第4話 落とし物
家に帰って来た蓮は家の中の異様な雰囲気に思わず息を飲んだ。お母さんもお父さんも一言も口をきかない。お兄ちゃんもその空気に眉を潜めていた。
「ねえ、飯まだぁ?」
兄の言葉に驚き、ポテトチップスを食べている兄に視線を向けた。兄も事情を知らないのか、僕の目を見て肩を竦めた。
「外を探して来ます」
「見つかるわけ無いだろう! いくらしたと思ってるんだ!」
出て行く母の背中に向かって父が怒鳴ったが、母は啜り泣きながら家を出て行く。僕はどうすれば良いのか解らず、壁に向かって胡座をかいている父の背中を見つめた。
何処に落としてしまったのだろう……智恵美は雑草生い茂る地面を見つめた。
ここだろうか? あっちだろうか?
じっと下だけを見つめ、アスファルトを歩く。黒い凸凹した表面を舐めるように見つめた。
風に飛ばされてしまったのだろうか? こんなことなら大事に閉まったままにしておけば良かった。引っ越しの荷物を出している時につい、それを見つけて昔の事を思い出し、嬉しくなって取り出してしまった。その後、下の子が居なくなった事に気付いて、方々歩き周ったから……
「探しものかい?」
不意に下の子と同い年くらいの子供に声をかけられ、顔を上げた。子供はにっこりと笑っている。
「ええ……ちょっと……」
物がものだけに、他人にそれと聞いて回るのも憚られた。あれが本物だと知れれば誰だって持ち去ってしまうだろう。
「一緒に探しましょう」
その言葉に、被るように首を左右に振った。
「大丈夫よ。たいしたものではないし……」
「たいしたものでは無いのに、目が腫れておる」
子供に言われ、目を擦った。そんな酷い顔をしていたのだろうか。
「ついといで」
子供はそう言うと、ゆっくりと道を歩きはじめた。智恵美はすごすごと言われるまま着いて行く。行く宛が無かった。何処をどう探せば良いのか解らない。きっと見つからない。そうと解っていても諦めきれなかった。
「お姉さんは自分が産まれた時の事を覚えているかい?」
虚を突かれ、目を丸くした。そんなのは勿論、覚えていない。だから首を横に振った。
「では、お子さんを産んだ日の事は?」
「そりゃぁ勿論。忘れられないわ」
振り返った子供が、何処か嬉しそうに笑っていた。
「その子はお金や服や車を持って産まれて来たかい?」
「まさか!」
「身一つで産まれて来たのだろう?」
何を当然の事を言っているのだろうかと訝った。この子はお坊さんの子なのだろうか?
「ただ、婆様は、子供は産まれながらに魔法を持って来ていると言っていた。
人を笑顔にする魔法であると。
けれどもそれは親の色眼鏡である。我が子が可愛いくて嬉しく思うのも、生意気に育って毛嫌いするのも人の心である」
まだ、自然と足元に視線が行きがちになりながらも、子供の話しを聞いていた。
「あなたが落としたのは慈悲である」
子供の言葉に何故かどきりとした。違う。私が落としたのは決して慈悲などでは無いと断言出来るのに、それが言葉にならない。
「身一つで産まれ、身一つで死にゆかねばならん。どんなに高価なものであっても、愛しい我が子であっても墓まで一緒には持っていけない。元々持っていなかったものを無くしたと嘆くなんぞおかしなことだ。そんな暇があるのなら、他人を信じ、他人に優しく接することを心掛けることである」
そう言われても、今はそれどころではない。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人のことなど考えていられない。あんな米粒程の小さなものが、見つかるとは到底思えなかった。
「ほれ、見なさい」
子供に言われ、顔を上げた。昨日来た交番が目の前にある。けれども智恵美は目を伏せた。
「届けられているはずないわ。誰があれを拾って届けるの」
思わず声が漏れていた。
「聞くのは只だと言うのに……他人を信じる勇気も落としてしまったのかの」
子供の言葉に悔しさと苛立ちを覚えた。
「玉磨かざれば光無し、光無きを石瓦とす」
思わず顔を上げた。
「人学ばざれば智無し、智無きを愚人とす。親からもらった口で、他人に訊ねる方法くらいは社会で嫌というほど学んだであろう?」
子供はそう言うと踵を返した。
「大丈夫、心配するな。なんとかなる」
にやりと笑い、子供は鼻歌を唄いながら去って行く。恵美子はおずおずと交番へ入った。中には昨日お世話になったお巡りさんが椅子に腰掛けて何か書類を書いている。
「あの……すみません」
恵美子が声をかけると、お巡りさんは立ち上がってにっこりと笑った。
「ああ、門谷さん、今日はどうしました? また蓮くんがいなくなりましたか?」
「いえ、今日は……」
と言いかけて口籠った。こんなことを言って、笑われやしないだろうかと不安が過る。恵美子はポケットから外した指輪を取出してお巡りさんに見せた。
「実は、新婚の頃に夫に買ってもらった婚約指輪に着いていた石が外れてしまって……」
見つかるはずが無いと思いながら重い口を開くと、お巡りさんは驚いた様に目を丸くした。
「ダイヤモンドだったんですけど……」
誰かが拾ったとしたら、本物だと気付いたらそれこそ届けられることは無いだろう。
「こちらですか?」
お巡りさんがそう言って、封筒を出して来た。中を開けてひっくり返すと、二ミリ程の小さな石が机に転がり、光を放った。それを見た時、恵美子は目を疑った。
まさか!
