第5話 お姉様

 誕生日でもないのに、苺が沢山のったケーキが食べられたのは初めての事だった。料理好きな母がオーブンで生地を焼き、僕も飾り付けを手伝った。一粒黙って口に入れたが、とても甘くてみずみずしく、少し酸味はあるが、それがアクセントになってとても美味しかった。こんなに美味しい苺を、お向かいさんに半分もあげてしまう彼の気持ちが、少しだけ解る様な気がした。

「ねえ、お隣の太郎くんも呼んでもいい?」

 彼にもケーキを食べさせてあげたいと思った。だってこのケーキは、彼がいなかったら出来なかったものだから。

 僕の問に母はもう一つ小ぶりのケーキを焼いてくれた。生クリームの絞り袋にクリームを入れ、それと一緒に焼けたスポンジケーキを持たせてくれた。お隣さんが何人家族なのか解らないから、それを持っていきなさいと母に言われた。

 もう、外へ出ると夜も更けていた。

 お隣の呼び鈴を鳴らすと、中学生くらいのお姉さんが顔を出した。僕はてっきり彼が出て来るものと思っていたから尻込みする。無愛想な顔をしていたから尚更肩を竦めた。

「あの……お隣に越して来た門谷 蓮です。太郎くんは居ますか?」

 セーラー服姿のお姉さんの後ろから、ひょっこり彼が顔を出した時、凄く安心した。

「お姉様、和顔施が消えておる」

「煩い」

「しんどいのであれば栄養のあるものを食べ、温かいお風呂に入ってよく眠ることである。薬より養生である」

 彼の言葉に、不機嫌な顔をしたお姉さんは尚更不満そうな顔をしていた。

「蓮、お世話になっている木曽根家のお姉様、鈴様である。今は少々体の具合が悪くて不機嫌であるが、いつもは菩薩の様に優しいお方なのである」

 彼の説明に、僕は軽く頭を下げた。

「お母さんが、ケーキを焼いてくれたんだ。それで、お隣さんにも……」

「ほう。それは有り難い」

 彼がケーキを受け取ると、不機嫌なお姉さんは家の奥へ入って行った。

「お姉さん、何かあったの?」

「さて、色々と事情がお有りなのだろう」

 そう言って彼は袋の中を覗いた。焼き立てのスポンジケーキと、クリーム入の絞り袋を見て僕に視線を向ける。

「どうだろう? 作るのを手伝ってはくれまいか?」

 彼の申し出に僕は大きく頷いた。



 下の階から子供の声がする。イライラしてイヤホンを耳に付けた。ネイティブな英語が聞こえる。こないだの全国模試の順位が良くなかった。このままでは駄目だ。もっと勉強しないと……うちはお金が無いから塾には通わせて貰えない。周りの同級生皆が塾へ通うのに、自分だけ通うことが出来ず、どんどん成績が追い抜かれて行く。頑張っても報われない努力程虚しいものは無い。もっと頑張らないと志望校へ行けない。地元の高校を落ちたら隣町の高校まで、汽車で通うことになる。定期代は一年でどれくらいになるだろう? お金が無いというのは本当に恐ろしい事だ。このセーラー服だって、鞄だって親戚の娘のお古だ。他の子が皆、新品の制服の中、一人だけくすんだ制服を着て通うこと程惨めなことはない。だから勉強だけはと努力するのに、やはりここでも、お金のことで塾へ通えず、周りからどんどん遅れをとっていることが恐怖だった。

 勉強しよう。勉強して自分は都会へ出て、いい仕事について、お金に困らない生活を送るのだ。その為にはもっと頑張らなければならないのに、最近は頭痛が酷い。市販の痛み止めをいくら飲んでも効かない。薬を買うお金も無くなった。このままこんな事が永遠に続くのかと思うと余計苛立った。

