第4話 会社員になって

  卒業式から一ヶ月後に入社した会社で、この慚愧の念(後ろめたい気持ち)は「前向きに戦う」という心に、劇的に変化しました。

  今までの「悪」を全部取り返すぜ、という意気込みでしたから、入社直後に始まった3か月間の研修期間からガンガン突っ走りました。


  正社員となった7月から約一年間は、あまりにギラギラしているので敬遠され、疎外されていましたが、(後に聞いた話ですが)社長は「ああいうギラギラした男がいいんだ。」と弁護してくれていたそうです。

  入社二年目からは、自分で自分の仕事を決め、勝手にガンガンやっていました。毎朝7:45には出社(始業は9:15)し、8:30には会社を出て一日3件顧客を回る。17時に会社に戻ると、毎晩11時まで残業。毎週一回は徹夜。週に一回ほどは最終電車に間に合わず、途中の駅から白タク(何故か、駅周辺に普通のタクシーがいない)で帰宅しましたが、領収書がないので会社には請求せず。

  (オフィスが池袋のサンシャインビルや赤坂のツインタワービルにあった時は、門番がいないので総務課長から会社の入り口の鍵を渡されていた為、24時間365日、好きな時に会社へ行き仕事ができました。)

  毎週一回行く京都・大阪出張では、前の晩、どんなに遅く帰宅しても、朝4:30に家を出て、6時の東京発新幹線に乗り、5つのサイト(見込み客)を周り、その日の20:30大阪発最終の新幹線で帰る。時には、そのまま会社へ行き、米国へFAXを送信して、そのまま会社に泊まることもある。

  土日祝でもほぼ必ず出社。入社5年目は新商品を独りで立ち上げる為に、10ヶ月間休み無し。盆も正月も出勤(して資料作り)。


  スマホもパソコンも無い時代ですから、海外との通信やワープロでの資料作り等、すべて会社で行うしかなかったのです。


  残業は月に200時間を超えていましたが、いつも30時間しかつけませんでした。労災のことがあるので、タイムカードは、きちっと押していたので、人事課から毎月「残業をちゃんと申告せよ」 → 最後には人事部長から「労働基準監督署から指摘されるので、頼むからつけてくれ」と懇願されましたが、入社6年目に米国駐在となるまで変えませんでした。

  ある時など、財務課の課長と彼らを監督する取締役から会議室に呼ばれ、「同じ製品を販売しながら、君の販売利益は課長のそれに比べて4倍あるのは?」と詰問されました。「税務署だか会計監査院からだったか?、指摘されるから、理由を知りたい。」と。

  私はこう言いました。「簡単な話です。課長は値引きし、私はしなかったからです。」と。あまりにも値引きしないので、ある大手電機メーカー(10か所くらいサイトがある)には、3回も出入り禁止になりました。


  毎日9時から5時、せいぜい、たまに8時くらいまで会社にいる程度のサラリーマンたちからは「き○がい」と呼ばれ、社長からは「親会社の○○にも、お前のような人間はいない」と言われました。

  この社長は、親会社で十数年間、明治の元勲大久保利通の孫(当時専務)で、時の首相と組んで国際金融資本と対抗し、その支配下にある2つの財閥系商社を出し抜いて、真の日本の独立を目指していた方、の秘書として働いていた人です。

  残念ながら、同じ志を持つ日商岩井という総合商社と共に、飛行機にまつわるスキャンダルによって、両商社共に墜落してしまいましたが(日商岩井は消えましたが、○○は数百人の有能な社員を子会社に追い出すことで、かろうじて生き残りました)。


  当時の日本の会社とは、どんなに利益を出す者も、その10分の一以下の貢献しかしない人間も、年齢や役職が同じなら給料は同じ、という社会でした。

  会社が長く存続することが第一義であり、会社が存在すれば、社員の生活も保障されるという、日本人(縄文人)的な「みんなで生きていこう」という社会だったのです。

  私自身も、給料を沢山もらうことよりも「き○がい」と呼ばれることを勲章と思い、誇りにしていました。

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