「まさか本物とは思いませんで、鑑定に出す手続きをしていた所だったんです。僕にはプラスチックにしか見えなくて……」
そう、そうだろう。こんなもの、まさか本物が道端に落ちているなどと誰が思うだろう? 本物だと解って拾い、誰が交番に届けるだろう?
「今朝、交番の駐車場に落ちているのを偶々子供が見つけて届けたんですよ。こんな小さなもの、いつ落ちたものか解らないし……指輪ならまだしもルースで落ちていたものですから……でも良かった。持ち主が見つかって」
恵美子は脱力し、その場に座り込んだ。昨日だ。昨日、蓮を迎えに来た時に、車から下りた時に落ちたのだろう。恵美子は嬉しさと情けなさで涙が溢れていた。
「誰がっ……」
誰が拾って届けてくれたのか聞きかけたが、言葉が詰まった。あんなにも疑心暗鬼になっていた自分が情けない。
「ああ……権利放棄していますし、個人情報ですから」
そう言ってお巡りさんは少し笑っていた。恵美子は残念そうに俯く。
「拾って届けてくれた子がね。
あの人かな? こんな人が届けてくれたのかな? と考えている方が楽しいし、色んな人に感謝が出来るだろう?
なんて言っていましたよ」
お巡りさんの話しに恵美子は涙が止まらなかった。
ああ……自分はなんてつまらない、小さな人間なのだろう。
恵美子はその石を見つめて目を伏せた。
私は、この石に相応しい人間になれているだろうか?
頭の中に、さっき子供が言っていた言葉が思い起こされた。
玉磨かざれば光無し、光無きを石瓦とす……
この石だって、原石のまま磨かなければ、ここまで光輝いたりはしないだろう。
「ありがとう……ございます……」
智恵美は何度もそう呟いていた。
僕は道端に落ちていた野口英世と睨めっこをしていた。ゴミ置き場の前で、千円札が一枚はためいている。僕は周りを見回したが、誰もいないのを確認してそれを手に取った。
千円……
何度も穴が空くほどそれを見つめた。これだけあればお菓子が沢山買える。ジュースも買える。欲しい漫画も……と考えていると、いつの間にか隣に彼が突っ立っていて驚いた。
「おや、お小遣いを貰ったのかい?」
「違うよ。落ちてたんだ」
「ほう。では探している人がいるかもしれないから、交番に届けに行くのである」
しまったと思った。黙ってさっさとポケットに入れておくんだった。否、拾ったなどと言わなければ、自分のものになったのに……と肩を落とす。
「おや? 決して拾ったものを自分のものにしようなどと悪いことを考えてはならんぞ?