 こんなところに産み落としやがって……

 母がもっと、羽振りの良い男と結婚していれば……もっとお金持ちの家に生まれていれば……生まれたその場で既に優劣がついてしまっていることを嘆いた。

 不意に腕を掴まれた。見ると太郎が、じっと私を見つめている。

「お姉様、お父様とお母様が戻られて、お夕飯も出来たのである」

 思わず、弾くように手を振り払った。

「勝手に部屋に入んないでって言ったでしょう?!」

「それは申し訳ない。けれども何度も声をかけたのに、耳栓をしているから気付かないのだろうと……」

 本当、この家には部屋に鍵をつけるお金すらない……

「出てってよ! あんたなんか大っ嫌い! 親戚の子だか何だか知らないけど、迷惑なのよ! ただでさえ貧乏なのに何であんたみたいなのが一人増えるのよ!」

 ーーそう喚いた所までは覚えている。いつも笑っていた彼の表情から笑顔が消え、驚いた様な顔をしていた。その顔が、急に砂嵐に掻き消されて、真っ暗な奈落の底に放られた感覚があった。



「おじさん、僕にはどうしてもあの子を育てる自信が無いんです。何て説明すれば良いでしょう? 母親は死んだと言えば、その理由を話さなければならなくなる。かといって生きていると言えば会いたいと駄々を捏ねるでしょう。僕はあの子を自分の息子でありながら、愛しい妻を殺した憎い子だと恨み、一緒にいれば必ず殺してしまうでしょう」

 廊下で聞き耳を立てていた私は、産まれたばかりのあの子が捨てられるのだと子供ながらに予感した。

「お釈迦様は、この自分勝手な僕の代わりにあの子を愛して下さるだろうか?」

 思いきり頭を叩く様な、甲高い音に思わず体が強張った。

「出て行け。その曲がった根性が治るまで、二度とその面を見せるな!」

 爺様の怒鳴り声は、低い悲しみを帯びていた。

 ……お医者さんになろう。

 その時漠然とそう思った。沢山勉強して、お医者さんになって、あの子みたいな可哀想な子がいなくなる世界になれば良いと思った。

 その為に勉強していたはずなのに、いつの間にか目的がぐらついて、自分のことでいっぱいいっぱいになって、周りが見えなくなって……

 ああ、あの子に大嫌いだなんて言ってしまった。何であんなことを言ってしまったんだろう。どうかしてたな。謝らなきゃな。ごめんね。ごめんね。何で忘れてたんだろう。あの子がいつも精一杯に強がっていることを知っていたのに、何で優しく出来なかったんだろう。



「もう良い」

 あの子の声で目が覚めた気がした。白い天井に見覚えは無い。

「鈴、起きた?」

 母の声にそっと顔を向けた。どうやら病院らしい。

「あなた、倒れたのよ? 体調悪いなら相談してよ……」

 そう言って、母が俯いた。

「ごめんなさいね。家を空けてばかりなのに、こんなの狡いわね」

 私は壁の時計に目をやった。夜中の二時を指している。いつもなら、夜勤に出ている頃だ。

「お母さん、仕事は?」

「何言ってるのよ。こんな時くらい、仕事休んで娘の傍にいたって良いじゃない」

 そう言いながら、穴のあいた靴下を見繕っている。

「鈴は私達なんかと違って頭が良いから、少しくらい休んだって大丈夫よ。高校受験は来年なんだし……」

 高校……そう、高校への入学金の為に母は昼夜問わず働いている。それを知っていたからこそ自分が休むだなんて……怠けているような気になって夜も寝られなかった。親の期待が、いつの間にかプレッシャーになっていた。けれどもあの子には、そのプレッシャーを与える親がそもそもいない。それを心底羨ましく思うこともあった。

