水底に沈む思い出に
──十年ほど前まで、彼は純朴な少年であった。受ける愛のままに十一年を過ごし、幸せを謳歌していた。本来であれば大企業かそこらに就職し、普通に生き普通に死ぬ人生を送るはずであったのだろう。
しかしそのような上手い人生を送る人間は、ここ最近ではごく少数である。彼が生まれるより前に現れていた怪物の活発化により、心身共に疲弊させられてしまい、大抵の人物が殺されるか自殺するかであった。法律は改正こそされはするのだ。しかしそのほとんどが、政府の保身に近い悪法であった。そのさまざまな制限の中でも彼の母は、女手一つで彼を育ててきたのだ。
ある日の陵は、母とこのような会話をした。
「お母さん、もしかして最近疲れてる?」
「みんな疲れるものよ。私はまだまだ平気」
「疲れてるなら休憩しないと」
「平気なの。私にはおまじないがあるんだから」
「おまじない?」
「『グッド!』……って言うのよ。何事にもね。たとえば、頑張った自分にグッドって言えば、自分だけは褒めてくれていることになるじゃない? 褒めてもらえれば、人は頑張れるの」
「だったら俺も言うよ! グッド、お母さん!」
「もう……そう言われたらお母さん、もっと頑張れちゃうわ!」
全力で虚勢を張ってしまえるほどに、彼女は決意していた。この子を誰にも負けない漢に育てるのだと。この子を絶対に折れない人間に育てるのだと。どのようなことが待ち受けていようとも、『息子のためなら自分であっても投げ捨ててしまえる』という覚悟を、彼女は持っていたのだ。
しかし彼女は、運命の寵愛を受けることができなかった。
その日、陵は怪物の『発生』があったために、遠隔で授業を受けていた。発生の前に母は買い物出かけており、以降は何の連絡もなかったために、彼は鉛筆の芯を何度も折ってしまっていた。
四方八方を向く彼の姿は、機械にも反映される。しかしながら、教師は彼を注意しなかった。彼の震える声もまた、生徒たちに聴こえていたことを、彼は知っていたのだ。
そして最悪の予感は、空気を読めずにやってくる。異変が終わった直後、彼の元に舞い込んできたのは、母が無惨な死体で見つかったという知らせだった。
想像できたことながら、あまりにも唐突。あまりにも理不尽。知らせは、息を切らせた母の友人が、彼の家の玄関へ飛び込み涙ながらに訴えたことにより発覚した。
病院に運ばれた彼女は、実に凄惨なものであった。頭部は半分つぶれていた。首は折れていることが分かった。ところどころ足りない部分があり、断面が見える部分は引きちぎられたようであった。鉄の匂いが鼻を走り、新しく外れた腕が床に落ちて悲鳴を上げた。
ああ、彼は視認してしまった。もう逃避はできなかった。そしてあろうことか、これが何かを彼は理解しようとしてしまったのだ。事実も、現状も、理解しようとしてしまったのだ。途端に彼は泣き出した。戻れぬ運命が動き出した。
この瞬間、彼は孤児になったのだ。
こういったことは珍しくない。当時から約二十年前、地表への進出を本格的なものとした化け物達は、不定期に数々の人口の多い都市に現出し、破壊を繰り返していた。孤児はすでに数十万人に昇っていた。その過半数は引き取り手がなく、各地で孤独死してしまい、隠れて暮らす化け物の食糧となる。
この現状を変えるために、幸運な孤児は『退治員』を目指すことが多いのだ。
そもそも退治員とは、三度目の発生から政府が施行した令状によって生み出された、新たな職業だ。実力をつけ、武器を持たせ、死の危険を承知で化け物退治を行う。捨て駒、いや鉄砲玉に近いだろうか。帰還はできる分、ブーメランという表現が近いかもしれない。
その分の給料は貰えるため、一般的には崖っぷちの人生を送る者がこれに就くということで認識されている。しかし政府は、化け物に恨みを持つ者が多いことに目をつけていた。
初めは当然批判の嵐だ。危険がどうだの、倫理がどうだの。読みの冴えた人物は、被災者をもてあそぶことに対して憤りを示していた。ただ反対の声が強いのは、あくまで一般人だけだ。
被害は、確実に減った。民間から出動できるため、自衛隊よりも早く人々の避難が可能だった。個人であるため依頼も出せた。武器も丈夫なものを専用の店にて売れば良い故に、実質的に与える給料も少なくて済んだ。さらには生への執着から、勝手に強くなってくれるのだ。そこにプラスのイメージを流せば、完璧な戦闘員が出来上がった。
