第2話 お隣さん
「昨日は引っ越しの片付けやら、居なくなったあなたを探し回ったりしていてお隣さんへ挨拶に行けていないの。お母さんとお父さんはまだ片付けがあるから、挨拶に行って来て」
朝、遊びに行こうと思っていたらそう母に言われてしまった。兄は颯爽と遊びに出て行ってしまった。僕は母から渡された菓子折りを持って隣のお宅へ赴いた。つま先立ちをして呼び鈴を鳴らす。良く似た建物が合計四軒並んでいるが、一つは空き家なのだそうだ。僕は表札の『木曽根』を眺めながら、何と読むのだろうかと首を傾げて待っていた。
ガチャリ
ドアが開き、中から昨日の彼が出て来た時には驚きが隠せなかった。彼の方はにやりと笑い、直ぐ、僕が持っていた菓子折りに目が行った。
「おやおや、紙袋には入れて来なかったのか」
彼はそう言うと家の中へ入り、紙袋を持って来た。僕から菓子折りを引っ手繰ると、紙袋に入れる。
「こういうものは紙袋に入れてお家の前まで持って行くものだ。玄関先で紙袋から出し、相手に正面を向けて両手で渡す。
『お隣に引っ越して来ました門谷 蓮です。以後、お見知り置きを……そしてこちらはご挨拶のしるしとして……』
と添えると百点である。はい、やり直し」
彼はそう言って紙袋を僕に渡し、ドアを閉めた。僕は呆気に囚われていたが、直ぐにドアが開くと、僕は言われたことを思い返しながらたどたどしく紙袋から菓子折りを出して差し出した。
「えと……お隣に引っ越して来ました。門谷 蓮です。おみしりおきを……? ご挨拶のしるしとして……」
「これはこれは。結構なものを……有り難く頂戴いたします」
深々と頭を下げ、受け取るその姿がなんだか態とらしく大袈裟で可笑しかった。
「善家の婆様とこへは行ったのかい?」
多分、お向いの家の事だろう。
「まだだよ」
「なら、この紙袋に入れて持って行きなさい。くれぐれも失礼の無いように、背筋は伸ばし、しっかりと頭を下げること」
彼の話しに僕は首を傾げた。
「どうして?」
「老いたるを敬うは父母の如し……老人には自らの父母と同じように敬意礼節を持って接すること。相手の貴重なお時間を頂戴するのだから、要が済み次第直ぐにお暇すること。けれども向こうから話しかけられた場合には敬意をもって聞くこと」
僕はよく解らなくて眉根を寄せた。
「太腿の前側に両手を開いて添え、膝を着いて、相手の口元を見て、注意深く頷くことだ。
ポケットに手を入れていたり、背中に手を回していると、刃物を持っていると相手に勘違いさせてしまう。立ったままでは見下されている様に思う人も居る。そっぽを向いていたら聞いていないと機嫌を損ねてしまう。
くれぐれも失礼の無いように振る舞うのが良き日本人である」
「はあ……良き日本人かぁ……」
ジョン・レノンだの、シャーロック・ホームズだのと名乗っていた彼の口からそんなことを聞くとは思っていなかった。
「善は急げである。直に老人会のクロッケーに行ってしまうぞ? 挨拶が終わったらまたおいで」
僕は困惑しながらも、自分の家のお向いへ赴いた。呼び鈴を鳴らすと、直ぐドアが開く。どうやら本当に今から家を出る所だったらしく、腰の曲がった老婆は杖をついてにこりと笑っていた。
「おや、可愛らしい」
年齢は僕よりずっと上なのに、45度に曲がった背中のせいで、視線が同じ高さになっている。お婆さんは見たことのない僕の顔をまじまじと訝しそうに見ていた。僕はたじろぎながらも、彼に言われたことを思い出して、紙袋から菓子折りを出した。
「隣に引越して来た門谷 蓮です。ご挨拶のしるしとして……」
何か言い忘れている気はするが、深々と頭を下げ、差し出した。
「今時珍しい良い子だねぇ」
老婆の表情が綻んでいた。僕は虚を突かれ、菓子折りを手渡して後退する。
「うちはね、善家 スエ子婆さんよ。宜しくね」
にこにこ話す老婆に少し恥ずかしくてこくりと頷いた。何を言われたのかすっかり忘れ、両手をもじもじさせ、再び礼をしてその場を後にした。
僕は自分の家に帰ろうとしたが、鏧の音がして足が止まった。隣の家の開いた窓から線香の匂いもする。僕は気になって隣家の呼び鈴を鳴らした。
直ぐに彼がドアを開け、にやりと笑った。
「どうだった?」
「鬼婆かと思ったよ」
「それは失礼である」
「ちゃんと言えたよ」
「ならば良い。入り給へ」
えっへんと咳払いをし、そう促されたので家に上がった。部屋の中へ入りかけ、不意に思い出して振り返ると、彼が僕の脱いだ靴を揃えている所だった。
「ごめん」
「おや、気付けたなら良い。次はちゃんとすれば良いだけだ」
彼はにやりと笑い、リビングを通って奥の部屋へ案内してくれた。さっき渡した菓子折りの蓋が開けられ、仏壇に備えられている。僕はその様子が見慣れていなくて首を傾げた。
「どうして仏壇にお菓子をお供えするの?」
「人様から頂いた物はまず先にご先祖様へご報告し、お供えするのが決まりである。ご先祖様へ黙って食べるものではない」
「ええっそうなの?」
大阪のマンションにも仏壇は無かった。広島の祖母の家には大きな仏壇があったと思うが、そう頻繁には行っていない。だからそういうものだということを知らなかった。仏壇の前に小さな机が置かれ、その端に男の人と女の人の写真が目に入った。
