落ちて、届かぬ
爺は大穴の縁まで行く。その腕に立つ鳥肌は寒さからではないだろう。彼は二人に目を配りながら言った。
「……ここだ。ここから出てきたんだ」
空気の抜ける音。まるで、穴の中から何かが呼ぶような。見るたびに思い出されるあのトラウマは、五十年も変わらずそこに存在し続けていた。
「雅人、近づいちゃいけんよ。危ないからな」
「うん、おじいちゃん」
「……すげえ」
陵は大穴を覗き込みながら呟く。その顔には恐怖の色が浮かんでいた。
彼の表情の変化に対し、爺はなにか気になるものができたようだ。初めは漠然としていたが、すぐに一つの疑問へと行き着いた。
(なぜ穴について知らぬのだ)
五十年前の駆除のあと、かつての政府が穴についての公表を渋ったのだろうか。なぜ渋ったのか? 今の状況も予測し対処できたのではないか? いくら考えようとも、新聞を読まない彼には予想もつかなかった。
「大きさは成人二人分くらいっすけど、照らしても先が見えない……。地球の裏側まで続いてそうっすね」
穴を見つめるたびに、むしろこちらが見つめられているような感覚に襲われる。かつて弟を飲み込んだ闇は、今もなお健在だった。考えてみれば当然であるのだが。
「クマは鋭い爪を隠し持っておった。それを使って、この壁から登ってきたんだ。奥に水分があるのか、色々な微生物が湧いてぬめりが出ておるようだな。もう、登れたもんじゃないな」
おそらく、先程のクマはしばらく前に登ってきた個体なのだろう。よく木々の間に潜めたものだ。
「相当な距離っすよ。あいつ、これを登ってきたんすか。あの図体で……」
「ああ。……と、そういえば、この辺りは少し暖かいな。こんな夜中で雪山の中だというのに」
「あ、確かに。ちょっとじんわりしますね」
穴の奥底から漂う熱が肌に触れるたび、不思議と気分が落ち着くのを感じた。それはまるで、弟と談笑していた時に感じていた暖かさようであり、爺にとってはとても懐かしいものであった。
「穴が暖まってるんすかね」
「ああ。だが本当の熊も冬眠するような時期だ。土の中、ましてや剥き出しの穴が温かいわけがない」
陵が「だよなあ」とでも言うかのように頷きつつ、温もり伝わる穴の中を覗き込んだ。
「じゃあなんで──」
「おじいちゃん」
彼らが話に夢中になっていると、いつの間にか雅人が近くに来ていた。
「これ! 危ないから近づいちゃあいけんと言うたろう!」
「ご、ごめんなさい!」
「無事なら良い……。何か気付いたのか」
「うん。おじいちゃん、穴の周りを、柵で囲ったんじゃないっけ?」
「そうだ。穴から出られないように、クマ討伐の際に伐った木で作ったんだ。……失念しておった。柵が消えとる!」
彼もようやく気がついたようだ。そう、五十年前に村の者たちで作った柵が、弟が消えた日に打ち立てた囲いが、跡形もなく消失していたのだ。あの日の記憶は弟のこと以外なく、柵なんておまけ程度であったために考えていなかったのだろう。
「五十年前だから腐食してしまったのか。当時の技術とはいえ加工はしたはず。おれの村は建築技術もあの時代にしちゃ進歩していたから、たとえ木といえど五十年程度で崩れるような脆さではない……」
「引っこ抜いたんすかね、化け物が」
「ああ。いや、相当に深く杭を打っといたはずだ。もしやあのクマが」
「ありえるっすね。深く埋めても引っこ抜く可能性は……でも、それならへし折るだけで通れるようにならないっすか?」
「確かにその通りだな。杭を抜くという知能があろうがなかろうが、その結論に至れるはず……」
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりであった。穴の周りで不可解が起こり続けるせいか、穴に感じていた気味悪さがさらに増すばかりである。
「ほんと、よくわかんないっすね」
無防備にも、陵はまた覗き込んだ。その一瞬の出来事である。
奥底から、ヘドロのような色をした腕が伸びてきたのだ!
そして、自らの強さから油断しきっていた彼の肩を掴み、穴の底へと引きずり込む!
