第11話 ブラコンがただの風邪な世界で、愛を囁く妹の話

 その日の晩飯。きんぴらごぼうに箸を伸ばしながら、俺の隣に座る親父が笑う。

「いやぁ、雷太があんなに妹思いだとは知らなかったな、父さんは」

「もうこの二時間で六回目だぞ、その話すんの」

 絶対十年後とかに親戚で集まった時にもこの話持ち出して自分だけ笑ってるわ。何で親って子どもの笑い話何回も擦りまくるんだろうな。会社員の日常にはよっぽど面白エピソードがないのか、それとも家族の前では話せないような類のものばかりなのか……。

「あら、そんなこと言ったら、朝の真雪も面白かったわよ。お兄ちゃんに隠れてお弁当作っていくために遅刻までしちゃったんだから。昔からブラコンの時の真雪ってホント可愛いわよね。ずっとブラコン拗らせてればいいのに」

 そう言って母さんは、向かい合う夫と声を合わせて笑い合う。何だこの夫婦、つまんな。仲が良いのは結構だが、寄りによってその話題はやめてくれよ。今のツンデレ真雪の前で弁当の件持ち出したら、「ちっ、違うしっ! 料理なんて得意じゃないから不安でいっぱいだったけど、お兄がちゃんと美味しそうに全部食べてくれて嬉しかったなんて思ってないんだからっ!」とか騒ぎ出して面倒くさいだろ。

「ちげーよ母さん。真雪はほら、俺のために作ったわけじゃねーから。母さんと親父に作った余りを持ってきてくれただけなんだから。な、そうだよな、真雪」

 目の前で黙々と食事をしている妹を、恐る恐る見上げる。こいつ、ギャルのくせに食べ方とかめちゃくちゃ綺麗なんだよな、とかギャルに対する偏見を俺が脳内でぶちまけていると、

「うざ」

「へ?」

 そのギャルは、ていうか妹は、いつも通り、たった二文字だけをボソっと溢して、焼きサバの身を完璧な所作で口に運んでいた。

 その表情が真顔から崩れるようなことはまるでなく、白い頬には一滴の朱も混じる気配はなく、大きな目が俺に向けられることなどただの一瞬もなく――要するに、妹は、全くもって、目の前の兄に興味を示していなかった。

 え? え?

「で、でも真雪、めっちゃ美味かったぞ、お前が俺だけのために作ってくれた弁当。卵焼きとか味付けも食感も全部俺の好みに合わせてくれたんだよな。さすが妹。どんな一流シェフにだって、そんなことはできねーからな。お兄ちゃん大好きな妹だからこそ作れた最高の卵焼きだった」

 こ、これでどうだ? ツンデレ妹なら、顔を真っ赤にして慌てふたむくはずで――

「はぁ……そーゆーのいいから。昼間はブラコンだったんだから別にフツーのことじゃん。そんなことでいちいち話しかけないで。きも」

「治ってる……!」

 治ってる……妹が、ブラコンじゃなくなってる……デレ要素が消失して、ただただツーンとしている……兄に対して、混じりっけなしのシンプルな嫌悪感を示している……

 治った、治ったんだ……!

 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! よかったぁああああああああああああああああ!! 俺の妹、俺のこと大嫌いに戻ったぁああああああああああああ!!

 やっぱり杞憂でしかなかったのだ。ブラコンなんてただの風邪。健康な女子高生なら、一日二日で完治するのが当たり前。

 ホッとするあまり涙を流す俺を前にしても、真雪は一ミリの関心も向けてはこない。兄の涙なんかよりも、味噌汁のシジミの方が大事なのだ。

 普通の、いつも通りの、兄を嫌いな妹がそこにはいる。それがどれほど幸せなことなのか、思い知ることができた。そういう意味では、ブラコンに感謝だ。


      *


「ふーんふーふ、ふーふふー♪ ふーふふーんふぅ、ふーふふー♪」

 ついつい鼻歌が漏れてしまう。心が軽い。漠然とした不安から解放されるというのは、こんなにも気持ちの良いことだったのか。

 食卓で急に泣き出すという、この先十年間、聞かされた親戚側が愛想笑いしか返せないのに何故か自分たちだけ大笑いしながら擦り続ける用のネタを両親に提供してしまったことさえも、今なら全然気にならない。まぁ、自分たちがそれで楽しいならいいんじゃね、と微笑ましくさえ思えてしまう。

 自分の恋愛事情が好調だと、他人の恋愛にも寛容になれるってものだ。

 そう、俺と海那の関係を邪魔する障害は、もはやどこにもないのだ。妹のブラコン看病から解放され、思う存分、海那とイチャイチャできるのだ!