「お母さん、私ね、いっちゃんに酷いこと言っちゃったの」

 母が不思議そうに首を傾げた。

「ああ……太郎ね。大丈夫よ。あの子、あなたが倒れて『丁度良かった』なんて笑って言うのよ? 頭おかしいのよ。あの子」

 母の言葉に私はあの子が怒っていたのだと思った。きっと嫌いだと言われ、倒れたのを見てざまあみろと思ったのだろう。



 翌朝、目を覚ますと母は居なくなっていた。昼間の仕事へ行ったのだろう。その代わりに、太郎がにやにやして椅子に座っている。私は気味が悪いと思いながらも声をかけた。

「何よ」

「いえ、別に。ああ、でも、折り入ってお姉様にお願いがありまして」

 彼の言葉に首を傾げた。

「お姉様のお部屋にあった赤いランドセルを頂けないかと」

「はあ? 何で……」

「爺様がランドセルの中古を方々探して下さったのですが、親戚は皆、捨ててしまったとか、まだ使っているからと、中々手に入りませんで……買うとなってもこれが中々お高いもので、挙げ句、教科書やノートは風呂敷に包んで学校へ通えと言われてしまいました。ランドセルなんぞ無くても勉強くらい出来る。まあ、それはそうなのですが、お隣の蓮くんは新しい青いランドセルを買ってもらっているのです。人間の欲というものはおぞましいですな。他人が持っていると欲しくなるのです。けれども手前はお金を持ち合わせておりません。そこで昨晩、お姉様のお部屋にお邪魔した時に偶々、本棚の一番上に置いてあるのが目に入りまして、はは……丁度良いものがと……」

 にやにや笑いながら淀みなく喋る姿に鈴は視線を宙へ投げた。そういえばあれだけは、六年間使うものだからと……態々隣町の商店街まで行って新品を買って貰ったのだ。あの時は嬉しくて、寝る時も一緒にお布団に入れて寝ていたっけ……

「え、いやいや、赤よ? しかもよてれるし、傷もいってるし……」

「構いません。あれが良いのです。赤は、特撮ヒーローのセンターと決まっているのです」

 そりゃあ、もうランドセルなど使わないから、他の誰かが大事に使ってくれるなら御の字ではあるが。

「けれどもこの通り、手前は何もお姉様にお渡し出来るものがありませんので、和顔施にて、お姉様にお許し頂けましたらと……」

 和顔施……笑顔を施すという意味だとお寺のお祖父さんが言っていたかなぁ……

「ははっ……気持ち悪い」

 鈴がそう言うと、彼はげんなりして口をへの字に曲げたが、両手で頬を持ち上げ、口角を上げた。

「良いよ。あげるよ」

 鈴の言葉に彼が驚いた様に目を丸くした。

「私の方こそごめんね。大嫌いって言っちゃった」

「ははぁ……嫌い嫌いも好きの内と言いまして、そんなに惚れられていたのかとにやけておりましたが、本当の嫌いの方でしたか……」

「……心配した私が馬鹿だった」

 鈴が呆れて呟くと、彼は嬉しそうに笑った。

「お姉様、こちら、手前の母から頂いたものです」

 太郎はそう呟くと背中から本を一つ取り出した。何度も装丁し直した跡がある。

 太郎の母……詳しいことは知らないが、太郎が生まれてから一度も会った事がない。太郎が生まれる前は何度か顔を合わす事もあったが、親達も話題にするのも憚っている様だった。その母から貰った大切なもの……

 太郎は本の一番後ろの頁を開くと、小さな長方形のシールがついている。鈴はそれを見て首を傾げた。

「108円?」

「そう! こちら、本体価格1500円+税と書かれているのに、この最後の頁には某古本屋の値札が貼られているのである。つまり、これは中古である」

 彼の言葉に鈴は驚いて目を丸くした。母親からの大切な本が、中古……

「勿論、新しいものには新しいものの良さがあります。けれども、人の手から手へ引き継がれたものは、滋味深いものと思います」

 鈴はそういうものかと思いながらも少し不満だった。どうせならやっぱり、新品の方が良いに決まっている。それが母親から息子へのプレゼントとなれば尚更だ。

「貧賤の門を出といえども、智有る人の為には、あたかも泥中の蓮の如し。

 どんなに貧乏であっても、智恵の有る人は必ず花を咲かせます。この智恵は決して学校の成績が優秀ということばかりではありません」

「はあ? 何でよ?!」

 納得いかなかった。自分は学校の成績をいつも気にして、テストの順位に目を光らせ、頑張って勉強して来たのに、それを否定された気分だった。

「例えば今回の様に倒れたのが、受験の当日だったならどうでしょう?」

 太郎の言葉に心臓が止まりかけた。そんな事になったら、それこそ今まで頑張って来た自分の努力は水の泡だ。

「それは……」

「勉強というのは、生きる為の智恵である。自らの体を調整するのも智恵である。やたらめったら体を壊してまで知識を詰め込むのは違いますぞ」

 彼はそう言うと椅子から飛び下りた。

「では、これにて失礼仕ります」

 深々と頭を下げ、病室を出て行く彼の背中はまるで何処かの坊主の様だった。鈴は何だか可笑しくて布団を被ると声を殺して笑っていた。

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