「うおおおっ!?」
しかし彼は驚異的な反射により、差し出されていた爺の手を掴んだ。すぐに全力で肩についた謎の手を振り払い、彼はなんとか事なきを得た。
「リョウくん!」
しわがれた声が叫んだ。そのぼやけた視線の奥には、無数の手が穴の中から伸びている光景。あの日の恐怖に似たような粘っこい何かが、彼の腕を震わせる。それでも彼は友の手を握って引っ張った! もう繰り返すのは、絶対に嫌だったのだ!
「ぼ、ぼくも手伝う!」
「奴らを退かすための木の枝を持ってきてくれ! 近くに大きな枝があるはずだ」
「わかった!」
雅人は辺りを見回し、ちょうど良さそうな一本を見つけた。程よく長く、強靭そうな枝を!
彼は急ぎ駆け寄って、引っ張ろうとする……だが、いくら掴んでも手応えがない。まだ、まだと掴めば掴むほど、枝はほろほろと崩れていく。泣きそうな彼の小さな手のひらには、木屑と──白い虫がいた。
「木が持てないよお! こんなに立派なのに、すぐ崩れちゃうよお! 真っ白い虫が、食べちゃってるんだよお!!」
幼子が泣いたところで、どうにかなるものではない。おそらく柵を食い尽くしたであろうそいつらは、辺りの枝という枝をすべて屑に変えていた。
その間も老骨は引っ張り続ける。しかし既に執念の手は、抗う者の足首を掴んで縛り付けていた。
「この壁のぬめり、蠢いておる……! こいつはまさか、君がさっき言っていたアメーバのような化け物か!」
「……そうっすね」
彼の声は小さかった。奴らの包囲網に気付き、もう諦めたのか? いいや、この安野陵という男、諦めだけは悪かった。いったいなにを考えているのだろうか。
「どうした、どうしたというのだ!」
「弘治さん。雅人くん。もう、ここまででいいっすよ」
「何を言っておるんだ君は! そんな状態で、自分の命が失われても良いと言うのか!」
だんだん弱くなっていた老人の力も、この瞬間だけは息を吹き返した。恩を恩で返せずしてなにが人間か、と。
「命……っすか。全く違う命っすけど、あのクマも、この穴から出てきたんすよね……」
荒い息遣い。彼の力でさえ、ずっとこのような環境で保ち続けることはできないということだろう。しかしながら、何故か絶望だけは感じることができなかった。
「そうだが……ぐうっ……」
「あんなでかいクマでさえ暮らせる環境が、あるってことっすよね……」
「ああ、そうだろう……だが、あのクマだからこそ暮らせる環境なのかもしれん……! 今からでも遅くはない。君だけでも助かるべきだ!」
「この穴に入ったら死ぬなんて、最初にほざいたのは誰っすか……?」
「それは……」
「俺はこの運命を、甘んじて受け入れます。もしも落ちて無事なら、そのまま生き延びれるかもしれない。ここに戻れるグッドなチャンスが、いつかあるかもしれない……ッ!」
そう、彼の瞳が力に溢れていたから。
「馬鹿者! おれは、せっかく知り合ったお前まで失いたくない!」
「失わねえ!」
陵は吠えた。それは、心からの叫びだった。
「俺は……強いッ!」
彼の眼光は、闇の中でも輝いていた。その輝きの源は、生き延びてみせるという決意、そして自らの強さが通じると信じて疑わない自信。その二つが合わさった、力強い意志であった。
「……戦友よ! お前に頼みたいことがある」
「なんだ!」
「おれの弟に元治ってのがいる。五十年前、この穴に連れ去られた大間抜けだ! そいつを探して、伝えてくれ。『お前の兄は元気である』と!」
「ああ、引き受けた。お孫さん、いい子に育てろよ」
「……頼まれた」
遂に弘治は、手を解いた。同時に勇者は暗闇へ呑み込まれていく。しかし彼の親指は最後まで立っていた。信念という光の一筋は決して折れず、そしてまっすぐ、一つの心を若返らせた。
漢の別れに涙はなかった。
「おじいちゃん……」
穴に対して背を向けていた爺に、孫が歩み寄った。彼の顔に浮かんだこの世の終わりかのような表情を、しわまみれの微笑みで優しく胸に埋めてやる。
彼は気になることをいくつもいくつも尋ねるが、老人から返される言葉はない。しかし代わりに、冷たく濡らされた柔らかい頬を、いつまでも優しく抱きしめていた。
***
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