第37話 夢に落ちれど
『こうして底の国は消え去り、空も地も人の国は天の国に
──聖典 第2章 第20節
分厚い枠に囲まれた頑丈そうな窓が賽の目模様にびっしりと並んでいるのを見て、〇×ゲームが出来そうだなとまず俺は思った。
きのこの石突のように長く伸びた柱と、そこから傘のようにこんもりと丸まって長い影を落とす屋根の下から中に入った。
訪れる患者を威圧させるような外観に反してエントランスはホテルのロビーのように開放的で、円形の見晴らしのいい空間で何人もの患者や見舞い客があちこちに置かれたソファでくつろいでいる。
電子掲示板には『スタンツ・フラウシュトラス環境大臣より、また新たに救急車をご寄贈頂きました』と蛍光文字がでかでかと流れている。
スタンツ・フラウシュトラス……ポソネムの伯父であり、ウロヌス社のスポンサーであり見返りに多額の政治資金を受け取っている政界の大物。
カラクタ研究の支援も熱心に行っているが、俺は最初からあまりお近づきになる気が起きなかった。
特にアヘンを使った時限安楽死というカラクタ緩和ケアの方針が気に入らない。
苦しまずに死ねる、確かにそれに救いを感じる人は多いかもしれない。
しかし俺からしたら、どうにも逃げや諦めの姿勢にしか見えなかった。
安らかに死ねるように毎週毎週薬を飲んで祈り続ける……カラクタに罹って間もないし宗教にも疎い俺からしたら不気味な姿だが、それほどまでに人々は追い詰められているのだろう。
フラウシュトラス家はいけすかない奴らが多いが、リリカの(育ての)父親であるダンテが以前に提唱していた、聖典がかつて二つ存在していたという仮説は興味深かった。
ダンテは伝統を重んじる先代が生きていた頃は影の薄い、風に吹かれて飛ばされそうな軟弱な学者でしかなかった。
それが先代が没してから溜め込んでいたものを爆発させるように、誰も行かないところへ夫婦そろって飛び込んでは風変わりな歴史研究を次々と発表し出したというから面白い。
案外したたかな男かもしれない。
家名を失墜させかねないリスクまで負って、いったい何がダンテをそこまで駆り立てたのか?
死人に口なしとはよく言ったもので、先代に財産分与を不当に減らされたマリヒがダンテを唆した、と世間ではささやかれている。
このところの騒動で、天の国と人の国が繋がれば聖典の役目も終わるのだからフラウシュトラス家もお役御免だ、ダンテの血を継ぐ子供がいないのが証拠だ、という意見まで飛び出した。
真実はどうあれ、どうも俺はラプセルの大きな変わり目に迷い込んでしまったようだ。
診察室に現れた精神科医は眼鏡をかけた温厚そうな男性だった。
「こんにちは。本日はこれまでの治療法とは違うアプローチをということで、催眠療法を始めさせて頂きますが、何かご不安やご不明な点はございますか?」
催眠療法!
つい俺は身構える。
そういえば事前説明書とやらを通信で送られていた気もするが、つい後回しにしてろくに読めていなかった。
意識してなら無限に嘘は吐けるが、無意識下まで潜り込まれたら嘘なんか吐きようがない。
ラムノは催眠療法をやると知っていたのだろうか?
知っていたのなら、俺を騙して裏切ったのか?
カタブツだと思い込んでいたが、確かに危険な話になるほど妙に物分かりがよかった気もする。
もし今までの姿が嘘ならとんでもない演技力だ。
軍隊辞めて女優になった方がいい。それか峰不二子ばりの大悪女。
あれこれ考えているうちに催眠中の安全を確保するための脳波測定器やら何やらが、身体にぺたぺた張り付けられていく。
最初にこの世界の病院に運び込まれたときよりもっと大仰だ。
「これは催眠療法用にプログラミングされたフラルです。リラックス状態を促進するためで、有害な成分はないから大丈夫ですよ」
そう言って最後に医者がラベンダー型の細長い粒粒としたフラルを俺の手首に巻き付ける。
いろんな器具がぐちゃぐちゃくっついてきて、俺は全身触手怪人と言わんばかりの珍妙な格好に仕立て上げられた。
「はい、息を吸って吐いて~今から数字を数えていきます。目を閉じて聞いてください。一……瞼が重くなっていきます、二……呼吸が深くなっていきます」
こんな有り様でリラックスできるんだろうかと思ったのも束の間、椅子に固定されてる筈の全身がふっと軽くなった。瞼が開けない。
ええい、たとえ地球がどうたらこうたらラプセルなんかつい最近知ったなんやかんや漏らしたって、小説やドラマの影響とかシラを切る方法なんざ幾らでもある。
こうなりゃ野となれ山となれだ。
「三……手足の力を抜いて、楽にしてください。あなたは段々若返って、子供の頃に戻っていきます……ここはとてもあたたかくて居心地がいい……」
学生時代の退屈な授業を思い出すような眠気を誘う声、夢とも現ともつかない不可思議な感覚に俺は沈んだ。
