地に潜む空の王
彼は浮遊感を味わっている。かつて夢の中で感じたような、ネットの動画で見知らぬ誰かと共有したような、あの感覚を。しかし自由落下運動とは違う。どこからどう見ても落ちているだけであるが、この現象に見舞われている本人は何かに包まれているような、絶対的安心を感じていた。
「──うおっ!」
勢いのまま背中を打ったため、壮絶な痛みが襲ってきた。しかしどういうわけか、それは一瞬なものであったのだ。おかしいと思うほど、すぐに和らいでいく。骨が折れた感覚もなければ、肉が裂けるような鋭さもない。
彼は身体を起こす。
そこは、先程までいた場所とは全く違う空間。洞窟のような場所で、ただただ暗いものであった。落ちてきた穴の奥から差し込む光で、足元がほんの少し照らされているくらいだ。見上げればそれはまるで、月の光のようであった。
地面には土塊。おぞましい形をした腕のもの。色は黒く、先程自分を引っ張ってきたものだと、彼は理解した。
「これがクッションになったのか?」
陵は独りごつ。
立ち上がろうとすれば、ふらつくこともなくすっと足が出る。足腰に問題はないようだ。しかし背中の大剣によろけなかったのは初めてである。まるで重力ごと違うかのような体験だ。
やはりどこか変だと思いつつ、辺りを見回してみた。先程の土塊と、石の壁と、奥へ続く道。それだけしか見当たらない。
彼は立ち上がり、歩き出す。奥へ進めば進むほど、何やら音が聴こえてくるようであった。それもかなりの轟音。落下地点まで聴こえてこなかったのが不自然なほどだ。しかし正体の特定に時間はかからない。化け物を狩るために山に籠もったこともある彼にとって、聴き馴染みのあるものだったからだ。
「滝の音か」
それはまさしく水が流れ落ちる音。ポジティブにしたり、癒やしたりする効果があるらしい。彼の目が真っ直ぐなのはこれが元だろうか。
彼はさらに前進し、ついに光を見た。縦に細い光だ。穴の出口である。一人がやっと通れるほどのものだが、先を覗くには十分であった。
隙間から目に入った奥の景色に惹かれた彼は、そのまま警戒も忘れて飛び込んだ。
「すげえ……!」
思わず声が出た。
目の前に広がるのは、白い空の下、山々に囲まれた盆地。自然溢れる世界。恐竜だって現れそうな猛々しさ。
陵の目を奪ったのはそれだけではない。
「すっげえ! 遺跡がある! こんなところに!」
彼の言う通り、低地の中央には古めかしい建物群が。それはまさに、太古の昔に栄えた文明の跡そのものであろうか。
彼は一目散に駆け出したかったであろう。が、彼のいる場所は岩の高台。とても軽い気持ちでは降りられない絶壁だった。
仕方なく、彼はポケットから双眼鏡を取り出す。優れた退治員は敵の偵察を欠かさないのだ。
「浪漫溢れるね、こいつは。男の子の冒険心、擽られちまうなあ!」
思わず「グッド」とガッツポーズをしてしまうほどに、今の彼は興奮していた。かつて穴に落ちた元治という男も、彼と同じ気持ちを抱いたに違いない。
陵はしばらく、その光景に見惚れていた。そして突然正気に戻るのだ。
『お前の兄は元気である』
「おっと、忘れちゃいけねえ。元治って人に会わなくっちゃな。つい興奮しちまった」
かの老人と握り合った右手を、再び見つめる。しばらく経った後だというのに、まだ強く握られた跡が残っていた。
「……行くか」
この岩山に沿って続く道。彼に行く宛はないが、歩き続けていれば見つかるものもあるはずだ。水場があるのならば、近くに文明が発展していてもおかしくない。その案が駄目になったなら、どうにか山を降り他を探すまでだ。
