拗らせ太郎の実語教

餅雅

第1話 迷子

「やあやあ我こそは、八苦の海を渡りし大海賊王! ジョン・レノンである!」

 いきなり藪の影から颯爽と現れて、そんなことを公言した同い年くらいの子供に、僕は目を白黒させるしか無かった。やっと人に出会えた嬉しさよりも、変な子に絡まれてしまったという脱力感から涙が引っ込んでいた。

「えと……」

 僕はジョン・レノンと名乗る彼を穴があくほど見つめた。髪は黒い。短髪で、目は二重だ。肌は黄色みを帯びていて、日本語を喋っている。どう見ても日本人だ。否、今はハーフだったりとか、見た目は日本人だが外人の親が居る可能性も無きにしもあらずだ。決めつけは良くない。緑と青のストライプ柄のパーカーに、Gパンを履いている所を見ると……

 頭の先からどんどん視線が足元へ行く。今迄それ程気に留めなかった様相が一変、足元へ辿り着いて僕は目を瞬かせた。

「それなに? 下駄?」

「お目が高い。これは一本歯下駄と言って、歯が一本しか無いんだ。かっこいいだろ?!」

 初めて目にするものに興味はあるが、果たしてこれがかっこいいかと言われるとどうだろう……? 僕は自分が履いているスニーカーと見比べながら頭を悩ませた。

「履いてみるか?」

 にやりと笑うジョンに僕は首を横に振った。

「いいよ。えと、ジョンくん……」

 そういえば近所の犬の名前がジョンだったなぁなどと思い返しながら晴れた空を見上げた。

「僕の事はキャプテンと呼んでくれ給へ」

「ええ?! まあいいや、キャプテン。僕……」

 言い掛けると、キャプテンは人差し指を立てて僕に黙るように示した。

「良い良い。みなまで言うな。ワトソン君」

「ワト……?」

「この名探偵シャーロック・ホームズがまるっと解決してやろう」

 この子は一体何なのだろう。初めはジョン・レノンだと名乗り、次にキャプテンと呼べと言い、今度はシャーロック・ホームズだ。

「道に迷っているのだろう?」

 にんまりとシャーロック・ホームズ(借)は話した。僕は困惑しながらも首肯する。

「良いことを教えてやろう。道に迷ったら先ずは周りを確認することだ」

 ピーヒョロロと鳥の鳴き声が空から降って来た。周りは青い水田ばかりで何もない。見渡す限り田んぼと山だ。何処までも青い空が広がっている。僕は頭を悩ませた。

「えと……」

 目印になりそうなものは何もない。と言いたげな僕の手を彼は引っ張った。少しばかり道を行くと、電柱の前で立ち止まり、上を指し示す。

「読めるか?」

「えっと……ナラナカ?」

「よくぞ読めた! 誉めて使わす!」

「僕、もう七歳だから片仮名は読めるよ」

「なんと! では神の内が開けた所だな」

 何を言っているのかよく解らないが、そう言えばお婆ちゃんが『七歳までは神の内』とか言っていた気がする。

「よーし、ジェリーよ。良いものを見せてやる」

 頭の中に灰色の猫トムと、茶色い鼠が思い浮かんだ。

「ジェリー? 僕は蓮だよ。門谷 蓮」

 それを聞いた彼は一瞬驚いた様な顔をして首を傾げ、再びにやりと笑った。背中から地図帳を取り出すと、開いて見せる。

「ほほう、蓮か。良い名前だ」

「え、なに?」

 聞き返しながら彼がアスファルトに広げた地図帳を見下ろした。

「待ってそれ、世界地図だよ?」

「ふむ。今は夕方で、太陽があの位置だから……」

 ねえ、聞いてる? と問うが、彼は地図を回してみたり、空を見上げたりしている。

「太陽は東から上り、南の空を走って西に進む。だからこっちが西で、こっちが東だな」

 ふむふむと頷きながら、世界地図を眼下に広げて腕を組んでいる。これはもしかして彼も道に迷っているのでは無いだろうかと訝しく思った。

「ねぇ、君ももしかして道に迷っているの?」

 僕の質問に彼は少し不思議そうにこっちを見た。

「うむ。いかにも」

「ええ〜?!」

 落胆し、その場に膝を着いた。家に帰れると期待していたのに、こんな変な子に絡まれ、その上この子も道に迷っているとなると、迷子が二人になったということだ。

「これこれ、心配するな。

八正道は広しといえども十悪の人は往かず。無為の都は楽しむといえども、放逸の輩は遊ばず」

 何を言っているのかさっぱりだった。

「え、なに?」

「誰もが歩ける広い道でも、悪いことをする人は堂々と歩く事が出来ない。欲張ってあれがしたい、これも欲しいと思わず、無理をせずに自然に生きることは楽しいのに、家に早く帰りたいとか、変な子供に絡まれてしまったとか考えていると、道が分からなくなってしまうということだ」