悪を好む者は禍を招く。あたかも身に影の随うが如し。
取ってしまった罪悪感で、自分の身動きが取れなくなってしまうのだ。それに、その紙切れにどれ程の価値があるのか、蓮は知っているのか?」
彼の質問に僕は首を傾げた。
「千円札は、千円の価値だよ」
「蓮は働いたことは?」
「無いよ」
「今のこの辺の最低賃金を知っておるか?」
僕は首を横に振った。
「853円である」
僕は再び首を傾げた。
「一時間、アルバイトをしてもこのお金は稼げないのである。であれば勿論、このお金が無いことで困っている者が居る。ほれ、直ぐに届けるぞい」
彼に急かされ、僕は渋々交番へ向かった。たった千円じゃないか……名前が書いてあるわけでもない。だから拾った僕のものにしたって良いじゃないかと思いつつ、交番の前に着いてしまうと、観念した。
僕の千円なのに……
と思いつつ、交番へ入る。あのお巡りさんが他の老人と話しをしている所だった。
「町内会の会費の袋をうっかり落としてしまって、全部集めたつもりだったのだが、どうしても千円足りないのですよ。他の方にまた余分に出して貰うわけにも行かず、落としてしまったワシが悪いのだが、なにぶん年金暮らしで余分な金は持ち合わせていなくて……たった千円のことなのですが……」
老人の言葉に僕はどきりとした。
「ええっと、どの辺りで……」
「朝、ゴミ置き場へゴミを捨てに行った時に落として、その場で全部拾ったつもりだったんです。帰ってからお金を数えたら足りなくて……」
思わずそっと僕は拾った千円札を差し出していた。お巡りさんと老人が、その千円札と僕の顔を見比べる。
「これは……?」
「さっき、ゴミ置き場の前で拾いました」
老人がさっと僕の両手を掴み、「ありがとう、ありがとう」と何度も頭を下げた時には、届けて良かったと思うのと同時に、自分のものにしてしまおうとしていたことが恥ずかしかった。
交番を後にすると、外に彼が立っていた。
「どうであった?」
「落とした人が、喜んでたよ」
「そうか。それは良かったの。
善を修する者は福を蒙る。たとえば響きの音に応ずるが如し。
といってな。きっと良いことが巡り巡って来るものだから、くれぐれも、自分のものに出来なかったと悔しがるものでは無いぞ」
彼に心を見透かされ、なんだか頭を叩かれた気分になった。
「うん……そうだね」
そう呟きながらも、心の何処かでまだ少し惜しいことをしたと思ってしまう。
あーあ、あれだけあればお菓子がこれこれこれだけ買えて……と考えてしまう。
「坊や」
不意に交番の方から声がして振り返った。
「今から町長さんの所へ行くから、一緒に行かないか」
老人に誘われ、僕は少し嫌だった。けれども彼に背中を押され、
「三好の爺様じゃ。悪い人ではない。着いて行っても取って食われたりはせん」
「君もついて来てよ」
僕がそう言うと、彼は変な顔をして老人へ顔を向けた。老人はにこにこしながら手招きしている。
「太郎も居たのか。一緒においで」
老人に招かれ、二人は老人の後を着いて行った。
トラックが走って行ってしまった。隣に居る彼が、まだ深々と頭を下げている。僕は両手に持たされた大きなナイロン袋を交互に見合わせた。
「お相伴に預かってしまった」
彼が呟くと、僕は意味が分からなかったが、何となくこんなつもりでは無かったと言う意味の様な気がした。
「でも、僕は自分のものにしようとしてたんだ。君が居なかったら、交番へ届けなかったから、君こそ貰って当然なんだよ」
「謙遜するのぅ……」
この言葉使いが、お寺の爺様の影響だろうから、難しいと思いつつその場の雰囲気で理解する。
そこへ、散歩から戻って来たお向いの善家婆さんが亀みたいにのろのろ帰って来た。杖をつき、45度に曲がった腰のせいで、ずっと下を向いている。彼はそれに気付くと、婆さんの傍に寄り、そっと肩を叩いた。
「婆様、三好の爺様から苺を頂いたのだ。少々多いので、半分引き取って貰えると有り難い」
彼の言葉に老婆は顔を上げ、にこりと笑い、両手を合わせて拝んだ。
「おや、それは有り難い」
「玄関の上がり端に置いて行くでの」
ありがたや、ありがたや〜と拝む姿に僕は不思議な気分だった。折角沢山貰ったのに、人にあげたら自分が食べる分が減ってしまうじゃないか。そんなに美味しくない苺なのかと少し不安になる。家に帰ると、母が晩御飯を作っている。母は僕が両手に持った袋を見るなり、驚いた顔をしていた。
「どうしたの?」
「えっとね、ゴミ捨て場の前で千円札を拾って……」
お菓子やジュースを買いに行こうとしたらお隣さんに止められて交番へ届けに行ったら落とし主が居て、隣町で苺農家をしている知り合いの所へ連れて行かれ、いちご狩り60分1800円の張り紙に尻込みすると、態々摘み取ってパックに詰めて渡してくれ、家の前まで送ってくれたのだと包み隠さず話した。
その話しを聞いた母が、いつになく嬉しそうに頭を撫で、褒めてくれたことは僕の人生の中で一番の思い出になった。
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