手ヲ伸バス、届カヌ光二

立花緋色

雪山に埋もれた過去

 真っ白い地面を踏み締めるたび、毛皮をこさえた老いぼれの靴に、冷たさが伝わる。内臓を覆うものが皮膚だけになったように見える彼には、文字通り骨身に染みるもののはずだ。しかし彼はそんなこと気にも留めない。黙ってリヤカーを引き続けていた。


「おじいちゃん、やっぱりお荷物重くない?」


 問いかけたこの幼き者は、おそらく彼の孫だろう。心配も仕方ない。この荷物は、一人で引くには大きすぎる。タイヤのあたりから軋む音を聞いてか、心配そうに声をかけてきた。


「ほっほ。おれはそこらの年寄りと違うのよ」


 彼は笑いながら答えてみせた。山を越えて届けるにはあまりに多い荷物を軽々と引く、年寄りどころか若者すら驚くであろうその腕力。外見からはまったく想像もつかない。


「ほれほれ、おじいちゃんは力持ちよ、ほれほれ」


 ハンドルを前後に動かしてみせると、リヤカーがガタンガタンと揺れた。


「うわぁ! すごい!」


 幼子は目を輝かせていた。まるでおもちゃを与えられた子供のように、無邪気そのものといった笑顔だ。


「ほれぇっ!」


 前方に飛ばすような勢いをつけて手を離した。これが何の自慢になるかはわからないが、とにかく孫に褒められて調子に乗ってしまったのだろう。


 ただこれがまずかった。このリアカーは他所へ届けるものを運ぶ目的があるため、これ自体が恥とならないデザインをさせる。


 その装飾の一つ、船頭の人魚のように突き出した鉄の闘牛。持ち手のすぐ後ろの壁に取り付けられたそれが、彼の手元から離れたことで、老いた腰骨目がけて真っ直ぐ飛んできたのだ。


「あぎゃあっ!?」


 二つの角、牛の鼻。三点の尖った部分が、老体に深々と突き刺さった。


「おじいちゃん!」


 孫は慌てて駆け寄ってきた。


「大丈夫……おじいちゃん強いから……こんなもん大したことない」


 強がりで言ってみたものの、彼の腰はしばらくまともに動かないだろう。しかし彼は、自分で言えるほどに健康で強かった。この程度なら一晩休めば治ってしまうはずだ。


「ちょうどいい。今日はここらで休もうぞ。お前も疲れたろう」


 彼は孫の頭を撫でると、荷台に積んだ火打ち石と火打ち金、紙、そして辺りから様々な太さの枝を持ってこさせて、腰を気にしつつ火を起こした。湿っているはずの枝が、すぐに小さな明かりを焚く。孫はそれを見守りながら、保存食の乾燥パンを差し出した。


「ありがとうな。そうだ、このパンをツマミに、この辺りであった昔話をしたい。いいか」


孫はうん、と大きく首を縦に振って、祖父の話を聞く体勢になった。


「あれはまだおれが若い頃の話だ。ここのあたりは昔からクマが出るのは知っておろう────」


***


 今は至って普通のクマしかいないんだがな、昔はそれとは全く違う、奇妙な奴がいたんだ。


 いや、奇妙というか、奇形なクマでな。体は大きく力も強い。猟銃数発じゃ仕留められもせんし、保護動物の体に障らないくらいの麻酔銃は、全く効かんときている。


 それくらいじゃ数年に一匹は出る強いクマだろうが……何よりおかしいのがな、そいつらは眼の数が違った。片目しか無い者もいれば三つもある者もいた。八つある奴もおったかな? どう考えても異常なことだな。


 そいつらがどこから湧いて出たのか、誰も分からなかった。身体は大きかったものの奇形であったから、先の短い命と断定してな。『山に近づかなければ襲われることはない、事が終わるまで安全な道を進もう』ということで村の会議は片付いた。


 だがな、次の年になっても、またその次の年になっても、そいつらの数は減らなかった。それどころか、ほんの少しずつ増えているようにも思えた。


 次の年になってな、痺れを切らした将校気取りの爺たちが、村の男たちで調査隊を組んで山に入った。しかし猟銃を持った爺に対し、クマは一度も姿を見せることはなかった。


 ここから三年、同じような日々が続いた。その頃には、おれも村の小さい学校で学ぶことはなくなっていた。危険だからと村に出ることは許されず、青春は棒に振るわれてしまった。好きな子と森に遊びに行くのが夢だったのになあ……。


「おじいちゃん、好きな人がいたの?」


 おう、いたともさ。だが、その話は今度にしよう。今は昔語りを続けさせてくれ。


 ある日、クマどもの出どころを見つけたと言う者がいた。おれの弟の元治っつう男だ。おまえはきっと知らんだろう。無理もないさ、写真も本人も残っちゃいないんだからな。


 俺を含めた村の数人が元治に連れられて、まだお天道さんも昇っちゃいない頃にここの辺りに来た。みんな眠い目を擦っていたが、そこに有った衝撃的な光景を見た途端に覚めちまったよ。



 なんとそこにはな……『穴』があったんだ。



 地面にぽっかり開いた、底が見えない真っ暗闇の穴だ。見ているだけで恐ろしくなるような大穴だ。奥は無限に続くんじゃないかってくらい、暗かった。


 そのまま待っていると、鶏が鳴いた後に件のクマ共が穴から出てきた。普段は見せていなかった大きな爪を壁に引っ掛けて、穴の中から這い出てきやがった。一匹だけだったが、いざ目の前に置いてしまうと腰が引けてしまったさ。奴の獲物はこっちじゃねえってのにな。


 奴は出てきてすぐに当たりを見回して、近くの鹿を見つけたと思えば、そいつをじっと見つめ始めたんだ。すると、奴の元にどういうわけかその鹿が寄ってきたんだ。そして好みの雌とでも思ったんだか、求愛をし始めた。


