そうであろう。そうであろう。生類憐れみの令と言って第五代将軍綱吉も大の犬好きだったのである。それに西郷隆盛も酒井忠以も犬好きで有名です。聖徳太子だって……」

 太郎が淀みなく喋ると、蓮はさっきまで怖がっていた自分がなんだか恥ずかしかった。



 乾は車を運転しながら助手席に座っている鈴に視線を向けた。道中ずっと参考書を開いて読んでいる姿に、真面目な娘という印象があった。だからこそ太郎も、姉の為に古本屋への送迎が出来る自分を探し出したのだろう。

「あの、いっちゃんとはどういった関係なんですか?」

 鈴の質問は当然だろう。年が離れすぎているしご近所というわけでもない。普通なら接点が無い筈だ。

「あの寺の檀家だから、盆と暮には寺に行くからね。その時に会ったのよ。最初会った時は頭の螺が抜けてるんじゃないかと思ったけど、割と賢い子よね」

 乾の言葉に鈴は頷いた。

「いつだったかな? 屋根の上に登って

『この紋所が目に入らぬか!』

て声かけられたのが初めてだったのかな? その後、怖くて降りられなくなったなんて言うから、梯子持って来て下ろしてやったのよ。阿呆でしょ?」

 鈴は太郎ならやりそうだと思って冷や汗を流した。

「それから何回か会って、実語教を暗唱するのを聞いたのね。最初何言ってるのか分からなかったけど、学問のすゝめに

『人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり』

 って同じ言葉が出て来るのよ。それで、本の好きな子なのかな? って思ったの。

 去年だったかな? 蝶が死んでて、一緒に土に埋めた事があるの。その時に

『親の蝶が死んだのだから、青虫は泣くのであろうか?』

 なんて言うから、高瀬舟の話しをしたのよ。本を貸してあげたら喜んでね。読めない漢字は自分で調べて読んだって言ってた」

「そうだったんですか……」

 鈴は納得しながらも、それで態々古本屋までの送り迎えを買って出てくれる事が少し不思議だった。

 話しをしているうちに家の近くの道で太郎と蓮が連れ立っているのが見えた。乾はそれを認めると、道の脇に車を停めた。

「ここでも良い?」

「はい。今日はありがとうございました」

「出勤のついでだから良いのよ。気にしないで」

 乾はそう言うと、後ろの座席に置いた紙袋を持って車を降りた。鈴も車を降りると、太郎がにやりと笑っている。

「乾様、お姉様を無事に送り届けて下さったのですね。かたじけない」

 太郎が深々と頭を下げると、乾は紙袋を太郎へ差し出した。太郎が不思議そうにそれを取ると、蓮は何が入っているのか気になって覗き込む。太郎が戸惑っていると、乾は紙袋の中から制服を取り出し、太郎に着せた。

「裾上げして肩の所を詰めたの。ポケットは余った生地で付け直したから大分見栄えは良くなったと思うんだけど……」

 乾が言うと、鈴は少し申し訳ない気持ちになった。来る時に太郎の制服の上着を持って来る様に言われ、太郎の服のサイズを知りたがったのかと思ったのだが、まさか手直しする為だったとは鈴は思っていなかった。

「すみません、これ、お下がりで……少し大きいけど、すぐ大きくなるだろってうちの親が……」

「それにしたって今日明日で身長伸びたりしないんだから。きつくなったら言いなさい。また手直しするから」

 乾の申し出に太郎は笑った。

「かたじけない」

「あとこれ」

 乾が紙袋からもう一つ何かを取り出したが、それが何なのか、鈴と太郎には分からなかった。紺色の四角い、薄いシートの様にも見える。けれども蓮はそれが何か気付き、声を上げた。

「ランドセルカバーだ!」

 蓮の言葉に太郎は驚いていた。

「レザーの生地が余ってたから作ってみたの。紺色しかなかったけど……赤だと女の子と間違われるかもしれないし……」

 乾の言葉に太郎は少し困った様な顔をした。

「申し訳ない事に、手前はお礼の一つも出来ないのであるが、このご恩は必ず……」

「は? ふざけんな」

 乾が太郎の言葉を遮ると、太郎は不思議そうな顔をした。

「恩を私に返してどうするの? 恩に思ったなら他の人にまた恩を売っときなさい。そうやって世の中は成り立ってんのよ」

 鈴はそれを聞いて、やっとこの人が何故、自分を送り迎えしてくれたのか得心がいった。乾が太郎の頭を撫でると、太郎は乾のその手を掴んだ。

「惚れた! 結婚してください!」

 太郎が叫ぶと、それを聞いた蓮は仰天し、鈴はまた何を言い出したんだと困惑した。乾は一瞬何を言われたのか分からなかったが、告白されたのだと理解して吹き出した。まさか二十五で、小学一年生から告白されるなど、夢にも思わなかった。

