第9話 ブラコンがただの風邪な世界で、陰謀論者に反論する兄の話

「い、一体何を言ってんですか、祥子先輩。いや、確かに俺は妹のブラコンの特殊さに悩んでいましたが、ブラコンがただの風邪であることは否定できないでしょう。そんな疾患はないって……んなこと言われても、現に存在しているわけですから、ブラコンは。ブラコンが風邪じゃないなら、じゃあ何だって言うんですか」

 あまりにも意味のわからんことを間近で叫ばれたせいで人生史上最高に戸惑いながらも、俺は何とかその発言のおかしさを指摘してやる。いや、こんな、この世の常識を指摘しなきゃいけないことがもう意味わからんのだが。『太陽なんて存在しない!』と太陽の下で叫んでいる狂人を説得しているようなもんだ、これは。

「ブラコンはブラコンだろう!? 感染症ではなくフェティシズムの一種だ! ちょっと待て、詳しい説明はウィキペディアに任せるから! …………フハハっ、そうだった、世界中おかしくなってるんだった! フリー百科事典どころかWHOも国立感染症研究所もブラコンを感染症扱いしていやがるッ!」

 スマホを床に叩きつける祥子さん。突然笑い出したりブチ切れたり、情緒が不安定すぎて怖い。

「あと敬語はやめろ」

 あ、そこはやっぱり譲れないんだ……。

「いや、あのですね先輩、じゃない、あのな祥子さん。そりゃ感染症扱いするだろ、ショボいとは言え、紛れもなく感染症なんだから、ブラコンは」

「……いつ、からだ……?」

「は?」

 力なく項垂れながらも、祥子さんは言葉を絞り出すように問うてくる。

「いつからだ、君の認識の中で、ブラコンがただの風邪の一種になったのは。いつからだ」

「いつからって、そんなの……」

 何ていうか、あまりにも当たり前のこと過ぎて、回答に詰まってしまう。こんなことは敢えて調べたこともなければ学校で習うこともない。本当に常識でしかないのだから。

「とにかく大昔からだろ、風邪みたいなもんなんだから。感染症が生まれたときから? うん、つまりはまぁ、人類がコミュニティを形成し始めた頃なんじゃねーの。群れ始めたときからずっと、ブラコンっつー伝染病と付き合ってきたんだろ、人類は」

「そんな種は……滅ぶ……ッ! そんなド変態種が食物連鎖の頂点に立てるほど、自然界の生存競争は甘くない……ッ!!」

 瞳孔をかっ開いて訴えてくる祥子さん。相も変わらず怖すぎる。

 怖すぎるが、真に迫っていることだけは確かだ。まず間違いなく、この人は本気で言っている。決して俺を騙そうとしているわけではない。本当の本当に、ブラコンなんて感染症はこの世に無いと、信じ切ってしまっているのだ。

 不思議だ。そんな妄想に囚われてしまうようなことがあり得るのだろうか。例えば、『この世が、ある特定の黒幕に支配されている』的な妄執自体はまだ理解できるのだ。『黒幕のせいで、自分はこんなにも苦労している』と、自らの不遇を他人のせいにすることによって心の安定を図る――それはある意味、合理的な精神構造だと思う。

 しかし、ブラコンなんていうただの風邪が存在しているか否かなんていうことは、この人の人生を何ら左右させないはずなのだ。ブラコンが風邪ではないなどと敢えて思い込まなければいけない理由が、どこにも見当たらない。

「祥子さん、質問をまんま返すようだけど、あんたは一体いつどこで、どんな経緯でそんな妄想に憑りつかれちまったんだ?」

 ここで会ったのも何かの縁なのかもしれない。いろいろとあまりにも不憫だし、話くらい聞いてやろう。抱えている不安を思う存分吐き出せば、少しは気分も晴れるだろう。さっきまでと完全に立場が逆転したな。

 祥子さんは「はぁ、はぁ」と肩で息するように呼吸を整えてから、

「こちらこそ回答をそのまま返すようだが、大昔から、元からだ。元からブラコンはフェティシズムであって、感染症であった瞬間など存在しない。……そのはずなのに、何故かいつの間にか、『ブラコンはただの風邪』という認識が人々に根付いた世界になっていたのだ……。ボクが十九年間生きてきた世界にそんな常識など存在していなかったのに、ある日何故か病院のベッドで目覚めると、世の中の認識が変わっていたのだ……」

