雪に溶けぬ怪物
「今でもおれは、あいつの顔の幻影を見るよ……。あんなことがあってから、おれは二度と穴に近づくこともなかったし、元治の墓も作らなかった。おれはただの臆病者だよ。弟に先立たれたくなくて、墓を作れないんだ」
気丈だったはずの老いぼれは、今や枯れ果てた涙を目に浮かべている。減っていないパンが、落ちた雫を吸い取っていた。
「おれはただの弱虫だ。だから鍛えた。鍛えに鍛えまくった。そうして得た強さで、村を守ると決めたんだ。元治を守れなかった分だけ、他のもんを守りたかった。それで……それで…………」
声にならない嗚咽を漏らす老人の頭に、よくわかっていない孫は犬に対してやるような撫で方をやっていた。
「よしよし。おじいちゃん、よしよし」
「うぅっ……ぐっ……ありがとうな。お前のおかげで、少し気が楽になったわい」
彼は涙を拭い、孫の顔に浮かんだ暗さを照らせるほどの笑顔を向けてやった。
「さて、飯にするぞ。ここの木々も、切り倒されてなおこうして蘇っているのだ。おれも立ち直らなくちゃな。ほれ、ただの乾燥したパンだが、たんと食え」
「うんっ、いただきます!」
元気な返事と共に、孫がパンを手に取ろうとした瞬間のことである。妙な声が聞こえてきたのだ。
大きな生物のいびきに聞こえるが、そんな呑気さは微塵も感じない。今にも発進しそうなバイクのエンジン音の方が似ているだろう。だが機械が出せていい代物とも思えない。何より聴き慣れていないはずの音であれば、この爺が拳を握りしめることもないだろう。
「おじいちゃん、これなんの音?」
「耳を塞いでいなさい。孫まで同じ声に恐怖するようになるなんて、決してあっちゃいけない」
全て駆除したはずの奴ら。しかし穴に逃げた者以外に、一体だけ取り逃していたようだ。
あれとは全く違う五つの眼光。違う個体といえど、その威圧感は共通であった。
「この鳴き声、彼奴ではないな。だが、おれの力量が通じるかどうか、確かめるにはもってこいだ」
彼は一点を見つめる。恐れなんてなかった。木々の軋む音に対し、物怖じをしていない。むしろ獲物の近づく音にいきり立つかのようだ。
その腰は真っ直ぐだった。先程の痛みは完全に忘れていた。忘れられぬ恨み、はたまた負けられぬという信念、もしくはその両方が、異常なまでの回復力を引き起こしたのだろうか。
静寂の中に聴こえる雪の音。張り詰めた空気は、水面を覆う氷のごとく。遂に、雄と巨悪は相対する。
獲物の姿が見えた瞬間、男は殴りかかった。彼にとっては力任せのものだが、そのフォームに無駄はなかった。確実に仕留めたいという思いが、彼に眠る格闘家の才を呼び覚ませたのだ!
「すごい! おじいちゃんかっこいい!」
孫の口から感嘆の声が出た。それはそうだ。祖父が、一軒家をも超す巨大なクマの表情を変えたのだから。
「まだまだ!」
鋭い蹴りや殴りで応戦する。クマの動きは鈍重だ。攻撃は当たる。しかしながら、この力を持ってしてもクマは多少の怯みしか見せなかったのだ。
「はあっ! はあーっ!」
息切れが激しい。当然だ。あの巨体を一人で相手しているのもそうだが、寄る年波には勝てないのだ。いくら彼が鍛えていたとしても、体力は無限ではない。
「はっ、はっ、はっ……」
クマが攻撃を仕掛けてくる。見た目に似合わぬ俊敏な連続攻撃だ。一寸先で躱すのが精一杯なほど。しかし彼の心は折れることはなかった。常に相手の穴を探し続けていた。
「まだ、終わらんよ……」
再び構える。その時であった。急に右足の力が抜け、冷たい地面に手を付けてしまった。悪魔はその隙に対し微笑みを見せる。そして、ゆったりと振りかぶるのだ。
「おじいちゃん危ないっ!!」
孫が爺の前に飛び出した! 無論のこと、その小さな体ではどうすることもできない。
「やめろ!」
彼は孫に這い寄り、そして後方に投げた。
「お前は逃げろ、逃げるんだ! おれが──」
野生に慈悲はない。クマはその鋭い爪を、爺に向けて振り下ろした。彼は七十に近くなって、初めて走馬燈を見る。孫と紡いだ思い出、忘れられぬ弟の顔、今も家で待ち続けている妻と過ごした日々。全てが輝いて見えた。
「すまない元治。おれは、お前のもとへ行くよ」
次の瞬間、肉を引き裂く音が聞こえた。だが痛みは一向にやってこない。不思議に思った彼は、ゆっくりと目を開けた。
背中から血を噴き出すクマと、宙を舞う一つの人影。その姿に、つい昔読んだ神話に登場するような戦士を重ねてしまう。幼い頃で内容も覚えていないというのに、何故だか一枚絵だけが印象に残っている。あの絵のような光景を、彼は見ているのだ。
「グッドっすよお、爺さん! もうあんたらは助かりました!」
そう言いながら、謎の青年は地面に降り立って雪を周囲に撒き散らした。その肩に、背中が覆えそうな程大きい剣を担ぎながら。
「なんか疲れてそうなのは、爺さんが時間稼ぎしてくれたんすか? マジでグッドっす!」
若者は右手の親指を立ててサムズアップの形をとった。唖然とする爺さんと、憧れの眼で見る子供。この場には不釣り合いな空気が流れた。
「さあて、あの五つ目は……討伐対象見つけたりってとこだな!」
背中の傷は相当に深いのだろう。化け物の足元はおぼつかない様子だった。それでも逃げようとしないのは、なおも目の前にいる獲物を食らおうとしているからだろう。
「グッドな視線だな、クマ公。来いよ」
言葉の意味を理解しているのか、それとも威嚇と受け取ったのか。クマは彼の挑発に乗った。その大きな図体に似合わない速度で飛びかかる。
だが、所詮は動物の単調な動き。真っ直ぐに振り下ろされた爪を大剣の平地で受け流した。
「力は強いな」
大きく隙ができたところを見逃さず、一回転からの勢いで奴の腹をかっ開いた!