「あ、やべ。我慢できん。会いたい。海那の顔が見たい」

 もはや衝動的に電話をかけていた。この気持ちを抑えられるわけがない。もう遅いし海那ん家に、いやこの前の続きという話に持っていくには、やはりここの方が自然だ。よし、迎えに行こう。連れ込もう。そんで朝まで……は、さすがに無理か? いや、今の俺なら不可能ではない! 何てったって、もう俺にはブラコンの妹なんていないんだからなぁ!!

「ふっ……!?」

 と、そんな風に、俺の欲望がフルスロットルで空回っている時だった。部屋の扉が控えめにノックされたのは。

 コンコンという小さな音にビクゥッとした俺は、思わずスマホをベットに投げ捨て、「は、はーい?」と、そのノックの主に答える。

 おそらく母さんだろう。あれでも母親だからな。マジで母親の勘は侮れない。俺が何かウキウキルンルンしてるのを見て、何かを察してしまったのかもしれない。あれでいて、性的なことには厳格だからな、うちの親は。くそぉ……。

 ノック同様、控えめに扉が開き、(まぁ親父にはバレないように説教してくれるつもりなのだろう)そーっと部屋に体を滑り込ませてきた真雪は――え?

「ま、真雪……? な、何だよ、お前……」

「ちょ、お兄、声大きいから」

 後ろ手に扉を閉め、俺の唇に人差し指を当てて、言葉を制してくる真雪。え? え? なにこれ? どういう状況?

「ふぅ……マジ焦ったぁ……」

 真雪は大きく息を吐きながら、俺のベッドに、ぽすっと横たわる。部屋着のモコモコファンシーパーカーの胸元が大きく開いており、見たくもない白い素肌が目に入ってくる。

 なんだ、これ……? 真雪が俺のベッドに、寝っ転がる、だと……? 俺の下着を自分の下着と一緒に洗濯されるのすら嫌がる、あの妹が……?

「な、何が目的なんだ、お前……?」

「はぁ? それはこっちのセリフだし。お兄、何で母さんたちの前であんなこと言うわけ? あたしたちのこと親に見せつけちゃうとか……バカすぎじゃん」

「何を言ってるんだ、こいつは……っ」

 何でそんな、呆れたような、それでいてどこか『ま、そんなところも愛おしいんだけど』みたいな、慈愛に満ちた大人の女の顔をしてんだよ? 長年連れ添った夫に年に数回だけ向ける類のやつだ、それは。

「なに? マジでちゃんとわかってないわけ? はぁ……ほんっとお兄って……やっぱ、あたしがしっかりしてかないとダメかー」

 ベッドに肘をつき、両手に顎を乗せて、ため息をつく真雪。口ぶりに反して、何かご機嫌さがにじみ出ている。にじみ出ているんだよなぁ……!

「おい、おい……これは、どういうことだ……」

 猛烈に嫌な予感に襲われながら、それでも俺は、尻尾を振るように脚をブラブラさせる妹を見下ろし、絞り出す。

「さっきまでの、リビングでのお前と、何か違くねーか、その、雰囲気が……」

「だからそんなの当たり前じゃん。母さんたちに、あたしたちのホントの関係なんて見せられるわけないっしょ。うふふっ♪ あたしとお兄は、仲の悪い兄妹――だもんね?」

「ブラコンじゃねーか……!」

 俺は、膝から崩れ落ちた。

 え? え? 嘘だろ? 誰か嘘だと言ってくれ!

「人前でイチャイチャデレデレとかマジで禁止だから。特に母さんなんて……あー見えて母親の勘ってマジで侮れないんだかんね? ちょっとでも不自然な雰囲気出したら絶対怪しまれる。ブラコンだからなんて言い訳、通用しないんだから。おかしいっしょ、ただの風邪なのに、いつまでも症状あったら」

「ブラコンじゃねーか……! また新しいタイプのブラコンじゃねーか……!」

「だから声デカいってば。あたしたちが理由もなく同じ部屋にいるってこと自体、母さんから見たら怪しさ満点なんだから。……ねぇ、ホントにわかってる?」

 そう言って、真雪は俺の目の前までにじり寄り、

「一ミリだって疑われちゃいけないの。絶対絶対絶対に、バレちゃいけないんだから」

 不安そうな顔を、口づけ寸前まで俺の顔に寄せ、甘く淡く儚く、

「わかって、ないっしょ。あたしたちがしてることって、イケないこと、なんだよ……?」

「ブラコンじゃねーか……! ガチで背徳的な感じのブラコンじゃねーか……!」

 ――後遺症だ。

 確信した。これは、真雪が今回感染したブラコンは、ただのブラコンじゃない。これまでの、世界で認識されている、ただの風邪の一種であるブラコンとは、一線を画している。

「ブラコンじゃ、ダメなの? うふふ、でもね、お兄。どっちでも同じ。このブラコンはたぶん、治らないから。だから――」


 ――これは、看病にはならないよ?


 そう囁いて、妹は俺の唇にキスをした。

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