〇 〇 〇
新月の夜、遠い星だけが砂漠を照らして電力制限下のオアシスの弱い光もここまでは届かない。
少女と大人の狭間にいるうら若い女性と幼い少年の姉弟が、とぼとぼと歩いていた。
ラピツ砂漠のウロヌス社系列で働くほとんどの人々は、ウロヌス社指定の銀行でしか口座を開設することができない。
そうしないと“恩恵”が振り込まれないからだった。
“恩恵”は通常の給料に加えて余分で振り込まれるボーナスや臨時収入のようなもの……だが、その実態は通常の給料をギリギリまで減らすことで“恩恵”目当てにがむしゃらに残業させてウロヌス社への忠誠心を植え付けるためのものだった。
働いた分だけ評価されると張り切る者もいれば、働いても上司に手柄を横取りされると嘆く者も多い。
だから給料も恩恵も低いランク付けの生活を余儀なくされている人々は、時々こうやって副業に出向く。
今人気の副業は水道工事だった。やり口が杜撰すぎて別の水道が故障する羽目になるのだが、それで仕事がもらえるので誰も何も指摘しない。
いいから家で勉強してなさいと姉が何度叱っても、自分の学費のために砂まみれになって働いていると思うと弟はつい長い砂漠の道を渡って手伝いに来てしまうのだった。
疲れた様子の弟が、足を砂に絡めとられてこけてしまう。
手をつなぐのを嫌がるようになったけど、やっぱりつなげば良かった。
姉が腕をつかんで胴を支えて立ち上がらせようとする。
が、その途端に弟が姉の腕を引っかき、苦悶に眉をしかめて胸を掻きむしり始めた。
最早その眼に姉の姿は映っておらず、上下左右ぎょろぎょろと動いて白目をむく。
たった一人の家族が、こんな寂しい夜の砂漠でカラクタに罹るなんて。
悲しみで乱れそうな指を必死に抑えて姉は安楽死マッサージに取り掛かる。
別れを告げる間も惜しむ間もなかった。必死に胸に手を当てて憎きカラクタを取り出す。
憎い病巣だがカラクタには個々の人間の遺伝情報が染みついており、一つとして全く同じ色のカラクタは存在しない。
皮肉なことにこの棘こそが弟の形見なのだった。
そして悲劇が連続して姉を襲う。激痛が全身を走った。
周りに動ける人がいないまま、カラクタを発症したらどうなるか。
心臓部分のカラクタから体内の神経隅々に激痛が走り、肉を削がれていく感覚が延々と続く。
手足と胴、首は物理的に繋がっていても、鋭い肉切り包丁で何度も細切れにされていく錯覚に襲われて、自分の肉体だと認識できなくなる。
実際には身体のどこも切り刻まれてなんかいない。
だから無限に切り刻まれる。死ねないまま、死ぬほどの苦痛が果てしなく続く。
ただただ脳に痛覚が流し込まれ続けて、喉から血が出るまで苦悶の叫び声をあげ続ける。
早く死のう、早く楽になろうと指が宙を泳ぐ。
斬られる、すり潰される、殴られる、蹴られる、千切られる、塞がれる、抉り取られる、折られる、燃やされる、溶かされる。
苦しい、苦しい、神様、神様助けて。
神様、どうして。
投げ出された弟のカラクタと、のたうち回って喉にまで砂が入り込んだ姉を、忍び込んでいた流砂がゆっくり飲み込んでいく。
弟のことも砂漠のことも忘れ、激痛の肉塊と化した姉の見開かれた眼球が暫し砂の上を彷徨い、それも間もなく沈んでいった。
誰にも看取られることなく、姉の苦痛が砂漠の下で続いていく。
やがて夜風が砂漠を激しく撫でて、砂が大きく蠢き出した。
誰かが大きな指で上からなぞるように流砂が掘り返されて、一度は沈んだ姉弟の死体が浮いてきた。
けれどそれはもう、カラクタで苦痛にのたうち回った姉弟の死体ではなかった。
姉の身体が、ぱっちりとした眼は生気に溢れ、労働で疲れ切っていた肌は瑞々しく艶やかだった──震えた声で歓喜を露わにする。
「ああ……これが、これが人間の身体……」
ぼさぼさだった弟の髪はすっとまとまって、元気いっぱいな声が飛び出した。
「やった、やったよ!本当に来られたんだね!!」
「スグル、平気?痛いところはない?」
「うん、大丈夫だよシフォン。ほら見て!もうこんなに動ける」
スグルと呼ばれた弟の身体が腕をぐるぐると回して走ってみせる。
「ああ、神よ……私たちに身体を授けてくださり、感謝いたします……。この御恩に報い、必ずや天に与えられた使命を果たしてみせます……」
シフォンと呼ばれた姉の身体が砂の上に跪き、祈りのポーズを取る。
ラプセルの祈りと寸分違いのない姿勢。
「さあ行こうシフォン!夜が明けないうちに砂漠を出るんだ!」
スグルがもどかしげにシフォンの腕をとって立ち上がらせる。
「この世界をレトリアから取り戻そう!」
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