「こちらが父と母である。お父様、お母様、お隣に越して来た門谷 蓮である」
彼の言葉に僕は何も言えなかった。他の話題をと、すっきり片付けられた部屋を見回し、僕は首を傾げた。
「ゲームは無いの?」
「あるぞい」
彼は喜々として押入れを開け、中から大きめの包み紙を開くと、僕は驚きのあまり目が点になった。
「爺様と正月に作った手製の双六である。ここがスタート。初七日で法要。ここから六道に別れる。天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄。解脱が上がりというとても面白いもので……」
「ごめん、よく解んない」
彼はそれを聞くと、あからさまに残念そうな顔をしたが、直ぐに笑みを浮かべた。
「では、良いものを授けよう」
彼はリビングへ行くと、新聞紙を一束持って来た。
「ここはこれこれこの様に折ってな」
彼の説明を受けながら兜を折っていく。他にも新聞紙を細長く丸めて刀を作り、新聞紙とセロハンテープで法被を作ると、それを身に纏って彼は家を飛び出した。僕も戸惑いながらも同じ格好をして彼の後ろに着いて行く。橋を渡って少し歩くと、小さな公園があった。
「やあやあ我こそは毘沙門天の生まれ変わり、上杉謙信である!」
膝丈程に生えた草に向かい、声高々と叫ぶなり、手製の新聞紙刀で草をばっさばっさと薙ぎ払う様は、気でも触れているのかとさえ思った。
「我がライバル武田信玄よ! あそこに大きな鯨がおる! 討ち取って今日の晩飯にするのだ!」
彼の持っている新聞紙刀の切っ先が、公園にある錆びれたスプリング遊具を指し示している。
「えと……あれは豚だよ」
黄色地に、赤で豚の絵が描かれている。大きくもないし、鯨でもないその遊具を僕は見つめながらどうしたものやらと困り果てた。
「信玄、あれは大津波を起こす災いの鯨である。さあっついて参れ! あの四等の船に乗り、八苦の海を渡るのだ!」
彼は遊動円木に跨り、自分が座った後ろを叩いて座るように示した。僕はこの遊具を見た事が無かったから、どんな動きをするのか少し不安だった。彼の後ろに座り、「しっかり捕まっていろ!」と言うが早いか、彼は地面を思いきり蹴り、遊動円木が振り子の様に動き出す。大きなブランコのようで楽しい。
そうして豚のスプリング遊具兼鯨へ駆けて行った時、彼の足元でミミズが驚いた様に体をくねらせたのを僕は気付かなかった。そしてそのミミズ目掛けて雀が一羽飛んで来て、まさか彼が振り下ろした新聞紙刀に直撃するなど、誰も予想していなかった。わりかし丈夫に作ったせいか、刀にぶち当たって地面に転げた雀はぴくりとも動かなかった。
彼は叢の中に転げたまま動かない雀を少しばかり凝視していたが、恐る恐る新聞紙刀の先で雀の体を優しく突いた。それでも動かない雀を前に、彼が急に声を上げて泣いた時には、何がどうしたのか僕には解らなかった。
「信玄! 死んでしまった! 雀が……まさかこんな事があるものかと……」
「……うん……打ち所が悪かったのかなぁ……」
正直、雀のことよりも彼の泣きじゃくる様にドン引きしていた。ただの雀じゃないか。大阪の某遊園地へ行けば、太った雀などいくらでも居る。
なのに彼はおいおいと泣きながら新聞紙の羽織を脱ぎ、それで箱を作ると、丁寧に枝や葉っぱを使って雀の死骸を乗せ、手を合わせた。
「南無阿弥陀仏……この失態は命を持って償わせて頂きます。信玄! 介錯を頼む!」
僕は解らなくて首を傾げた。
「かいしゃく?」
「拙者が腹を切ったら、首を撥ねるでござる」
「え、何で?」
「この雀は雷神、帝釈天の借りの姿である。そしてここに居るミミズは火神、アグニである。本来であればシビ王と同様、このミミズを助ける為に我の肉を切って雀に差し出さねばならなかったのに、恐れ多くもその尊き命を奪ってしまった。この罪は万死に値する」
え〜……大袈裟だよ……と思うが、何ぶんこのシビ王の話しを僕は全く知らない。今、鯨(借)を倒しに行こうと言っていたのに、鈍臭い雀が激突してきて死んだことが、そこまで取り乱す様なことなのかと疑問に思う。否、鯨討伐も本気では無かったのだろうが……
「身あれば命ありである」
粛々と彼は地面に正座し、新聞紙刀の切っ先を自分の腹に向けて持ち替えている。まあ取り敢えず、彼の気が済むのであればと新聞紙で作った刀を振り上げる。するとどうだろう。さっきまで動かなかった雀が急に新聞紙の中から飛び立ったのだ。多分、気絶していただけだったのだろうが、その元気に飛んで行く雀の姿を彼はじっと安心した様に見送っていた。
「見たか! 今の奇跡を!」
「え、ああ……脳震盪起こしてたんじゃないかな?」
「何を言う。あれこそ帝釈天の為せる業である」
まあ、そういうことにしておこう……
「けれども罪は罪である。爺様へ報告へ参ろう」
彼はそう呟くと、新聞紙で作った兜を取った。
「爺様?」
さっき手製の双六を正月に作ったと言っていた人のことだろう。僕はそう考えながらも、雀は元気に飛び立ったのに、何故報告へ行かねばならないのかと首を傾げた。
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