「道なら、いくらでもあるんだ」
やってやる──。
決意を新たに、足を進めようとした瞬間。どこからかおぞましい奇声が耳を劈いた。超高音波でも発されているような、脳を揺さぶられる感覚に襲われる。
「またか」
陵は身構えた。大剣は背負ったままだが、拳を強く固めた。彼は逃げも隠れもしない。向かってくる邪魔者は徹底的に相手をしてやるのだ。そうしなくては、いきりたった自分を鎮めることはできないだろうから。
そして、空を切る音が聴覚を擽る。
「ここだ」
飛んできた敵の気配を感じ取った彼は、すぐさま迎撃した。左脚を軸に右回転。遠心力をつけた裏拳が何かとぶつかる。
「──ギギャッ!?」
視界の端に映るのは、鶏程度の大きさをした怪鳥。奴の首周りに生えた棘のような突起物が腕に刺さる。しかし彼はそんなものに狼狽えたりはしない。振り切って、岩壁へとぶつけてやった。
「こいつか。群れて行動するんだよな、確か」
崖外へ向き直り、垂れる血を振り払った。遠方に見えるのは、先程の奴の類似品。ただ一匹だけ、他の何倍もの巨躯を誇るものだ。
「あのサイズは見たことねえな。そういや、いつもは回収されて調べることができなかったけど……あの鳥、食ったら美味いのかな」
半日程何も口にしていないせいか、腹が減っているようだ。陵の喉が鳴る。
「よっしゃ、今日の晩飯……いや、朝飯だ。覚悟しろ化け物共」
陵は大剣を構え、同胞の復習に燃える奴らを待ち構える。
「かかってこい!」
勢いよく飛び出したのは、化け物のほうであった。
奇妙な叫び声をあげて次々と飛来する化け物は、まるで弾丸のようであった。一つ一つの鉄砲玉は大きく、弾き返すことは容易に可能だ。しかし腕に響く衝撃は、一撃で骨が砕けてしまいそうなほど強力である。
「くそっ、面倒くせえ、まとめて相手してやらぁ! 来やがれ!」
陵は雄叫びをあげ、敵を挑発した。しかし次の瞬間、彼は自らの軽率さを後悔することになる。
「……デカすぎるだろ」
眼前に現れたものは、先程の敵とは比較にならない大きさのものだった。
それは、翼を広げた姿であった。全長二十メートルは下らないであろう巨大な影が、陵を覆い尽くす。
呆気に取られた陵だったが、すぐに正気を取り戻して飛び退く。直後、彼の立っていた場所に巨体が衝突し、轟音と共に土煙を巻き上げた。
「危なかった……」
冷や汗を流している間も、雑兵は鋭い嘴を以て飛び込んでくるのだ。避ければ勝手に足場の岩に追突してくれるのだが、それと巨鳥の攻撃の両方に気を配るとなると、さすがに限界があった。
更には攻撃も届かない。回避により怯み、そして再び武器を向けた頃には、天高く飛翔するあいつが楽しそうに騒いでいる姿を見せつけてくるのだ。仮に避けると同時に巨剣を振れたとしても、それは羽毛を少し梳くようなものに終わってしまう。
それだけではない。突撃し、岩と共に頭蓋骨を砕かれ、酷い姿となってしまった鉄砲玉が心を抉ってくるのだ。
「同胞は捨て駒かよ……!」
鳥と人間は違う生物、違う生態。そんなことはわかっている。しかし仲間を特に大切に思う彼は、この死体だけでも胸糞悪く感じるのだ。
時折、巨鳥の攻撃により仲間が吹き飛ばされてしまうこともあった。岩に打ち付けられる者や、崖下の森に落ちて消える者、壁から生えた木に突き刺さる者もいた。奴はそんな無様な死に方を見るたびに、燥ぎ、笑うかのように鳴くのだ。
鳥と人間は違う生物、違う生態。そんなことはわかっている。しかし仲間を特に大切に思う彼は、この死体だけでも胸糞悪く感じるのだ。