 図星を指され、僕は少し自分が恥ずかしくなった。

「え、でも、じゃあどうすれば良いの?」

「この空を屋根とし、大地を住処とすれば、何処へ行こうとも恐れる必要はない」

「そんなわけにいかないよ。僕は家に帰りたいんだ」

「八正道とは、正しく見ること、正しく思うこと、正しく話すこと、正しく振る舞うこと、正しく働くこと、正しく努力すること、正しく心を集中すること、正しく気づくこと」

 僕は目を瞬かせた。日本語を喋っている筈なのに、よく解らない。

「よく解らないよ」

 彼は飄々として耳に手をあてた。何かを聞こうとしているのだろう。僕も耳を澄ませると、遠くで微かに電車が走る音がした。

「電車だ! どっちから聞こえて来るんだろう?」

 僕が目を輝かせて彼を見ると、彼はにやりと笑った。

「ええ〜と、どれどれ、太陽の位置がここだから……」

 地図帳の頁を捲り、日本地図を開いた。そこから更に頁を捲り、四国の地図が出て来た。

「予讃線がこれで、ナラナカはこの辺りか……じゃああの雑木林の向こうに駅がある筈……」

「行こう!」

 僕の声に彼は首肯した。田んぼの畦道を走り、雑木林を越えると、住宅街と古びた駅が目に入った。僕は嬉しくなったが、直ぐに目を伏せた。

「どうした?」

「僕、ここ知らないよ」

 彼は小枝を拾うと、駅前の自販機をこんこんと叩いた。

「ここにこの場所の住所が書いてある」

 僕はそれを一瞥したが、見覚えの無い住所に首を振った。

「僕、解んない」

「駅には何があるかなぁ。時刻表と、この辺の詳しい地図なんか置いてあったりするよなぁ」

 それを聞いて思わず走り出した。無人駅へ入ると、確かに待合の所に地図が置かれている。

「えと、えっと……」

 自分の家の住所を……と考えたが思い浮かばなかった。前の大阪の住所しか思い出せない。今日引っ越して来たばかりの家の場所が全く分からず、脱力して膝を着いた。目頭が熱くなり、涙が溢れてくる。

「おやおや、このマークはなんぞや」

 隣にやって来た彼がまた棒で地図をこんこんと叩いた。僕は再び地図を見ると、交番の絵が書かれている。僕は涙を拭うと、自分を奮い立たせた。

「……ありがとう」

「はて、なんのことやら。駅がここだから、ここへ行くには駅を出て左かなぁ」

 あっけらかんとして彼は僕の手を掴み、住宅街を歩いた。交番へ着くと、何となく恥ずかしいような怖いような気がして尻込みする。彼は自分の家にでも帰るかのように交番へ駆け込んだ。

「ごめんなすって」

 中の椅子に腰掛けていた制服姿のお巡りさんが、こちらを見て苦笑いを浮かべた。

「今日はなんだい。拗らせ太郎」

「褒めちゃあいけねぇよ。この正義の味方、水戸の光圀が直々に世直しの為に……」

「あ〜はいはい。そっちの子は新しい友達かい? 見かけない子だね」

「彼は私の助手、うっかり八兵衛こと、うっかり自分の家を忘れてしまった八兵衛なのだよ」

「ははぁ〜成る程〜」

 お巡りさんは深く頷いていたが、暫し沈黙があった。

「え? 迷子?」

「まあそうとも言う」

「そうとしか言わないでしょ。君、名前は?」

 三十そこそこの若いお巡りさんに聞かれ、少し緊張した。

「えと、あの……か……」

「カルロス大帝と言うらしい」

「違う」

「太郎、黙ってなさい」

 お巡りさんに言われ、彼が口を窄め、目を大きく見開いてひょっとこの様な面白い顔をしたので思わず笑ってしまった。それで緊張が溶けて

「門谷 蓮です」

 とちゃんと言えた時、とても嬉しかった。

 お巡りさんが何処かへ電話を掛けている。それを横目に見ながら、貰ったおむすびに齧り付いた。勝手に交番奥の台所から彼がお茶を淹れて持って来ると、僕の前のテーブルに差し出した。隣に腰掛けた彼に、僕は食べかけていたおむすびを半分にして彼に差し出した。彼はひょいとそれを摘み上げると、じっと眺めている。僕も真似をして眺めて見るが、白い米粒が覗いているだけだった。