「だが、実力は──俺の方が上だ!」
クマは断末魔を上げる暇もなく、仰向けに倒れた。五つの目はどれも焦点が合ってなく、怪物の絶命を物語っていた。
「恨むなよ。代わりに讃えろ。俺もお前を讃えてやる」
再び立てた親指を向ける青年。健康的に老いた脳でさえ思考が追いつかない異様。爺は呆気に取られて何も言えなかった。
青年はおもむろに取り出した布で返り血を拭う。その手際の良さは、まるで食後に食器を片付ける主婦のように、何度もやったことがあるようだった。
「討伐の証拠は……写真でいいかな」
ポケットから何かの電子端末を取り出し、カメラ機能を起動させる。
カシャリ。無機質な音と共に、一枚の写真が保存される。そしてなにやら操作をしていた。
「よし、証拠提出終わり。……位置情報? 物証必要なのか、面倒くさいな」
「もし、若者や」
ようやく声が出た爺は、意を決して話しかけた。
「はい?」
「助けてくれてありがとう。本当に感謝している。だが一つだけ聞かせてほしい。君は一体何者なんだ」
「俺の名前っすか! 俺は陵、安野陵っす! ただの退治員っすよ!」
彼──陵は、親指を立ててそう言った。
「退治員……? おっと、自分で聞いたとは言え、相手に先に名乗らせてしまうとは。おれも名乗ろう」
彼は頭を掻き、改めて頭を下げる。
「本当にありがとう。おれは鈴木弘治だ。見ての通り、ちょいと大きい荷物を、山を越えた先の街まで配達中でな。休憩中、あいつに襲われてしまった。夜だからこのまま休むが、明日になったらまた移動しようと思っているんだ」
「じゃあ俺も手伝っていいすか? 最近だれかと話す機会があんまないんで、何日かでも同行させてもらえると嬉しいっす!」
この老いぼれは、若者の優しさを思い知った。ついでに、恩人に手を焼かせようとしている自分の愚かさも。また頭を掻きつつ、彼は頷いた。
「ありがとう。ぜひ頼むよ。ほれ雅人、挨拶しなさい」
「え、あ、うん! ぼ、ぼく、雅人です! よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げる孫を見て、爺は微笑みを浮かべた。
「息子たちにひと月ほど任されているんだ」
「なるほど。こちらこそよろしくな、マサトくん。んじゃまあ、まずは寝床探しましょうよ。そこの木陰とかどうっすかね?」
「ふむ、悪くないが……万一雪が落ちてきたら危ない」
「確かにっす。ここの辺りにいるのも、あれの死体があるんでなんか嫌っすよね……」
「そうだな。ううむ、どうするか」
頭を抱えるが、彼らは行動派であった。三人は脚を動かし、ちょうど適した場所を探す。そのうち青年は、白い絨毯が温かく見えるほどの広間を見つけた。
「コウジさん、ここどうっすかね。広くてよさそうっすよ」
「いや、そこは危ない。近くに穴があるんだ。ありえないとは思うが、落ちてしまってはな」
「穴っすか?」
「ああ、先が見えないほど深い穴でな。昔、あそこからあのクマが出てきたんだ」
「へえ、化け物たちは穴から出てきてるのか……」
「そういえば君、退治員とか言っていたな。ようわからんが、あのクマを知っておるのか」
「あのクマはしらないっすけど、種類はあれだけじゃないっすよ。虫とか人っぽいのとか、アメーバみたいなのもいましたね。てか、もしかしてコウジさん、退治員とか他の化け物とかを知らないんすか?」
「知らんとも。配達をしているときでさえ、野生動物以外は見たことない。都会じゃ当たり前なのか」
「そうなんすよ。たまにどっかから出てきて、街を荒らすんです。その度に、俺みたいな退治員って仕事してる奴が動くんすよ」
「危険じゃないのか」
「あのクマほど強そう、てか実際強いのは稀っすね。でもそんなに厄介じゃないっす。俺でさえ退治員じゃ普通なんで。強すぎるほどなら自衛隊も出ますし」
「確かにな」
「そういや、助けに入ったときのコウジさん、武器を持ってなかったっすよね。もしや、化け物相手に素手で応戦を?」
「ああ。聞く限り、おれは家族をを守れるほどの力を持てたのかな」
「それどころじゃないっすよ! 多分、俺なんかより素質あります!」
「ほう……少しは誇るとしよう」
老人は微笑む。そして自分の掌を見つめ、握った。
「それは置いておいて、これで出てくる原因もわかったのだな。探して……いや、あれくらいの大穴が街にあれば、普通は目立つか」
「大穴なんすか! どれくらいか気になるんで、いいっすか?」
「いいとも。こっちだ」
***
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