「ははは! あんたが石油王にでもなったら考えてあげる」

 乾が冗談で言うと、太郎はいつになく真剣な表情で声を上げた。

「解りました! 必ずやセキユ王になってみせます!」

 乾は太郎が賢い子であると同時に、頭の螺が抜けた子であることを思い出し、これはまずい事を言ってしまったかと思った。まあ子供の戯言とは思うが、本気にさせてしまったとなったら、油田を探しにあちこち行ってまた迷子にでもなりかねない。

 そう思ったが、前言撤回する前に太郎は行ってしまった。蓮もついて行く姿を見て、鈴は乾に話しかけた。

「大丈夫ですよ。あの子、遠回しにふられたんだって認めたくないだけですから」

 鈴の言葉に乾は大きな溜息を吐いた。

「あ、あとね、私の後輩の弟で、今年受験だった子が居たのよ。そこの北高。もう参考書とか要らないから今度取りにおいでって言われたから、またそのうちそっちへ持って行くわ」

 鈴は思いもよらない申し出に驚きを隠せなかった。

「そんな……何から何まですみません……」

「他人になにかしてもらったらありがとうでしょ? 感謝してると言うなら、勉強して成果で返しなさい。あと、使えるものは何でも使うのよ。親じゃないからとか、友達じゃないからとか言い訳探す暇があったら助けて下さいって周りに頭下げなさい。それが世の中を渡る武器なんだから。太郎がそうでしょ?」

 乾の言葉に鈴は頷いた。

「乾さんって、凄い人ですね」

「私はあなたの方が凄いと思うよ。なりたいものや夢があって勉強してるんでしょ? 私はそんなの無かったから、取り敢えず高校卒業して面接受かった工場で働いているだけ。夢や目標に向かって前進出来る人の方がかっこいいし、応援したくなるのよね」

 乾はそう言って車へ戻った。車が発進すると、鈴は車が見えなくなるまで手を振っていた。



「先生! セキユ王になる為にはどうしたら良いのでしょうか?」

 急にやって来た太郎が真剣な眼差しで聞くが、縁側に座ってお茶を啜っている老人はじっと庭を眺めていた。

「芝先生、どうか教えて下さい!」

 太郎が再び話しかけると、老人は笑った。

「ほっほっ……鶯が鳴いておるわい」

 老人の言葉に、二人のやり取りを見ていた蓮は頭を悩ませた。この老人、耳が聴こえていないのではないかと蓮は訝しく思った。

「ねえ、この人耳が聴こえてないんじゃない?」

「これこれ、引退されているとはいえ元先生である。

 師に会うといえども学ばざれば、徒に市人に向かうが如し

 と言って、折角良い先生と出会っても、学ぼうという気持ちが無ければ、ただの人と会っているようなものである」

 太郎の話しに蓮は首を傾げた。

「どう見ても呆け老人だよ」

「誰が呆け老人じゃて?」

 さっきまで笑っていたのに、急にきっと表情を変えて蓮を見つめた。

「ほれ、この様に悪口はちゃんと聞こえておる。先生、セキユ王になる為にはにどうしたら良いでしょう?」

 太郎が聞くが、やはり老人の耳に届いていないらしい。

「蠢愚」

「誰が蠢愚じゃ!」

「これはいかん、病気である。他を当たろう」

 太郎がそう言って中庭を出て行こうとすると、首に赤いリボンを付けた白猫が家の奥から出て来た。太郎と蓮は驚いたが、猫なで声で近付いてきた猫に蓮は頭を撫でた。

「可愛い」

「これ、蓮殿、それは李徴である。触るでない」

「ええ? 可愛いよ。ほら!」

 蓮が猫を抱え上げると、太郎は見捩りした。

「これ、その虎をこっちへ持って来るでない」

 太郎の様子に蓮は意外だったが、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

「もしかして、猫嫌いなの?」

 触ってみろと言わんばかりに近付けるが、太郎は冷や汗を流して後退りした。

「これこれ、止めいというのに……」

「さっき、僕が犬を怖がった時にはあんなこと言ったくせに」

「否、手前は別に虎なんぞ恐ろしくはない。恐ろしくはないが……」

 太郎はそう弁明しつつも、後退を続ける。蓮が面白がって猫を近付けると、太郎は大きなくしゃみをした。

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