 それはそれで微笑ましいものだったのかもしれんが、おれたちはそんなことを思ってる場合じゃなかった。クマの奴は突然、鹿の首筋に噛み付いて、そのまま引き裂いちまいやがった。血がどばっと噴き出して、辺り一面に広がっていった。


 その血に誘われたかのように、他のクマどももぞろぞろ穴から現れてきた。死んだ鹿にはもう一匹が食いついて、他の奴らは羨ましそうにそれを見ながら、獲物を探し始めていた。


 遂にクマの一匹が、おれたちを見つけたんだ。熊はおれの隣にいた村民の男を、鹿のときと同じようにじっと見つめた。


 見つめられたやつはな、「可愛い子がいる」と呟いて、クマにゆっくり近づいていったんだ。止めようと腕を掴んでも凄まじい力で振り払われちまった。元治が身体を抑え込んでくれたが、無駄だった。そして、クマの目の前に立ったその男は……頭を引きちぎられて死んじまった。


 一連の光景を見ていた別の男が、猟銃を構えて撃った。弾は一発だけだったが、見事にクマの眉間に命中した。……そいつはわかっていたはずなのにな。弾を当てても意味がないことくらい。


 多分だがあそこにいた全員、人生の終わりを感じたろうな。当然クマは暴れ出した。銃弾を受けたことで怒り狂って、猟師のいる方向へ飛び込んだんだ。焦って逃げる間も無く、隠れてた岩ごと吹っ飛ばされて、頭を打ち付けて死んでしまった。


 もうその後は覚えちゃいないさ。俺も元治も他のやつも、一心不乱に逃げた。ただひたすらに走った。後ろなんか振り返りもしなかった。


 気がつくと、おれは家の布団で寝ていた。家まで逃げ切れたんだと分かったときには、涙が出たね。


 居合わせた村長は、すぐに国に訴えかけた。そんで、数日後には兵隊が来た。当時の国は、案外わかっててな。現状を見せると、「これは国の問題になり得る。数ヶ月以内には最新鋭の兵力で駆除する」と言ってくれたんだ。


 宣言通り、四ヶ月後に兵隊は森の木々を切り倒し、戦車やらなんやらを持ち込んできた。それからは早かった。木がいくつも倒れる音に興奮したクマ共が巣穴から出てきた途端に、一斉射撃が始まった。


 何匹も何十匹も、あっという間に倒れていった。だがクマ共は諦めなかった。倒れた仲間を踏み台にして、盾にして、戦車に向かって突っ込んでいきやがった。


 だがそこは兵器。多少頑丈なだけのクマなんざ敵ではなかった。突進は難なく止められ、戦車の主砲の餌食になっていった。


 こうしてクマ退治は終わった。数え切れないほどの死体が、焦げた切り株の上に転がった。


 穴も危険性を考慮して埋め立てようとしたが、いくらかかっても落とした土砂が見えることはなかった。軍の者たちも忙しいらしくてな、これ以上時間を取らせるわけにもいかなかったんで、とりあえず帰ってもらったさ。


 国の問題になり得る穴を、村の民に任せるとは、とんだ無能政治だな。今更になって思うよ。


 代わりとして、村の男たちで協力して、穴の周りに高い柵を組み立てることにしたんだ。不完全だが、それくらいしかできることがなくってな。


 だがな……だがな……。


「おじいちゃん、泣いてるの?」


 ああいや、すまんな。つい涙がな。なあ、最後まで話をさせてくれないか。なぜか、お前にも伝えなきゃいけない気がするんだ。


「いいよ、話して話して!」


 ありがとうな。


 クマを倒したあと、穴の周りに柵を打ち立て、これで終われるはずだったんだ。


 本当に……最後の最後だったんだがな。


「兄貴、この柵はここでいいのか」


「おう。しっかり打ち込めよ」


 あいつが、元治が柵を打ち込んでいる最中にな。穴の方から、大きな腕みたいなのが飛び出してきやがってな。元治の体を鷲掴みにしやがったんだ。


「元治!」


 おれはすぐに駆け寄ろうとしたが、元治はそれを制止した。


「来るな! 来ちゃあだめだ!」


 元治が必死に引っ張るが、そいつの力は強かった。丸太のような腕によって、穴に引き込まれていく弟を見て、おれは何もできずに立ち尽くしてた。


「元治……」


「兄貴、どうやら僕はここまでらしい。でも、僕のことは気にしないでくれ。兄貴は村に戻って、僕の代わりに幸せに暮らしてくれ」


 元治の顔は恐怖に満ちていたがな、口元は笑っていた。おれはその顔に腹が立った。弟のくせに俺より先に逝こうだなんて、許せるはずがない。だから俺は引っ張った。その腕を掴んでやったんだ。


 周りの男たちも手伝ってくれた。どんどん野郎の顔が見えてきたんだ! あの忌々しい七つ目が!


 掴んでいたやつは、クマ共の生き残りだったんだ! 今までの奴らよりずっと大きく、威圧感があった。悔しいが、見ただけで心が折れかけた……。


 だがおれは、諦めたくなかった。必死に、必死に引っ張った。絶対、下に逃さないために! 元治を掴むその腕に何度も刃物を食らわせたし、うっすら見えていた眼光をひとつ、潰してやった!


 そして遂に、苦しそうな声をあげたんだ! 今でも覚えているぞ、あのときの呻きを! 取り返せる、絶対、取り返せるって確信した! 希望があった!


 だが……そいつはおれ達を払い除けた。


 あっさりだったさ。あっさりと、元治を連れて暗闇に消えていった。何人揃っても、あのクマには勝てなかったんだ。


***

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