「入口からいきなり雲行きが怪しすぎるな」

 病院て。絶対精神病棟だろ、それ。

「そして信じられないことに。実際に、兄弟に執着してしまうという症状が現れる感染症のようなものが、社会に蔓延していたのだ。いや、万歩譲ってそれは良い。未知のウイルスが誕生することぐらい、人間社会では起こり得ることだろう。さすがにこんな症状を引き起こすウイルス性疾患なんてあり得ないはずだが……それこそ、人工的に作り出すことなら、もしかしたら……まぁそれも本来なら馬鹿げた話なのだが、実際に存在してしまっている以上、それはもう仕方ない。それだけだったら、ボクだって受け入れるしかなかったと思う。しかしっ! おかしいのはここからだ! 何故か人類はッ! このブラコンとかいう意味不明な感染症がッ! 元からこの世に存在していたとッ! 当たり前のように思い込んでいるッ! ボクの知らぬ間に、世界が――歴史がっ、人類史が書き換わっていたのだッ!!」

「祥子さん、何か食べたいものとかあります? 千円までなら奢りますよ、俺」

「可哀そうなもの見るような目を向けるなッ! あと敬語やめろ」

 だって同情を禁じ得なかったんだもの。この子を一人のまま世間に放り出すのは、地域社会の一員として間違っているのではないだろうか。周りみんなで寄り添ってあげるべきだ。友達には絶対なりたくないけど。

「だから何だ、その目は。言っておくがな、ボクだけではないんだぞ、この事実を正しく認識出来ている人間は。ボクにだって仲間がいるんだ」

「あ、そっか。そういやあんた、陰謀論者の団体みたいなのに所属してるわけだもんな。あの団体の構成員はみんな祥子さんと同じ妄想に憑りつかれてるってことか。怖っ。確かデモとか言って、二十人近くはまとまって練り歩いてなかったっけ」

 ワイドショーか何かでちょっと取り上げられてた気がする。あの中にこの人もいたのか。

「いや、あのデモ参加者は違う。あいつらはボクが金で雇っただけのバイトだ」

「何やってんだ、マジでこの人……」

「仕方ないだろう、世の中に訴えていくために、手段など選んでいられなかったのだから。真の同志たち――ボクと同じようにこの世界のおかしさに気付いている五人は、招集困難なのだよ……」

 心から残念そうに祥子さんは肩を落とす。

「いやていうか結局五人しかいねーのかよ、世界の真実に辿り着いた天才様たち」

「ボクを含めて六人な。でもこれは、あくまでもボクが把握している限りの数字、つまりはネット上でコンタクトを取れた人数でしかない。実際にはもっといるはずだ。ただ、直接は会えていないのだよ。何しろ、五人中四人は海外在住の外国人、一人は札幌住みだからな。しかもボク以外は全員ご老体ときたもんだ。とてもじゃないが、気軽に北関東まで来てもらうわけにはいかんだろう? ボクもこの時期にいきなり北海道やボストンに向かうのはちょっとな……ネットを通して意見交換自体は出来ているわけだし」

「全員ご老人って……それはもう答え出てんじゃねーか」

「認知症ではない! フミさんはお体は良くないようだけど八十代でネットリテラシーを身につけてボクと繋がった聡明な女性だ! そしてボクはピチピチの十九歳高校二年生だッ! 訂正しろ!」

 ピチピチの十九歳高校二年生に騙されて陰謀論にハマった八十代女性を、果たしてネットリテラシーを身につけたと評して良いのだろうか。

 何かもう、親身になってやってる場合でもねーのかもな。被害者出てるわけだし。フミさんのご家族に幸あれ。

「わかったわかった、確かに高齢だから間違ってるなんて決めつけは差別的で良くないよな。それは謝る。でもよ、祥子さん。冷静に考えて、この世界で六人強だけが持っている認識と、残り八十億人弱が持つ認識――どちらか一方だけが正しいとしたら、それがどっちなのかはもう、明白だろ? おかしくなってるのは、六人の方だと考えるのがごくごく自然なんじゃねーの」

「そ、それは……っ、いや、しかし……!」

 痛いところを突かれて狼狽える祥子さんを前に、俺はついついため息をついてしまう。

 正直、がっかりだ。俺の悩みを解決するためのヒントが、もしかしたらこの人の中にあるんじゃないかと、淡くではあるが期待していたのに。

 だって、ブラコンというものに対して微かな違和感を持ち始めていたという点では、俺と共通していたのだ。いやこの女の場合は全然微かなんてもんじゃねーけど。あまりにも意味不明だったけど。そもそも根本的な捉え方からして……