遂には専門学校まで建てられてしまった。入学してから二年間で行う座学はかなり細かく、かつ幅広い。武具の使い方、これまでの化け物のデータ、それに付随した戦術。身体を作ることにも全力を注がれていた。
ただしそれらを二年という短期間で修了させるには、峻厳な訓練がなされる。その厳しさたるや、表に出してはいけない内容もメニューに加えられているほど。
軽い神経毒から徐々に身体を慣らす訓練、電熱による拷問。下手をすればただ生き残るより苦しみを味わわせてくる。それらに振り落とされなかったものだけが、晴れて退治員となれるのだ。
そして卒業の儀には彼、陵の姿もあった。十一の頃からは想像もできない体躯。二十ともなれば当時の幼さは消え失せ、新しい凛々しさがあった。彼の復讐心は血となり、肉となり、そして強靭な意思の型となった。あの時どん底へと落ちた彼は、母の言葉によって自分を救っていたのだ。
どのような結果であっても称える行為は、それを運命として受け入れたということ。彼が何を称えたのか、それは誰も知りえない。しかしその眼に間違いはなかった。
眼光は初任務に向かう際でさえ、淀みはしなかった。猿のような異形共が住民の避難が終わった地区を荒らしまわる様。それを目の当たりにしようともだ。
「こいつらは素早いんだっけか。爪に出血毒があって……」
化け物の特性くらい理解している。しかし彼は、一番に自分の力量を知りたかった。トラウマを受け入れた弱者の力を。
特攻をしようと足を踏み出す前に、誰かが肩を叩いた。後ろからだ。即座に殺しにかからないところから、敵対する存在ではないことを感じ取り、振り向いた。
「ヘイ、奇襲はなしかい」
洋画を真似た口調で話すのは、ふざけた態度の男であった。すかした髭の生やし方をしているが、見た目は彼と同年代、もしくは少し年上程度だ。同業者だと見ればわかる。故に提案してくれたのだろう。一番に到着したのが彼ということもあり、攻めやすい土台作りをすることがマナーであった。
「自分の力量を測りたくって。やっぱ戦術に則った方がいいっすよね」
「いいや、その気持ちはわかるぞ。あいつらは厄介なだけで、案外なんとかなるって言われるからな。だが偵察しなくちゃ甘い」
似合わないウインクを一つして、男は双眼鏡を取り出した。そして化け物のどれかを指さして、双眼鏡を陵に渡す。
「見ろ、あれ」
どれだどれだと一匹ずつ探す彼を男は笑い、その首の方向を無理矢理右上へと持ち上げる。ちょうど映った黒い猿。奴が他と違う点は何か。装飾か? いや毛色か?
なめまわすように観察して、下に毛のようなものを感じるまでになったとき、気付いた。
やつの姿かたちは他と何も変わらない。
「なんもわかんないっす」
「そりゃあそうだ」
煽るような一言にムカつきを覚え、彼は双眼鏡を突き返す。しかし男はそれを受け取ろうとしなかった。
「見かけだけに捕らわれちゃあいけないのさ」
「じゃあほかにどこを見れば」
「ヘイヘイ、いいところに別の猿が来たぞ。もう一度観察しろ」
仕方なく覗き込んだ二つのガラス面の先には、やってきた猿が先程の観察対象のそばに食べ物を置く様子だった。他の猿も調達品を一か所に集め始めている。これはまさか、ボスへの献上か。
「あんな弱そうなやつでも親分なんすか」
「いい線いってきたな。しかしノーだ。観察が足りないな」
「じゃあなんすか……」
渋々もう一度覗き込んだ先に映るのは、件の猿が受け取った品々を食べ物かそうでないかに分け、そしてどこかへ持っていく様だった。これは何のためだろう。自分たちに気付いたから逃げる準備か。彼が思考する間もなく、肩を力強く叩かれた。
「いった! 何を──」
「立て。追うぞ」
「いや、なんで……」
「いいから。重要なのは冷静な立ち回りだ」
理由さえ聞く暇を許さない。きっと、そこまでの重要な場面なのだろう。まだまだ経験不足である彼は、なにも逆らうことはできない。仕方なくその先輩についていくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます