第67話 鼠
「ッ!」
声のした方向、距離、シフォンは素早く位置を把握してバックステップで後退すると男の顔めがけて猛烈な後ろ蹴りを放った。
風圧で奥にある柱が軋んだ音を立てた。
しかし嵐を巻き起こすほどの蹴りを、男の掌が容易く受け止める。
「シフォン・ニングラット、2358年ツピラ地方ジャーラヒ村に生まれる。中学三年生のときに父を癌で、高校一年生のときに母をカラクタで亡くした。七歳下の弟スグルを将来大学に入れるため、高校中退後作業服の縫製工場に就職。働いても働いても物価の上昇に給料が追いつかず、副業に水道工事のオペレーター兼運搬補助を始め、三日前に行方不明になった……」
男──“種”によって意識を溶かされた筈のユークが拳を打つ。
張り詰めた殺気と裏腹に、腕以外微動だにしない体幹は雨に濡れた窓越しの影のように生気が霞んで遠い。
「“神樹”!? ウソ……確かに機能停止していたのに……」
「あの程度で我々を騙せると思うな。あんなまやかし……」
ユークの手からプラズマのように光った枝が伸びたが、出力を調整したのか光の勢いが鈍った。すぐに殺すつもりはないらしい。
シフォンの掌からも何本もの尖った枝が生え出す。
足首を狙ったシフォンの投擲の方が速かったが、ユークの光の壁を貫くには強度が足りない。壁より速く一本のみがユークの靴を貫くと、他の枝は壁に衝突した途端飛んだスピードよりも速度を増してシフォンに跳ね返った。
「くっ……!」
何倍にも膨らんだエネルギーに圧倒されて、艶やかな掌や足首に対して余りに華奢な椿の枝のようなシフォンの身体は容易く吹き飛ばされてしまう。
「現実のレトリア様は、泣いたり笑ったりなどしない。“種”が私に植えつけたのは不快感のみだ」
跳ね飛ばされたシフォンは受け身を取って床に倒れ込んだ。それでも右腕と背中をしたたかに打ち付けたが十分耐えられる。さっと手を床に突いて起き上がると、黒のライダースーツの胸元からカラクタによく似た正八面体の瓶を取り出した。
「だったら、これはどう!? これは神樹のフラルを枯らすためだけに特別に精製されたラトーの猛毒だ! こればかりは貴様でも異次元の彼方へ飛ばせまい!」
見下ろしてくるユークの肩越しに曇天が鈍く光った。
「特別、か。残酷な言葉だ。では聞くが、何故お前たちがこの任務に、特別に選ばれたと思う?」
どこかで雷が鳴っている。
シフォンがデッキを蹴り、足元を真紅の椿が染めてユークの元にまで迫った。出し惜しみはしない。全速力で加速していく。
「貴様に分かるものか。トイヒクメルクに付いた裏切り者のオンリン一族の残党……せめて神の元へ真っすぐ行けることを感謝するがいいわ!」
シフォンは瓶をユークの顔目がけて投げつけた。
ガラスが割れて中で揺れていた液体が頭から濡らしていくが、既にユークは全身雨でびしょ濡れになっている。
ガラスに割かれた頬の傷口から血液ではなく、半透明な葉脈が浮き出ていく。
「さあ、これで貴様はおしまいよ! もう神に刃向かおうなんてできないわね!」
「……」
しかし葉脈はたちまち萎み、傷口も塞がっていく。予想と違う結末にシフォンはうろたえた。
「どうして……? どうして効かないの!? 十年前に採取された神樹との融合体!」
「……」
「一度嗅げば即座に花の姿に還るはずなのに……っ、“神樹”貴様何をした!?」
ユークは無表情でシフォンを見下ろす。黒い瞳は微動だにせず、喋る唇も最低限しか動かない。全てが無に近かった。
「この瓶の毒の対象は、私ではない。この毒はただのスイッチ……私を殺せる毒の発動条件は、お前の死だ。掌を見ろ、浮き出ている物が何か分かるか?」
「え……?」
虚を突かれたシフォンは素直に掌を目の前に上げる。
さっきまで瑞々しかった手指が力なく垂れ下がり、茶と黒に染まりきっている。
枯れた花が一面に広がり陰影が深く
「なんで!? なんで、貴様じゃなくて私に毒が!? だって、これは“神樹”、貴様のために作られた毒……」
「それすら教えられていないのか? お前の身体能力や次元を超えるゲートを単独で作る莫大な力の出どころは、お前がずっと大事に体内に隠し持っていた神樹の毒だ。カラクタ無き者が、フラルを宿せばそれは毒となり無限に続く苦痛と化す。その苦痛を緩和して誤魔化すための麻酔が、お前の言う“天の国”だ。そしてお前は今、その夢から醒めつつある」
「何を、言って……」
「もっと単純に言おう。お前は天使に救われたんじゃない、カラクタの代わりに新しい電池を入れられて、制限時間付きの操り人形にされたんだ。十年前の神樹とラトーの混ざりものという、その電池は強大だが、無限ではない。使えば使うほど、身体にダメージが蓄積していく。そのダメージが、お前の死と共に私のフラルと私を巻き添えにして一瞬で殺す……だが、天使たちの実験は失敗に終わった。人間と天使の混ざりものがどこまでラプセルの空気に耐えられるかの実験……残念だが、もうお前は助からない」
知らなかった、という衝撃で力なく歪む唇を、シフォンは決意に変えて歯を食いしばる。
「……それがどうした! 死ぬのは貴様も同じだ! 私たちは既に一度死んだ、生死の枠を超越した天使だ! 偽りの死など恐るるに足りない、この魂は天の国に結ばれているのだから。この偽りの肉体ごと貴様を道連れにしてやる!」
「何故、一度も訪れたことのない天の国をそれほどまでに妄信できる?」
憤怒でシフォンはさらに声を荒げる。
「貴様らこそ、何故神の救済を否定し、この世を地獄に変えたトイヒクメルクの味方をする? 魂はフラル回路に縛られ続け、人とかつて人だったものの殺し合いが続く苦痛の輪廻……まさか、それすら神のお導きだというレトリアの妄言を本気で信じているの?」
「本物の天の国が、その殺し合いで流れた血肉で出来ていると知ってもそう言えるか? お前が夢見る理想の“天の国”は、神のしもべがお前の中に忍ばせた一枚の薄っぺらいチップに過ぎない。お前の望みのままに姿形を変え、快楽中枢を刺激するただの陳腐な薬物だ」
快楽、陳腐、薬物、汚らわしい唾棄すべき言葉の一つ一つが、何故かシフォンの耳に強く響いた。
「何を……言って……」
「疑いが膨らめば、毒も早く回る。チップの効果が切れてきた証拠だ。お前の頭の中にある天の国とラトーだった頃の記憶、今はどれだけ思い出せる?」
「貴様に、そんな話を聞く権利は……」
口では否定しても、シフォンの脳内を目まぐるしく記憶が駆け巡る。
全身が黒く爛れたラトーだった頃、神の光を浴びて人間の身体を与えられたときの感動、レトリアに身体を焼かれた時の慟哭、背が高かった頃、低かった頃、海が見える島に住んでいた頃、人間だった頃の記憶を思い出した衝撃、島に住んでいたのは私じゃない、母を看取ったときのスグルの手と涙の熱さ、砂漠の砂と喉の渇き、工場の埃、地下の冷えた暗がり、ひそひそと話す人の声、迎えに来てくれたスグルの笑顔……
あれ……?
「この十年間の記憶の方が押し寄せてくるだろう。カラクタを奪われても、毒に蝕まれても、お前たちはラプセルの人間だ。シフォン・ニングラット、言え、お前たちからカラクタを奪い、二六の鋏になれと囁いた者の名を! その者こそ神が人類と、天使双方に差し向けた刺客だ」
ユークはそう言うと、シフォンのスーツの襟元を掴んで強引に立ち上がらせた。しかしもう支えがなくてはシフォンは立つこともままならない。
「違う、私は……私は、シフォン・ニングラットなんかじゃない……」
脚も首もがくがくと揺れる。
(何も言っていないのに、毒の進行が速くなった……。情報を漏らそうとする意志を持つことすら許されないのか)
「シフォンとスグル、お前たちは正真正銘の姉弟だ。仮初めの絆で組んだ相棒などではない。それを認めろ。私に出来るのは、お前をシフォンのまま殺すことだけだ」
「違う、私は、貴様らからラプセルを救いに来た天使だ! この身体も名前もっ、借り物に過ぎない……! 本当の、私は……」
枯れた花が猛スピードでシフォンの全身を覆っていく。
(これ以上聞き出そうとすれば、共倒れになる)
限界を悟ったユークはシフォンのうなじに手刀を当てた。
「お前たちを守れなかった償いだ。せめて苦しまずに、眠れ」
シフォンの首が天を向く。何かを見つけたように、気付いたように目をかっと開いて叫ぶ。
「嘘だ! 嘘だ、信じない、私は……スグ……」
手刀から伸びた光がシフォンの体内を探り、すぐに米粒の先ほどのちっぽけな板切れを首から引き出した。
枯れた花の勢いが止まり、風に吹かれて空に散っていく。
シフォンの声も、何もかも止まる。
花から解放されたシフォンの身体が、おとなしくユークの腕に崩折れる。
「嘘なら、どれほど良かったことか」
ユークはそのままシフォンを雨に濡れないデッキ出入り口の庇にまで運んで降ろした。
「カラクタを奪い、人格を塗り潰し……どこまで人を玩具にするつもりだ」
シフォンのフラルが消え去っても、貫かれた足の傷口は消えない。
「お前たちの受けた屈辱を私は忘れない。死者の墓を踏み荒らして築き上げた楽園……絶対にこの手で壊してみせる。お前たちが、再びラトーにされるその前に」
静かに横たわるだけになったシフォンの瞼を閉ざすと、ユークはマントを翻してティルノグの操縦中枢部に戻っていく。
相当な時間を喰ってしまった。
まず“巨人”の頭部を回収し、次に裁司たちの状況を確認し、剪定室のレトリアは、鋏が来れば目を覚ます。先にハダプと“種”を……。
しかし何故天使たちがレトリアへの対抗手段である“巨人”をシフォンら共々ラプセルに置き去りにしたのか、ユークには解せずにいた。
シフォンたち同様頭部にも何か罠を仕掛けたのか?
思考を駆け巡らせていたそのとき、空が丸ごとティルノグに落ちてくるような、圧倒的な迫力を全身に感じてユークは思わず足を止めた。
「あれは……」
曇天が晴れていく。違う、切り裂かれていく。
曇天が空を照らす光にかき消されていく。
その光は恒星ルクではない。虹でもない。
二条の光線が、時計の二時と六時の方角に走り落ちる。
それは曇天を裂き、その向こうの青紫の空を裂き、裂いた端から光が迸っていく。
流星、彗星、星の終わり、銀河の爆発?
人間の視覚がかろうじて捉えられるのは光だけだった。
光以外の溢れんばかりの波、情報、力。
ユークは“神樹”でそれら全てを眼に納めようとしたが、無駄な努力だった。量が膨大すぎる。
「まさか……鋏が!?」
切り裂かれた青紫の空が光と混ざり合い、青い虹を放つ。
爆風が遠くにいるユークの黒い前髪まで揺らした。
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