「あれ? そういや、デモとかあのビラにあった祥子さんの主張って、『ブラコンは生物兵器!』とかいう陰謀論じゃなかったっけ。確か、世界のシステムを根本から変えるためにばら撒かれた人工ウイルスなんだろ? 今あなたが語った、『ブラコンウイルスという概念自体が存在しない』っつー主張とは違う話になっちゃうんじゃないか?」

 今さら気づいたが、うん、そうだ。仮にブラコンが人為的にばら撒かれたウイルスだったとしても、それが、『人類が昔からブラコンがあったと勘違い』するという現象には繋がらない。人間の認識を根本からひっくり返してしまうなんて、それはもはやウイルス性疾患と呼べるのだろうか。

「そこに気付いたか、青年……! やはりボクの人を見る目は間違っていなかったのかもしれない……! あれはボク達の作戦なんだ。黒幕を炙り出すための、な。あえて、矛盾を残している」

「黒幕を、炙り出す……? 矛盾を、あえて……?」

「ああ、表向きには真相は明かしていないんだ。我々が掴んでいる情報のごく一部だけを、それも誤謬を織り交ぜながら晒し、敵方の出方を伺っている。いわば、カマかけってやつだよ。危機感を覚えてこちらを探ろうとした黒幕は、必ず何らかの方法でボクに接触してくるはずなんだ。その際、ボクらがまだ解禁していないはずの情報に基づく言動がそいつからこぼれ出れば……黒幕の正体を掴めるって寸法さ」

「…………っ、生物兵器だ何だってのは、ブラフだったのか……」

「ああ。そんなものは荒唐無稽だと、当然ボクだって分かっている。あえて馬鹿なフリをしているわけだ。罠を仕掛けるのなら、その外観はチープなものにする必要がある。こちらの存在に気付かせつつも、警戒はさせ過ぎたくない。油断でもしてもらわない限りは、奴らの強力な武器には……いや、話し過ぎたな。これ以上は外部に漏らすわけにはいかない……」

 その重い語り口に、俺は息を呑む。

「ただ、君になら。間違った常識に疑問を抱くことが出来て、尚且つこうしてボクに辿り着いた、選ばれた側の人間である君になら……うーん、でもさすがに機密情報に触れてしまうのはなぁ……」

 意味深に呟きながら、チラッチラッとこちらに何か期待を込めた視線を向けてくる祥子さん。

 対する俺の方も、正直興味を惹かれてしまっていた。何か深い理由があるのは確かなようだ。もしかして本当に、単なる陰謀論なんかじゃなかったのか?

「……聞かせてくれないか、祥子さん」

「え! ホントに!? やった! あ、でもなぁ、これ、ガチで世界の暗部に触れるやつだし……漏れたら命に関わるし……」

「絶対誰にも漏らさないと約束する」

「でもぉ。青年がいくら特別な人間で頭が良くてイケメンだって言ってもぉ。結局は赤の他人でしかないわけだしぃ」

「あんたの考えに少しでも頷ける部分が、いや、頷けなくても考慮に値するだけの要素が含まれていたのなら――仲間になると約束する。その時は、ぜひ祥子さんの団体に七人目のメンバーとして加えてくれ。あんたと直接行動を共にできる、初めての仲間だ」

「青年きゅん……! しゅき……!」

 かなり危うい道に足を踏み入れてしまった――その自覚はある。

 しかしそれほどまでに、俺は追い込まれていた。もはや選択肢が、他に縋れるところがないのだ。真雪のために、俺を縛り付けるこの違和感を解消するために、ちょっとでも手掛かりがあるのなら。それがどんだけ胡散臭くても、飛びつかずになんていられねぇ。

 祥子さんも、輝かせていた顔を再度神妙なものへと戻し、

「覚悟はいいな、青年。これを聞けばもう、引き返せはしないぞ?」

「わかった。聞かせてくれ、祥子さん。いや、リーダー」

「よし。ボクも覚悟を決めた……君と共に戦っていくと。いいかい、青年」

 俺がゆっくりと頷くのを、しかとその目で認めて――祥子さんは、ついにその、隠された秘密を明かす。


「――電磁波なんだ。人類は電磁波に脳を操られているんだ……ッ!!」


「真雪起きろー、帰るぞー」

「待て待て待て、待ってって! 帰らないでって! お願い青年っ! ボクを一人にしないで!!」

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