「どうしたの?」

「食あれば法あり」

 僕は意味が解らなくて首を傾げた。

「米を作ってくれた農家さんの苦労や、米を洗って炊飯器にセットする手間や、食べやすい様に握り飯にしてくれた人達、皆其々が正しく働いた事でこのおむすびは出来上がる。そしてそれをお腹を好かせた子供に布施したお巡りさんや、蓮の気持ちを有り難く頂くとしよう」

 言われてみればそうなのだが、そこまで考えたことが無かった。

「父母は天地の如く」

 一瞬意味が解らなかった。

「お父さんとお母さんは、お父さんとお母さんだよ?」

「父母は天地の様な存在である。だから両親を大切にして孝行をしなさい。今、金太郎が家に居ない事で、親は心配しているだろう」

「……僕は蓮だよ」

 彼は明後日の方向へ視線を投げた。

「貧賤の門を出といえども、智有る人の為には、あたかも泥中の蓮の如し。

 けれども、道に迷ったくらいでべそをかいているようでは先が思いやられる」

「僕の名前、ハスじゃなくてモクレンからとったんだよ。産まれた日に白木蓮が咲いてたんだって」

「うむむ……中々手強い」

 彼が言い負かされた様に頭を抱えると、僕は少し笑った。

「ねえ、君の名前は?」

「マイケル・ジャクソンと呼んでもらってもいい。二つ名はジャスティン・ビーバー」

 僕は流石に呆れて、可笑しくて笑っていた。

「変なの〜」

「変? 名は体を表すというくらいだ。名前くらい、有名人と同じでも良くないか?」

「え〜、そうかなぁ〜」

「その名に恥じぬ様に自らを正す指標になる」

 よく解らなくて首を傾げた。外で車が停まる音がして、荒々しくドアを開閉する音が聞こえた。足音荒くドタバタと駆けて来る音が近付いて来ると、僕は思わず椅子から飛び降り、持っていたおむすびを口にねじ込み、彼の後ろへ隠れた。

 交番の入口から先ず入って来たのは、一つ上の兄だった。

「蓮! お前、俺のスイッチ壊したろ!」

 眉間に皺を寄せ、僕の姿を見るなり開口一番そう叫んだものだから、お巡りさんも、彼も驚いていた。食って掛かろうとする兄に、彼は持っていた棒の先を向けて押し留めた。

「まあ、待ちなさい。スイッチなんて電池を入れ替えればまたテレビくらいつくだろうに……」

「ゲームのこと!」

「ははぁ……ゲームの一つや二つで心の狭いことを申すでない。株が下がるぞ」

「お前に関係無いだろ!」

 兄が怒鳴ると、彼は棒でテーブルを荒々しく叩いた。

「黙らっしゃい! 是生滅法と言って、この世にある一切のものは時節が来ると壊れるものだ。時節到来したのであれば怒ったり、喚いたりせず、きっぱりと諦めるのが悟りと言うものだ。年長者であればどんと構えておらんか。この恥晒し」

 今まで怒り狂っていた兄の顔が、驚いた様な顔になり、不思議そうに首を傾げた。

「何言ってるんだこいつ」

「おや? 年上でありながら年下の言うことが理解出来ないとは、勉強不足である。ゲームばかりしておるから他人の気持ちが解らないのだろう。もし、立場が逆だったなら……冒した罪に恐れをなして家を飛び出し、帰り道が解らなくて心細い思いをしていたであろう可愛い弟に、真っ先に怒鳴りつけるなどあってはならぬことだ。

 兄弟常に合わず、慈悲を兄弟とす。

 血の繋がった兄弟であってもいつも仲が良いとは限らん。だからこそ思い遣りの気持ちを持たなければならん。そんなことも解らんのか」

 兄は口をへの字に曲げ、顔を真っ赤にして出て行った。それと入れ違いに三十半ばの女の人が入って来ると、僕は彼の背後から顔を出した。

「お母さん……」

「蓮! もう……心配したんだからね?」

 思わずお母さんに抱きついていた。

「ごめんなさい」

「ゲームのことはいいから。あなたも、壊しちゃったなら直ぐお兄ちゃんに言わなきゃ駄目でしょう?」

 怒られると思って言い出せなかったのだが、さっきの一件でどうでも良くなっていた。

「お母さん、僕ね。お友達が出来たんだよ!」

 振り返って彼を紹介しようと思ったが、さっきまで座っていた筈の椅子に彼の姿は無かった。

「もう、友達が出来たの?」

「はは……あれが友達か……この町でも有名人でねぇ」

 お巡りさんが呆れたような、けれども何処か嬉しそうに呟いていた。

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