時折、巨鳥の攻撃により仲間が吹き飛ばされてしまうこともあった。岩に打ち付けられる者や、崖下の森に落ちて消える者、壁から生えた木に突き刺さる者もいた。奴はそんな無様な死に方を見るたびに燥ぎ、笑うかのように鳴くのだ。
「お前ら、あんな野郎の下に付いてるのか」
転がる骸たちを、彼は可哀想と考えた。そして気づいた。あの巨鳥以外、誰一人笑うような声を発していないことに。地上にいるときは鬱陶しい程に鳴いていた奴らが、覚悟を決めた目をしていることに。
「……いいか、鳥野郎」
陵は、剣を奴に向けた。
「いいか鳥野郎ッ! 俺は仲間のことを道具としか思わない奴が嫌いだ! お前が俺と違うのはわかる。だがそんなもんは関係ないね。滅すべき悪は徹底的に淘汰する、それが人間だ!」
言葉が通じるかはわからない。それでも陵はこう言わずにいられなかった。
鳥は笑う。あの悍ましい声で。絶対的に安全な位置から、彼を嘲笑うのだ。
「見下しやがって」
しかしあの化け物は失念していた。まさか自分自身で飛び道具を作っていたとは、思わなかったのだ。陵の足元にある、砕かれた大量の石。手頃な形があるかどうか、それは考えるまでもないだろう。
投げられた軌道は一直線、奴の巨体を浮かす手羽元に向かい、その身に包まれた骨を粉砕しに行った!
グガアッと驚きと痛みの合わさった声をあげバランスを崩すものの、崖下へ落下させるには至らない。この鳥は憎たらしくも器用に体勢を立て直してきやがるのだ。
だが、成果はあった。
「ようやく、同じ目線だな」
奴を本気にさせる材料として、十分すぎるほどの効果を発揮した!
野生の本能という冷静さは掻き消えた。ここまでおちょくられて、奴はようやくブチ切れたのである。
「さあ、なんだって来い」
最大の警戒心を持って、陵は大剣を構えた。しかしそれ以前に、怒り狂った生物の行動の一つに何があるか。彼はそれを考えていなかった。
巨体は、ボロボロになった崖を、その岩の壁を、怒りのままに破壊したのだ。たった一撃でそこに岩がなくなったかのような跡を残し、彼は空中へ放り出されてしまう。
咄嗟の判断で前に跳ねた。真下は陸、すぐ近くに河。彼は自ら、空中へ身を放り出したのだ。しかしこの判断を悪手のように思うのは、私だけだろうか。無防備に等しい状態の彼に、雑兵たちが突き刺さる。
「ぐあっ!?」
壮絶な痛み。しかし死は怖れなかった。それよりも、彼は覚悟を持っていた。奴を確実に討つ、覚悟を。
憎き相手が胸の辺りを通って落ちる様子に笑い狂う巨鳥。『勝った! このまま落ちて死ね! ごみ虫めが!』と言いたいことが伝わってくる見下し顔。勝ちを確信していた。
腹に深々と大剣が突き刺さるまで、その表情は乱れなかった。
陵の狙いは最初から、避けることではなく攻撃することにあったのだ。たとえ自分が落ちようとも、こいつだけは道連れにしてやるつもりだった。
いいや、道連れではないのかもしれない。彼の視線は河にあった。鳥を踏み台として河に着水しようとしているのだ。姿勢を間違えれば、この後の鳥と同じ結末となるであろうに。
大剣の柄を足場に、彼は巨鳥の上に乗る。
「ギアッ! ギャイッ!」
「くれてやる、その大剣。来世で使いな!」
そして勢いよく、抗える最後の力で、奴の背骨を踏みつけた!
奴は断末魔をあげながら墜落していく。悲痛、怒り、絶望。すべてが入り混じった叫びが、巌山に響くのだ。
男はそれだけを見届けて、溢れ出る血と共に大河の中へと消えていった。
主も敵も失った鳥たちは、その墜落先を一瞥し、一斉に飛び去って行った。
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